010:目覚めの夜
もし生きて帰る事が出来たなら、彼女ーー波本鈴へ胸に秘めた想いを伝えよう。
そう考えていた。
初めて会った時からずっと好きでした。君の笑顔を、君の美しい歌を俺はずっと護りたい。出来る事なら君の傍で……
今日に至るまで頭の中でどれほど告白の言葉を思い浮かべたことだろう。誰もいない場所でこっそり口に出して練習したこともあったな……
彼女のことを思うだけで胸は高まり、いつもこちらから声をかけた時の第一声は緊張からおかしな声色になっていた気がする。しかし、不思議なことにそれは最初だけで鈴ちゃんの笑顔や穏やかで柔らかな声色はいつも心を安らぎで満たしてくれた。
今のこの世界。死というものは常に隣り合わせで突然にやってくる。だからこそ、もしその時がきても後悔を残さぬよう湧き溢れる想いだけは伝えたい。例えそれが受け入れられずとも、彼女を護りたいという気持ちに嘘はない、きっと自分はより一層の強い決意を胸に戦えるだろう。
しかし、全ては遅すぎた。伝える事は出来なかった……後悔はこの意思が消え去るまで残り続けるだろう。
光、そしてその片割れを失った眼から溢れる血の混じった一筋の水滴は、彼の無念をせめて表したいとばかりに頬を伝っている。
もはや耳に入る音も全身を絶え間なく襲っていた激痛の波たちも無となり、唯一あるのは脳天を何度も貫かれ横たわる肉塊が見る、皇柘榴という青年が最期に観た、自分というちっぽけな一個体が消えてもなお廻り続ける世界だけであった。
それは未だ科学によって証明されていない【魂】と言うモノが血肉によって作られた人形に押し込められているかのようであり、かつて自分が意思を持ってそれを動かしていたなど到底考えられない程にその傀儡はピクリとも動かず窮屈にさえ感じられる。
夕陽は夜空へとその顔色を変え、まるで主役は自分たちであるかのようにその存在感を表す炎柱は一帯を照らし暴れている。
死というものは、こういうものなのか……?
思考だけが世界に残り、それ以外の全ては無となっている現状こそが俗に言う【死後】というやつなのだろうか。
音の無い、視界に囚われた光景。しかし、恐怖などはなかった。
この人生は終わりを迎えた。それはもう抗いようのない事実であり受け入れざるを得ないからだ。例え眼前に天使や死神といった未知の概念が姿を現そうと【そういうもの】なのだと理解するしかない。そうする事しか出来ないのだから……
『 やぁやぁ、我が名俳優。まだ意識は残っているかね?ワタシの声は、届いているかな? 』
不意にナニかの声が頭へ直接響くような感覚。未だ聴覚は失われており、周囲の音は変わらず無であるにも関わらずそのどこか嘲るような声色だけが煩いほどに脳内で反響する。
加えて、視界にも変化はなく、あるのは意思が認識している未知の感覚だけであった。
( なんだこの頭に響く声、まさかホントに死神とかってやつなのか? )
『 おやおや、死神とはね……ワタシが本当に死神というやつにみえるのかな? 』
その言葉と共に横向きにしか映っていなかった光景が起こされ広がってゆく。突然視界に侵入した声の主、ぶかぶかの茶のコートを迷彩服の上に羽織り、模様一つない不気味な白仮面を付けた人型のナニかが横たわっていた半身を起こしたのだ。
そうして座り込んだ全身が確かに背後のガードレールへ寄りかかり首は上向き、対面で立つ仮面の主を視界に映している状態であるのを確認し、それは『よし』と小さく呟いた。
『 これで少しは話しやすくなったかな?さて、改めてだがワタシが死神に見えるかい?我が名俳優、皇柘榴君? 』
一体何が起こっているというのか、突然の出来事に頭はパニックを起こしている。
どのような手段を用いているのか理解、推測すらも出来ないが目の前のナニカは皇柘榴という存在を周知しているだけではなく確実にその思考、内なる声を聞き更に語りかけてきている。
明らかに普通ではない。もし数時間前のように思考と肉体が合致していたのなら多量の冷や汗を流していた事だろう。
未だ動揺は脳内を駆け巡っているが、どうにかそれを押し留め、空想の友達に語りかけるようにすればいいのか普段なら恥ずかしくてやらないであろうが、こんな状態だ。その謎の存在に向けて頭の中で言葉を浮かべてみた。
( ……今は死神って事でいいんじゃないか?もし違うなら自分がなんなのか名乗ってほしいもんだね、どうやらあんたの方は俺の事を知ってるみたいだしな )
その思考に眼前のそれは腕を組むながら『ふふん』と上機嫌のような声を漏らした。
『 思っていたよりも元気だね。もっとこう、落ち込んでいても良かったのだが……今の状況、君は怖さというものを感じていないのかな?』
( あぁ怖くて仕方ないね。俺が死んだ後に棺に苦労して集めたグラビア本全部詰められて燃やされる事を考えたら、泣きそうだよ。んで、結局あんたはなんなんだ、教えてくれないか? )
相変わらずこちらを小馬鹿にしたような口調の仮面に対し、不安を強がりで誤魔化すかのように嘲笑を込めた返答を返しつつも本題を問う。
『 説明するよりも見てもらう方が早そうだね』
頭に声が響くと共にそれは小さく片手を掲げると二つの指先を強く擦り合わせ、おそらく「パチンッ」と音が鳴ったのであろう行動を取る。
するとそれを合図と言わんばかりに視界内に牙を剥き出しにした複数の『変異型』が侵入。しかしそれらは眼前の餌を貪る為に現れたのではなくあろう事か、ゆっくりと仮面の背後で膝をつき首を垂れ始めた。
その光景はサーカスで調教された猛獣などとは違う、まるで統率の取れた部隊による隊列行動。
それは疑いようの無い【ありえない】光景。意想外変異体を完全に制御しているのだ。
『 つまりはこういう事だよ、解答としてはこれで満足かな? 』
眼前の景色はあまりにも非現実的。しかし、それは突然の迎撃システムの停止。その隙を狙っての意想外変異体による連携の取れた襲撃などここに至るまでの予想外な出来事を納得させるに十分すぎる光景であった。
( あぁ十分だよクソ野郎!!つまりお前が黒幕って訳か!!一体なんのつもりでッ…… )
激しい熱を持った思考、しかし今の自分にあるモノがそれだけである事を改めて実感し、勢いに冷ややかなブレーキがかかった。
『 ん?どうしたのかね?てっきり聞くに耐えない罵倒や詰問の嵐がくると思っていたのだが?』
そうであろう、実際そうしようとした。もし、肉体との接続がそのままであったならその胸ぐらを掴み憤りをぶつけていただろう。しかし、そうは出来なかった。
意思に応えず静止する全身を改めて自覚し、自らの未来を再認識する……自分はもう死ぬのだと……
そう思うと全てが虚しく感じられ、思考は熱を失ったのだ。
( 例えこの状態で黒幕の正体を暴いても俺にはもう何も出来ない。ここで心を荒立てるのはなんだかあんたを喜ばせるみたいで癪だからな……)
『 ふふ……成る程、君はこの状況を良く理解していると見た。なら君にとって残された最期の時間、少しだけワタシと話をする事に使ってはくれないかな? 』
仮面の言葉を読むに、つまり今ここに残されているこの意思もあと僅かで消え去るという事だろう。
それまで眼前の黒幕に沈黙を貫くのもありだが、それでも自分は言葉という文化を持ち互いにコミュニケーションを取ることを歴史に刻んできた人であった。
なら、その行いで誰にも迷惑をかけないのなら話すくらいはしてもいいだろう。
( 勝手にすればいいだろう )
そう思考すると目の前の仮面はふらふらと彷徨うように足を動かしながら言葉を響かせ始める。
『 君に四つ程質問があるんだ。なに難しいモノじゃない 』
仮面は片手の指を一つ立てる。
『 まず一つ。君には心に決めた片想いの女の子がいるね?君はここで死ぬ。これから先彼女を護ることも出来ないし、そもそも君の想いを伝えることすら出来ない……後悔は、ないかな? 』
考えるまでもないな……
( 後悔しかないよ。こんな事になるならもっと早くに勇気を出して告白しとけばよかったって……けど、どうしようもない。俺はここで死に彼女は生き続ける。俺にはもう鈴ちゃんが幸せな未来を掴める事を祈るしか出来ない…… )
その返答に軽く相槌を打ち、仮面は立てる指の数を増やす。
『 では二つ目の質問。もし君がここで生き残っていたのなら、君には様々な可能性があった事だろう。もちろんこんな世界だ、やれる事は限られているかもしれない。しかし、生き残った君には自由がある。それがどうだ、君はここで死ぬ……後悔は、ないかな? 」
仮面が吐く質問の意図が読めない。
明らかに何かを期待しているようなニュアンスではあるが、何を狙っているというのか……
( なんだ?ここで終わる事に後悔し続けて苦しめとでも?……あぁ、後悔してるよ!!けど、俺はここで死ぬんだ。どう足掻いたって……それに変わりない )
そこまで返答すると仮面はふらふらとしていた歩みをピタリと止めこちらに背を向けた状態で、ゆっくりと深く言葉を響かせる。
立てられた指は三つ目の数を表した。
『 では、三つ目の質問。もしワタシが協力すれば君の死を回避出来るとしたら……どうするかね? 』
( 断るッ……)
間髪入れず思考を返す。それを読んでいたかのように仮面は『ふふん』と僅かに笑みを溢した。
『 何故だね?君はここで死ぬ事に後悔している。そうだろう?なら、生きて帰りたいはずだ 』
少しの沈黙。しかし、この問いには予め答えが用意されている。ゆっくりと思考を浮かべた。
( ……帰りたいさ、けど今の人は神を裏切って化け物に成り果てた。あんたに協力するって事は更に外道へ堕ちるって事だろう?じゃないとこの状況での蘇生なんて不可能だからな。なら俺は、これ以上堕ちたくない。人は罪を重ねて生きている。なら運命がその清算を求めた時くらい、潔く受け入れるべきなんだ )
この穢れた世界で生きる為には罪を背負うしかない。人にとって最大の脅威である意想外変異体でさえ、元は人間であったのだ。
人が人を殺し喰らう、この狂った世の中から抜け出す事はもはや出来ない。
それでも……死にたくはないと人は願い、闘い続ける。
皇柘榴はこんな世界でさえ、神は僅かに赦しを与えてくれていると思っていた。
生きる事を、抗う事を赦してくださっていると……
なら、再びその赦しを裏切るような事はしてはいけない。今の人は『変わり果てた人』として闘わないといけないんだ。
だからこそ、どうしようもない死がやってきたのなら……受け入れないといけない、『変わり果てた人』として…
完全に思考を読んでいるからなのだろう、仮面はゆっくりと振り返ると一歩ずつ踏み締めるようにこちらへと歩みを向ける。
『 君は……素晴らしいな。まるで神が産み落とした人という存在の代表のようだ。その通り、もしワタシが協力すればその存在はもはや【人】とは呼べなくなるだろうね。間違いない。しかし、君はあくまでこの世界で生きる者は【人】でなければならないと理解している。これ以上世界を壊してはならないと……全くもって素晴らしい、感服するよ。……では、最期の質問だ 』
仮面の顔が阻むモノが無ければ鼻息がかかるであろう程に近づいてくる。そして今までのように頭に響くのではなく、今度は接続を失ったはずの耳に直接囁かれるかのように言葉が紡がれる。
『 皇柘榴。先ほどの答え……ソレは【本心】かな? 』
( !!!? )
瞬間、仮面の言葉が接続の鍵であったかのように肉体から無数の神経が伸び魂を捕えたかのような錯覚。それによって行き場を失い蠢いていた全身を駆け巡る激痛の嵐は、戻ってきた宿主である皇柘榴の魂を無慈悲にも急襲した。
内臓の損傷によって溢れた血液が反射行動として口から吐き出される。肉体の全てはまるで死を急かしているかのように燃え爛れているかの如き熱と痛みを発し続けていた。
抗う事の出来ないその衝動が絶えなく押し寄せ、彼の堅固な意思を激しく抉り削ってゆく。
どうする事もできない、耐えるしか無い。しかし、耐えた所で何があるというのか?
この衝動の先にあるのは死のみ、救いなど無い。
なら何故耐えなければならない?何故一思いに楽になれない?
先程までの自らの思考が愚かであったと痛感する。
死を受け入れる?冗談では無い。こんなもの受け入れられるハズもない!!
痛い、ツラい……痛い、痛い痛い!!!
限界を迎えたその精神は、明かす事などないであろう心の奥底で固く閉ざされていた感情の蓋を意図も容易く蹴り飛ばし、その中に隠していた青年のもう一つの心を露わにした。
「 死に、たくない。鈴ちゃんに、蓮に…あい、たい。嫌だ。俺は俺は……死にたくない!! 」
身体が熱くて寒い。
全身が動かない。痛い……
心が寂しい、悲しい、辛い……
死にたくない……
耐えられない激痛から全身は激しく痙攣している。
欠損により抉れ溢れる血肉、残された片方の眼から際限なく流れる涙によって顔面はぐちゃぐちゃとなっており、彼は必死に熱によって焼かれた喉から生きたいという言葉を何度も何度も絞り出した。
どんな事をしてても生きたい、例えそれが赦されない事だとしても……死にたくない!!
『 やはり、やはり君は素晴らしい!! 』
仮面は膝をつき歓喜の叫びをあげながも、死を目前に泣きじゃくる彼を力強く抱きしめた。その面の奥から一筋の水滴が溢れる。
『 君は罪を背負っていると理解していながら更に罪を重ねようと願ってる。しかし、そこには確かな罪悪感。そうでなくてはならない人が持つ感情とは常に矛盾を孕む、その矛盾に蝕まれならも人は生きる、生き続ける。生きたいと願う!!……そして罪を背負う事を選ぶ 』
仮面が彼の身体を引き離すと身につけていたコートはもはやその血肉と涙でぐちゃぐちゃに汚されていた。しかし、そんな事など気にせずそれは内ポケットから一つ特殊な密封性を持ちナニがが込められているのか視認出来ない金属製の試験管に似た形状を持つモノを取り出した。
『 君が彼であって本当に良かった。彼が君であって本当に良かった。これで全ての準備が整う全ての名俳優がその物語を再開する。さぁさぁさぁ!!今宵を持って美しくも醜い、儚くも壮大な物語を始めようではないか!!』
喜びを口にしながら、仮面は試験管のようなそれを開封、皇柘榴の体内へとその中身を強引に流し込む。
「 !!!!? 」
その瞬間先ほど違う、痛みによるものではない激しい痙攣。まるで肉体の細胞全てが活動を開始したかのように制御出来ない反応。意識は薄れ、闇へと沈み込んでゆく。
そして最後に脳内を駆け巡ったのは幾つもの知り得ないはずの未知の情報。
一つの物語
王国の繁栄
四人の王
【 GAAP 】
『 あぁ、最期に一つ。君は自分の事を【人】だと言ったが……そんな訳はないだろう。君こそが正真正銘、本当の化け物なのだから…… 』
その言葉を最後に星々煌くそこで仮面は高らかに笑い続けた。まるで開幕を心待ちにしていた観客からの鳴り止まない歓声のように……ーーー




