一話 歩く非常識
眉目秀麗。
いつかのパーティーで私をそう評した誰かは、後ろにいた誰かにクスクスと笑われた。
彼はその時憤り、後に辞書を引いて自己嫌悪に陥ったことだろう。
――眉目秀麗。
――前略。特に男性の顔立ちが整っていること。
私は、世間的に言えば女だ。
正解は『容姿端麗』であり、私に『眉目秀麗』なんて言うのは、詰まるところ自身の無学を喧伝する行為に他ならない。
けれど私は、その時ほんの少しだけ嬉しかった。
正しい意味を知らず、間違えて使ってしまっただけのことだとは分かる。
でも、だからなんだ?
巨乳の美女に後ろから抱き着かれて嬉しくない男がいるか?
それが人違いだったとして、嬉しさは時間を遡って消え去るのか?
否。
背中が知った鮮烈なまでの感触は、永遠の幸福として男の脳裏に刻み込まれるのだ。
自分の胸を揉め? Dはあるだろ、って?
そんなの、虚しさを通り越して無である。
……で、なんの話だっけ?
そうだ、思い出した。
つまり巨乳とは素晴らしいという話で、だが他方、それは貧乳を蔑ろにするものではない。
「このクラス、レベル高すぎないか?」
囁き声に溢れながらも、今一騒ぎ切れない教室のどこかで、ふと男子が零した一言。
心中で同意せざるを得ない。
と同時に、今日ほど明瀬という名字を恨めしく思った日もないだろう。
入学式当日。
校門を入ってすぐのところでクラスを確認し、一度教室に集まる今このタイミング。
当然だが席順は出席番号に従い、アからワの順に教室の左前から右後ろへと並んでいく。
明瀬は一番左の最前列。
相田とか青木とか、なんでそういう名字の美人が一年C組にはいないのか。
同性と偽って(いや偽っているとも言い切れないんだけど)仲良くなることに罪悪感は覚える私だ。素知らぬ顔で女子更衣室に入る代わりに、目の前の席に座る女子のワイシャツの下、透けたブラ紐を拝む幸運にくらい恵まれてもいいんじゃないだろうか。
は? 自分のブラ眺めてろ、って?
ただ硬いだけの布と紐になんの意味があるんだよ。
兎にも角にも、教室の男子はヒソヒソとあの子が可愛い、その子も可愛いと言い合っている状況下で、あろうことか私には呆然と黒板を眺めることしか許されていない。
振り返って教室を見回す?
そんなこと、たとえ下心が許しても、明瀬家の一人娘として育て上げられた理性と良識が許さない。
いっそ女子グループの輪に入ってもいいが、やはり騙しているようで罪悪感はあった。
それに大抵、私と話す時は誰でも気を遣う。
見た目もあるが、明瀬の名が重い。そこまで珍しい名前でもないとは思うものの、それでも知っている人は知っているし、直接は知らなくても噂を聞いて敬遠する人もいる。
我知らず、ため息が漏れた。
と、教室が数瞬、静まり返る。
「おい馬鹿、お前の声がうるさいからだぞ」
「俺? 俺が悪いの?」
「つうか、同罪だろ」
「お前ら結局うるせえんだよ!」
教室の反対側で男子グループがわーわー楽しそうにしている。
私のため息が原因だろうか?
輪に入っていきたいが、男子相手に和気藹々と談笑できる自信はない。
過去に何度か、失敗したことだ。
私が友情を感じていても、相手が同じように思っているとは限らない。
妬み嫉みで逆上する女子相手なら、まだ楽だ。
友達に向けたはずの笑みを異性に向けるそれと勘違いされるのは、どうしようもなく辛い。
またため息が零れそうになって、首を振る。
振った首を戻すまでの一瞬、誰かと目が合った。
誰だっただろう。
記憶を辿っていくと、昨日見た色男と一致した。
名前は確か……、…………いや、知らないな。敷島に新藤に、何人かは名前を呼ばれたものの、私をはじめ呼ばれていない生徒の方が多い。
当然、向こうも昨日初めて私のことを知ったはずだ。
どうして私の方を見ていたんだろう。
一目惚れとか?
だとしたら、どうしようか。
自意識過剰と笑われるのは嫌だけど、ない話ではない。
いっそ「私は男なんだよ?」と言ってやろうか。もしかしたら腹を割って話せる友人になるかもしれない。
……ならなかったら?
ただ疎遠になるか、騙されたと逆上されるか、噂を流されるか。
まぁ、リスクの方が大きすぎる。
ため息をついてしまった。
嫌だな、また教室が静かになる。
その静かになった教室に、今度はガラリと戸の開く音が響いた。
多分、教室中の全員が彼のことを見たはずだ。
誰もが、ようやく担任が顔を見せて、第二体育館――入学式の会場に行くものだと思っただろう。
違った。
教室の前の戸を開けて入ってきたのは、制服姿の男子だ。
知らない顔。
その顔がじろりと教室を見回し、何故か頷く。
なんだったんだ、今の。
いや、分かった。どうして自分がそんなに見られているのかと疑問に思い、それから理由を察したのだ。遅刻ギリギリに来た自覚くらいはあるらしい。
男子生徒は私の方に、というか教室の奥に向かって歩いてくる。
空席は幾つもあったが、生徒の大半は自分の席を離れて同じ中学からの友人や、早くもできた新しい友人と話していて、どの空席が彼のものなのかは分からない。
だから、なんとなく、だ。
なんとなく、その人物を目で追ってしまった。
まぁ、暇だったのもあるだろう。自分の席でじっとしているのは、言ってしまえば『ぼっち』であり、少なからず居心地が悪くもある。
それに、見られることには慣れていた。
慣れていたがゆえに、目が合った時も、咄嗟に逸らそうなどとは思い付かなかった。
「ん?」
と、男子生徒が声を漏らした。
立ち止まり、じっと私を見据えている。
また雑談に戻りかけていた周囲の生徒も、異変を感じ取って口を閉じた。
あれ、どうした。
これは、まさか。……あの色男ではなく、この男が?
男は平凡な顔をしていた。
良く言えばアクのない顔で、悪く言えば地味でつまらない男。
態度だけは妙に堂々としていて、裏を返せば、それ以外に特徴のない人物。
そんな男が私のすぐ手前で立ち止まって、じろじろと視線を向けてくるのだ。
そういう視線に慣れている私はともかく、他の生徒、特に女子は危険信号を発しかけている。
「えっと」
「すまんが」
口を開くのは同時だった。
男が黙り、若干首を傾げて私を見やる。
いや、先を譲られても困るというか、あんたが話さなくちゃ始まらないんだけど?
「あぁ、ごめん。えっと、どうぞ?」
仕方なく言ってやると、男は「悪いな」と言って、首の角度を戻した。
そして――
「じゃあお言葉に甘えて聞くんだが」
なんて、最低限の前置きだけを申し訳程度に挟んだ後に。
「お前、男なのか?」
その決定的な言葉を口にした。
……えっ?
あれ、今、私、何を聞かれた?
男なのか?
それは、えっと……どういう意味?
混乱が一線を超えたのが、自分で分かった。
頭が空回りを始める。
開きかけた口が、開くことも閉じることもできなくなる。
動かそうとした舌が乾いた口内を舐めるだけに終わる。
あぁ、でも、だめだ。
沈黙は答えとなる。
なんでもいい。
周囲の視線は、常に私に味方してきた。
私が白と言えば、烏は無理でも、正体不明の鳥くらいなら白くできる。
だから、口を開こう。
「ええと……すみません、それはどういう意味でしょうか?」
咄嗟に紡いだ言葉は、およそ同級生に向けるものではなかった。
失敗した。
けど、まぁ、周りからすればイメージ通りの言葉遣いでもあるだろう。
男が首を傾げた。
変化は、それだけだった。
「そのままの意味だが。……あぁいや、そうか、悪い、そうだな、言葉足らずだった」
妙にすらすらとした、まるで緊張感のない言葉に、教室の時間が動き出すのを感じた。
「お前、チンコ付いてんのか?」
そして再び、教室の時間が凍りつく。
こいつ、何者?
恐れを知らないというか、頭ん中が小学生のまま止まってるの?
そんなこと女子高生相手に言って、ただで済むと思ってるの?
あまりに馬鹿げた言葉に、むしろ脳が活性化した気がする。
「えっと、そういう言葉を使うのはどうかと思うけど」
前言撤回。
まだ私の脳は混乱しているらしい。
「あぁ、すまん、配慮が足りなかったな。チンアナゴ付いてんの?」
「その配慮の方向性は間違ってる」
「ペ」
「シャラップ」
そうだ、まずは深呼吸をしよう。
吸って……、吐いて……、吸って…………。
三度目のため息と一緒に、吐く。
「見て分からない?」
「いやズボン穿いてたら見えないだろ」
「……胸、あるんだけど」
「ニューハーフかもしれない」
「ごめん、単刀直入に言うね? 私は女だから」
「そうだったか」
「そうだったよ」
「すまんな、時間を取らせた」
え、終わり?
混乱したまま放り出されたのは私だけじゃないようで、周りも同じように沈黙している。
これで一件落着?
って、いや、ちょっと待った。
「いやいや、待った、ちょっと待った」
思わず口を開くと、早くも自分の席に向かいかけていたらしい男が振り返る。
「やっぱり男なのか」
なんでそうなる。
「違うから。……って、それだよ、それ」
「どれ?」
「や、だから、なんで私にそんなこと聞くの?」
確かにスカートではなくズボンを穿いている。
でもこれは男子制服じゃなくて、女子用のスラックスだ。寒い日だとか、風の強い日だとか、何か事情のある日だとか。そういうスカートでは困る日に穿く、といっても明確な規則はなくて好みで選んでもいい服装の一つに過ぎない。
それだけで私を男だと思った?
そんなわけがないだろう。何がいけなかった。
そりゃあ、スカートを穿いていた方が間違われる可能性は減るだろうけど、多分そういう問題じゃない。
「どこか男に見えるようなところでもあった?」
訊ねずには、いられない。
十五年間ずっと、心の中の男を隠して社会に生きてきた。
父と母の娘として、明瀬家の一人娘として、恥とならぬように。
いや、違う。
父も母も、それを恥だとは思うまい。
だから、そう、単純なことだ。
より穏便に、何事もなく、平穏無事に波風立てることなく、過ごすために。
私は『私』を作り上げてきたのに。
どこかに綻びがあった?
たった一瞬、目が合っただけで見抜かれてしまうような、そんな綻びが?
男は私を見据えていた。
見据え返す――否、睨み返すと、ため息を零すような仕草とともに口を開く。
「お前、明瀬の娘だろ」
「えっ……」
「俺は敷島だ。下の名前は……まぁいいか、どうせ分かる。敷島不知火。それが俺の名前だ」
すぐに思い出せた。昨日の欠席者だ。
ということは、正真正銘の初対面?
でも、向こうは私のことを知っているらしい。
「っと誤解しないでほしいんだが、ストーカーじゃないぞ。ゴシップ誌の類いは読まないからな。ただ、親父さんの面影があったんでな。ほら、先々月の表紙、確か明瀬蔦花だったろ。このご時世、陰険なジジイどもの面じゃ売上に響くのかと、そんなことを思ったから覚えてる」
先々月の表紙?
なんだったっけ、名前は忘れたけど、投資か何かの専門誌だったはずだ。
「……父と私に、何か用でも?」
「だから、そんな怖い顔しないでくれ。俺の用件はさっき言った通り……って、まさか答えになってなかった?」
タン、タン、タン、と一定のリズムで男が――敷島不知火が上履きを鳴らした。
左手の親指で顎を撫で、その曲げられた肘に右手を添えている。
それが彼の癖らしい。
あまり自然な所作は、一目でそうと理解させるだけのものがあった。
「お前のその表情、加賀美景より明瀬蔦花に似てたんでな。それでスカートじゃないから、なんとなく男なのかと」
加賀美景は、私の母だ。加賀美は旧姓だが、結婚する前に実名でモデル活動をしていたからか、今でもその名で呼ばれることは多い。
対して、明瀬蔦花は私の父。
こちらを『明瀬』とだけ呼ぶから、対する母を『加賀美』と呼ぶのかもしれない。
「……それだけ?」
「あぁ、それだけだ」
話が終わったと判断したのか、敷島は空席の一つに腰を下ろす。
私の隣の列の、後ろから二番目。
拍子抜けだった。
席に着いてすぐ、敷島は鞄から文庫本を取り出して、平然と読み始める。遠くて、なんの本を読んでいるのかは分からない。人の顔みたいな、綾取りの紐みたいな、変な表紙の本だった。
教室が一気に喧騒に包まれた。
原因を作ったはずの敷島は、最早周りの世界など耳にも入らないかのように本に目を落としている。
……呆れた。
姿勢を正す。
前に向き直ると、ちょうどそのタイミングを待っていたかのように、すぐそこに近付いてくる気配があった。
「ごめんね」
と、前置きもなしに笑いかけてきたのは、あの色男だ。
「明瀬さん? っていうんだ。俺は湯崎謙吾、よろしく」
「よろしく……?」
あまりにも自然に差し出された手を半ば条件反射で握り返して、愛想笑いを浮かべる。
「あいつ、頭おかしいでしょ」
誰のことを言っているのかは、聞くまでもないだろう。
「そこまで直接的には言いたくないけど」
「いやいや、頭がおかしいんだよ、あいつは。悪口じゃなくて、事実として」
同じ中学なのだろうか。
疑問に思えば、まるで心でも読んだかのように頷いて返された。
「中学、同じなんだよね。まさか一緒になるとは思ってなかったけど」
「っていうことは、中学の時も?」
「まあね。有名な話を一つ、なんなら今……っと、タイミングが悪いな」
湯崎がそう言ったのは、その時背後で戸が開いて、明らかに高校生ではない、制服姿でもない女性が教室に入ってきたからだ。
「じゃ、また後で」
「着席!」
私が言葉を返す暇もなく、女性がきっぱりと言い放った。
数秒間はざわめきが残っていたものの、数秒後、女性が睥睨を終えると、教室は静寂に包まれていた。
「よろしい。私が担任の四辻だ。早速だが、廊下に出て並ぶように。自己紹介は式の後だ」
なんというか、ザ・女教師である。
担任の視線が再び教室を巡っていき、私のところで止まった。
「出席番号一番、明瀬杏佳」
「はい」
「整列させろ」
「はいっ!」
ここは軍隊か何かか?
とはいえ、まぁ、人を動かすことに慣れがないわけではない。
既に何をするべきか知らされたクラスメイトたち相手なら、手こずることもないだろう。