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二話 マトリョーシカ

「ただいま。帰ってたんだ」

「お帰りなさい。ちょうど今、ね」

 四月六日、月曜日。

 日本全国が新学期を迎えた今日この日であっても、大人からすれば春の一日に過ぎないのだろう。

 口で言った通り仕事着のままの母を一瞥し、ソファに鞄を投げ置く。

「ごめんなさい。どうにか抜け出せないか画策したんだけど」

「別にいいって言ってるでしょ。親が来てない子は他にもいたし、むしろお母さん来たら大変そうだし」

「でも、娘の晴れ姿じゃない?」

「娘の、ね。女子高生姿見られても嬉しくないんだけど」

 母は元モデルだ。

 モデルからアパレル企業に入社し、結婚を機に独立という異色の経歴の持ち主である。

 四十に迫る経産婦にしては常識外の美貌……らしいが、実の母となると客観視はできない。シワとか隠し切れてないと思うんだけど、どうもその辺りまで含めて自分の武器にしている節がある。

 いつかは私もこんな中年になるのだろうか。

 オシャレなんて付け焼き刃程度にしか気にしてないから、劣化は数段早いかもしれない。

 とはいえ、母と娘の関係ではある。

「なに? そんなに見てどうしたの? ……あらダメよ、母と娘の禁断の愛なんて」

「気持ち悪いこと言わないでよ。やっぱり私もお母さんに似るのかな、って思っただけ」

「似るも何も、そっくりじゃない」

「気持ち悪いこと言わないでよ」

 男じゃなくて、心まで娘だったとしても、母親そっくりというのはどうなんだろう。

 若い頃の、と前置きされるならまだしも、だ。中には服を共有する母娘もいるそうだが、それは似てる似てない以前に、親離れと子離れに深刻な問題があるんじゃなかろうか。

「今日学校で、お母さんよりお父さんに似てるって言われたの」

 ぽつり呟くと、母は些か驚いたように目を丸くした。

「見る目あるわね」

 あぁ、さいですか。

 母は結婚したその年に私を産んでいるから、今年で結婚十六年ということになる。

 そろそろ倦怠期が来てもいいだろうに、相も変わらず熱々なのが我が両親だ。

「ないよ。お父さんに似ててスラックス穿いてるってだけで、私に男なのかって聞いてくるような奴だから」

 笑って言えば、母も曖昧に笑うに留めてくれる。

 気にしないわけではないけど、かといって神経質になれば解決するような問題でもないことくらい、私も両親も知っていた。

「……言わなくても分かってると思うけど」

「大丈夫だよ。お母さんたちのために隠してるわけじゃないから」

 それでも口にしようとした言葉を遮って、ひらひらと手を振ってみせる。

 何度だって繰り返してきたことだ。

 わざわざ言葉にすることは珍しいけれど、無言のうちに、あるいは互いの胸中で勝手に交わしてきた思い。

 私の両親は、自分たちのために娘を犠牲にするような人ではなかった。

 それどころか娘の――私のためならば、自分たちが築いてきた立場と信用を投げ捨てられるだろう。

 そんな親を、そう確信させてくれるだけの親を持ったことは、これ以上ない幸運だった。

 しかし、だからこそ私は『私』にならざるを得なかったのだ。

 これでひどい親なら違っていた。お前は女なんだ、お前は間違っている、男だなんて気の迷いなんだ、と言うような親だったら、私も反発しただろう。俺は男だと叫んで、坊主頭にでもしたかもしれない。

 でも現実は、今まさに眼前にあるそれだ。

 反発する余地などなかった。

 なんで女なんかに産んだんだ、と叫ぶことはできたかもしれない。だが、それがなんになる? 親は神様じゃない。親も同じ人間で、出来得る限りの努力と配慮をしてくれた。

 それを見なかったことにして悪しざまに言うことは、私にはできない。

 部屋に引っ込んで制服を脱ぎ、姿見の前に立つ。

 下着姿になれば、最早どんな言い訳も通用しない。

 私は女だ。

 これで自分の身体に欲情できたなら少しは嬉しくもなれたのだろうが、生憎とそこまで節操がないわけじゃない。

 あるいは、女子更衣室や女湯に合法的に入れる特権を喜べばよかったのだろうか。

 まぁ、そこまで割り切れるなら、そもそも悩みはしないか。

 部屋着、と言っても突然の来客にも対応できる程度にはフォーマルな服に着替え、机に向かう。

 学校で目立ってしまうのは仕方ない。そこはもう、諦めた。

 そして、もう一つ。

 嘘を貫き通すことも、心に決めていた。

 私は男だ。

 けれど、女だ。

 クラスメイトや同級生、上級生でも下級生でも、私のことを女だと思って、女として接してくる。更衣室では勿論、卒業式や文化祭、夏休み前の放課後に呼び出された時もそうだ。

 私は嘘をついた。

 なれば、つき続けなければならない。

 嘘を隠すために嘘をつくことを、人は笑うだろう。

 だが、それがどうした?

 悲しいかな、真実を打ち明けられる段階は、とうに過ぎてしまっているのだ。

 違和感に気付いた翌日には、嘘をついていた。自分を女と偽り、女の子の輪に加わり続けた。小学校が終わり、中学生になってからも、だ。

 私のことを信頼して『女の子』の悩みを打ち明けてきた同級生に、どうして真実を告げられる?

 嘘は嘘のまま、しかし真実だと思わせ続けなければいけない。

 そうでないなら、裏切りだろう。

 嘘をつき続けることが悪なら、裏切ることもまた悪だ。

 どちらにせよ悪役になるのなら、せめて嫌な思いを減らしたいと思う。

 それが唯一、私が私の嘘を許せる方法だった。



 コンコン、と背後の戸が鳴った。

 机上から引き剥がされた意識が反射的に時計を探し、そう時間が経っていないことを知る。

「杏佳。今、大丈夫かしら」

 戸越しの母の声に、「はぁい」と恐らくは聞こえていないであろう声で返す。

 ノートと教科書を片付け、早足で行って戸を開けると、そこには半ば呆れ顔の母が立っていた。

「勉強?」

「それで顔を顰めるのはどうかと思う」

「程々になさい」

 ゲームや漫画の類いで言われるならまだしも、勉強を程々に、か。

 母から貰ったような容姿は別段嫌いではないが、それを商売の道具にしようとは思わない。金持ちの男に養ってもらうのも気が乗らないし、やっぱり私には実力で稼ぐ以外の方法などなかった。

 勉強は、しておいて損じゃないと思うんだけど。

「それで、どうしたの。珍し……あぁ、なんだ」

 わざわざ部屋まで呼びつけに来るのは珍しいと思ったが、そういうことなら納得だ。

 部屋から顔を出して覗けば、母の向こう、わざとらしく階段の陰に隠れる姿が見えた。

「ま、そういうこと。悪いけど、少し付き合ってくれる?」

「そろそろ来客対応のバイト代貰っていい気がするんだけど」

「指名料は店じゃなくて客が払うものよ」

 何が指名料だ。

 これだから自分の家の自分の部屋だろうと、気を抜いた格好ではいられない。

 さっさと踵を返す母の後を追って、私も階段――、先ほど客人が隠れた場所に向かう。

「どうも、関さん。話、聞こえてましたよね」

 その女性は、相変わらずのわざとらしい態度で頭をかいてみせた。

「いやはや、母娘揃って手厳しい」

「喜んでください。私がこんな態度を取るのは関さんだけですから」

「やっほう! 結婚して!」

「通報されたいんですか? お金払いたいんですか?」

「……ごめんなさい」

 その冗談、あんまり冗談になってないんだけどな……。

 関さんこと関(あおい)は若く、美人だ。自称で二十三歳。若手といえば若手だが、母の会社には中卒で入っているから結構な古株だ。

 当然、私との付き合いも長い。

 ただし中卒だから教養がない、わけではなく単に彼女自身の性格として、かなり軽薄なタイプだ。

 いや、軽薄というのは悪意がありすぎるか。

 常にあっけらかんとした態度で、一見しただけでは何事も重要視していないかに思わせるほど飄々としていて、何より尻が軽い。社内結婚からの寿退社すらある母の会社にあって、例外的に社内恋愛を禁止されている人物だとも聞く。

 というか、ここ何年かは男性社員側が彼女の対応をマニュアル化したとか、していないとか。

 なんにせよ、できることなら距離を取っておきない相手である。

「で、今日はなんの御用です?」

「えっとねー、入学祝い?」

 我が家の階段はちょっとした螺旋状になっていて、ほんの数歩先に行くだけで角度が付く。

 そのせいで先に降りていく関さんのブラがちらちらと見えて、なんとも心臓に悪い。

 これとて螺旋階段のせいだけではないだろう。なんで胸がないのに、そんな胸の開いた服を着ているのか。でも胸元がダボついている感じでもないし、最初からそういうデザインの服なのだろうか。

「一つ聞いていいですか」

「幾つでも聞いて! スリーサイズも杏佳ちゃんになら教えたげるよ!」

「その服、どこで買ったんですか」

「あぁ、これ? 自作だよ、自作」

「……はい?」

「いやー、新商品にって提案したんだけど没食らっちゃったから、悔しくて自分用にね」

 それにしては随分と出来が良いように見えるけど。

 もしかして、自分でミシンをかけたって意味じゃなくて、そういう業者に特注したってことなのか。だとしたら、どんなバイタリティだろう。見習いたくはないが、尊敬してしまう。

「あ、でも杏佳ちゃんにはちょっと早いと思うんだよね」

「大丈夫です。自社製品とか言われたら母に陳情書を出すつもりだっただけなので」

 冗談とも言い切れない冗談を言いながらリビングに行く。

 親しい方の来客用に設けられたテーブルに着き、先に来ていた母が用意してくれたコーヒーを一口含んだところで、関さんは変わらぬ顔つきのまま口を開いた。

「本題なんですが、この間の件、かなり好評でして」

 飄々とした表情はそのままに、声音だけがきっちり切り替わっている。

「この間の件? っていうと、あぁ、あれですか」

「はい。あれです。一部の事情を知らない者は、遂に娘まで商売に使うようになったか、と喚き立てていますが、そういう空バケツを除けば押し並べて好評です。特に事情を知っている社員は……、まぁ別の意味で絶賛ですね」

「なるほど、どうも。……とお伝えください」

 あれは、しかし一ヶ月以上前になるはずだ。

 新学期に合わせて発表する新作を着るはずだったモデルが当日になってキャンセルし、急遽代役として私がモデルの真似事をやる羽目になった一件。

 代役の務めを果たし、社員さんに感謝されたのならば嬉しい限りだ。

 でも、それで?

 そんな謝辞、母を通せばいいだけの話だ。

 関さんは事あるごとに我が家にやってきて、そして父がいる時には毎回玄関先で追い返されるのだが、こうして取って付けたような敬語まで使うことは珍しい。

 有り体に言ってしまえば、嫌な予感がする。

 そして、こと関さんに限っては、嫌な予感というのは必ず的中するのだ。

「付きましては、第二弾をお願い致したく」

「母の了承は……取り付けてあるからコーヒーが出てきたんですね」

「勿論です。本職のモデルなら事務所に話を通すところですが、素人の現役女子高生ですからねぇぐへへ」

「お帰りください」

「ごめんなさい。悪気はないんです。魔が差しただけなんです」

 余計にタチが悪い。

 しかしまぁ、母が許可を出した以上、断るなら私の権限において断らなければいけない。

 どうしたものか。別に、面倒だから嫌です、でも理由としては十分だ。

 もしそれで食い下がるようなら、関さんは今頃ここにいない。性格や恋愛といったプライベートに多少問題があっても首の皮が繋がっているのは、それをあくまでプライベートに押し留めているからだ。

 過去に社内恋愛で問題を起こしたとか、今まさに仕事の話でぐへへと言いやがったとか、そういうことはあっても、社員として致命的な一線だけは絶対に越えない。

 だから、理由なんてなんでもいい。

 ただ一点、私自身がそれを認められるなら、という但し書きは付くが。

「なんのモデルか聞いてもいいですか」

 面倒臭いなんて理由、関さんと母が許しても私が許さない。

 自ら掴み取るために泥水でも啜る人たちがいる中、私はただの偶然でチャンスを与えられたのだ。私が望もうと望むまいと結んだ実は、だが私に権利を与え、権利というものは例外なく義務を伴う。

 他の人が望んでも得られなかったチャンスを投げ捨てるなら、それ相応の理由がなければ許されない。

 せめて、水着とかならよかったのに。

 ビキニのモデルです、なんて言われたらノーと即答できるだろう。

「あ、言っちゃっていいんですか。まだ社長にも言ってないんですけど」

「社外秘ならやめてください。私は身内であって、社員ではないですから」

「いえ、そういうことではないんですけど」

「けど?」

「後になってから嫌だって言っても、遅いですからね」

「……妙なことを言いますね」

 聞いちまったからには着てもらおうかぐへへ、なんて冗談ならまだしも、本気で言う人ではないはずだ。

 冗談でないなら、どんな理由があるのだろう。

 まだ聞かされていない話に興味があるのか、母もカップ片手にテーブルに付く。

「まぁ、どうぞ。もし嫌なら、どんな手段を使ってでも断りますから」

 嫌がるモデルに無理やり着せるとか、そういうビデオじゃあるまいし。

 むしろどんな手段で私に頷かせるのか、そっちの方が気になった。

 否。

 気になってしまった、と言った方が正しいか。

「どうでしょう、今度は蔦花さんとツーショットでお願い致したく」

 あ、ダメだ、これ。

 ようやく気付くも、関さんが忠告してくれた通り、時既に遅し。

「話を進めましょうか」

 あくまで第三者、みたいな顔をしていた母が身を乗り出し、関さんの手を握っている。

 しかも握手じゃない。両手だ。まるで手術の成功を祈る家族が医者相手にするように、関さんの手を包み込んで力強く訴えている。

「だから言ったじゃないですか」

 言葉とは裏腹に、ぺろっと舌を出してみせる関さん。

 なるほど、断る権利はある。

 だが、そんな権利に意味はない。断るより、さっさと諦めて心を無にしてしまった方が楽なのだから、選択肢なんてないも同然であろう。

「取り急ぎ蔦花さんのスケジュールを押さえましょう」

 私の答えなんか聞かず、早くも携帯電話片手に席を立つ母を見送り、ため息を零す。

「策士め」

「あたしはちゃんと忠告したからね?」

 まるで年の離れた友人かのように笑いかけてくる姿を見て、忌々しさ半分、申し訳なさ半分で今一度ため息をつく。

 彼女は今なお、私のことを同性だと思っているのだ。

 私は嘘をついていた。

 嘘を嘘で覆い隠し、もし嘘を剥ぎ取ったとて、下から出てくるのは別の嘘。

 まるでどこぞの名産人形である。

 嘘で象られた明瀬杏佳という人形の奥底で、本当の私は、きっと窮屈に丸まっているのだろう。

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