三話 誰何
当たり前の日常ってなんだろう。
今日と同じ日が明日からも続くだなんて信じているのは小学生くらいだ。
昨日と今日は違っていて、明日も明後日も少しずつ変わっていく。
変わり続けることを知っているからこそ、誰もが当たり前のように努力するのだ。
……ということは、そんな努力で塗り固められた日々を、当たり前の日常と呼ぶのだろうか。
だとしたら、良し悪しだな。
まぁ何事も表裏一体、一長一短と言ってしまえば、それまでなんだけど。
未だ慣れない高校生活が、それでも僅かずつ日常に変わりつつある今。
教室では誰も意識しないままに縄張り争いが始まり、日々勢力図が更新されている。
――私たちは友達だよね。
――友達ってことは仲間だよね。
――でも仲間って、どうしたら仲間なんだろう。
――敵じゃなければ仲間なのかな。
――じゃあ、あいつらは敵だよね。
実情は、そこまで露骨ではない。
けれどもやはり、そうした無意識下の線引きが見え隠れする。
教室には見えない紗幕が降りて、そこを行き来するのを躊躇う空気が生まれ始めた。
とはいえ、幸か不幸か。
我らが一年C組クラスには、なんとなくの連帯感も出来つつあった。
なにせ、『あれは仲間じゃないよね』と、わざわざ言葉にするまでもない存在が二人もいるのだから。
一人は私。良くも悪くも目立つ、知る人ぞ知るお嬢様といった人物。
もう一人は、あの敷島不知火。入学して二週間で『あの』と前置きされるようになった人物。
私に遠慮し、敷島を敬遠する。
そんな雰囲気がいつの間にか漂っていて、連帯感はその裏返しというわけだ。
私に気安く話しかけてくるのは湯崎くらいだし、敷島に至ってはろくに会話している姿を見たことがない。
まぁ、初日でアレなら仕方ないだろう。
というか、私に関しては敷島の巻き添えを食った気がしないでもない。元々接しやすい相手ではないだろうが、かといって露骨に避けられるほど高嶺の花でもなかったはずだ。
孤独にはとっくの昔に慣れたけど、慣れることと気にしないことはイコールじゃない。
放課後の帰路を一人で歩きながら、目に見えて人影が疎らな辺りを見回す。
新年度が始まって二週間は一部の例外を除いて部活動が禁止されていたから、ほとんど全ての生徒が午後のホームルーム終了と同時に下校していたけど、今日からはそうじゃない。
今日は部活動説明会だった。
一年生の多くは友達と連れ立って体育館に向かったし、当然、彼ら彼女らに説明する側の上級生も同じだ。
この時間帯の人通りの大半を学生が占める道路は、だから人影が疎らになっていた。
校門を出てすぐの緩やかな坂を下りつつ、部活かぁ、と考えてみる。
今こうして説明会をスルーして帰路に着いている通り、入る気は元々なかった。
部活動なんてどこでもそうだろうけど、既に完成された人間関係が少しずつ入れ替わっていくものだ。例えるなら、継ぎ足し継ぎ足し受け継いできた秘伝のタレ、だろうか。
あれを年度ごとに三分の一ずつ入れ替えていくのが部活だ。
未完成のまま完成された人間関係、と言ってもいい。
一年かけて関係を築き、築き上げたと思ったら壊れ、また再構築される。そういう意味では、新しい人間関係に溶け込むのも難しくはない。
とはいえ、あくまで『難しくない』だけなのだ。
自分で言うのもなんだが、私は劇物の類いだろう。
それこそ『あの敷島』と同じような扱いを受けるほどだ。家が金持ち、というレベルではない。もっと莫大な資産家の息子か娘くらいいても驚かないけど、そこそこメディアに取り上げられている父と母は、どちらかといえば有名人にも近い。
こういうのも、腫れ物に触るような、と言うのだろうか。
私の場合、人間関係に溶け込むのではなく、人間関係の全体像そのものを歪めてしまう気がする。
傲慢に聞こえるかもしれないが、実際問題、今のクラスの勢力図を見れば全く有り得ない話でもない。
我知らずため息が零れる。
ただでさえ、男だ女だと悩むことが多いのに。
嫌になる。……と言えば嘘になるけど、ため息をつきたくなる時もある。
ただまぁ、どこで誰が見ているとも分からない。
明瀬の娘がため息をつきながら一人で下校してたぞ、なんて噂、まぁ立つわけないだろうし立ったところで気には留めないけど、気分が良いものでもないだろう。
気を取り直して、意識を前に向ける。
と、その瞬間だった。
「ぉわっと」
いつの間にか目の前にあった背中にぶつかりそうになり、すんでのところで止まる。
全然気付かなかった。
入学二週間で早くも見慣れた制服姿。男子用だから、男装癖の女でもない限り、男子だろう。
男子生徒は歩道のど真ん中に突っ立ったまま、身動ぎ一つしない。
あと少し我に返るのが遅ければぶつかっていた。
その後は、どうなっていただろう?
曲がり角で少年少女がぶつかって転ぶ、そんな定番に似た展開が起きていたのだろうか。
ともあれ結局、ぶつからなかった。それが唯一無二の結果で、現実。
「えっと、ごめんなさい……」
ぶつかってはいないが、急に後ろで大声を出してしまった。
驚かせたことくらいは謝ろうかと思ったけど……、ちょっと待って。
あれ? 驚いたなら、少しなりとも動くよね? なんで身動ぎ一つしてないの?
まさか、と脳裏に最悪の事態がよぎる。立ったまま気絶するなんて器用なことができる人間がいるとは思えないけど、もしかしたら何かの弾みで奇跡的なバランスが成り立ってしまったのかもしれない。
恐る恐る横に回って、そーっと顔を覗き込む。
「えっ」
その両目が、じろりと私を認めた。
見たことがある。
無遠慮で、何を考えているのか分からない、それでいて迫力なんて欠片もない瞳。爬虫類のようと評すのは、いくらなんでも申し訳ないか。
私の知る眼差しの主は――、
「……敷島?」
あの敷島だった。
敷島は私の声を聞いて、ようやく驚いたような表情を見せる。
「なんだ、明瀬の娘か」
「杏佳」
「あぁ、キョウカな、キョウカ。チョウカの娘のキョウカ」
「人がちょっと気にしてること、わざわざ言わないでくれる?」
杏佳と蔦花。
私と父の名前は、漢字にすると植物っぽさが似ている程度だけど、いざ口に出すと結構音が似ていてややこしい。
……ていうか。
「あんた、何してんの」
「何って?」
「や、だから。なんで歩道のど真ん中に突っ立ってんのって。前方不注意の私も悪いけど、そんなところで立ち止まっていられると邪魔なんだけど」
「どうも棘がある気がする」
「は?」
「お前、俺のこと嫌いか?」
「そりゃ初対面であんなこと言ってくる男が嫌われないわけないと思うけど……」
実際のところ、言うほど嫌いではない。
気を遣わなくていい、という一点においては誰よりも優る。
その裏返しがつっけんどんな物言いになってしまったのかもしれないが、それでも文句は言えないだけのことを敷島はしたと思う。
「で、話戻すけど」
「戻すのか」
「そりゃ戻すでしょ」
「嫌いなのに?」
「嫌いだからって話さないとか、そこまで人として終わってる自覚はない」
「なるほど。んで、なんだ、俺が何してたのか、だっけか」
なんだろう、調子が狂う。
敷島みたいな人物とは今までに知り合ったことがないから、当然といえば当然かもしれない。
けど、なんだろう、この違和感は。
調子が狂う、と言ってしまえば、まぁその通りだ。でも、何かが違う。ただ単に調子が狂っているというより……。
ズレている?
何が?
…………考えても、無駄か。
私の沈黙をどう受け取ったのか、敷島は首を伸ばして辺りを見回し、それから口を開いた。
「誰かに後を付けられてたんでな」
……あぁ、そうですか。
なるほどね、なるほど。そりゃズレてるわ。
「ごめん、さようなら」
「さようなら?」
「なんで疑問形?」
「嫌いなのに別れの挨拶はするのか」
「引きずるなぁ」
「仕方ないだろ。どうにもお前、違和感があるんだから」
突然、ぐさりと刺された気がした。
しかし、きっと気のせいだろう。考えすぎだ。
「……で、誰かって誰ですか?」
「また話を戻すのか」
「面倒臭いな、一々」
「面倒臭くしてるのはそっちじゃないのか? さようならはどうした、さようならは」
いやまぁ、そう言われると私が悪いんだけど。
と、そこでようやく得心する。
そうか、冗談が通じないんだ、この男。
冗談に限らず、言葉を言葉のまま受け取る。例えば、鳩は黒いと言ったら「そうなのか、黒いのか」と頷いて会話を終えるだろう。仮に違和感を覚えたとしたら「白じゃないのか?」と大真面目に返してくる。
多分、そういう男。
言葉の裏を読む、という意識を致命的に欠いている。
「で、誰なの?」
「なんでそう気にする?」
「……頭おかしいクラスメイトが、また変なこと言い出したから。普通、気にするでしょ?」
頭がおかしい、とは湯崎の談。
細々としたエピソードは聞きそびれたし、敢えて聞くほど悪趣味でもないから気にしないでいたが、中学時代にもあれこれ問題を起こしたらしい。
湯崎が驚いていなかったところを見るに、初対面の女子に『アレ』が付いているのか否かを訊ねる以上の問題だろう。
だが一方で、決して馬鹿ではない。
言い方は悪いが、知能がないわけではないはずだ。
私の親の関係を知っていたし、父の会社の広報事情にも気を回していた。格好付けで経済誌を読んでいるのでないとすれば、最低限そこにある文章を読み解く程度の知識と知恵は必要になる。
「なら言うが、『誰か』は『誰か』に過ぎない」
「いや、そうでしょうけど」
「ついでに言っておくが、予想は付いていても言わんぞ」
「なんで? もしかして言えないような相手?」
「そうだ」
敷島は然もない風に頷く。
「お前はこちらの事情を知らない。仮に『誰か』の候補を伝えたところで意味を理解できないし、それを理解させるためだけに話せるような事情じゃない」
だから『誰か』は『誰か』だ、と敷島は結論付ける。
まぁ、言いたくないなら言わなくていい。
これで悪の組織が云々と言われても、私じゃ対処に困るし。
「あっそ。じゃあ、その誰かの尻尾を掴むために待ち伏せでもしてた、と?」
「待ち伏せっつうか、あいつならそのうち根負けして出てくるからな。そしたら叱ろうと思ったんだが、こりゃ出てこないな」
「私のせい?」
「お前の悪いとは言わない。ただまぁ、理由ではある。今日はもう出てこない。そういう奴だ。邪魔だったなら謝るが、そっちも道では気を付けろよ」
「言われなくても分かってますよ。まぁ悪かったね、時間取らせて」
「そりゃお互い様だろう」
お互い様?
って、入学式の日のことを言っているのか。
「はいはい、お互い様。それじゃあね」
「んじゃな」
と言ったところで、二人して下り坂を歩き始めるだけだ。
高校の前に伸びる、この通り。
上に行けば大通りに繋がり、主に自転車通学の生徒が使う。
下には駅に繋がる道があり、当然、電車通学の生徒が使う。
脇道がないわけではないけど、毎年生徒が大騒ぎしながら通るせいで苦情が入るらしく、入学したその日に使わないよう注意されていた。それでも使う生徒は使うけど、曲がりなりにも立場がある私が使うわけにはいかない。
敷島も、そういうルールは厳守するのだろうか。
どうあれ駅までの道のりは他に選択肢がないも同然で、いくら別れたとて横並びで歩くことになる。
――歩幅が同じなら、という但し書きが付くことになるが。
早くも敷島は私より数歩前を歩いていて、覇気のない奴だけど、それでも男なんだと痛感させられる。
単純な体格差もそうだが、スカートを穿いていると、どうしても大股では歩けない。今はスラックスだから別にせよ、長年の癖というのはそう簡単に抜けてくれるものでもなく、私の歩幅は狭いままだ。
少しずつ広がっていく差を、特に感慨もなく眺める。
男と女の違いには、もう慣れた。
慣れることと気にしないことはイコールじゃないけど、まぁうん、気にしたところで無駄だという現実にも慣れてしまう。
正面の信号が赤になった。
急ごう。交差点を右に渡った先が駅だ。今から走れば間に合う。
とはいえ下校途中の高校生が腕を振って走るのもみっともなく思えて、小走りになった。
ちらと右手の信号を見やる。
まだ大丈夫。というか多分、もう少し急げば余裕で間に合――、
「へぐっ!」
突然、何かに当たった。
違う、何かが当たった。
おでこが痛い。季節外れにも程がある蝉でも突っ込んできたのかと目の前を睨んで、じとっとした眼差しを返される。
「また会ったな、前方不注意女」
右腕を、ちょうど私の視線の高さで突き出したまま、敷島がニヤリと笑ってみせた。
「……なんでいんだよ」
「口の悪いご令嬢だことで」
チッ、と下手な舌打ちを鳴らしてしまう。
敷島はそれには何も言わず、腕の向かう先を百八十度変えた。
「見て分からないか、信号待ちだよ」
きっと間抜けな顔をしていた。
漫画なら『ぽかん』と擬音も付けられていたことだろう。
渡るはずだった青信号がちかちかと点滅し、赤信号へと変わった。当然、敷島が指差す直進方向の信号が青く光る。
「大方、俺がこっちに歩いてきたから、電車通学だろうって思い込んでたんだろ?」
その見透かしたような言葉には腹が立ったが、何も言い返せなかった。
ような、ではなく、まさにそうだったからだ。上に行くのは自転車、下に行くのは電車。徒歩だったりバスだったり、あるいは親の送迎があったりもするし、それを忘れたわけじゃない。ただ、そこまで考えていなかっただけ。
敷島が笑う。どこか遠慮がちに、彼には似つかわしくない顔で。
「お節介を承知で言うが、お前は固定観念に囚われすぎだな」
なんで渡らないのだろう、と不意に思った。
自分にぶつかってくる前に実力行使に出るくらい、敷島なら驚かない。
しかし、そこで終わらないのが意外だった。信号は青になったのだ。さっさと渡って、電車でないなら徒歩なりなんなりで帰ればいい。でも帰らず、お節介と前置きしながら説教めいたことを口にする。
何故だ。
似合わない。
何度目かの疑問を繰り返し、ようやく、当たり前すぎることに思い至った。
あぁ、そうだ、と。
そもそも意外に思えるほど、私は敷島という男を知らなかった。
「固定観念って、なんだよ」
頭が真っ白になった。
あの敷島になら、何を言われても、はいそうですか、さようなら、で済ませられる自信があった。
けれど『あの敷島』って、どの敷島なんだ?
初日の言動こそ不可思議で、失礼この上ない男だったが、裏を返せば私はそのことしか知らない。
翻って、相手は?
敷島の側は、私のことをどれだけ知っている?
親の顔や名前、経歴もほとんどメディアに公開されていた。出身地どころか出身校まで分かるわけで、調べようと思えば私のルーツくらい容易く辿れるだろう。
この男は、では、何者だ?
「言葉の意味が分からないわけじゃないんだろう?」
男がニヤリと笑う。
嫌な笑い方だ。私の知っている『あの敷島』なら、今頃『固定観念』という言葉の意味を辞書のごとく説明したかもしれない。
だが、『あの敷島』なんて存在しない。
今目の前にいるのは、敷島不知火。
ほとんど何も知らない、この春出会ったばかりのクラスメイトだ。
「お前、見れば分かるって言ったよな」
唐突に何を言い出したのか。
疑問に思ったのは、しかし数瞬。
――見て分からないか、信号待ちだよ。
今しがた敷島自身が口にした言葉が思考の上辺を滑っていく。
その言葉さえも、意趣返しのつもりだったのか?
――見て分からない?
初めて会ったその時、他ならぬ私が吐いた言葉。
男かと訊ねてきた敷島に、私はそう答えた。
あの時、女子用の制服を着た、どこからどう見ても女でしかない私に、敷島は訊ねたのだ。
そして今、私は何を訊ねたのだろう。
赤信号の前で立ち止まっていた敷島に、なんでいるのかと訊ねたのだった。
「なんなんだよ……」
言ってしまえば、それだけのこと。
意味のない言葉が口から漏れる。私は今、父や母の前でも見せないくらい、みっともない顔をしているのだろう。
「なんなんだよ、あんた」
本当に意味などなかった。
何か嫌な予感……いや、違うな。忸怩たる思いとか、遺憾の意とか、なんかそういう、分かるけど分からない、でもまぁ良くない意味なんだろうな、と理解できる程度の感情。それに近い何かが、胸中にあった。
私は、その自己嫌悪から目を背けたかったのだろう。
悲しいかな。
背けた先で、またニヤリと歪んだ笑みを見てしまった。
「俺が何か? 見て分からないか?」
嫌味な男だ。
最悪な奴だ。
「じゃあな。さっきも言ったけど、俺は信号待ちしてたんだ」
見れば、青信号が点滅していた。
にもかかわらず、敷島は急ぐ素振りもなく歩いて渡っていく。
渡りきった。と同時に信号が赤に変わり、車が動き出す。
ウィンカーをつけた車が、迷ったような動きで横断歩道を横切っていく。
一緒にいた同じ学校の生徒を見送り、さりとて青信号を渡るわけでもない私は、さぞ奇妙に映ったことだろう。
そんな車たちの列が途切れた頃、私の頭も冷えていた。
渡ろう。敷島より歩幅が狭い私には、あんな格好付けた真似はできない。