【閑話①】お母さん家へ行く
ローズマリーが運営している領土から南へ行き、ロールス王国王城がある中央都市から馬車で4時間ほど走らせた場所。鬱々と茂る魔境の森と呼ばれる魔物が潜んでいるといわれる有名な森から少しだけ離れたところの村に妖精の宿と呼ばれる地元の人でも有名な経営難の宿屋があった。
その妖精の宿の名前の由来は妖精の宿の女主人が生んだ、当時生まれたばかりの赤子が妖精の鱗粉を思わせるような美しいピンクがかったシルバーブロンドを持っていたことから名づけられた。
その赤子は5歳の日に聖女適正を持っているとして、ローズマリー伯爵につれていかれ、女主人はたった一人の娘の身を案じながらもうからない宿屋を今日も頑張って運営している。
それがエミリア・ローズマリーの母親、エミリーだった。
エミリーは元々ローズマリー領出身で、ローズマリー伯爵家でハウスメイドをしていた。年相応に見えない気弱く童のような幼い顔立ちでありながら、おっとりとした愛らしい性格は当時の若き伯爵の目に留まるには十分な要素だった。
何度かお情けをもらった後、エミリーは妊娠をした。しかし、当時子が生まれたばかりのイザイラの手前と利益的な観点を加味して彼女の妊娠を伯爵は容認できなかった。しかし、赤子にも利用価値があるかもしれないことと、外聞的理由を考慮して彼女たちを生かしておくことにした。
そうしてエミリーは女の子を出産し、結果的には家を追い出されることになった。
エミリーは伯爵からもらった莫大な手切れ金と共に伯爵の手が届きにくい場所に移住し、一人で育てられるように宿屋を開いた。ここで娘の成長を見守り、何事もない平穏な日常を暮らせるのだと思うと、伯爵との出来事なんて些細なことだと思えるようになっていった。
しかし、そんな日常もすぐに終わりを迎えることとなり、エミリアには利用価値があるからと伯爵家に引き取られた。その代わり、毎月送られてくる、使用人の頃の給料半年分くらいあるお金が手元に残るだけだった。
お金なんかいらない。けれど伯爵家にいってしまった娘がいつか伯爵家を追い出された後、戻るべき居場所を守るためにエミリーは必死に宿を運営した。
だが、旅人や商人が王国へ向き、商業の中心地でもある中央都市に行くまでのルートから若干外れている場所にある宿ではなかなかお客さんも止まりに来ず。毎月送られてくるお金と1ヶ月宿を運営するだけで金額はトントンだった。手元に残る貯金できる金額はわずか。手元に残らない月だってある。
エミリーには商才がなく、この地で宿を運営するには彼女の力だけでは不足過ぎた。
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半年に1回のペースで私は母が暮らす村へ足を伸ばす。ローズマリー領から距離は遠いし、天気が悪いと馬車で1日くらいはかかってしまう距離だ。中央都市からならもうちょっと近いのにな、と思いながら、妖精の宿の裏口の木扉のノックを鳴らす。
半年の1回のペースとはいったが、お茶会の準備やイザイラたちが騒動を起こすので
前回帰ったのが約1年半前となるので、この扉を開けるのはちょっとだけ緊張する。
私の家でもあるので、返事を待つまでもなく裏口の扉を開けると木が軋み、さびた蝶番が摩擦する音が響いた。裏口の先には丁度お母さんが宿のシーツを洗うべく両手に大量に持っている姿が見えた。
私の顔を見ると「久しぶりね。おかえりなさい」と柔らかい笑顔に出迎えながら、お母さんは手元にある大量のシーツを一旦裏口入ってすぐの厨房の調理台の上に置いた。
ちょっとやつれたような顔をしている。きちんとご飯を食べているのか聞いてみると「大丈夫よ。心配性ね」と否定されてしまった。というよりは誤魔化しているに近いような感じだった。
「今すぐ飲み物用意するから座っていてちょうだい」
「いいよ、私がやるから。お母さんは座ってて。後のこのシーツも私が洗濯するよ」
いくら経営が乏しいとは言え、宿の運営を一人で行っていれば大変だろう。この宿には12部屋の客室があるが、そのシーツを取り換えるとなると一苦労だ。無理やりに私はお母さんを椅子に座らせて、手早くシーツを洗う。
さすがに12枚のシーツを洗うのは大変だが、そもそも汚れがついていないので楽に洗える。しかし、こんなにあるなら全自動洗濯機とか便利なの欲しいなと考えながら1時間で終えた。
「ありがとう。助かったわ。あなたが伯爵家から帰ってきたのに、こんな雑用をさせてごめんなさいね」
「私の家でもあるんだから、これくらい当然でしょ。なに低い腰になってるのよ。お母さんなんだから娘に「シーツ洗って!」くらい指示するのが普通よ」
「人って贅沢を知ってしまうとそちらに慣れてしまいがちだけど、あなたは違うわね。幼いのに思いやりや他人に対しての優しさを失わない。……自慢の娘だわ」
血がつながっているとはいえ、立場的には私は貴族、お母さんは平民。そのことを気にしているのだろうか。別に気にしなくていいのに。その辺の遠慮は平和な日本で過ごしてきた私には理解できない。
かじかんだ指先をお母さんが入れてくれた紅茶のカップで温めながら喉を潤す。
「自慢できるほどできた人間じゃないわ。私、めちゃくちゃ意地悪で思いやりなんてお母さんくらいにしか持ち合わせないわよ。この間だってイザイラたちを泣かせてやったもの」
「あら、奥様を……?あまり奥様たちを困らせてはだめよ。あなたが屋敷で安全に暮らすためには無用なトラブルは避けた方がいいわ」
お母さんはまぁっと困ったように頬に手を当てた。こてりんと首をかしげる仕草は私が意図的にやっているのとは違い、本物の自然さがあって目を奪われた。
おっとり系お母さんおそるべし。
私は目的のためならば他人を蹴落とそうとする汚い心があるが、お母さんはそんな汚さとは無縁の清廉さがあった。ゲーム本編でも少ししか描写はなかったが、常に娘のことを思い、伯爵家を出る際は地位やお金に縋りつくことも、イザイラを失脚させようと野心を剥き出しにすることもなかった。
常に誰かの幸せを思い心配しているのだ。そんなお母さんは私は大好きだった。商才がなく、お金の管理も下手なお母さんも。その変わり家事全般は一級品なお母さんも。いつも私の身の心配をしてくれるお母さんも大好きだ。この笑顔を守っていきたいし、伯爵に捨てられた私を育ててくれた恩を私は忘れない。
……平民には莫大な生活費をすべて宿屋の運営に使ってしまうくらい要領は悪いけど。
私は掃除されて清潔だけど、ところどころ手入れされていない厨房の土壁の綻びに目を向けた。宿経営をうまくすれば手元にお金はいくらか残って修繕費まで回せるのに。この5年で王国全体の物価や相場を勉強してきた私は密に脳内でそろばんの音を鳴らす。
この宿の運営はお母さんだし、子供の私如きが口を出せばプライドをへし折ってしまうのでは。不愉快ではないかと思ったが、この子供でも分かるような運営の下手さには口を出さずにはいられない。
「お母さん、お客さんが最後に来たのっていつ?」
「2ヶ月くらい前かしら。最近はひとりもお客さんが来ていないわねぇ」
「それでもこの周辺の土地代や物価を加味しても手元にいくらか残るでしょ?そのお金で建物の修理とかできるんじゃない?壁も湿気でボロボロ。扉も重くて開けるのに苦労したし」
「そう?でも月々にかかる家賃代や場所代、仕入れた食材とかの諸経費で消えていくのよ~。手元には銅貨3枚くらいしか残らないわねぇ」
お母さんが1ヶ月に伯爵家から渡される生活費は金貨1枚。金貨1枚は日本円で100万円相当だ。ちなみにこの世界でのお金は共通しており、大金貨、金貨、大銀貨、銀貨、大銅貨、銅貨とレートがある。銀貨が日本円で約10,000円相当。100枚で金貨1枚相当になる。銅貨は100円、大銅貨は約1,000円の価値だ。
通常平民、例えば農民を例にするとの平均年収が金貨2枚。月収だと一世帯で1ヶ月で銀貨約16枚稼ぐ計算になる。
宿の経営の場合、中央王都を例に挙げると売り上げが平均して金貨3枚、辺境の地になると1枚が総売り上げの平均相当になる。この辺りだと仮に人が来ないとしても土地代、物価を加味しても家賃や備品管理も合わせて経営で銀貨50枚、銅貨6枚くらいが必要経費で飛んでいく計算だ。
私の皮計算の誤差があるにしろ、約2倍近くの宿の運営相場が出ていくのは明らかにおかしい。いくらお母さんが辺境の地の相場に疎かろうと目に見えて異常なのがわかる。商才が乏しい以前の問題だ。
「お母さん、この宿の家賃っていくらなの?」
「宿用の大きい建物っていうことだけあって銀貨50枚は払ってるわね。それがこの辺の相場なんだって不動産の人が言っていたわ」
簡単に家賃をゲロった警戒心がないお母さんに私は驚きつつも、私が知っているお母さんが住んでいる村の家賃相場の10倍以上の値段に唖然とするしかなかった。ちなみに住居用の家が大体銀貨2~5枚が相場。いくら店舗用の建物でもこの変の立地を考えれば銀貨15枚が妥当なのに。
しかし、不動産屋にそう言われてしまえば、商人などの不動産の情報に精通している人でない限りなかなか気づけないのだろう。お母さんが伯爵家からもらっている金額も金額だ。5年の間に金銭感覚が狂っていてもおかしくない。
吐きたいため息を飲み込みつつも、真実を言えばいいのか迷った。お母さんはなんでも自分で抱え込む傾向にあるから、不動産に騙されたことを知ってしまえば変に思いつめてしまうかもしれない。なんとかして仕送りの中から宿運営と老後に備えた貯金をさせてやれないものだろうか。
相場の何倍も高い家賃の真実を知ってしまうと同時に市場価格に疎いお母さんのような、純粋な人間を騙す悪徳不動産屋に怒りがこみ上げる。
よりにもよって私のお母さんを騙すなんていい度胸じゃないか。お母さんは伯爵に見棄てられても、私を女でひとつで育ててくれた恩人であり、たった一人のこの世界の肉親だっていうのに。
たしかに経営のセンスはないかもしれないが、それとこれとはまた話が違う。払わなくていいお金まで払わされ、騙されている現状は気づいたからこそ容認できない。
「お母さん、この宿ってどこで借りてるの?」
「村の入り口近くにあるリード商会不動産ガルテ村店よ。中央都市でも拠点を構える大きい商会なんですって。この辺の小さい村の賃貸はすべてこの不動産が管理してるわね」
「こんなこと聞いてどうするの?」と口を柔らかく上げて質問されたが、正直に「不動産屋さんにいってお母さんを騙して不当に金を巻き上げた制裁を加える」……なんていってしまえば、人のいいお母さんは止めに入るだろう。
「伯爵家で学んでいる王国全土の土地価格の勉強をしたいの」とそれっぽく誤魔化して一度宿屋を後にした。