70話 ラファエル・リット 2−2
◆
ドナの温もりを背中に感じながら、僕は振り返った。
そのままの状態でいると、柔らかな彼女の胸の感触で、理性を失いそうだったからだ。
「ドナ」
ドナの両肩を掴み、僕は彼女から身体を放した。
背後からは滝の音が聞こえる。
「ラファエル――私じゃダメなの?」
「ダメって?」
聞き返したけれど、これは誤摩化しでしかない。
僕には彼女の言いたい事が、分かっている。
聞いてしまえば、後戻りが出来ないことを知っていた。
だから、せめて答えを先延ばしにしようと思ったのだ。
本来なら、断るべきだろう。
でも、断ることができない。理由は明確だった。
ティファニー・クライン。
僕は彼女が好きだ。
でも――彼女は僕を必要としていない。
もう、忘れるべきだろう。
そう思うとドナの潤んだ茶色い瞳が、たまらなく愛しく思えてきた。
けれど同時に、ティファニーさまに対する一縷の望みが沸き上がってくる。
「私じゃ、ダメなの?」
ドナは繰り返している。
彼女も明言を避けているのは、やはり事態を決定的にしたくないからだろう。
ドナは僕が断ると思っている。
「キミじゃダメだ」と僕が言う――そう思っているに違いない。
だけど僕の中で、ランドの言葉がどす黒く広がってゆく。
「童貞のまま死んでもいいのか?」
嫌だ。
じゃあ僕はティファニーさまと、そんな関係になりたいのか?
それも違う。
彼女はもっと、崇高な存在だ。
けれど、もしも彼女に望まれれば、僕はきっと断らない。むしろ嬉しい――だけど彼女の側にいると云うことは、もっと別の意味を持つはずだった。
それは騎士が王女を護るような、あるいは竜が秘宝を守護するようなものだ。
翻ってドナは――彼女が心から望むなら、その気持ちに応えても構わないような気がする。
けれど、それがティファニーさまに知られれば、どうなるだろうか。
気にしない? そうだ――ティファニーさまは、僕のことなんて気にしない。
悔しいけれど、そうに違いない。だから僕は、こう答えた。
「分からない」
こんな答えは、最低だと思う。
けれど実際、僕には分からなかった。
「分からないなら、して」
ドナは目を瞑り、小さな赤い唇を少し開いている。
吸い込まれそうだ。彼女が望んでいることは、キスに違いない。分かっている。
けれど僕は必至で思いとどまり、頭を左右に振った。
「ティファニーさまのことが、そんなに好き?」
いったん開いた目を、ドナが悲しそうに伏せた。
長い睫毛が湿っているのは、ここが滝に近いせいだけでは無いだろう。
「ああ、好きだ」
「でも、あの人はランドと仲良くやってたよ?」
「そうだね。でも、僕の気持ちは変わらない」
「じゃあさ……二番目でもいいよ。私、ラファエルが好きだから」
「……どうして、そんなことが言えるんだ? もっと自分を大切にしてくれ」
「大切にしてるから――この戦いで死んじゃうんじゃないかって……そう思ったら、せめて好きな人に抱きしめて欲しいなって……私、知らないからさ、そういうの。ラファエルもでしょ? だから私でさ、ね、お願い」
この前ランドが言った事と、同じ様なことをドナが言う。
だんだんと、僕の中で違和感が鎌首を擡げてきた。
そもそも、どうして死ぬ事を前提として話すのか、おかしいじゃないか。
「ドナ、まずは生き残ることを考えよう。僕達は死なない――そもそも、死ぬ為にリモルへ行くんじゃない。皆を助ける為に行くんだ」
「分かってる。でも、私は弱いのよ。ラファエルとは違うの。私みたいな……武力も魔力も知謀も全部60台の女の子なんて、簡単に殺されちゃうわ」
「だけどドナ、キミの剣術はSだろう?」
「それだけじゃない! 私、本当にそれだけなのよ……こんなので魔物になんか、勝てないわ」
「……僕が守るよ、命懸けで。それならいいだろう?」
「ダメよ……そんなの。それじゃ私、ただの足手まといじゃない。だからいいの、二番目でも。一生の思い出が欲しいだけだから。死ぬにしても、生きるにしても……ね」
僕は途方に暮れて、瞼を閉じた。ドナは更に言葉を続けている。
「目を閉じたまま、私にキスしてもいいのよ。そうしたら、ティファニーさまだと思えるでしょ……ほら……」
彼女の気持ちは嬉しいけれど、やはり僕には応えてあげられそうにない。
「ダメだよ。ドナをティファニーさまの代わりになんて、出来る訳がない。だって大切な友達だから……」
「酷いよ、ラファエル。友達なんて言葉、聞きたく無かった……ムリならムリって、正直に言って欲しい」
「どう言えばいいんだ? ドナは魅力的だよ、僕には勿体ないくらいの! だけど、だからこそ、キミを傷つけたくないんだ!」
エルフの村が徐々に暗くなってゆく。
それは普通の夕暮れと違い、天頂から徐々に闇が深まっていくのだ。
まるで、巨人が蓋を僕達の上に被せるような……。
四方の隅がまだ明るいというのに、見上げる頭上だけが、先の見えない暗闇に覆われていた。
ドナは小さく息を吐き、潤んだ瞳のまま笑顔を作った。
「そっか、ありがとう。じゃあさ――友達では、いてくれるんだよね?」
「もちろん」
「わかった! またね!」
後ろで手を組み、ドナが笑った。そして来た道を戻ってゆく。
――――
食事が終わり天幕に戻ると、ランドが荷の中から酒を取り出して皆に見せた。
中くらいの瓶に入った酒だが、度数の高い蒸留酒だったらしい。すぐに皆、頬を赤らめて笑い出した。
そんな時だ――女子達が水浴びに行くという情報をウィリアムが齎したのは。
彼は外に小便をしに行き、その帰りに四人で歩く女子達を見たという。
彼女達は口々にエルフの村を褒め、水浴びが出来る事を喜んでいたらしい。
「ようし、隊列を組め!」
そう言い出したのは、当然ランドだった。
彼はおもむろに鎧を身に着け、外に出ると盾を背負う。
何の意味が――と言おうとした所で、「斥候隊、行け!」と僕の背中を叩いた。
少し足下がふらついたが、スコットも一緒に来てくれるらしい。
彼は貴族の三男で、神官見習いのはず。その彼が行くというのだ、僕が行かないのはおかしいだろう。神のお告げだ。
酔っていたので、何故かそう考えてしまった。
「はい、隊長どのぉ!」
僕は敬礼をして、沢の方に足を向ける。
木の影から覗くと、女の子達の姿がボンヤリと見えた。
光の精霊に照らされた薄らとした影が、彼女達の姿を青白く浮かび上がらせている。
たわわな胸、くびれた腰、大きすぎず、引き締まったお尻……やっぱりティファニーさまは、別格だ。
「よろチクビ〜〜」
その時、ティファニーさまの口から、信じられない言葉が発せられた。
酔った頭が、一瞬で吹き飛ばされそうになる。
思わず僕は顔を押さえた。鼻から、血が出ていたからだ。
「おい、茂みから顔を出すな、ラファエル。バレるぞ」
ランドがやってきて、盾を前面に出す。
盾には枝や葉が付けられていて、迷彩仕様になっていた。
「ご、ごめん、だけど……」
僕の言葉に頷きつつ、ランドが股間を押さえている。
「こ、これはッ……想像以上にッ……!」
前屈みになったランドを横目に、メルカトルが腕組みをしていた。
「テメェら、カレンの裸を見たらぶっ殺すぞ」
メルカトルは小国の宰相の息子で、蛇腹状の不思議な剣を使う男だ。最初はティファニーさまを気にしていたらしいが――「互いの立場を考えれば、踏み込まない方がいいだろ」と考えを改めたという。
ランドによれば、「カレンに落とされただけ」らしいけれど。
「拙者、もはや思い残す事はござらん……」
ウィリアムは地面に座り、短刀を腹に当ててる。これは神国のハラキリというヤツらしい。どんな時にやるのか聞いたことは無かったが、今か……今なのか!?
ウィリアムは神国の武士だ。武士とは刃に己の魂を乗せ、その一撃を必殺にするという。
本当だろうか? 今のウィリアムを見た結果、僕の中で武士に対する信頼は著しく損なわれた。
「おおぉ……神の恵みは偉大ナリィィ!」
スコットは聖王国の神官見習いだからか、神に祈りを捧げていた。けれど、やっぱり股間を押さえている。神もガッカリだろう。
そこへ突然、石が投げつけられた。どうやらジュリアが投げてきたらしい。
「総員、退却だ! 敵にバレた!」
ランドは小声でいい、逃げ支度に掛かっている。
けれど僕は、もう少しこの場に居たかった。
あんなに楽しそうなティファニー・クラインを見るのは、初めてだったから。
「ぼ、僕はラファエル! 見つかってしまった! 決してそんなつもりではっ……!」
ランドが僕の襟首を掴み、引っ張った。そして名前を騙り、ニヤリと笑っている。
「ちょっ……! ランド! 僕の名前をっ……!」
瞬間、僕達全員の頭上に雷が落ちた。
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