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【落日〜三島事件を追い続ける男】

作者: @のぼ

【壱】

 そういえば、サトウ君、席に座るなり天井を見つめてたね。

 うん。市ヶ谷駐屯地の喫茶店でのことね。

 以前、”調査”に聞かれた時も、ああ……”調査”ってさ、例の今は無き調査隊のことね。

 その時にも言ったと思うけど、会ったのは昭和六十三年十一月十五日。前の日に元総理の三木さんが亡くなってね、同僚と〈田中の角さんより先に逝っちゃったねぇ〉なんて話をしていたこと、覚えてますよ。

 なぜ、わざわざあそこ行ったのか? それはサトウ君が希望したからだよね。

 当時ね、僕は東京地方連絡部に広報官として勤務してたんだ。広報官と言えばしゃっちょこばって聞こえるけど、仕事と言えば人集めさ。つまり自衛隊に入隊してくれそうな若いのを探し廻って採用試験を受けてもらうのが任務。筆記試験は出張所で行うけど、身体検査は基本的に市ヶ谷駐屯地でやんの。なので市ヶ谷にはよく行ってたね。その時は業務用車と我々が呼んでいるライトバンを使うわけだけど、あの日は入隊希望者代わりにサトウ君を乗せて行ったわけ。〈私用で官用車を使ったのですか?〉”調査”の連中にもそんな口調で言われたよね。そんなこんなで、どーも俺は奴らが好きになれない。

 だいたい、三島さんが……。

 まあ、いいや。でね、俺らが一号館って呼んでいた建物の地下にある喫茶店にサトウ君と行ったの。

 一号館はわかる? あの辺り、すっかり様子が変わっちゃったけどね、正面玄関にあたる靖国通りに面した警衛所を通り抜けて、緩やかなU字坂を登りきるとその正面にどーんと現れる庁舎がさぁ一号館、だった。

 あんたらも知ってるだろうけど、彼処は大戦中、陸軍の大本営さ。戦争が終わったら、今度は極東軍事裁判の法廷に模様替え。でもって自衛隊に引き渡された後には陸自の東部方面総監部が置かれてたんだけど、そんな由緒正しき御建物の二階のバルコニーでさ、三島由紀夫が最後の演説を行ったわけだよね。

 しかしだよ平和日本の自衛隊だもの。地下なんてさ、スポーツ用品店や一般衣料品店、理髪店などの各種売店が入っててさ賑やかなものさ。そんな喫茶店に行く事をサトウ君は希望したの。

 

【弐】  

 天井から視線を下ろした後、一瞬、酷く思い詰めた様な表情を浮かべたサトウ君に、私はあえてかしこまった口調で「驚かれましたか?」と尋ねました。

 彼の目は、その意味を斟酌するかのような揺らぎがあったことを覚えています。

「この建物の地下に、こんな呑気な喫茶店があること、意外だったんじゃ無いですか?」

 私の質問を納得したのか、サトウ君は軽く微笑みました。

「そういえば、『楯の会』が出来る前に行った北海道の駐屯地にも、間口さんに十九年前、ご指導いただいた滝ヶ原分屯地にもこんな雰囲気の喫茶店がありましたっけね」

 心底懐かしそうな、そしてどこか寂しげな表情にも見えました。

「……『楯の会』の前? ですか」

「ええ。昭和四十二年の夏でした。大学の国防部の同志でね」

 サトウ君、一瞬だけ夏空を仰いだかのように目を細めましたね。

 昭和四十二年の夏といえば、確か国鉄新宿駅の構内で貨物列車同士の大きな事故がありました。片方の列車にアメリカ軍の航空燃料が積まれていて大火災になった。幸い死者は出なかったものの、あの頃から反米運動とかベトナム反戦運動とかが一気呵成に盛り上がって行ったんじゃなかったかな? そういえば、その新宿駅は翌年の秋、今度は学生たちによって破壊され燃やされましたよね。あの後ぐらいからかな、私の部隊でも対ゲバ学生訓練をちょくちょくやるようになりました。火炎瓶除けのネットを付けた戦車とかと一緒にね。

「昭和四十二年ですか……その三年後、でしたね。三島さん」

「そうです。この上でね。十八年前、先生は自刃された……ヒッショウとね」

 不覚にも、私は即座にそれが学生長であった森田必勝さんのことだとわかりませんでした。

 彼はジャケットの内ポケットから、煙草を、エコーをね、取り出し火をつけました。私が滝ヶ原分屯地での『楯の会』の訓練に助教として参加したのは、昭和四十五年十一月の、彼らがリフレッシャー・コースと呼んでいた訓練でした。そのとき、私は陸曹候補生陸士長でしたので、正規の助教というよりは助教補佐みたいな立場でした。

 それが、『縦の会』が自衛隊で行った最期の訓練になったわけです。

「また、十一月二十五日がきます」

 そう言ったサトウ君は意外とサバサバした感じで、薄ら笑いさえ浮かべていました。

 私はあまり長く話したくもなかったので、早く、彼が本題に入るように水を向けたのです。

「田宮曹長とお会いになったんでしょう? 滝ヶ原で」

 実はサトウ君と会う数日前に、私の原隊である普教連の田宮曹長から〈『楯の会』のサトウって覚えてるか? 俺は名前も顔も覚えてなかったけどな。そいつがな、お前と会いたがっててな……〉という内容の電話があったのです。曹長によれば、サトウ君は三島由紀夫の日記を探しているということでした。

 確か、曹長は数回、会の訓練に教官として参加していたはずですし、そう、三島さんとは幾度か竹刀を交えたと言ってましたね。高校時代剣道部だった曹長は当時既に剣道三段か四段でしたのでいい相手だったのかもしれません。なので、サトウ君が田宮曹長の名前を出したのはわかるのですけど、私の名前を出したことは少し意外だったようで、〈お前、どんな付き合いあったんだ?〉と訝る様子だったのも尤もところだと思います。まあ、曹長とは同じ中隊で長く一緒でしたので、サトウ君が滝ヶ原に行ったすぐ後に私に直接電話をくれたのでしょう。

「曹長にお尋ねの、日記の件でしたら、私も知りません」と私が続けると「そうですか。そうでしょうね」サトウ君は、それだけ言うと又、天井に視線を送ました。

 鼻から紫煙をゆっくりと立ち上らせる彼の表情は実に淡々としたもので、むしろ気負っていた私の方が肩透かしを食ってしまいました。

「間口さん、今は採用の任務につかれているんですね」

「ええ、まあ」

「街中で若いやつに声かけたりとかしてるんですね」

 私は、苦笑いで頷きました。

「私もやりましたよ。『楯の会』で。終わりの頃ね、制服着て、新宿とかでね、チラシ配ってね。『平凡パンチ』とかでも宣伝したけど、なかなか集まらなくてね。新人が」

 初めて聞いたことでした。そしてそれは私にとって重い言葉でした。

「そうだったんですか。少し、意外です」

「まあ、そんなでしたよ。最後の頃は。人材が枯渇していたんです」

 今度はサトウ君が苦笑いを浮かべ、そして二人とも黙り込みました。

 彼の苦笑いは段々と酷く思いつめた様なものに変わりました。

 そろそろ出ましょうかとばかりに態とらしく腕時計を見た私に、サトウ君は「実はね、間口さん」と思い詰めた顔とは裏腹な淡々とした声で話し始めました。

「田宮さんには敢えてお聞きしなかったことを、間口さんとお話ししたかったんです。ひょっとしたらこの十八年、いくら探しても見つからなかった答えが、たとえ答が出なくてもそのヒントになりそうなことが見つければ、そう思ったんです」

 予想していなかった話の流れに私は緊張しました。

「単刀直入にお聞きします。三島由紀夫は何故、この地を死地と定められたと思われますか」

 私は絶句しました。何を今更と思ったからです。

「いかがですか。いかが思われますか。なぜ、此処で腹を切ったんでしょうかね」

 畳み掛ける様な口調でした。

「それは三島さんと、最後の行動を共にした『楯の会』の四名の方が決めた事ですよね」

「必勝、小川、チビとフル、二人のコガ」

「フルとチビ?」

「ええ。どちらもコガという名前だったんです。なので、古賀浩靖はフルコガ、小賀正義はチビコガと呼ばれていました」

「なるほど、その名前、新聞で読んで覚えがあります。で、あなたは何を疑問とされているのですか」

「辻褄が合わないと思われませんか」

 正直、私はだんだんと苛立って来ました。

「もう少し、具体的に」

「三島先生が最初に人質にしようとしたのは第三二普通科連隊の連隊長だったというのはご存知でしょう」

「ええ。もっとも週刊誌で読んで知ったのですけどね。事件当日は連隊長が不在だと判って東部方面総監に目標を変えた。確か、そうでしたよね」

「『週刊朝日』の昭和四十五年十二月十八日号に詳しくでていましたね。記事では当時の連隊長のインタビューも出ていましたが、その中で『三二普連は三島さんとも『楯の会』とも殆ど交流が無かった。何故、私や連隊が目標となったのか分からない』そんな事が書いてありましたね。これは全くもってその通り、真実です」

「三島さんは連隊の大部分が、富士演習場での大規模な演習に参加するのを知らなかったとも聞きました」「その様です。先生は決行当日の連隊長の予定を必勝に確認に行かせた。しかし必勝は連隊長のみが不在であると勘違いした。先生は連隊員の多くがいるならそれで良いと思われた。そういう主張もあります」

「では、何がオカシイのですか」

「三二普連では連隊長室は隊舎の一階にありますよね」

「そうですね。大抵の部隊の連隊長室は一階です」

「ならば、仮に連隊長の確保に成功したとして、何処で演説するおつもりだったと思われますか」

 〈なるほど、確かに〉と頷くしかありませんでした。 

「そうでしょう、答えに窮しますよね。連隊の隊舎屋上でしょうか? それとも隊舎前の営庭でしょうか」

「……どちらも難しい」「ええ。そうです。連隊の隊舎にはエレベーターなど無い。中央にある階段を登って屋上まで進まなければならない。もし、其処を行くともなれば、各中隊の、例えば銃剣道や徒手格闘の猛者達が、黙って行かせるとはとても思えません。失礼な言い方をお許しいただければ、東部方面総監部の、、自制が出来る老兵達じゃない。たとえ日本刀で武装しているとは言え、たかだか俄仕立ての兵隊もどきの五名です。木銃を持った連隊員が束になればとても屋上まで登れなかったでしょう。現場はたちまち大混乱、修羅場になっていたでしょう。あの時の総監室よりも更に。営庭はどうか? ふさわしい演台、そう、営庭にはレンジャーのロープ訓練で使う鉄塔が二基ありますよね」

「ええ。私たちがレンジャー塔と呼んでいる鉄塔ですね」

「その上部には足場がある。高さは地上から大体一〇メートルくらいですよね。地上からの干渉を防ぎつつ演説をするには良い演台でしょう。でも其処に上がるには鉄梯子しか無い。拘束した連隊長をどうするつもりだったのでしょう。地上に残った四名が日本刀で危害を加える素振りで、牽制しながら、先生が一人で、あるいは必勝一人を連れて塔に登って演説する。あまりにも幼稚な計画でしょう。軍事的に見ても、文学的に見ても」

「文学的?」

「正しく言えば、演劇的にもです。先生は演劇や歌舞伎にも精通され、台本を書き、自ら演出までもされていた。仮にもし私が今、申し上げた様な段取りの芝居台本を書いたとしたら、先生はさぞや大笑いされたでしょうね」

 私の目をじっと見据えながら、サトウ君は、はっはっは、と笑いました。

 その笑い方は……三島さんの笑い方によく似ていました。

 私はなぜか少し反論をすべきだと思いました。

「……その辺りをあまり深く考える必要は無いのでないでしょうかね。熟慮の上、標的を東部方面総監、そしてその執務室と隣接するバルコニーとした。それでは駄目なのですか」

 今度はサトウ君はゾッとする様な怖い笑顔を浮かべました。

「先生はとにかく緻密なのです。小説を書く場合でも可能な限りの現地取材をご自分でされ、綿密な物語を編む。ご自身が監督もされた映画版『憂国』の台本を見ればよくわかるのです。つまりね、私が思うに、そもそも三二連隊の連隊長をどうこうしようと考えたこと自体が不思議なんです」

「三二普連は山手線内側で唯一の実働部隊です。もし、三島さんの行動を支持する者が多数現れたなら、その後は国会の占領とかを目指していたんでしょう? ならば都合が良いと思ったんでは?」

 サトウ君は少し失望した様な表情になりました。

「ねえ、間口さん、あの三島先生が本気でそんな事が起きうる、と、考えられたと思われますか」

「……私は滝ヶ原で、あなたがの訓練のお手伝いを一度だけさせていただいた。その時、三島さんとも一度か二度か、お話しさせていただいた。だが、その程度です。三島さんの思想というか、あの方のアタマの中のことなど分るはずも無い。天才の思考など私の頭で理解出来るはずもない」

「では、こういう仮説はどうでしょう。自衛隊内部、それも指揮官関係、連隊長まで行かないまでも、連隊幕僚や中隊長、いやもっと低位の二尉三尉レベルに同調者がいた。昭和四三年頃から交流を持ちはじた防大生、大学時代に『楯の会』に入り、卒業後に一般幹部候補生で入隊した者……彼らはじっと息を潜め……」

 サトウ君の声は徐々に消え入る様になり、やがて沈黙しました。

「……どうしました。なぜ黙るんです」

「言いながら、アホらしくなりました」

「どうゆう意味です」

「間口さん、私は私なりにこの二十年間、あれこれ考え、調べ、人にも会ったのです。内部クーデター? 調べたんですよ。今の自衛隊では武器と実弾の管理は極めて厳格に行われている。連隊隊舎には一発の実弾も置いてない。仮に隊員の一部が蜂起したとしても小銃用の銃弾すら入手することは難しい。違いますか」

 私はただ、頷いたと思います。

「それに三二普通科連隊は、旧軍的に言えば近衛歩兵連隊的な役割があるのかもしれませんが、実態としては似て非なるもの。特に任期隊員の多くは夜間の高校や大学、専門学校に通いたいが為に入隊した者が多く配属されている。いや、そんなことはどうでもいいんです。私が言いたいのはね、そもそも先生はあなた方が言うところの実働部隊を動かすつもりなど、最初から無かったのではないと思うのです。国会議事堂に一番近い実働部隊だから三二連隊が良かった? 私なら、何度も訓練でお邪魔して、多くの知り合いが出来ていた、滝ヶ原でコトを起こそうとしたでしょう。もしも本気で自衛隊に謀反を起こさせようとしたなら」

 私は少しムキになって反論しました。

「三島さんと行動を共にしようとした連中が出たとしてもですよ、先ほど、あなたが言われた通り、市ヶ谷と同様に、弾薬庫からは実弾を出すことなど不可能に近い」

「そうです。その通りだ。つまり、実際に謀反が起こることなど、先生は全く期待していなかった」

「では、一体、何をしたかったのですか、三島さんは」

「死に狂の様を見せたかったのでしょう」

「気が変になっていたんですか」

「違います。死に対して狂ったのです」

 私は段々とあほくさくなって来ました。

「……私には、理解出来ません」

〈でしょうな〉サトウ君はそう言いたげな薄笑いを浮かべました。

「……『武士道とは死に狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの。と直茂公仰せらり候。本気では大業ならず。気狂ひになりて死に狂ひするまでなり』……先生は最後の最後まで極めて明瞭な精神状態で死んだ。これだけは確かです」

 そう言いながら、深々と煙草を吹かしました。

 私は話を混ぜ返したくなったこともあって、少し意地くそ悪い質問をしたのです。

「……そういえば、三島さんが死んだのは、ヒステリーだとか言ってたひともいましたね」

「青島幸男の『おかまのヒステリー』ですか、まあ、青島しかり。松本清張だの司馬遼太郎とか、あんなゴミみたいな連中の言うことなど放っておけばいいです。その点、思想的には先生の敵であった、いいだもも先生の弔い文などには私達も心打たれた。もっとも、それらを読んだのは事件からかなり過ぎてからですけどね……許せないのは朝日新聞と中曽根康弘です」

「多くのメディアも、政治家も、批判的だったでしょう」

「朝日は先生と必勝の首の写真を載せた。あれは獄門です」

「獄門?」

「つまり梟首、晒し首です。先生と必勝は晒し者にされたんです。彼奴らには江藤小三郎君のこともある」「それ、誰です」

 〈そんなことも知らないのか〉という表情が浮かびました。そして私の問いを無視し話し続けました。

「そして中曽根。彼奴を許せないのは、生前、さも先生の思想に共鳴している様に、親しげに、振舞っていた。我々が小銃の実弾訓練を許されたのは、先生が熱望された事がまずあったでしょう。しかし、最終的には防衛庁長官だったあの男が許したからでしょう。例え陸上幕僚長でも自分の判断で許可は出せなかった。違いますか」

 流石の私もこの言葉には慌てました。〈大きな声で言わんでください〉思わずそんなことを言った様に覚えがあります。いくら駐屯地の喫茶店でも、です。しかしサトウ君の静かな怒りは収まりませんでした。

「さも、便宜を図るふりをしながら、結局は先生の魂の直訴状を闇に葬った」

「直訴? 誰へのです」

「佐藤栄作総理へのです。事件の前年、五月頃、先生は都内の料亭で当時官房長管だった保利茂先生らと会食したんです。その直ぐ後で、国防に関する意見書を掘氏に託した。しかし、それが佐藤総理の元に届くことは無かった。彼奴が握り潰したからです。自分の保身の為に。あの男はまさに先生が書かれた『わが友ヒットラー』のヒットラーと同じことをやったんです」

「でもね、仮にその、意見書がですよ、内容はともかくね、当時の総理大臣に届いたとしたって、こうゆう言い方は何だけど、総理大臣であり政権政党の党首であった佐藤さん、あの人は官僚上がりでしょう? 軍人だったこともなかったですよね」

「そう。鉄道官僚上がりです。先の大戦でも軍隊に採られることは無かった。海軍主計少佐殿だった中曽根お大臣とは同じ官僚上がりでも更に毛色が違う」

「そんな佐藤さんが、その意見書を受け取ったら、只々困惑するだけで、だからと言って、三島さんの意見に同意することなど一〇〇パーセント無かったんじゃないんでしょうかね」

 サトウ君はしっかりと私の目を見据えてこう言ったのです。

「間口さん。これは信義の問題なんです」

 その目に、私は狂気の色は感じませんでした。

「間口さんは信義とは何だと思われますか」

「……どうも、そうゆうのは苦手です」

「辞書を引けば、信義とは、真心を持って約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。と、書かれています。ヤクザや右翼の連中が、よく使います。間口さん、『菊花の契』ってご存知ですか」

「何ですか、それ」

「江戸時代に上田秋成が書いた奇譚集、『雨月物語』の一編です。この『菊花の契』のテーマは信義です」

 私はため息交じりに〈……はあ〉とだけ答えました。それ以上の言葉が浮かびませんでした。

「その物語を要約すれば、一夜の酒席の約束を果たす為、自ら死を選ぶ武士の話です。人は一日に千里をゆくことは難しい。されど魂ならば一日に千里をゆく事も出来る。人は大切な約束を果たすためなら肉体を捨て、魂だけになる事もある。そんな話です」

「……三島さんが死を選んだのは、誰かとの約束の為だったんですか」

「ある意味、自分との約束でしょうね。先生は昭和四十五年十一月二十五日に新潮社の担当者に『豊饒の海』の最終話『天人五衰』の原稿を渡す約束をしていました。作家三島由紀夫としての最後の原稿をね。『豊饒の海』四部作は長い小説です。先生は必死の思いで書き上げられたのでしょう。そして、昭和四十五年の夏頃には書き上げ推敲を行い、十一月二十五日を迎えた。その間に見極めたいこともあった。なんだかわかりますか? 先生はいわゆる左翼学生たちに大いなる期待を抱いてらした。連中が言うところの大阪戦争、東京戦争、ジュッテンニーイチ闘争にです。彼らが機動隊の殲滅に成功し、大君に危害を及ぼそうとする時、その楯となるのが私たちでした『今日よりは顧りみなくて大君の醜の御楯と出で立つ吾は』となるはずだったのです。しかし連中はことごく失敗し、佐藤訪米すら阻止出来なかった。昭和四十五年の秋頃には彼ら闘争力は目に見えて衰えて行った。先生はもう彼らに期待することをやめたんです。この頃を超えて先生は三島由紀夫として生きる理由は既に無かったのでしょう。もっとも十一月二十五日に関しては様々な説があります、例えば『仮面の告白』の起筆日。例えば今上陛下が摂政なされた日。傑作なのは四十九日後は一月十四日だからこの日に決めたのだ。なんていうのもあります。一月十四日、何の日か分かりますか」

 私は力なく首を左右に振りました。

「平岡公威、つまり先生がお生まれになった日です。どうやらつまり、死没と生誕をキッチリ繋げないと輪廻転生は機能しないという考えのようです。どうです、傑作でしょう」

 サトウ君はまた、はっはっは、と笑いました。

 私には混乱していました。しかしそれはサトウ君の予期したことの様でした。彼は急に優しい口調になりこう言ったのです。

「失礼しました。少し、間口さんを困らせて見たくなったんです。申し訳ありません」

 彼は新しい煙草に火をつけました。

「……それにしても、日記の件は、残念です」

 私は黙ったまま、すっかりぬるくなったコーヒーをすすりました。

「やはりもうこの世には存在しないんでしょうね日記は。ならば、いいんです。実は先生、生前に親交のあったある方に日記は処分したと、おっしゃっていたそうです。昭和四十五年の夏の頃にです」

「まず、その日記はそれほど価値のあるものなのでしょうか」

「文学史のみならず戦後日本史……いえ、正直に申し上げれば、私たちにとって非常に大切なのです。先生の最晩年の、本当の想いに触れて見たいのです。私たちはずっと天皇に関する理論構築を、水戸学を背景としてやって来ました。そして林房雄先生を介して三島先生との交流を持てた時は、それこそ百万の味方を得られたようだと思ったのです。しかし、先生と天皇論を構築しようとした時、ある種の、溝というようなものを認識するようになりました。それは例えば二・二六事件で刑死となった磯部浅一大尉に対する、なんというか、先生の好意的な態度でした。あの事件関係者の中でも磯部は最も激しい呪詛の念を陛下に浴びせて死んだ人物です。私を始め、古参の隊員の何名かは入会前、例えば平泉澄先生の皇国史観、つまり平泉史学に魅せられていました。つまりは承詔必謹です。磯部大尉に魅せらている三島先生に正直、戸惑う者もおりました。先生は恐ろしいほどに感の鋭い処がありました。観察眼、特に人へのそれがありました。文学者としては当然なのかも知れません。そんな先生が、私たちに対して、正直どんなお気持ちを持たれていたのか、そして、もしや、それが、あの行動へと繋がって行ったのでは……そんなことをこの十八年間、ずっと考え続けて来たのです。答えがどんな残酷なものでも良い……知りたいのですよ」

 そこまで話し終えたサトウ君の表情には隠しきれない苦悶の色が浮かんでいました。

「どうして先生が日記を私が、いえ私たちが、そんな大切なものの行方を知っていると思われるのですか」

「今更いうまでもありませんが、先生は交友が、それはそれは広い方でした。友人関係だけでも、文芸界、様々なメディア、政治、取材等で親交を築かれた方々、先日は九州熊本、その前は京都、あちらこちらを訪ねて回りました。でも駄目でした。そこでいはもしやと思い、先生が晩年、最も心癒せる場所、心許せる仲間と思っていた滝ヶ原の関係者の方に、こうしてお尋ねして回っているのです」

「でも、最も心許せる仲間なら『楯の会』の誰かの方がー」

 彼は苛立った様子で私の言葉を遮りました。

「決起の頃、OBを含めればゆうに百人を超える『楯の会』員がいました。しかし、信を置くものはごく数人でした。当初、先生は市ヶ谷駐屯地の弾薬庫も合わせて支配下に置き、自衛隊に決起を促す事も考えました。しかし、それを躊躇った理由の一つは、やはり心底信頼できる『楯の会』隊員は結局はあの四名だけだったということにもあったったと思うのですよ。事件以前に様々な理由で隊を離れて行った者も含め、一度は会に籍を置いた者は皆、先生を尊敬申し上げていたと思います……それとね、先生には不思議な魅力がありましてね、ある程度親しくなると〈もしや先生が一番信を置いているのは自分では?〉と相手に思わせてしまうところがありました……しかし……それは……必ずしも……そうでは無く……」

 そのあと、サトウ君は黙ってしまいました。私は先ほどの意地悪い気持ちとかではなく、少し話の流れを変えたくて、愚問とも思える質問をあえてしたのです。

「会の中には、行動する政治的な三島由紀夫でじゃ無く、純粋に作家としての、三島由紀夫と親しくなりたいなんてゆう考えで入会した者もいたんじゃ無いですか」

 サトウ君は驚いた様な表情を浮かべると、例の、はっはっは、という笑い声をあげました。

「実はね、会では文学の話は禁止でした。でもね、ある時、先生に『何か文学本を読むとしたら何がいいですか』ってね、聞いた奴がいたんです。そしたら先生は「林房雄先生の『青年』を読め、他は読まんでもいい」そう、おっしゃったそうですよ。だからね、私は先生の作品なんて殆ど読んで無い。でもね、先生は親しかった翻訳家、いえ、海外文学を翻訳するのではなく、日本文学を主に英文ですが翻訳の方の方に、『豊饒の海』だけは全巻残らず訳してほしいととおっしゃっていたそうです。そんなこともあって最近また『奔馬』を読み直しています。でも苦しくなって、本を閉じてしまうんです。私は九州人でもないですから、神風連にも血盟団事件にも大した思い入れはありません。でも、あの小説を書き始めたとき、既に先生は死ぬことを決めていたのだと思います。深夜から朝迄、一人、あの書斎に篭り、書き上げていた時の先生のお気持ちの方に心が飛んでしまい、苦しくなるんです。それでも又、いかんいかんと思い直し、またページを読み進めようとする。そんな事を繰り返す毎日です……話が脱線してしまいました。私は先生を知る人で、先生を信用できないと言っていた人間を知りません。無論、好き嫌いは別です。しかし、その実直な、あまりにも純粋すぎる人間性を疑う人間を、私は知りません。しかしそれゆえ、その純粋さのあまり先生からして見れば自分が認めるところの信義に応えうる者は本当に少なかった。実のところ、そうでは無かったかと思います。結局は……私も、先生に信義を認めてもらえなかった一人なんですけどね」

 そう、いい終えるやサトウ君は椅子から腰をあげました。

 サトウ君を再び業務用車に乗せて四ッ谷駅の前で降ろしました。

 車内ではほとんど会話は無く、別れ際に二言三言、別れの挨拶をしました。

 その後、二度と、彼とは会っていません。


 【参】

 実はね……喫茶店を出たあと、サトウ君、最後に一号館の一階正面入り口前に行きたいって言ってね。

 行きましたよ。十八年前のあの日、自衛隊員が集められた彼処にね。

 バルコニーをじっと見つめてたよね。サトウ君。

 そしたらね。急に振り返ってね。南の方を見ながら〈地下鉄の、四ッ谷三丁目の駅は、あっちですか?〉っていうの。僕が頷くと、彼、妙に神妙な顔してね〈そうかぁ、先生はあのバルコニーから四ッ谷四丁目を見てたんですねぇ〉なんていうの。僕は意味がわからなくて、四ッ谷の三丁目だか四丁目だかに何かあるんですか? と聞いたよ。そしたら彼、うっすら目に涙を浮かべて言ったの。

「間口さん、先生は東京市四ツ谷区永住町、今の四ツ谷四丁目で生まれたんですよ」

 そう、言ったの。僕は思わず、それが市ヶ谷でことを起こした理由ですかって聞いたけど、サトウ君は〈わかりません。案外、四十九日説なんていうのが真実なのかも知れませんね。結局、いくら考えても何もわかりません〉ってね。サトウ君みたいな一流大学出たひとがわからないのだもの、僕なんかにわかるわけないよね。

 話はこれで全部。もういいでしょう?

 えっ? 僕が日記をなぜ持っているとサトウ君が思ったのかがわからない?

 そう……そうだよね。じゃ、話そうか、僕ももういい歳だしね。

 実はね、やめようかと思ってたの自衛隊。昭和四十五年、陸曹候補生に指定された頃にね。でね、東京のどこかの大学、夜間のでも何でもに入れたら、大学生になれたら、『楯の会』に入れてもらえないかっててね、あの最後の訓練の時にさ、サトウ君を通じて聞いてもらったの、森田さんに。そしたら、あんた、僕、三島由紀夫先生にさ、連隊長室に呼ばれてさ、訓練の時、いつも連隊長室を一人で使ってたからね、三島さんは。 

 そしてら「君、自衛隊を辞めて大学生になって会に入りたいのか」ってね、睨め付けるように僕の目を見ていうのさ。

 僕は「はいっ。お願いします」とだけ答えたよ。そしたらやや間があってから〈やめておきなさい〉と一言。そして僕の右肩を見てね「君、陸曹候補生なんだろ。だったらそっちで頑張れよ。大丈夫。君なら幹部にもなれるさ」なんてね。その予言は見事ハズレたね。僕は准尉にもなれらかったからね。

 そういえばあの時、そう言ったあと、はっはっは、と笑ったよね。豪快な笑い方だったけど、どこか目は冷めていたよね。

 なぜ『楯の会』には入りたかったのか、自分でもわからないね。うまく言えないというか、思い出せない。あの頃、自分中には確かに衝動の様なものがあった。在ったことは覚えているのだけど、なぜそんなものが自分の中に生まれたのかが分からない。覚えていない。

 そういえばさ、三島先生は大江健三郎先生を評して〈彼は国家主義に情念的に惹きつけられるところがある人間なんじゃ無いのか〉と、おっしゃったことが有ったよね。無論、大江先生の思想は三島先生と対峙するものです。でも、双方あい互いにアンビバレントな思想もまた持っていらした。あの時代、多くの学生は、情念の発露を大江先生的な、マルクス・レーニン的な、ローザ・ルクセンブルク的な、毛沢東的なもの中に求めた。僕はね、なぜか三島先生に惹かれた。何でだろうね……福田恆存先生じゃぁないけど、わからない。わからない。わからない。だよね。

 あの日の最後、四ッ谷駅でサトウ君を車から降ろしたとき、僕ね思わず〈ねえサトウさん、昭和は、またいつか、息を吹き返すのでしょうかね〉って聞いたんです。そしたら彼ね、エコーを取り出すと、その包み紙の裏にね、万年筆でささっと一文を書いて、僕に渡してくれたの。そこにはこう書いてあったよ。

「分魂万華と咲きて若人の胸に咲けよと散りし君はも」         

                               (終)


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