四話 誰か
駅に着くまで自分が何を考えていたのか、思い返してみても判然としない。
もしかしたら、何も考えていなかったのかもしれない。
何を考えているのか考える、なんてよくある話だ。何かを考えているようで、その実何も考えてなんかいない。無自覚に、ぼーっとしていただけ。
駅構内のベンチに座ったまま、尻に根が生えてしまったかのように動けずにいる。
家は少し離れているけど、電車を一本や二本見送っただけで帰れなくなる立地ではない。
だから余計に、だろう。
力が抜けている。
というよりは、力が入らないのか。
何故か異様なくらいに疲れていた。
いやまぁ、何故かも何も敷島と話したのが原因なんだろうけど、その敷島と話すことの何がこうも私を疲れさせたのかが分からない。
敷島は変わった奴だった。
頭がおかしいかどうかの判断は保留したいけど、少なくとも普通の高校生ではない。
しかし、特別変わっているかと聞かれると、そうではないだろう。
幸か不幸か、たった十六年弱の半生でも数多くの、それこそ多種多様な人物と会う機会に恵まれた私だ。
中学生だった私相手に終始ヘコヘコし続けた男に、私を動いて喋るマネキンか何かと勘違いしていたらしい女、あるいは私が明瀬と加賀美の娘だと分かった途端に親の仇かのごとく罵ってくる若者もいた。
誰もが変わっている。
かといって、特筆するほど変わっているかと聞かれたら、どうも頷くには足りない。
天動説が主流だった頃に地動説を訴えるような奇抜さを現代人に求めるのは酷だと思うが、言ってしまえば平均の範疇。
敷島とてそうだ。
平均とは言い難い言動こそすれ、そもそも全く平均通りという人間も存在しないだろう。
裏を返せば、敷島は言動こそ変わっているが、風貌は至って普通だし、同じ学校にいてさしたる噂も聞かないとなれば中学時代に部活動や模試で際立った成績を残したわけでもないはずだ。
初対面でいきなりド級の下ネタを、しかも真顔でぶち込んでくる奴を平均的とは評したくないが、特別変わっているという評価も似合わない。
詰まるところ、外れ値として平均から除外されるほどではないわけだ。
それでも何か特徴をつけるなら『食えない奴』といったところか。
敷島は普段、驚くほどに静かだ。教室での存在感はほとんどないと言っていい。いてもいなくても変わらない、と言っても過言ではなかった。
けれど勿論、卑屈なわけじゃない。
常に堂々としていて、入学式の日に話しかけてきた通り、何かに物怖じする感じでもなかった。
口を開けば饒舌だが、苛烈なわけじゃない。
信号前で口にしたことだって、よくよく思い返してみれば明確なことはほとんど言っていなかった。
敷島は変わっている。
その評価こそ揺るぎないのに、それ以上手を伸ばそうとすると、霧に消えるようだった。
明瞭でなく、判然としない。
恐らくそれが、異様に疲れてしまう原因だった。
もっと話せば分かるのだろうか。
嫌だな、それは。
正直言って、敷島と深く付き合いたくはない。長く話すだけで億劫だ。
ていうか、なんで今日はあんな話をすることになったのか。
私はただ下校していただけで…………そうだ、思い出した。あいつが歩道のど真ん中に突っ立っていて、ぶつかりそうになって、それで――。
「あなた」
ぞわり、と何かが背中を這い上がった。
抑揚のない、冷め切った声。
はたと顔を上げると、眼前には少女が立っていた。地味な服装。背丈からして、中学生だろうか。声同様の冷たい眼差しが私だけを見据えていた。
あれ、と今になって違和感が芽生える。
この子、どこかで見たことがある。
どこかで、というか、この駅で。しかも数分前に。
あれ? そんな何分も前だっけ? 確か目の前を通り過ぎて……ない。違う。ずっと目の前に立っていたのだ。……いつから? 多分、数分前から。なのに私は考え込んでいて、一度姿を見たきり意識していなかった。
「ええと」
ごめんなさい?
それとも、何か用?
何を、どう言えばいいんだろう。
こんな経験はなかったから頭の中はテンパりにテンパっていたが、父と母に連れられて色んな大人たちと接してきた私だ。表面上は平静を装い、どうにか紡いだ声も震えてはいなかった。
それが気に障ったのかもしれない。
まぁ、そもそもそういう声音の人物、という可能性も大いにあるけど。
「あなた、誰ですか」
「……えっ?」
「誰なのかって聞いてるんです」
明らかに怒っていた。
いっそ憤然としていた。
何をそこまで怒っているのか、というかそもそも、初対面なのにいきなり話しかけてきておいて『誰なのか』って、いやいや質問がおかしいでしょう。
けど、まぁなんていうか、思い当たる節があった。
そういえば初対面でいきなり『男なのか』って聞いてきた奴がいたなぁ、と脳裏では現実逃避を始めそうになる。
「敷島先輩と話してましたよね。誰なんですか、あなた」
あぁ、うん、そうなるよね。
理屈ではなく、なんとなくの感情で理解した。
それと同時、敷島の言葉が脳裏に蘇る。
――誰かに後を付けられてたんでな。
歩道で突っ立っていた理由を聞いた時に返された言葉だ。
あの時はスパイアクションか何かに影響されたのかと思ったけど、なるほど、こういうことか。
心中で敷島に詫びる。
高校生にもなってごっこ遊びかよ、とか思ってごめん。
「私が誰かっていう質問に答えるなら、明瀬杏佳です、としか答えられないね」
一言返し、また別の言葉を脳裏に思い描く。
類は友を呼ぶ。
願わくは、その『類』に私は入っていませんように。
「けどまぁ敷島との関係性で答えると、クラスメイトってことになるのかな。それ以上でも以下でもない。あなたが……いや、君が敷島とどういう関係なのかは知らないけど、何か気にするようなことはないから」
少女は表情一つ変えず、ただ小さく唇を動かした。
「でしょうね」
……はぁ。
なんだこれ。ため息零していいか。心の中じゃなくて、普通に口から。
「じゃあ、なに?」
十五年の半生で鍛えられた理性が、ため息だけはどうにか堪え込んだ。
代わりに冷淡な声になってしまった気はするものの、致し方ない。必要経費と割り切ろう。
「確認です」
「確認?」
「私が心配することではないと思いますが、敷島先輩にお手間をかけさせるのも悪いですから。寄り付く虫は追い払わなくては」
寄り付く、虫……?
今更だけど、少女は敷島のことを先輩と呼んでいる。
中学生で確定だろう。二年生か、三年生か。どちらにせよ多感な時期だ。
うん、思春期って便利な言葉だな。大抵の理解不能な言動はその単語で片付けられる。
「言っとくけど、私はあいつのことなんとも思ってないし、あいつも私のことはなんとも思ってないだろうから」
「でしょうね」
またそれか。
少女は笑うでも怒るでもなく言い捨てる。
いっそ目の敵にしてくれれば話が単純なんだけど、そういう雰囲気はない。
きっと怒っているように見えたのも、私の勘違いだろう。
冷めた声。感情を覗かせない瞳。最低限しか動かない表情。
どれも少女の姿には似つかわしくなくて、だからこそ妙な違和感を抱かせる。時に怒っているようで、時に悲しんでいるようで、一瞬ごとに違う表情を浮かべているようにさえ見えた。
見惚れた、わけではない。
ただ幾らか、その表情の奥を覗こうとして反応が遅れた。
「敷島先輩、貧乳が好きですから」
……。
…………。
………………え、今、なんて?
「私でも大きすぎるって言うんです。あなたを性の対象として見るわけがないじゃないですか」
性って言った?
総合的に見て中学生であろう、この少女が?
しかも大きすぎるって言った。胸が大きすぎるって。
思わず凝視してしまう。いやいや、それはない。大きすぎるなんてことはなく、少女とて貧乳だろう。私はまぁ高校生にしてはそこそこ大きいけど、……あぁ、そうか。少女が中学生だとすれば、なるほど大きい部類に入る。
有り体に言って、将来有望。
「……」
「はっ。いや、ごめん。……ごめんなさい?」
しまった。
普段こんなじっくり見ることないし、見ようとも思わなかったから、ついつい見入ってしまった。
「構いませんよ、別に。あと言葉足らずでしたね。敷島先輩は貧乳が好きなのではなく、胸があるのが嫌なんでした。世間一般に言う『貧乳』も敷島先輩にとっては『なし』だそうです」
その情報、知りたくなかった。
ついでに敷島、強く生きてほしい。自分の知らないところで唐突に性癖開示されるとか、私なら死ねる。いや冗談抜きで。実はお姉さん系が好きというか、まぁその、私より大きい女性が好みです、とか世間様にバレたら死にたくなるだろう。
ていうか、身内でもアウトだ。
「……つまり、ええと、なんです?」
なんで私は中学生相手に敬語で話しているんだろう。
胸を凝視してしまった罪悪感と、こちらの性癖を見透かされるのはまずいという警戒心が生んだ結果か。
「いえ、ですから、あなたが敷島先輩に好意を抱いているようであれば、行動に出る前に忠告しようかと思いまして」
「忠告」
「はい。無駄ですよ、ですからお手を煩わせるような真似はしないでください、と」
「あくまで、忠告?」
「勿論です。胸を削ぎ落として振り向いてくれるのなら喜んでそうしますが、敷島先輩は全てをご承知ですから。整形の類いは全面的に認めないと先んじて言われてしまえば、私にできることなど何もありません」
絶句。
あるいは、思考の放棄。
私は敷島のことを、特別変わっているわけではない、と評した。
しかし、眼前の少女と『類友』の関係であるなら、その評価を覆さなければならないのかもしれない。
まず間違いなく、この少女は異質だった。
異様で、異常。特別変わっているなんて次元ではなく、端的に評すならば。
――頭がおかしい。
すまない、湯崎よ。
男に興味がないからといって、小蝿を払うかのようにあしらっていて悪かった。
君の言葉が正しかったと、いずれ認める日が来るのかもしれない。
「では」
控えめに会釈して去ろうとする少女を、
「あ、ちょっと待った」
と呼び止められたのは、ひとえに湯崎のお陰だ。
彼の言葉を聞いていなければ、私は今頃、その評価を初対面の少女に下すことの罪悪感と戦っていただろう。
「君、名前は?」
突然の問いかけに少女は退屈そうな目で返したが、続く言葉で表情を改めた。
「見たところ中学生だよね? 学校、どうしたの? 全くの他人っていうならまだしも、知り合いの知り合いなら流石に見過ごせないから。明日敷島に確認取るためにも、名前、教えてくれないかな」
勘違いではない少女の感情を、ようやく目にできた。
学校という言葉には明確な憤りを。
敷島の名前には、暖かく淡い何かを。
「ユウカです。憂うに叶うで、井ノ阪憂叶。それでは」
今度こそ、少女は背を向けた。
その足は券売機に向き、次いで改札に歩いていく。足早な印象は受けないが、女子中学生にしてはかなりの速度だった。
……と、私もいつまでも座っているわけにはいかない。
後を追うわけではないが、定期券で改札を抜ける。
半ば反射的に少女の背中を探すが、見つからなかった。
電車は、まだ出ていないはずだけど。
狐につままれた気分とは、このことを言うのだろうか。
突然現れて、唐突なことを言って、こちらから訊ねなければ名乗ろうともせずに去っていく少女。残していったものといえば、敷島の時とよく似た疲労感くらいだ。
少女は、本当に存在したのだろうか?
電車に乗り込み、出発して揺れる中で微睡みに襲われると、そんな疑念すら浮かんでくる。
まぁ、少女にも言った通り、敷島とはクラスメイトだ。
井ノ阪憂叶。
名前は聞いた。明日、教室で確かめればいいだろう。
……もしかしたら、敷島不知火なんて男子生徒も、明日にはいなくなっているのかもしれないけど。
そうホラーチックな発想が脳裏をよぎるのも、無理からぬことだと思いたい。