プロローグ
変わらない、という幸福。
望んでいい、という幸運。
恵まれていることは罪ではない。
しかし、恵まれていることを自覚しないのは、罪ではないのか?
「ねぇねぇ、あの人。すっごく綺麗じゃない?」
「うわ、ほんとだ……。同級生?」
「なんじゃない? 今日って確か二、三年はいないんだよね?」
「えー、じゃあ同じクラスになるかもなんだ。どうしよ」
羨望の眼差しにも、嫉妬の言葉にも慣れた。
私は恵まれている。
それを否定する人なんて、どこを探してもいないだろう。
大抵のものは望めば手に入るし、普通の人が望んでも手に入れられないものを、最初から持って生まれた。
超が付く大企業の重役と、新進気鋭と称されるには実績を上げすぎた実業家の、一人娘。
なるほど、恵まれている。
むしろ私が恵まれていなくて、他の誰が恵まれているのかと言いたいほどだ。
お金の面だけじゃない。
両親はともに優れた人格者で、仕事に忙しくて顔を合わせない日がないとは言わないが、それでも私の誕生日には必ず三人で食卓を囲んだし、毎年夏休みか冬休みには小旅行に出掛けた。
容姿もそうだろう。
元モデルの母は勿論、父も社長や会長を差し置いて専門誌のインタビューを受け、わざわざ表紙用の写真を撮られる美男だ。
容姿端麗、文武両道、あるいは才色兼備。
どこかで聞いたような称賛の言葉は、全て聞いたと言ってもいい。
慣れないはずがなかった。
「お前、ちょっと話しかけてこいよ」
「無理だって」
「でもチャンスは今しかないだろ」
「なんのチャンスだよ」
「話しかける?」
「目標ひっくいなぁ」
「仕方ないだろ。だってあれ、上級生も黙ってないぞ」
ちらと目をやる。
向こうもちょうど私を見ていた。何人かと目が合う。
さっと目を逸らした数人の集まりの中に一人、軽く眉を上げてみせた男がいた。
中々に整った顔立ちの男だ。
私と目が合うと大抵はそそくさと目を逸らすものだが、よほど自信があるのか、人付き合いを得意とする人種なのか。
まぁ、どうだっていいか。
向こうから話しかけてくることはなかったし、私からも話しかける気はない。
男に興味はない。
なにせ私は、いや私も、男なのだから。
自分という人間の始まりを意識したことはない。
それでも敢えて言うのなら、違和感は始めからあった。
何に違和感を覚えたかといえば、全てに、である。
時代は平成。金持ちのお嬢様だからといって、いくらなんでも屋敷の奥深くでメイドや執事に囲まれて過ごすはずもなく、他の子供がそうであったように、私も幼稚園に通っていた。
なんで私は『私』なんだろう。
みんなは『俺』とか『僕』とか言っているのに。
違和感はあった。
けど、口にはしなかった。
父と母が、それを望んでいたように思えたから。
我慢できなくなったのは、確か小学校の六年生になった頃だ。
男児と女児が決定的に別れ、男と女になり始める時期。
膨らんでいく胸を鏡の中に見て、あぁ、何かが壊れていくんだ、と感じた。
違和感という言葉では足りず、最早乖離と呼ぶべき確信を告げた時、両親はなんと言ったか。
覚えていない。
当時の私は、ひどく叱られるだろうと戦々恐々していた。
実際には優しく何事か囁かれ、その後で「杏佳のために」と周りには隠すよう言われたことだけを覚えている。
杏佳とは、私のことだ。
明瀬杏佳。
明瀬蔦花と加賀美景の娘。
そう、娘だ。
私は女だった。
女なのに、男だった。
私は、自分のことを『私』と呼ぶ。
スカートにも慣れた。
男性からの異性を見る眼差しにも、女性からの同性に語りかける言葉にも慣れた。
違和感は、依然残ってはいる。
でも、だからといって何もできないわけじゃない。
我慢できない、わけじゃない。
「敷島。いないのか、敷島。あー……、敷島不知火!」
――シラヌイ!?
教師の声で意識が引き戻される。
周りもざわざわと驚いたように囁き合っているようだった。
本日、四月五日の日曜日。
ここに集まっているのは晴れて高校生となった新入生たちで、今日は入学式の予行練習のための登校日である。
同じ中学だったり、入試の時に交友があったりすれば別だが、ほとんどの同級生は初めましての間柄。なんで入学式の前に登校するのかは謎だけど、今日という日を逃せば人間関係の構築に大きな支障が出かねない。
そんな日に欠席した挙げ句、まさかのシラヌイ。
少し遅いインフルエンザか、ただの風邪か。
なんにせよ不幸な生徒もいたものだ。彼か彼女かも分からないが、同情する。
どうも欠席の連絡が行き届いていないらしく、教師陣が困り顔でヒソヒソ話し合っていた。
緊張の糸が切れ、生徒たちのざわめきも大きくなっていく。
辺りを見る。
大半が面白半分の表情で何事か言い合う中、一つの見覚えのある顔が天井に向けられていた。
先ほどの、あの自信ありげな色男だ。
天井に何かあるのだろうか。
視線の先を追って見上げてみても、第二体育館の天井にはこれといって不思議なものが見つけられなかった。
こほん、と咳払いする音が体育館に小さく響く。
「じゃあ新藤、新藤はいるか」
二人の男子が同時に声を上げた。
些細な混乱は、また別の些細な混乱を招く。
予行練習にはもう少し時間がかかりそうだ。
ため息を噛み殺し、視線を落とす。
少しだけ、元気が出た気がした。
ここにいる誰もが初めて経験する、高校生活。
でも私には、もう一つの『初めて』があった。
今までは心が男だということを隠すためにスカートばかり穿いてきたけど、今年はスラックスを穿いている。それは唯一の抵抗であると同時に、スカートなんて穿いていなくても男には間違われないという、悲しい現実への諦めでもあった。
とはいえ、やはりいいものだ。
風通しが悪いのが難点だが、なんとも言えない安心感がある。
「さて、明日は飽きるほど聞かされると思うが、入学おめでとう、新入生諸君」
教頭の言葉で予行練習は幕を閉じた。
明日は入学式である。
クラス分けが発表され、本当の意味で高校生活が始まる日。
代わり映えしない、それでも何もかもが変わっていく、そんな始まりの日。