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五話 湯崎謙吾は斯く語る

「元々おかしな奴だったんだよ。物静かで、パッとしないくせして、妙に気は強い。だからまぁ、意地の悪い連中も面白くなくて相手しなかったんだろうが……それでも、その日までは多少なりともあったんだ、嫌がらせみたいなことは」

 湯崎は朗々と言う。

 まるで伝説を歌う吟遊詩人かのごとく。

 ……吟遊詩人なんて、実際に見たことはないけど。

 まぁ、何はともあれ。

「その日、教師も生徒も誰でもみんな、敷島を見る目が変わった。頭がおかしい、やべぇ奴。近寄るな、話しかけるな、何が逆鱗に触れるか分からねえって」

 湯崎は語ってみせた。

 中学時代。

 いや、それすら終わろうとしていた、三年の秋の出来事を。

 どうして、そうなったのか?

 事の次第は、まさに今しがた湯崎が教えてくれた。

 え? どうして教えてもらうことになったのか?

 そもそもの発端は、遡れば昨日の放課後――憂叶に話しかけられたことに始まる。

 湯崎が関わってくるのは、その翌日、朝の教室で私が敷島に話しかけたところからだろう。



   ×××



 つか、つか、つか――と。

 静かに、といっても足音を殺すわけではない、自然な足取り。

 幼い頃から教え込まれた所作が高校の教室では些か目立ってしまうことは自覚しつつも、他に歩き方など知らない私は、だから周囲の視線を集めながら敷島の机の前までやってきた。

 朝の教室。

 寝惚けている者こそいないものの、元気一杯に笑い合う者も少なく、ほんのちょっとしたことで静まり返る。

 一人の沈黙が別の誰かの沈黙を呼び、一人の視線が別の誰かの視線を呼び。

 私のことを見ていないのは、もしかしたら眼前の男だけではないのだろうか。

 唯一私を見ていない男には、当然、話しかけなければ気付いてもらえない。

「敷島」

 ねぇ、と呼びかけるべきか。

 おい、はないだろう。

 間を取って、なぁ、とか?

 色々悩んだ結果、前置きも何もなしに名前だけで呼んでしまった。

「なんだ?」

 顔を上げた敷島は、しかし気にした様子など見せない。

 全てに無関心なんじゃないか。

 ……なんて疑問すら脳裏をよぎる。

「話があるんだけど、いい?」

「今か?」

「まずい?」

「いや、そっちが構わないなら、俺が構う道理はないな」

 ニヤリ、と微かに口元が歪められる。

 例えば次の瞬間、愛していますと告白してみせたところで、敷島は平然と答えを口にするのだろう。目を丸くすることはあるかもしれないが、戸惑い取り乱すことはないと断言できる。

 試したい気持ちに駆られ、流石に理性が役目を果たした。

「昨日、道で誰かに見られてるかもって言ったよね」

 洒落にならない冗談はさておき、本題を切り出す。

「言ったな」

 突然なにを言い出すんだ、と一言挟んでもいいだろうに。

 やはり敷島は平然としたままだ。

「あの『誰か』って、候補は一人だけだった?」

「あぁ、了解した。どの道顔は見せないと思ってたが、あの後お前のところに行ったのか。迷惑かけたか?」

 話が早い。

 というか一歩間違えれば、飛躍したように聞こえて付いていけなかっただろう。

「名前、出して大丈夫?」

「不安なら、一応聞こうか」

「井ノ阪憂叶。あんたの後輩っぽかったけど、中学生?」

「あぁ」

「じゃあ、分かってたみたいだけど、一応報告しておく。あの時間帯に制服も着ないで駅にいたから。定期も持ってないみたいだったし、学区外?」

「あぁ。中学はかなり離れてる。俺はこっちに部屋借りてるが、あいつは一度家帰ってから来られる距離じゃない。どうせサボりだろう。常習犯だ。向こうの親も把握してるだろうが、確定取れたんなら連絡しとくか」

 親の連絡先まで知っているのか。

 いやまぁ、憂叶のあの態度を見るに、親とて何も知らないわけがないだろう。

 ただ、これ以上は私の気にすることじゃない。

 私は少女の幽霊に会ったわけでも、電車に揺られて夢を見たわけでもなく、中学をサボった不良少女に難癖を付けられただけ。

 だから話は終わり。――の、はずだったんだけど。

「おい、敷島!」

 横合いから飛んできた声に、私と敷島が揃って顔を向ける。

 とはいえ、敷島の顔に驚いた色はない。

 それは私も同じで、全くの予想外というわけではなかった。

「お前、まだ憂叶ちゃんと関わってんのかよ!」

 湯崎。

 下の名は、……ええと、なんだっけ。

 …………まぁなんにせよ、口を挟んできたのは湯崎だった。

 口を挟んだというか、まるで話が終わるのを待っていたかのようなタイミングだったが、どちらにせよ私と敷島が話しているのだ。

 入学式、まだ互いの名前も知らないうちに話しかけてきた湯崎が、曲がりなりにも知り合い同士になった後で首を突っ込んでこないと考える方がおかしい。

 だが、しかし。

 私の予想は、あろうことか明後日の方向から裏切られた。


「……誰だ、お前」


 敷島の言葉。

 えっ、と呆気に取られたのは、何も私だけではあるまい。

 聞き耳を立てていた他の生徒たちは勿論、湯崎その人でさえ驚いたことだろう。

「え、ちょっと待って。二人って知り合いじゃないの?」

 いや同じ中学って言ってたよね? よね?

 と湯崎にアイコンタクトを送る隙さえなかった。

「こんな奴知らん」

 敷島があっさりと言い捨てる。

「おいおい冗談はよせよ、敷島。三年間同じクラスだっただろうが」

「知らん。高校デビューでもしたか?」

「してねえよ。変わらねえだろ。湯崎だよ、湯崎謙吾。忘れたのか」

「……いや、やっぱ知らねえな」

 唖然、あるいは呆然。

 もしかして湯崎が人違いしてるんじゃないか、なんて疑念さえ湧いてくる。

 というより、普通に考えればその可能性を有力視したかった。そうできない理由は、ひとえに相手が敷島だからである。

――相手が敷島なら、大抵のことでは驚かない。

 それは一年C組の総意だろう。

「ええと、湯崎? 何か共通の出来事とかないの?」

 一緒になって二週間の今のクラスならともかく、中学三年間同じクラスなら名前と顔を覚えるのに十分すぎるが、相手は敷島だ。

「流石に修学旅行とかは別の班だったけど、教室でなら同じ班になったことくらい何度もあるしなぁ。……つうか、お前が憂叶ちゃんの件で騒ぎ起こした時だって俺が真っ先にだな」

「あ」

 一言ですらない、たった一音。

 遮るだけの声量もなかった敷島の声に、だが湯崎は機敏に反応した。

「なんだ、ようやく思い出し――」

「あの小蝿、お前だったのか」

 小蝿。

 いくらなんでもそれはないだろう、と言いかけ、私も人のことは言えないと思い出す。

「こば……、え? なんて?」

「小蝿だ、小蝿。小うるさい蝿」

 そういう意味ではないだろう。

 いや、どちらにせよ同じなのか?

「……敷島。なぁ、別に名前忘れるくらい気にしねえけどよ、いくらなんでも小蝿はねえんじゃねえか、小蝿はよ」

 悪い、湯崎。

 絶対に明かせない思いを胸に、精神的に一歩引いて二人の男を見やる。

 湯崎がピクリと頬を動かし、その瞬間を待っていたかのごとく敷島が口を開いた。

「普段は赤の他人みたいな顔して、人が問題抱えてる時にだけどっからか湧いてきては小うるさくピーピー鳴いて、それが片付いたらまたいなくなる。生ゴミにたかる小蝿と何が違う?」

 湯崎が何か言おうとした。

 だが、言えなかった。

 睨んでいる。

 ほとんど感情を覗かせない、というか人並みの感情があるのかすら怪しく思えていた敷島が、今だけは明確に、湯崎のことを睨んでいるのだ。

「答えろよ、なぁ、湯崎謙吾。てめぇは自分が小蝿じゃねえって言えるのか? 言えるなら言ってみせろよ、ほら」

 どす黒い、何か。

 嘲る言葉に、怒っているような声音だが、そんな単純なものではないと分かる。

 湯崎が口を開いた。

 ただし慣用的な意味ではなく、文字通り、ただ上唇と下唇を離しただけ。

 声が続かず、また閉じる。

「お前、小蝿がどんな存在か知ってるか?」

 湯崎は答えない。

 恐らく、答えられない。

 答えてしまえば、それは認めることにもなってしまうから。

「知らねえなら教えてやる。目障りで、耳障りな存在だよ」

 しん、と静まり返る教室。

 私が敷島に話しかける前から沈黙はしていたが、これほど耳が痛くなる静けさではなかった。

 興味本位で見ていた生徒たちが誰ともなく目を逸らす。

 誰だって藪蛇は嫌だろう。

 次の瞬間には敷島が時計を見ようとするかもしれない。壁に貼られた時間割でもいい。それを見ようとした敷島と目が合ってしまったら? どんな難癖を付けられるか分かったものじゃない。

 いやまぁ、難癖ではないと分かっているからこそ、誰もが居心地悪そうに目を逸らしたのだ。

 私とて、できることなら何もかもなかったことにして退散したかった。

「で、杏佳」

 こんな時だけ律儀に名前で呼ぶのか、敷島よ。敷島不知火よ。

 昨日、あそこで訂正しなければよかったのかもしれない。後の祭りだ。

「憂叶のことは承知した。あいつが迷惑をかけたなら、代わりに俺から詫びよう」

「あー、いや、別に構わないんだけど……」

「だけど?」

 言っていいのかどうか、少し悩んだ。

 でも、覚悟を決める。毒を食らわば皿まで、だ。

「あんたとあの子、どういう関係? 答えたくなきゃ答えなくていいんだけど、流石に目に余る感じだったから、ちょっと首突っ込ませてもらうよ」

 敷島はふと天井を見上げた。

 といっても、天井を見たかったわけではないのだろう。

 そして気付けば、先ほどのどす黒い感情が消えていた。切り替えが恐ろしく早い。いっそ不気味ですらある。

「中学の先輩後輩だ。あいつもそう言っただろう?」

「正確には『敷島先輩』とだけ」

「なら、それだけだ。どうせ信じないだろうがな」

 どこか諦めるような言い草。

 別にどうってことはないのに、それが何故か頭に来た。

「信じるよ」

「は?」

「は、じゃなくて。否定する材料もないのに信じないとか、そもそも自分から聞いておいて答えに満足しないとか、そういうの嫌いだから。敷島が先輩後輩だって言うなら、それを信じない理由はない」

 敷島が私を見る。

 湯崎の時のように睨んでいるわけじゃないけど、同じくらい一直線に、視線を逸らすことを許さないかのような力強さで私のことを見据えていた。

 それから、口を開く。

 こちらは慣用的な意味で、まぁ要するに、言葉を発した。

「お前、馬鹿だろ」

 単刀直入な、あまりに直截な、だからこそ鋭く、咄嗟には否定し難い一言。

「これでも賢い子だって言われて育ったんだけどね」

 笑って返すと、敷島も笑った……のだろう。

 口元を歪めるのではなく、左の眉を軽く持ち上げただけの笑顔だった。

「お前んち、親馬鹿だな」

「知ってる」

「だろうな」

 話は、それで終わった。

 敷島も同じ判断を下したようで、早くも私から意識を逸らす。

 ちらと横を見れば、湯崎の方はまだ怒りとその他諸々の感情の行き場を見失ったままだ。

「湯崎」

「……何かな」

「後で少しいい? 知ってるんでしょ、こいつの中学の時のこと」

「面白い話じゃないぞ」

 と視線も上げずに敷島が言った。

「聞いておいていい? 他人事でいられるならそれに越したことはないけど、昨日みたいな貰い事故がないとも限らないし」

「好きにすればいいさ。人の口になんとやら、だ」

 もう一度湯崎の方を見ると、ようやく表情に余裕が戻っていた。

 湯崎も湯崎で、他の誰より早く私に話しかけてきたメンタルの持ち主だ。単なる軟派野郎でなければ、そこらの同世代よりはよほど信用できる。

「いい?」

「明瀬さんは覚えてるかどうか分からないけど」

「入学式の前に言おうとしたことでしょ?」

「……俺、君のこと苦手かも」

「実はお互い様だったりしない?」

 視界の端で、敷島がニヤリと口元を歪めてみせた。

 とことん嫌味な男だ。

 一方の湯崎は、曖昧な表情で誤魔化している。

 教室での私の立場が、ガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。

 でも、だから思う。

 いいな、と。

 今更男だと明かせるはずもないけど、勝手に抱かれていた幻想が勝手に崩れ去ってくれるのは、なんていうか、そう――。

 それは爽快で、これ以上ないくらい、気分が良かった。



 湯崎と落ち合ったのは昼休みの食堂だった。

 いや、これは本当に食堂と呼んでいいのだろうか? 少なくとも『高校の食堂』と言われて想像するものではない。食券機はないし、食堂のおばちゃんもいないし、そもそも活気がなかった。

 この場を表す、より適切な言葉を探すのならば、それは『広間』だ。

 だだっ広く、十数組のテーブルが置かれただけの空間。

 テーブルも決して上質なものではなく、むしろ一目で安物と分かる。あまり座り心地の良くない椅子に座り、広げるのは家から持参した弁当。

 食券機がないならカウンターで注文するのかと言えば、答えは否だ。

 そもそも食堂と言いながら、ここには菓子パンすら売っていない。売店どころか自販機の一台も存在しない。

 あるのは椅子とテーブルだけ。

 この食堂はなんのために設けられているのか?

 湯崎曰く、上級生も下級生も気兼ねなく昼食を取れるスペースを、と設けられたらしい。

 ただ、わざわざここまで足を運ぶくらいなら、大抵の生徒は教室で食べる。

 先輩後輩で食べるなら縦の繋がりの基本となる部室でいいし、部活動以外での先輩後輩となると、もう中庭なり屋上なりで勝手に良い雰囲気になっていてくれ、としか言えない。

 まぁ中庭は飲食厳禁で、屋上は立ち入り禁止だが。

 ともあれ、まぁそんなわけで秘密の話、というほどでもない内輪の話をするにはピッタリの場所になっているようだ。

 実際、私たち以外の生徒はというと、購買のパンを一人でもさもさ食べている上級生に、興味本位でやってきたらしい一年の女子グループが一組。それだけだった。ちなみに我が校ではネクタイの色で学年を判断できる。

「いやしかし、明瀬さんと二人きりで昼食とは、光栄だな」

「そういう前置きはいいよ」

「つれないな。……ていうか、そういう顔もするんだね。朝も思ったけど」

「高校でまで余所行きの顔する必要もないでしょ?」

「ま、そりゃそうだ」

 湯崎は肩を竦め、それから目の色を変えた。

「どこから話せばいいかな」

 ようやくの本題である。

 しかし、決して楽しい話題ではないだろう。頭がおかしいとまで言われる敷島と、その敷島をあんな調子で慕っていた憂叶にまつわる話だ。綺麗な話だなんて誰が思えよう。

「最初から……って言いたいけど、時間は限られてるからね。必要な部分だけ掻い摘んでお願いしたいかな」

 この二週間で思い知ったことだが、高校は時間に厳しい。

 というより、義務教育の小中が優しすぎたのだろう。昼休みといってもあまり長くはない上、決して近くもない食堂くんだりまで足を運んでいる。時間に余裕はない。

「じゃあ最低限のところから順番に話すけど、うちの中学って委員会に強制参加だったんだよ。ていうか、普通そうなのかな? クラスから何人ずつって振り分けられて、生徒はそれぞれの委員会の仕事をする。で、その委員会の集まりが二週間に一度あるって感じ」

「うちも似たような感じだったから想像はできるよ。要は変わり種の移動教室だよね?」

「そうそう。俺たちの……って、そうだ、俺と敷島は同じ委員会だったんだ。その委員会の集合場所は一年の教室で、まぁ言っちゃうと、敷島と憂叶ちゃんの接点はそこだった」

 同じ委員会なのに名前はおろか顔すら覚えていなかったのか、敷島は。

 そして覚えてもらえなかったのか、湯崎は。

 一々茶々を入れては時間も足りなくなるからと黙ってはいたが、どうも顔には出てしまっていたらしく、湯崎は一言「俺も薄情だったとは思うけどね」とだけ零した。

 何を指して薄情と言ったのかは、すぐに知ることになる。

「敷島は真面目だったよ。割り振られた仕事はきっちりこなすし、露骨に手を抜くようなこともない。だから誰も気にしちゃいなかった。だからまぁ俺も俺で、取り立てて何か言うこともなかったわけで」

 同じ委員会なのに話しかけないとなれば、薄情の誹りを受けても仕方あるまい。

 ……なんて言えるのは当事者じゃないからで、実際には同じ委員会だからといって交流が生まれることの方が稀だろう。当番制で顔を合わせるならともかく、そうでないならクラスメイト未満の、途方もなく薄っぺらい繋がりだ。

「けど、事件が起きた。忘れもしないよ、俺たちが三年の……つまりは去年の秋だ。敷島はいつもさっさと移動するから、俺はいつもあいつの後ろを追いかける感じになってたんだが、そのお陰で一部始終しっかり見たんだ」

 事件。

 去年の秋に起きた事件といえば、真っ先に浮かぶのが世界経済を揺るがした大事件だろう。

 とはいえ無論、中学生の委員会と海外の銀行が関係してくるとも思えない。頭を振って、心中の雑念を払う。

 それを待っていたかのように、ちょうど湯崎が口を開いた。

「一年の教室に入ってすぐだった。敷島は自分の席になるはずだった一年生の席の前で立ち止まって、いきなり怒鳴り声を上げたんだ」

 自分の席になるはずだった、というのは、つまり委員会の集まりでも席順は固定だったということか。

 恐らくは学年とクラスで順番に割り振られ、あなたはここに座ってください、と普段は他の生徒が使う席を指定されるわけだ。

 それの何が気に食わなかったのか?

 年度も半分が過ぎた秋だから、席順そのものに不満があったわけじゃないだろう。

「何があったの?」

 相槌の代わりに訊ねると、待ってましたとばかりに湯崎が頷く。

「椅子が濡れてたんだ」

「……はい?」

「あいつが座るはずだった椅子が濡れてた。その時点で分かったのは、それだけだ」

 百歩譲って、自分の椅子が濡れていたなら怒るのも無理はない。

 しかし常識で考えれば、怒る前に濡れている原因を気にするはずだろう。加えて、敷島にとってその椅子は、『自分が座る椅子』であっても『自分の椅子』ではなかった。

 何故、いきなり怒鳴るに至ったのか?

 考えてみても答えが出ない。降参とばかりに肩を竦め、はっと我に返る。

 これはクイズなんかじゃない。敷島と憂叶に関わる話だ。

 途端、嫌な予感が脳裏をよぎる。

「委員会の顧問はそのクラスの担任だった。うちの学校は午後のホームルームの後に委員会の集まりがあったから、当然そこには顧問もいた。敷島は顧問に向かって、怒鳴った。理由は、自分が使う椅子が濡れていたから。それだけだった」

 答えが答えになっていない。

「ええと、つまり……?」

「一語一句覚えてるわけじゃないが、敷島は『なんで俺の席が濡れてる。ここに座れってのか』とかなんとか、そんな感じで怒鳴り散らかして、そのまま鞄を持ったまま帰ったんだ。その日は、だからそれで終わった」

 頭がおかしいんじゃないのか?

 いくらなんでも、ただ椅子が濡れているだけでそこまで激昂するか?

 言いたいことは幾らでもあったが、どうにか堪えた。今は去年の秋じゃない。場面転換は湯崎の言葉によって、すぐにでも行われる。

「次の日の朝、教室に行ったら敷島はいなかった。けど机に鞄があったから、なんていうか……まぁ正直に言おう。野次馬根性が出て、昨日のことで一年の教室に行ってるんじゃないかってことで、そっちに顔出したんだ」

 湯崎の声が沈む。

 予感が的中するのが分かった。

「ビンゴだったよ。敷島は一年の教室にいて、委員会の時と同じ……いや、それ以上の調子で怒鳴ってた。運悪く居合わせた女子なんか、泣きそうだったよ。あれはマジで、気が触れてるんじゃないかってくらいの怒りようだった」

 想像はできない。

 きっと、朝の教室で湯崎相手に吐いた以上の言葉を、ずっとひどい態度で吐き連ねたのだろう。

 誰に? こちらの想像はできた。

 なにせ、あの敷島だ。あの頭がおかしい敷島のことだ。

「その感じだと、もう想像できた?」

「まぁ、なんとなくは」

「じゃあ言っちゃうけど、敷島はさ、自分が座るはずだった席の持ち主に怒鳴ってたんだ」

 想像するだけで目を伏せたくなる。

 その相手は、恐らく――。

「それが憂叶ちゃんだった。怒鳴ってるのに、やけに聞き取りやすい声だったね。なんで自分の席も綺麗にしておかないのか、すぐに委員会だって知ってたはずだ、次に使う人のことを考えないのか……。まぁ、うん、どれも正論っちゃ正論だよ。ただしね」

「あくまで、汚したのが憂叶だったら、ってことだよね?」

 湯崎は、声もなく頷いた。

 まぁ、そうなるよな。そうなるしかない。でなければ、いくらなんでも頭がおかしいなんて公然と言うわけがないだろう。

「多分、ていうか十中八九、イジメがあった。憂叶ちゃんの椅子が濡れてたのはそれが原因で、ただ濡れてるんじゃなくて、その前の掃除で汚れた水か何かだったんだろうね。委員会は結局お開きになったけど、気を遣った人が拭いてるの見た限り、かなり茶色かった」

 見ただけ、か。

 小蝿という言葉をすぐさま否定できなかっただけのことはある。

「敷島がそんなことも分からなかったとは思えない。実際、散々憂叶ちゃんに怒鳴った後で、騒ぎを聞き付けた担任にも滅茶苦茶に言ったからね。黙認してたのか、気付かなかったのか、どっちにしても教師としては反論できないよ。すぐに他の先生が出張ってきたけど、敷島は頑として怒鳴り続けた。最後には誰かも分からない『犯人』にまで怒鳴って、犯人は見つからなかったけど、犯人を知っているらしい生徒は何人か見つかった」

 詰まるところ、敷島は。

 自分が座るはずだった席が汚れていた、それだけのことで、当事者全員に怒鳴ったのか。誰の目にもイジメがあったことは明白なのに、その被害者までも槍玉に挙げた、と。

 常軌を逸している。

 けれど、敷島以上に一人、おかしな人物がいないだろうか。

「えっと……じゃあ、憂叶は?」

「それ以来、イジメは消えてなくなったらしいよ。触らぬ神祟りなしって言えば、まぁ想像しやすいんだろうけど」

 湯崎は言葉を濁したきり、話を終わらせてしまった。

 勧善懲悪だなんて、そう単純な話ではないのだろう。相手は一年生だった。イジメはあったが、中学校という社会で見れば、最下層に位置する身だ。そこに三年生が出てきて、最上層にいるはずの教師にまで平然と怒鳴り付ける。

 それは、恐怖以外の何物でもないのかもしれない。

 あるいは、軽蔑や嘲笑や、それに類する感情が共有されたかもしれない。

 真相は、私の手の届くところにはないのだろう。

 ただ一つ言えることは、――いや、それすら定かではないか。

 私の沈黙をどう受け取ったのか、湯崎が改めて口を開いた。

「元々おかしな奴だったんだよ。物静かで、パッとしないくせして――」

 敷島不知火という男の、ある意味では始まりとも呼べる『事件』の顛末を、湯崎謙吾はその言葉で締め括る。

「その日、教師も生徒も誰でもみんな、敷島を見る目が変わった。頭がおかしい、やべぇ奴。近寄るな、話しかけるな、何が逆鱗に触れるか分からねえって」

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