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見つめる先には  作者: 英星
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後編

 俺と同じクラスに佐伯美佳という女子生徒がいる。

 席替えの時に、女子の中で一番早く手を挙げた生徒だ。

 佐伯とは中1の時にも同じクラスだった。それだけではなく、佐伯の姉ちゃんが俺の1コ上のバスケ部の先輩で、とても可愛くて女子バスケ部のアイドル的な存在だった。俺も佐伯の姉ちゃんには熱心にバスケを教えてもらったり、試合の時には誰よりも大きな声で応援してもらったりといろいろお世話になった。

 頭がよく、元生徒会長でもあり、それにピアノも上手で演奏会ではその腕前を全校生徒の前で披露したこともある。とにかく隙のない人だった。佐伯も姉ちゃんに似ていてかわいいことはかわいいのだが、こいつの場合は性格に問題がある。


 遊園地で遊んだ2日後の昼に恭介から電話がかかってきた。夜釣りのお誘いだった。

 面白そうだとは思ったが、そんなに乗り気でもなかった。勉強がしたかった。川井の宿題だってある。

「でも俺、勉強してえしな。それに釣るって言っても何を釣るんだ?」

「さあ。餌つけて糸を垂らしてたら何か釣れると思うぜ」

 恭介のこの言葉は俺の好奇心を十二分にくすぐった。もしかしたら凄い財宝が釣れるかもしれない。俺は心を決めた。

「それは面白そうだな。やっぱり行くよ」

 俺がまた現実の誘惑に負けた瞬間だった。


 俺たちは夜の10時に海のそばの公園に集合した。

 集まったメンバーは俺と恭介、バレー部の奴2人、それに佐伯の5人だった。

 恭介たちはテトラポッドの上で釣っていたが、俺はテトラポッドのない堤防の突端で釣っていた。餌のオキアミを針につけて、夜の海に糸を垂らしていた。

 

 20分ほど1人で釣っていると、佐伯が堤防の向こうからこっちに近づいてきた。佐伯は制服を着ていても大人っぽいが、私服の方が余計にそう見える。肩にかかる長さの髪が風に吹かれていた。

「釣れた?」

「全然」俺は佐伯の問いに答え、欠伸をした。

 佐伯は上半身を傾け、堤防から海を覗き込んだ。

「怖いね」

「落ちるなよ」俺は水泳大会でビリになるほど泳ぎが下手だから、落ちてもらったら困る。


 佐伯は俺の隣に座ると、タバコに火を点けつようとライターをカチカチさせ始めた。

「背中貸して」

 どうやら風で火がつかないらしく、佐伯は俺を風よけにしてタバコに火をつけた。

「お前、子供産めなくなるぞ」

 佐伯の体がどうなろうと俺には関係ないが、一応心配はしておいた。佐伯は俺の言葉を無視してタバコの煙を豪快に吐いた。


 俺は佐伯とタバコの組み合わせで、嫌な思い出がある。

 たしか去年の冬だった。俺は猛烈に腹が痛くなって、生徒の多い本校舎のトイレを避け、ほとんど人のいない別校舎の2階の男子トイレに駆け込んだ。

 勢いよく男子トイレのドアを開けると、佐伯がトイレの奥の壁にもたれてタバコを吸っていた。

「なんだ祐太か。驚かさないでよ」全然驚いてない様子で佐伯は言った。

「お前何してんだよ?」

「何って、タバコ」佐伯は指で挟んでいるタバコを得意気に見せた。

「そうじゃなくて、なんで男子トイレで吸ってんだよ。女子トイレで吸えよ」

「ここ滅多に人来ないから、あたしのお気に入り」

「女子トイレの方にも人は来ねえだろ」

「あっちはたまに萩原が来る」

 俺に佐伯とトイレの情報交換をする余裕はなかった。

「俺、小便するから早く出てけよ」俺は佐伯を追い出すために嘘をついた。

「どうせいつも見てんじゃん」

 本校舎にある男子トイレのドアは、生徒が隠れてタバコを吸わないようにガラス戸になっていた。しかも男子トイレは廊下の真ん中にあり、廊下を行き交う人たちからまる見えで、プライバシーは一切ない。


 佐伯は意地でも男子トイレから出ていきそうになかった。しょうがなく俺は佐伯に見られながら小便を済ませ、手を洗った。

 ああ、これでやっとスッキリ……するわけがねえ! 俺は腹が痛くてトイレに駆け込んだんだ! 小便をしたかった訳じゃねえ!  


「佐伯」俺は肛門に力を入れたまま、振り向いた。

「何?」佐伯はタバコの灰を小便器に落とした。

「体に気をつけろよ」俺は格好よく言った。そして格好よくトイレを出て、最後まで気を抜かずに格好よくドアを閉め、パタッとドアの閉まる音と同時に3階のトイレへ向かって猛ダッシュした。


 タバコを吸う佐伯のせいで、そんな嫌な思い出がふっと蘇った。

 俺の隣で暇そうに釣りを見ている佐伯は、タバコを吸いながら堤防に仰向けになった。

「よくこんなとこで横になれるな」

 堤防はそんなに寝心地がよさそうには見えなかった。

 佐伯は仰向けになったまま、

「月が綺麗」と夜空に浮かぶ月をタバコで差した。佐伯の言葉につられて俺も見た。月は薄い雲に隠れて輪郭がボヤけていた。明るいことは明るかったが、綺麗というほどのものでもなかった。騙された。

「どこがだよ。微妙じゃねえか」

 佐伯の言葉は返ってこず、また無視された。このままのペースだと、今日の俺は何回無視されるかわからない。


「祐太」

 そう思っていたら話しかけられた。

「なんだよ」

「あたしの彼氏になってよ」佐伯はだるそうに言った。


 いきなり何を言いだすんだこいつ。絶対嘘だろ。話し始めてまだ数分しか経ってないのになぜ告白する。なんか怪しい。もしかしたら向こうにいる恭介たちと何かを企んでいるのかもしれねえ。 


「面白い冗談だな」俺はもう騙されねえ。

「笑える?」

「めちゃくちゃ」

「だよね」

 そんなちゃちい罠に引っかかるほど俺は馬鹿じゃねえ。俺の口元が緩んだ。

 

 そんなことより佐伯のスカートが海から吹く風に煽られていて、パンツが見えそうだった。

「それよりお前、気をつけないとパンツ見えるぞ」

「見たい?」佐伯は俺の顔を見て、風で暴れているスカートを掴んだ。

「別に見たくねえよ」俺は佐伯のスカートから目を逸らした。本当は見たかったが意地を張った。

「今日は生理だから血がついてるかも」

 佐伯の生理情報なんて特別いらなかったが、ちょっと疑問に思うことがあった。

「生理っていつ頃からなるんだ?」

「あたしは小5だった」

 それを聞いた俺は「へえ」と意味もなく感心した。

「祐太は最近1人でエッチした?」今度は佐伯が聞いてきた。佐伯のデリカシーのない質問に俺は正直に答えた。

「俺したことない。いまいちやり方が分からないんだよな」

「こうすれば」

 佐伯はタバコをくわえたまま起き上がり、右手で釣竿を掴んで上下に動かした。佐伯が手を上下に動かす度に釣竿の先がビンビンと揺れた。一体何が悲しくて女子からひとりエッチのやり方を教わらないといけないんだ。

「やめろよ。魚が逃げるだろ」

 俺は釣竿を掴む佐伯の手をパンッと叩いた。

「痛いって!」

 佐伯は俺が叩いた3倍ぐらいの力で肩を叩き返してきた。

「お前が釣りの邪魔するからだろ」

「どうせ全然釣れてないじゃん」

「これから釣れるんだよ」

「どうだか」佐伯はそう言って短くなったタバコを堤防に押しつけた。

「由香先輩はあんなしっかりした人なのにどうしてお前はそういい加減なんだよ」

「祐太も他の人と一緒のこと言うね」佐伯の機嫌が悪くなったのが分かった。

「そりゃそうだろ」

「祐太ならもっと違うこと言ってくれると思ってたな」

「別にそんなにたいしたこと言ってねえだろ」

 佐伯は背伸びして、

「祐太は面白くないから恭介のとこに行ってこようかな」と言った。

「ご自由に」

 俺がそう言うと佐伯は立ち上がって、本当に恭介たちのところへ戻っていった。

 佐伯が向こうに行ってくれたお陰で俺は釣りに集中することができた。

 夏休みも終わりが近い。




 川井の夢は銀行員になることらしいが、俺にはこれといった夢がない。夢がないと生きていけないと思っていたが、夢がなくても案外生きていけることを最近知った。


「どうしてそれで高校に合格したいと思ったの?」

 夢のない俺の答えに川井は驚いていた。

「だって私立は金かかんじゃん」俺は溶けかかったチョコレートを口に入れ、威張りながら言った。

「それだけの理由?」川井は学習机の椅子の上で呆れていた。

「親の財布に優しい充分な理由だろ」俺がそう言うと、川井は「それはそうだけど……」と渋々納得してそれ以上は何も言わなかった。


 3時の休憩が終わり、勉強会も無事に終わると、

「今日は最後だから、うちで夕食を食べていけば?」と川井が夕食に誘ってくれた。

「いいよ、悪いから」俺はあっさりと断った。俺は食べ物の好き嫌いが多く、人んちの家族と一緒に食べるのがどうも苦手だった。以前、友達の家で夕食をご馳走になった時、嫌いな野菜炒めが出てきて涙目で完食した経験がある。


「でも、もうお母さんに言っちゃった」俺の意表をついた川井の衝撃的な発言だった。そう言われると俺は断りきれなかった。あとは野菜炒めが出てこないことを祈ろう。


 夜が近づくと最初に川井のお母さんが、そして次に川井の親父さんと川井の姉ちゃんが帰ってきた。川井の家族が帰ってくる度に俺は、「お邪魔してます」と挨拶をした。


 川井の家族が順番に帰ってくるにつれ、俺の緊張感が増していった。晩餐会が始まる頃には俺の緊張はピークに達していた。俺はいつも1人で晩御飯を食べるので、家族の団らんというものにどう対応していいのかわからなかった。慣れていないくて孤立した感じがした。

 孤独な晩餐会の時間が過ぎていく。

「理花からたまに伊東くんの話は聞くよ」と俺の斜め向かいにいる川井の親父さんが言った。

「それはいい話ですか?」俺は皮肉っぽく言った。

「もちろん。君のことを楽しそうに話してる。お酒は好きかね?」

「いえ、まだ飲んだことないです」

「俺は小学生の時から飲んでたけどな」川井の親父さんは豪快に笑いながら手にしたコップ酒を飲み干した。

「お父さん、ダメよ。飲ませようとして」暴走しそうな親父さんを俺の隣にいる川井が止めてくれた。


 建設会社に勤めている親父さんはすこぶる怖かった。角刈りパンチパーマで、部屋の中なのに色の入った眼鏡をしている。その理由を聞きたかったが、怖くて聞けなかった。道端であったら、その筋の人と勘違いしそうなほどだった。川井と結婚する奴は大変そうだなと思う。

 しかし、どうしたらこんなに強面でガラの悪そうな親父さんから、川井のような真面目な子ができるんだ。今度、遺伝の勉強でもしてみよう。


「どう伊東くん、美味しいかしら?」俺の正面に座っている川井のお母さんが言った。

「はい、美味しいです」俺は焼き魚を口に入れた。野菜が少なくて助かる。

「でもまさか理花ちゃんが彼氏を連れてくるなんてねえ」

 川井のお母さんの発言に俺はびっくりして、親父さんに怒られるんじゃないかと思い、すぐに否定しようかと思ったが、それはそれでまずいことになりそうな気がして、何も言えずに黙っていたら、

「だから彼氏じゃなくて、一緒に勉強してるだけよ」と川井が言ってくれたので、俺もここぞとばかりに、

「そうです」と川井の言葉に便乗した。

「そうなの? ねえ伊東くん、理花をお願いね。この子、勉強ばかりしてるでしょ。学校で友達と仲良くしているのか心配なのよ」川井のお母さんは不安な表情を浮かべていた。

「毎日すげえ楽しそうにしてますよ。まあ、友達が本田だけというところに問題がありますけど」俺が冗談半分で本田の陰口を叩くと、

「変なこと言わないで」と川井に本気で怒られた。


 川井のお母さんは口が擦りきれるんじゃないかというぐらいよく喋る人だった。今日1日職場であった話や、料理の話、夜のドラマの話、俺と川井に学校のことを聞いてきたりと話題に困らない。

 川井がどうしてあんまり喋らないのか分かった気がする。たぶん、川井のお母さんが1人で喋っていて、川井や他の家族が立ち入る隙がないからだな、と勝手に決めつけた。


 川井の姉ちゃんは黙々とご飯を食べていた。姉妹だから当たり前かもしれないが、どことなく川井と似ていて川井と同じような落ち着いた雰囲気を持っていた。

 家族団らんも悪くないが、こんな夕食が毎日続くと少し窮屈にも思える。


 無事に晩餐会も終わり、一旦川井の部屋に戻って、さあいよいよおいとましようとしたら川井が、

「ねえ、花火好き?」と俺に聞いてきた。

「ああ、好きだけど」

「お姉ちゃんの使い残した花火があるんだけど、する?」

「どこで?」

「ベランダ」

「ベランダですんのかよ。大丈夫か?」早く帰りたかった俺は普段なら気にしないことを言った。

「線香花火だから大丈夫よ。待ってて」

 俺はまだ一言も『する』とは言ってないのに、川井は花火の準備をしに部屋を出ていった。


 しばらくすると水を張ったバケツと線香花火を持って、川井が戻ってきた。

「窓開けてもらっていい?」

 俺はカーテンと窓を開けた。外はもうすっかり闇に包まれていた。

「ありがとう」

 川井はベランダにバケツを置いて、窓枠に腰を降ろし、部屋から足を放り出した。

 

 俺は座る場所が見つからず、しょうがなく川井の横に座ろうとしたら、

「どうして隣に座るの。そこのサンダルでベランダに出て」

 川井はベランダにあるかかとの低いサンダルを指差した。俺は言われた通りに部屋から出て、川井が指を差したサンダルに足を入れた。

「これちいせえぞ。俺、足は大きいんだぜ。川井がベランダに出ろよ。俺がそっちに座るから」

「いやよ。我慢して」川井は自己中でわがままだった。

「川井って水虫持ってなかったっけ?」川井のサンダルを履いた俺は冗談で言った。

「うん、持ってる」

「マジで!」冗談が本気になった。

「嘘。持ってません」

「ムカつく」川井はたまにこういう嘘をつく。俺は線香花火に火をつけた。


「しかし川井の親父さんめちゃくちゃ恐そうな人だな」

「嘘? すごく優しいわよ。わたし一度も怒られたことないし」

「そうなのか。でも川井は家族だからな。赤の他人の俺とは違うと思うぜ」

「そんなことないわよ。お姉ちゃんが彼氏を連れてきた時も普通だったし。お父さんは隠れてこそこそされる方が嫌みたい」


 火花を散らした線香花火が赤い果実のように膨らんでいく。限界まで成長した赤い果実は次第にその勢いをなくし、最後は熟してベランダに落ちた。潰れた赤い果実はベランダで黒いシミになり、存在の痕跡だけがそこに残った。

 俺は川井から新しい線香花火をもらった。


 川井は裸足のままベランダに出てくると、

「あれ北極星」と夜空を指差した。

「へえ、見えるんだ。すげえな」川井の差した方向を見ると、夜空にひとつの星が浮かんでいた。「人生にも北極星みたいな目印があれば迷わずにすむのにな」初めて見た北極星に感動した俺はがらにもないことを言った。

「それが夢とか目標になるんじゃない?」

「そんな不安定なもの目印にならねえよ。もっとこう確実なものだよ。ずっと変わらないやつ」

「そんなのある?」

「あると思うぜ。何かはわからねえけど」

 俺は適当に言ったが、川井は深く追求してくることもなく、その場にしゃがんでまた線香花火に火をつけた。


 2人で線香花火を使いきると、俺は川井と川井の家族に夕食をご馳走になった礼を言って、エレベーターに乗った。誰もいないエレベーターの中で一気に緊張がほぐれ、急に眠気が襲ってきた。




 夏休み明けの俺のテストの成績はだいぶ上昇していた。1学期の期末テストは5教科で163点だったのに、夏休みが明けるとそれが281点になっていた。1ヶ月で100点以上のアップ。恐るべし川井の宿題。まあ、俺の場合はもともとの点数が低かったということもあるが。

 そして俺は2学期もすっかり一番前の席に定着していた。


 学校の帰りに参考書を買って本屋を出ると、柔道部の佐藤修司が左手から走ってきた。俺は急いでいる修司に話しかけた。

「修司。何やってんだよ。お前んち逆方向じゃなかったっけ?」

 修司は相当急いでいたのか、ずいぶん息が切れていた。

「ハア、早く、帰ろうと思ってさ。トラックの後ろに、ハア、乗っていたら、ハア、急にトラックが左折してさ、家と全然違う方向に運ばれた。ゴク。孝太郎たちと遊ぶ約束してるから急がないといけないんだ。それじゃあ」

 修司は魚をくわえた野良猫を追いかけるような速さで走り去って行った。

「なんなんだ、一体」俺は本屋の前で立ち尽くした。




 9月には台風がきた。

 学校が休校になり、俺は自分の部屋で勉強をしていた。お腹が空くと卵とベーコンの炒飯を作ってインスタントの味噌汁をお椀に入れて熱湯を注いだ。


 強い風がリビングの窓を押さえつけていた。

 テレビをつけて台風情報を見ると、大きな風の渦が県全体をすっぽりと覆っていた。気象予報士のいかしたお姉さんが台風の説明をしている。


「戦後最大級の台風13号は九州南部に上陸し、1時間におよそ30キロメートルの速さで北東に進んでいます。中心の気圧は930hpa、最大風速は50m/sで、中心の南東側220キロ以内と、北西側170キロ以内は風速25メートル以上の暴風となっています。今後も土砂災害、河川の氾濫、暴風や高波に注意が必要でしょう」


 戦後最大級? 俺は台風情報よりその言葉にときめいた。なんて格好いいんだ。俺は御飯を食べ終わると、濡れてもいいようにジャージに着替え階段を駆け下り、マンションを出た。


 当然のように車など走っていなかった。俺は道路のど真ん中で仁王立ちした。こんな真っ昼間の、しかも結構交通量のある道路の真ん中に立てるチャンスはそうそうない。俺は道路の真ん中で仁王立ちしたまま、戦後最大級の台風を全身で感じていた。


 俺の横を赤いビールケースが猛烈なスピードで転がっていった。横殴りの雨で俺の体は数分も経たない内にびしょ濡れになった。風は確かに強く、俺の体を全力で押してきたが、意外と立っていられた。遠くで空き缶の舞っている音がする。強風に煽られた電線が今にもちぎれそうなほど異様に縦揺れしていた。


 何か尖ったものが飛んできて俺の目に突き刺さったら、大変なことになりそうだな。そう思うと俺は急に怖くなり、マンションの前に素早く移動して身を潜めた。びしょ濡れになったままマンションの前に座り込み、目を閉じた。


 台風が町に様々な音を与えていた。

 無数の雨がアスファルトに体当たりして弾ける音。不規則な強い風によって、雨は音の強弱を変えていた。強風に押されて軋むドアの音も聞こえる。時折、一塊の強い風が轟音を運んでくる。一塊の強い風がマンションの花壇を通り過ぎる度に、木の葉同士の激しい摩擦音がする。いつもせわしく聞こえる車の走行音だけが聞こえなかった。


 俺は目を開けた。

 こうして何かを感じることができるのは、何歳までなんだろうなと思った。大人になるといろんなことに慣れてしまい、新しい感情を持てなくなる。まだ若い俺でもそんな経験はある。


 食べ物の好き嫌いが激しい俺は、今でも頻繁に給食を残す。小学校の時は給食を残してはいけなかったが、中学校は特に問題なかった。入学当初、俺はそれに慣れていなくてひどく戸惑った。その頃の俺には給食がただのゴミになるという感覚がなかった。


 いつだったか残飯の入った食缶を不用意に覗きこんでしまい、それを見た俺は食缶の中に魂を吸い込まれそうになり、ふっと意識を失いそうになった。別に見た目が気持ち悪いとかじゃなく、もっと感情的なものだった。得体の知れない感情が俺の中からぞろぞろと湧き出てきて、細菌のように何度も分裂を繰り返し、油断していた俺の意識を埋めつくしていった。それで意識の霞んだ俺はふらふらと食缶の前で倒れそうになった。


 あれが一体なんだったのかは、今でも分からない。ただ間違いなく俺はあの時、何かに幻滅した。それは学校なのかもしれないし、クラスメイトなのかもしれないし、俺自身だったのかもしれない。


 でも今ではなんとも思わなくなった。何かを感じることもなくなった。俺はほとんど毎日給食を残し、食缶に捨てている。大人になるということはきっとこういうことなんだろうな、と感心する。


 目の前を刻々と通り過ぎていくこの戦後最大級の台風さえも、いつか俺に何も与えてくれなくなるのだろうか。大人になるときっと台風にも慣れて、そして何も感じなくなって、俺はこうやって外に出ることもなくなる。少し怖い。もしそうなったら、変わっていかないといけないのは俺の方なのかもしれない。

 常に新しいものを見るように自分を変えていく。




 台所で牛乳を立ち飲みしていると、兄貴が家に帰ってきた。

「なんだよ。珍しいな」俺は飲んでいた牛乳を冷蔵庫にしまった。

「明日の体育祭に行くように親父から頼まれたんだよ」

 基本的に親父は学校の行事には参加しないし、事前に親父から聞いていたので、たいして驚きもしなかった。

「来なくていいよ」運動神経のない俺は兄貴にも来てほしくなかった。

「昼飯はどうするんだよ?」

「自分で作って持っていく。金だけくれ」

 俺は兄貴に催促の手を出した。お金は親父から貰っていたが、たくさんあって困ることはない。貰えるなら貰っておく。兄貴は自分の財布から3千円を抜き取った。

「本当に行かなくていいのか?」兄貴が最終確認をしてきた。

「いい。兄貴と2人っきりで飯を食うのも気持ちわりいし」

 俺がそう言うと、兄貴はすぐに家を出ていった。大学生は暇らしい。


 俺はいつもより早めに起きると、弁当の準備を始めた。前日に買っておいた唐揚げを電子レンジで温め、おにぎりを4つ握って弁当箱に詰めた。おにぎりの隣にタクアンを数切れ入れた。水筒にポカリスエットを入れ、冷蔵庫にあったバナナを2本、房からちぎった。着替えやタオル、プログラム表など体育祭に必要な物をバッグに詰め込んだ。


 体育祭が順調に進み、午前の部が終わって昼食の時間になると、俺はバッグを持ってバスケ部の部室に向かった。長テーブルにバッグを置いて、パイプ椅子に座る。バッグから弁当箱、水筒、バナナを取り出した。


 1人で一心不乱に弁当を食べていると、部室のドアがガチャと開いた。開いたドアの先には恭介が立っていた。恭介はどこかで買ってきたらしい弁当とスポーツドリンクの入ったビニール袋を手に提げていた。

「考えることは一緒ですな」俺は水筒の蓋にポカリスエットを注いで、口につけた。

「親、来てないのか?」恭介はパイプ椅子に座り、ビニール袋から弁当を取り出した。

「来るわけねえじゃん。それ何弁当?」俺は水筒の蓋を持ったまま弁当の種類を聞いた。

「生姜焼き」

「渋いな」生姜が食べられない俺からすれば信じられなかった。

「お前は?」

「俺は唐揚げ弁当」

「自分で作ったのか?」

「まさか。おにぎりだけ」

 俺は弁当を食べ終わると、バナナを1本恭介にあげて、もう1本のバナナに手をつけた。

「あと俺が出るのは棒倒しと部活対抗リレー、それにクラス対抗リレーか」


 俺はプログラム表を見て、自分が出場する競技を調べた。棒倒しは3年の男子専用競技なのだが、これがほとんど喧嘩だった。だいたい練習の段階でクラス同士の殴り合いになるような競技を、なぜ学校が頑なに採用しているのかいまいち分からない。しかも俺は棒が倒れるのを防ぐ防衛部隊なので、相手のクラスの喧嘩早い奴が勢いよく飛びげりを食らわしてきたり、頭の上に飛び乗ってきて顔面を踏みつけられるたりと散々な目に合う。


「恭介。棒倒しのポジション俺と代わらねえか?」

 恭介は攻撃部隊だった。

「いや、いい」俺が予想した通りの答えが返ってきた。

「あれって、守ってる方は損だよな」俺はまた体をあちこち怪我しないといけない。「部活対抗は弓道部と剣道部にさえ負けなければいいな」


 部活対抗はユニフォーム着用で走るので、バスケ部としてはその2つの部に負けなければ面目は保てる。さすがに袴姿の弓道部と防具を着けた剣道部に負けるわけにはいかない。

 俺はバナナの皮をビニール袋に入れた。


「川井とは上手くいってるのか?」恭介は生姜焼きを食べながら言った。

「川井? ああ、普通だけど。ていうかなんの話だよ」

「お前ら付き合ってるように見える」

「まさか。一緒に勉強してるだけだし」

「他のみんなはそう思ってないぞ」

「ほっとけばいいんじゃねえ」

 俺はプログラム表を丸めて望遠鏡のように覗き、恭介の方を見た。御飯を食べている恭介の顔が紙の望遠鏡に映った。




 恭介の言った通りだった。

 体育祭が終わった頃になると、俺と川井は付き合ってる、みたいなことになっていた。よくよく考えると、それはそうかもしれない。俺と川井の席は隣同士だし、いつも一緒にいて、しょっちゅう喋っている。他の男子と女子が同じことをしていたら俺でもそう思う。

 

 川井との関係をいちいちクラスの男子に聞かれたり、俺と川井の名前を黒板に書かれたりと、いろいろと面倒なことが起こり始めていた。面倒くさいことが嫌いな俺は昼休みの教室で川井にある相談をした。


「なあ川井、俺たちもう付き合ってることにしねえ?」

「何言ってるの?」川井の視線が小説から俺に移った。川井の反応は当然だった。

「だって、クラスの奴らに聞かれる度にいちいち否定すんの面倒くせえだもん」川井と俺が付き合うことになれば、そういったしがらみから解放されそうな気がした。

「ダメよ、そんな理由で。ちゃんと否定して」

「いいじゃんか、別に。付き合ってるフリだけでもさあ」

「ダメ。付き合ってもないのに」

「じゃあ、俺と付き合ってください」

 俺はさりげなく告白をしてみた。

「感情がこもってないのでお断りします」

 3秒で振られた。それならと俺は川井の目を見て、感情を込めて、正式に言い直した。

「川井のことが好きです。よければ俺と付き合ってください」

 俺は生まれて初めて女子に告白をした。

「タイプじゃないのでお断りします」

 さくっと断られた。俺の人生初のマジ告白をさくっと。しかも川井が小説を読む片手間に断られた。

「冗談に決まってるだろ。誰が川井みたいな奴に告白するかよ」俺は捻くれた。

「そう、よかった」川井は安心すると小説に視線を戻した。


 川井に振られてから数日後の夜、俺は珍しく落ち込んでいて勉強が手につかなかった。

 学習机の椅子に座り、落ちた気分を吹き飛ばすように右手でシャープペンをクルクルと回していた。川井に振られたからじゃない。不本意とはいえ、川井を傷つけてしまったからだ。

 事の発端は川井の作ったクッキーからだった。

「クッキー食べる?」

 川井は家庭科の授業で作ったらしいクッキーを俺に差し出した。川井のこういう無神経な行動がいつまでもみんなの誤解を招く。

「1枚だけくれ」

 しかし常に腹が減っている俺は、透明なビニールの包装に手を突っ込み、クッキーを1枚掴んで食べた。

「うまいな」俺は口の中でクッキーを細かく砕きながらそう言った。

「本当に? よかった」川井は嬉しそうに笑った。


 2学期になって1ヶ月以上が過ぎても、俺はまだ川井の呪縛から抜けきれずにいた。夏の遊園地での川井の笑顔が今でも尾を引いていて、川井の笑った顔を見る度に、自分の中から盛んに面倒くさい感情が湧き出てくる。それはなかなか制御しにくい感情で、暴れ馬にしがみついているような感覚だった。このままだといよいよ本格的に俺の生活に支障が出てくる。


「やっぱりちょっと不味いな」

 そして俺は心にもないことを言った。湧き出てくる自分の感情を否定するように、川井のクッキーを否定した。

「もうあげない」川井はあからさまに不機嫌になり、クッキーを鞄にしまった。俺の気持ちを知らない川井のその態度に、俺も少し頭にきて思っていたことを口にした。

「だいたい川井がこういうことするから、みんなに誤解されんだよ」

「もうあげないからそれでいいでしょ。それに誤解されるのが嫌なら勉強も他の人に教えてもらったら」

 ふてくされた川井は机から小説を取り出し、ページを捲り始めた。俺もだいぶムキになっていた。

「ああ、そうするよ。ちょうどよかった。川井の教え方は優等生すぎて俺には分かりにくかったんだよ」


 いくら頭にきてたとはいえ、もちろん本気で言ったわけじゃなかった。

 俺は川井の性格からして、『伊東くんの理解力が足りないだけでしょ』的な強気の言葉が返ってくると予想していたが、川井は何も言わずにただ悲しそうに顔を曇らせただけだった。


 俺は焦った。川井のその表情はほんの一瞬だったが、鈍感な俺が珍しく敏感に気づいた。あんなに悲しそうな川井の顔は初めて見た。これはまずいと思い、俺が謝ろうとすると、川井は小説を机にしまって教室から出ていった。謝るタイミングを逃してしまった。教室に戻ってきた川井はいつもの川井だった。それで俺は余計に謝れなくなった。


 翌日には2人とも普段の生活に戻っていた。俺は川井に勉強を教えてもらっていたし、川井もいつも通りに教えてくれた。川井はどう思っているのか分からないが、俺は自分の言った言葉に後悔し、心の中にしこりとして残っていた。




 10月は文化祭の準備にも追われていた。俺たちのクラスの出し物は演劇をすることになり、その練習で下校の時間が遅れたりした。練習とはいっても、俺の役は城の兵士という、セリフもほとんどないチョイ役で楽なものだった。


 演劇の練習が終わり、いつものように恭介とのんびり歩きながら帰っていると、

「今日ハンバーグ作るんだけど食べていくか?」と晩御飯に誘われた。

「マジで? 食べてく」俺は遠慮せずに頂くことにした。


 途中、俺たちとは別のルートで、1人で下校している川井とばったり会った。

「友達のいない女子発見!」俺は孤独な川井を指差した。

 川井は俺の方に近づいてきて、

「叩かれたい?」と優しく言った。

「冗談です……」俺はその優しい言い方にビビった。


 帰る方向はまったく同じなので、3人で一緒に帰ることになった。

「伊東くんの家ってこっちだった?」

「いや、恭介の家でハンバーグをご馳走になる。川井も食べにくれば? どうせ作るの恭介だし。なあ恭介?」俺は恭介の方を向いた。

「材料はあるけどな」

「ううん、大丈夫。お母さんが夕食作って待ってるから」

「そうか。ならしょうがねえな」

「夕食っていつも自分で作ってるの?」

「恭介はそうだけど、俺は弁当を買って食ってる」

「ふうん」と川井は納得して「でも2人とも偉いわよね」と言った。

「何が?」俺は訊ねた。

「だって小さい時からお母さんがいないんでしょう? 家事とか自分でしないといけないから大変そうじゃない」

「そうか? 掃除は結構楽しいし、晩飯は買うだけだし、洗濯なんてボタン押すだけだからな」

「お母さんがいなくて寂しくなったりはしない?」

「全然。むしろ自由に過ごせて楽しいぜ。なあ恭介?」俺はまた恭介に話を振った。

「そんなに楽しくはないけどな」

 見事に恭介に裏切られた。


 恭介たちのマンションに着くと、川井は7階でエレベーターを降りた。

 部屋に帰り着くと恭介は洋服に着替えて、ハンバーグの調理にとりかかった。

 

 手伝う気のまったくない俺はダイニングでテレビを見ながら、恭介のハンバーグが出来上がるのを待った。キッチンの方からハンバーグの焼ける音と香ばしい匂いが漂ってくる。俺はもう腹ペコだった。よだれが口に溜まる。

 よだれが口に溜まり、そろそろ溢れそうになってきた頃に恭介のハンバーグができあがった。お皿の片隅に余計なマカロニサラダが添えてあったが、あまり文句を言うのも悪いし、そんなに食べれないわけでもないので、身長を伸ばすために無理に食べた。


 ハンバーグを食べ終わり、恭介とミュージックステーションを見ながら穏やかな時間を過ごしていたらピンポーン、と間の抜けたチャイムが鳴った。

「誰だ?」恭介は立ち上がって、玄関の方へ謎の来客を見に行った。


 玄関のドアの開く音がすると、誰かと雑談している声が聞こえ、そして「お邪魔します」と、どこかで聞き覚えのある女の声が聞こえた。誰だっけ? と思い出してる間に恭介と川井がダイニングに入ってきた。俺はびっくりした。

「なんだよ川井! ハンバーグならもうねえぞ!」

「違うわよ。デザート持ってきたの」川井は俺の前にビニール袋を突き出した。

「マジで? 何?」

「プリン」

「なぜ俺の好みを知っている」

 俺はプリンが大好物だった。


 川井がビニール袋をテーブルに置くと、俺は川井の許可もとらずにがさごそと袋を漁った。中にはプリンが3個入っていた。

「さっそく食べようぜ」

 俺はプリンをテーブルに並べた。しかしビニール袋には肝心なスプーンが入っていなかった。

「スプーンがないぞ、川井」

「あっ、ごめん。持ってきてない」

 すると恭介が、「持ってくる」とキッチンへスプーンを取りに行った。

 俺は恭介からスプーンを受け取り、プリンの蓋を開けた。川井は手をつけていなかった。

「食べないのか?」

 川井は首を振った。

「わたしは家で食べたから」

「なんで3つ持ってくんだよ」俺は貰った方なのに文句を言った。

「1個はおまけ」

「こういうのが喧嘩の元になるんだぜ」そう言いながらも俺はやる気満々だった。「恭介、ジャンケンでいくか? しりとりでもいいぜ」

「やるよ。俺は1個でいい」

「マジで!? サンキュ」俺は恭介に譲ってもらった2個目のプリンもあっという間に平らげた。


 今度は3人でくつろぎながらミュージックステーションを見ていると、音楽繋がりで俺はあることを思い出した。

「そういえば俺、ジョン・レノンのモノマネができるようになったんだぜ」

「嘘? してみて」ジョン・レノンを好きな川井は異常に期待していた。

 俺は川井の期待に答えるために一生懸命ジョン・レノンのモノマネをやった。

「似てないな」と恭介が言った。

「頭にきたから、これ投げていい?」川井はテーブルに置いてあるスプーンを手にした。

「ちょっと待て。俺は一生懸命やったぞ」俺の努力は無に帰した。


 ミュージックステーションが終わると、俺は颯爽と立ち上がった。

「俺は帰る。勉強が俺を呼んでるからな」

「わたしも帰って勉強しないと」川井も立ち上がった。

 玄関で恭介に見送られ、俺と川井は蛍光灯に照らされた廊下を並んで歩いた。エレベーターの隣にある階段の前で、川井は足を揃えて立ち止まった。

「わたし、階段で帰るから」

「俺も階段から行くよ」

「ここから1階まで歩くの?」

「どうせ下りるだけだし」


 川井と一緒に7階まで下りて、そこで川井と別れると、俺は鈍い足音をたてながら1人で1階を目指した。誰も上がって来なかったし、誰も下りて来なかった。


 今、俺は何階にいるんだろう、と思った。自分のいる場所を把握していなかった。階段の踊り場の壁に階数が標示してある。俺はそれを見て、自分が3階にいることを知った。視線をそのまま上に移す。コンクリートの階段が樹木に絡みつくツタのように伸びていた。


 天井が遠くて見えなかった。階段は明るく照らされているにも関わらず、視点が遠くに離れるほど暗闇に沈んでいった。俺の感情を飲み込む渦のような暗闇だった。突然、まとわりつくような疲労感に襲われ、俺は動けなくなった。

 体がずっしりと重くなる。それなのに意識だけはしっかりとしていた。階段の先は暗くて見えず、体が鉄のように固くなっても、不思議と気持ちは高揚していた。感情が動いているのがわかる。


 簡単なことじゃない。高校に合格するのも、階段を上るのも。そんな難しいことばかりでも俺の期待感は尽きなかった。俺は重たい体を気合いで動かし、階段を下り始めた。

 階段を下りながら、俺は何階にいるんだろうな、とまた思った。



 2学期は他にもいろんなことがあった。俊平と友哉が喧嘩をして廊下を血だらけにしたり、2組の男子の何人かが根性試しに校舎の3階から1階の花壇に飛び降りたり、英語の直美先生がお見合いに失敗したり、理科の男性教師が教え子の女子にラブレターを送って問題になったりなど、学校生活に飽きることはなかった。

 そんな多様なことがあったせいか、2学期は1番長いはずなのにまったく長さを感じなかった。


 12月には三者面談も行われた。俺は今の成績でも合格できそうな普通科を希望した。別に公立なら商業科だろうと工業科だろうとどこでもよかったのだが、『普通科』という響きが気に入った。俺は普通の人間になりたいし、普通の人生を歩みたい。だから俺は普通科を受験することにした。担任の先生が言うには合格する確率は60%ぐらいらしい。俺には充分過ぎる数字だ。




 冬休みに入ると川井から電話があった。

「今日亜沙美と図書館に行くんだけど一緒に行く?」

 川井からの電話は初めてだった。まさか川井から電話がかかってくるとは露ほどにも思っていなくて、俺はすぐに川井だとは信じられず、何度か本人確認をした。


 図書館の入り口で待ち合わせの約束をして川井との電話を切ると、俺は恭介も誘おうと家に電話をかけてみたが、誰も出なかった。シャワーを浴びてバッグに勉強道具を詰め込み、図書館に向かった。図書館は中学校の近くにあり、そんなに遠くはないので歩いていくことにした。


 川井たちと図書館の入り口で合流すると、館内に入った。

 なんでも衝立付きの勉強机を備えた部屋が2階にあって、そこは集中して勉強ができるらしい。


 2階に上がり、十字の通路を左に進んだ。どんな部屋なのか期待を持って茶色いドアを開けると、受験生がぎっしりと部屋につまっていた。俺の気持ちが干潮のように一気に引いた。背筋が凍り、思わず身震いした。一生懸命に勉強する受験生たちが砂糖に群がる蟻のように見えて、気持ちが悪くなった。リスがドングリをかじるような筆記音が神経質に聞こえてくる。ここにはとても長い時間いられそうにない。


「か、川井。俺あっちの大きいテーブルの方で勉強しとくよ」

「席は空いてると思うけど」川井は室内を見渡した。

「そうじゃなくて、なんとなく。気分的に」

「自分でそう言ってるんだから放っておけば」チームワークを乱す奴は許さない的な本田の冷たい言い方だった。

「それもそうね。終わったらあとでそっちに行くから」


 川井たちと部屋の前で別れると、俺は窓際の大きなテーブルについた。窓から差し込む心地よい太陽の光が俺の気持ちを軽くしてくれた。


 俺はバッグから社会の参考書とノートを取り出し、全身で太陽エネルギーを充電しながら勉強に取り組んだ。暖かい日溜まりの中で勉強をしていると、俺は眠くなってきた。これではまずいと思い、眠気覚ましに席を立って窓に近づいた。


 赤信号に捕まっている車が道路に列をなしていた。信号が青になり、堰をきったように車が走り出すと、俺の頭の中でF1のテーマソングが流れだした。


 道路の脇にはコンクリートで整備された1本の小さな川が流れている。

 小学生の時、俺はこの川に下りてみたことがある。しかし、いざ下りてみると思っていた以上にコンクリートの壁が高く、自力で這い上がれなかった。

 しかも当時は地面に上がるための階段さえ設置されていなくて、そこまで上がるのに困難を極めた。俺は半べそ状態で上にいる友達が差し出した木の棒にしがみつき、なんとか一命をとりとめた。俺があの場所に帰ることは2度とないだろう。


 交差点の角に訳の分からない宗教の看板が見える。

 ちょくちょく宗教の勧誘が家にも来る。数ヵ月前にも、2人組の女の人から玄関で話を聞いた。俺はそんなに神様を信じていないが、だからといって地獄にも行きたくねえ。いつか神様を信じないでも天国に行ける都合のいい方法を考案してみせる。


 俺は席に戻り、また勉強を始めた。

 1人で熱心に勉強をしていたら、ふいに肩を叩かれた。ビクッとして反射的に振り向くと、川井たちが俺のそばに立っていた。まったく気がつかなかった。勉強を始めてから、いつの間にか数時間が経っていた。


「もういいのか?」と俺が聞くと、川井は「うん」と頷いた。

 俺は参考書やノート、筆記用具をバッグにしまった。


 図書館の前で本田と別れ、俺と川井は2人で歩いて帰った。川井は自転車で来ていたが、歩いてきた俺に合わせて一緒に歩いてくれた。


 川井と歩いて帰っていると、川井の着ている服が気になった。川井はチノパンにいろんな動物が刺繍されたセーターを着ていた。ストライプの境目を大地に、シルエット姿の馬や羊といった動物たちがセーターの中を縦横無尽に走っていた。

「動物園みたいなセーターだな」

「これ?」川井は自転車を押しながら下を向いて、自分が着ているセーターを確かめるように見た。「変?」

「いや、似合ってる」としか、俺は言いようがなかった。


 このあとの川井の予定が気になった俺は、病院を過ぎたあたりで川井に聞いてみた。

「川井はこれから用事あんのか?」

「ううん。何もないけど」

「なら俺んち寄ってけよ。ジュースとお菓子ぐらいならあるからさ。この時間は親父がいるかもしれないけど」

 川井は迷ったあと、

「そうね。迷惑じゃないなら。伊東くんの部屋にも興味あるし」と言った。

「なんにもないけどな」


 家に着くと親父の在宅を確かめるために「ただいま」と試しに言ってみた。奥から何も返事はなかったが、親父の靴はまだあるから仕事には行ってなさそうだった。休みなのか、寝ているのかもしれない。

「どうぞ」俺は靴を脱いで、川井を自分の部屋に案内した。

「お邪魔します」

 川井は俺のあとをついてきた。


 俺は部屋に入ると、学習机の横にバッグを置いて肩をほぐした。

「部屋、綺麗ね」部屋に入ってきた川井の第一声がそれだった。

「この前掃除したばっかりだからな。普段は汚いぜ」俺は膝でベッドに乗り、出窓に置いてあるコンポの再生ボタンを押してビートルズを流した。「川井のおかげでだいぶビートルズに詳しくなった」

「いいことじゃない」

「まあな。ジュース持ってくる。コーラでいいか?」

「うん」


 部屋の空気が冷たかった。俺は小型の電気ストーブをつけてから、台所へコーラを取りに部屋を出た。コップとコーラを持って部屋に戻ると、川井はタヌキの置物のように静かに座っていた。


 俺はテーブルにコップを置いてコーラを注いだ。テーブルの下に隠していたポテトチップスを開けて、川井に振る舞った。

「どうぞ」

「うん。ありがとう」

 ポテトチップスの砕ける綺麗な和音が部屋に響いた。

「美味しい」と川井は幸せそうな顔をした。

「それはよかった。たくさん食べてくれ。太っても責任はとれねえけど」

「わたし食べてもあんまり太らないのよね」

「いるよな。そういう嫌な奴」

「伊東くんも太ってないじゃない」

「俺はダイエットしてるんだ」

「それ嘘でしょ」

「バレたか」

 簡単に嘘がバレた俺は話題を変えた。

「俺さ、最近は四字熟語にハマッてんだ」

「好きな四字熟語でその人の性格が分かるのよ。1番好きなのは何?」

「気に入ってるのは危機一髪かな。ぎりぎりな感じがいい。どんな性格?」

「きっと伊東くんはスリリングな人生を求めていて、危険なことが大好きなのよ」

 俺は笑ってしまった。

「それ本当かよ。すげえいい加減じゃん」

「本当よ。わたしの四字熟語性格占いは当たるんだから」川井は真剣に言った。

「まあいいや。じゃあ、川井は何が好き?」

「わたしは一期一会かな」

 俺は食べていたポテトチップスを全部吹き出しそうになった。

「ちょっと待て、ずりいぞ。なんか自分ばっかりいい感じの四字熟語とりやがって」

「だって本当なんだもん」川井はポテトチップスを持ったまま笑った。

「それなら俺も一期一会がいい」

「伊東くんは性格と合わないからダメ」

「なんだよそれ」

 冷酷な川井は一期一会を俺にくれなかった。どう考えても川井の方が合ってねえ。


 ポテトチップスをパリパリと食べていると、台所の食器棚にバームクーヘンがあったことを思い出した。

「そういえばバームクーヘンもあるんだけど食うか?」

「うん。わたしバームクーヘン大好き」


 川井の言葉を聞いて、俺は再び台所に向かった。食器棚からバームクーヘンを取り出し、まな板に乗せ、包丁で厚切りにして皿に移した。


「お待たせしました。お嬢様」

 俺は執事のように部屋に戻り、テーブルにバームクーヘンを置いて、川井のご機嫌を覗った。

「美味しそう」川井のご機嫌は麗しかった。

「寒くねえか?」俺はさっきつけた電気ストーブがちゃんと働いているのか気になった。

「うん、大丈夫」川井は頷いた。


 俺はバームクーヘンを1回かじると、皿の上に戻した。バームクーヘンを食べる時、いつも思うことがある。

「バームクーヘンってなんか木の切り株に似てるよな」

「バームクーヘンはドイツ語で木のお菓子って意味なのよ」川井が親切に教えてくれた。

「へえ、だからか。しかもドイツ語か。英語だと思ってた」


 俺はアルファベットや横文字は基本的に英語だと思っている。ひとつの謎が解けてすっきりすると、また新しい謎がでてきた。

「木の年輪ができるきっかけってなんなんだ?」

「季節によって木の成長速度が違うんじゃなかったかしら。暖かい時はたくさん成長して、寒い時はそんなに成長しない……だったと思うけど」

「なるほどな。成長したりしなかったりを繰り返して、こんな模様になるのか」俺はバームクーヘンをじろじろと見つめ、口の中に入れた。何度も咀嚼して刺激をした俺の脳に新たな考えがピンッと閃いた。


「川井はドラクエって知ってるか?」

「うん。テレビゲームでしょ」

「きっと木もドラクエの主人公みたいにいろんな経験をして経験値を溜めてるんだよ。そして経験値が一杯になると、レベルアップして年輪ができる。年輪が10個ある木は10レベル、100個ある木は100レベルみたいな感じで」

「でも熱帯地方とかには年輪がない木もあるみたいよ」

「それを早く言えよ」俺は赤っ恥をかいた。


 川井との会話は本当に飽きない。いつまでも話していられる。

 この会話のあと、俺と川井は未来について話をした。




 俺はよく物をなくす。シャープペンや消しゴムをなくすのは日常茶飯事で、CDや漫画といった、わりと大きめな物までなくす。元あった場所に直さないであっちこっちに放り投げて、自分でも知らない内にゴミと一緒に捨ててしまっているのかもしれない。それが自分の物だけならまだましだが、今回なくしたのは俺の物じゃなかった。冬休み前に川井から借りた小説をなくしてしまった。幸いにも小説のタイトルは覚えているので、俺は新しいのを買って川井に返すことにした。


 街に向かって自転車を漕いだ。街中の公園で自転車を停めて、そこから本屋まで歩いた。

 お目当ての小説がすぐに見つかると、俺はそれを買って本屋を出た。簡単に用事が終わり、特にすることもなく街をぶらぶらしていたら、「祐太!」と帽子を深く被った身長180センチぐらいの男に声をかけられた。


 近づいて人物の確認をすると、トラブルメイカー宏明だった。

「なんだ宏明か」

「何してんだよ」

「本屋で買い物」

「エロ本か?」

「ちげえよ」こいつに構っている時間ほど、もったいないものはない。軽く会話をして帰ろうとすると、

「今からの用事は?」と宏明が聞いてきた。

「特にねえけど」俺は正直に答えた。

「俺に付き合えよ」

「何すんだ?」なんか怪しい。

「買い物だよ」

「なんの?」ますます怪しい。俺の疑いの目が鋭さを増した。

「来ればわかる」

「別にいいぜ」俺は心の中に燻ったわだかまりを晴らすために承諾した。


 なすがままに宏明のあとをついて行く。

「ここで待っててくれよ」

 宏明は少し外れた裏道にある、全体的に黒っぽい店へと入って行った。すげえ怪しかった。俺はそっと近づいて、どういった店なのかを確認した。


 女性用の際どい下着をつけたマネキンが飾り窓に並んでいる。俺は静かに店のドアを開けた。大人のおもちゃが店の中を埋め尽くしていた。水泳大会の時に見た藤田くんの下半身が、商品棚にいくつも並べられていた。俺はまた静かにドアを閉め、店から離れた場所で宏明が出てくるのを待った。


 あいつすげえなと思った。2月になればすぐに私立の入試が始まるのに、大人のおもちゃを買う余裕のある宏明はすげえなと思った。しかし、あれを買ってどうするんだ。宏明はたしかに彼女がいる。5組の白石純子と付き合っていた。まさか白石を相手にして使うのだろうか。想像すると気持ちが悶々としてきた。

 宏明は20分待っても出てこなかったので、俺は黙って先に帰った。



 3学期になっても俺の成績は絶好調だった。5教科の総合点も400点に迫り、俺の意気も上昇していた。試験日が近づいていても俺に緊張感はなかったが、1月の空気は去年より重く感じた。教室内の雰囲気を俺が過剰に捉えているのかもしれない。


 教室の窓はすきま風が入ってこないように閉めきられていた。クラスのみんながいなければ教室の温度はもっと下がっている。休み時間になると、窓際にいる佐伯が窓を開けて空気を入れ換えた。新鮮な冷たい風が教室に流れ込んでくる。


 室温の下がった教室で俺は川井に借りていた本を返した。

「これ、ありがとな」

 なくして新しく買った本だが、川井は全然気がついてなかった。俺はそれを見て後ろめたい気持ちになった。だからと言って、今さら正直に言う気もなかった。多少の罪悪感を残したまま、俺は社会の教科書を机の上に置いた。


 川井はいつものように小説を読んでいた。

 俺は左の頬を机に添えて、川井が小説を読む姿を見ていた。冬服の黒いセーラー服を着た川井が隣にいる。小説を読む川井の姿を見ていると、自分が温かい気持ちになれることに気づく。こんな理不尽な受験戦争の中でも、自分を見失わずにいれる。川井がいなかったら、俺の中学3年の1年間はきっと違うものになっていた。それはもしかしたら今よりも気楽で面白い時間だったかもしれない。でも俺は、今がいい方であったと信じている。


 川井との出会いで俺自身が大きく変わったわけではないが、俺の環境や生活は間違いなく変わった。俺はいろんなことを簡単に諦める方なので、川井がいてくれなかったら勉強もここまで続いていなかった。


 川井は行儀よく小説を読んでいて俺の視線の平行な位置に川井の手首が見える。川井がいなくなることをとても恐く思えた。


 川井は本当に存在しているんだろうか? 

 もしかしたら最新の技術を駆使した立体映像かもしれねえ。俺は川井の手首を目指して手を伸ばした。川井の手首に到達してギュッと手のひらを閉じると、別に川井の手首を素通りすることもなく普通に掴めた。


「びっくりするじゃない。何?」突然手首を掴まれた川井は驚いていた。

「さすがにそこまで技術は発達してねえか」拍子抜けした俺は川井から手を離した。

「なんの話なの?」

「いなくなんなよ」俺は川井の質問を無視して言った。

「わたし?」川井は自分の鼻に人差し指を当てた。

「他に誰がいんだよ。川井は俺の師匠だから、俺の成長を最後まで見ていて欲しいんだよ」

「充分見てきたわよ。理科の成績とか、もうわたしと変わらないじゃない」

「テストの点数だけじゃねえって。俺が1人の人間として立派に成長していく姿を、川井に見てて欲しいんだよ」俺は力説した。

 俺がそう力説すると、川井は困惑した様子で、

「伊東くん、わたしたちもう少しで卒業なんだけど……」と言った。

「そいつは……困ったな」どうも俺は感情が先走る悪い癖がある。

 俺は上半身を起こした。

 授業開始のチャイムが校内に鳴り響くと、窓際の佐伯がまた教室の窓を閉めた。


 昼休みになると俺は職員室に行き、正月に残った餅をストーブの上で焼きながら国語の亜矢子先生と話をしていた。亜矢子先生は24歳の若い先生でしゃべり方も授業の進め方ものんびりとしていて親しみやすく、生徒からも人気がある。でも実は柔道2段の猛者で怒ったらかなり怖い。いつだったか、授業を抜け出そうとした圭吾を一本背負いで廊下に叩きつけたことがある。

 たちが悪いのは投げ飛ばしたあとに、突然我に変えることだ。

「ごめんね、大丈夫? 痛かったでしょ?」と心配を始める。謝るなら始めから投げなければいいのにな、とは思う。


 ストーブの上の餅がいい具合に焼けてきた。

「先生、小皿と醤油あります?」

「あそこの棚よ」亜矢子先生は見ていたプリント用紙から視線を外し、人差し指で場所を示した。

「先生も食べますか?」

「いただこうかしら」亜矢子先生は嬉しそうに言った。


 俺は書類棚から小皿を2枚と醤油さしを取り、ストーブの前に戻った。ストーブの上でほどよく膨らんだ餅を小皿に2個取って亜矢子先生に渡した。

「ありがとう」

 亜矢子先生はプリント用紙をデスクの上に置いて、餅を食べ始めた。俺もストーブの前にしゃがみ、熱々の餅に醤油をつけてかじった。


「伊東さん、最近成績いいわね」亜矢子先生は男女を問わず『さん』付けで生徒を呼ぶ。ただしそれは普段の時で、怒った時は当然呼び捨てになる。

 亜矢子先生に褒められた俺は餅を頬張りながら、「そうですね」と返した。

「努力すれば結果はでるでしょう?」

「ええ、まあ」と俺は曖昧に返事をして「でも本番で失敗するかもしれません」と弱気な発言をした。

「不合格でも、自分が納得できるまで頑張れたならいいのよ」

 意地でも合格しなさい、と言わないところが亜矢子先生らしかった。

「そうですね。それならもし俺が力尽きたら、せめて骨だけは拾ってください」俺は冗談で言った。

「任せときなさい」

 真面目な亜矢子先生に冗談は通じなかった。

 俺は映画の話に話題を変えた。 


 餅を食べながら亜矢子先生と映画の話で盛り上がっていると、真っ赤なジャージ姿のハンセンが職員室に乱入してきた。昼休みのハンセンは体育館や柔剣道場で生徒に柔道を教えていて、職員室には滅多に来ない。完全に油断した。ハンセンが空気を震わせながら俺に近づいてきた。

 俺は餅を食っていただけで殴られるのか……と思っていたら、

「行儀が悪いから、椅子に座って食べろ」注意だけで済んだ。


 俺は職員室の隅にあるパイプ椅子を持ってきて、ストーブの前に置いた。まさかハンセンが戻ってくるとは思っていなかった。人生は予定外のハプニングが多い。




 その週の日曜日に川井から電話があった。川井からの電話は珍しいから本当に驚いてしまう。

 俺は服を着替えて、待ち合わせをした神社に向かった。川井はもう先に来ていて、銘柄の分からないジュースの缶を持って境内の石段に座っていた。


 俺は川井に挨拶をしてから隣に座った。どうして呼ばれたのかは知らない。

「どうしたんだよ?」

 俺がそう言うと、川井はジュースの缶を石段に置いて、肩から提げているポーチをさぐり、そこから御守りを取り出した。

「これあげる」

 どうやら合格祈願の御守りらしい。

「いらねえ。俺はそんなのなくても合格する。それに人の心配してる場合じゃねえだろ」

 そんなことをしてもらって、もし俺だけ合格したらいたたまれない。俺は素直に受け取れなかった。

「もうあげない」

 不機嫌になった川井の意向により、合格祈願の御守りはポーチの中へと帰っていった。

 また川井を怒らせてしまった。俺はクッキーの時からまったく進歩してない。川井と会ってすぐに険悪な空気になった。


 川井との気まずい時間が神社の風景を際立たせていた。

 赤いマフラーを巻いた女性が境内の中を横切っていった。売り場の奥で巫女さんが何かの作業をしている。神社の前に黒い車が停まっているのが遠目に見えた。境内の隅に名前の知らない大きな木が佇んでいた。木洩れ日が冷たい風に揺れていた。


 冷たい風と険悪な空気が流れるそんな神社の中で俺は考えていた。

 俺は高校に合格したかったが、それはおまけみたいなもので川井のとは理由が違う。川井は夢を実現するために勉強をして、高校に合格しようとしている。でも俺は違う。俺はただ怖くて我慢できなかった。不安な毎日に怯えながら過ごすより、何も考えずに夢中で勉強をしている方が、俺にとっては楽だった。時間がいつの間にか俺の後ろに迫っていて、それがあまりに大きくて、俺はビビって訳の分からないまま全力で走って逃げた。それだけだった。努力なんてしていないし、親の財布のためでもない。

 根性のない俺がよくそれだけの理由で勉強を続けてこれたなと不思議に思う。


 どっちにしろ川井には迷惑をかけた。俺のくだらないわがままに川井をつき合わせてしまった。だからせめて川井だけでも合格してもらわないと困る。


 俺は重たい空気を破るように口を開いた。

「川井。俺は平気だからさ」

 まだ不機嫌そうな川井は、俺の言葉を確かめるように、

「何が平気なの?」と言った。

「俺はもともと高校に落ちて当たり前の奴だろ。全然勉強もしてこなかったし。落ちたとしてもそんなにショックじゃないと思うんだ。でも川井は違うからさ。今までずっと頑張ってきたんだから。だから川井は絶対に合格しろよ」

「何か変なものでも食べた?」川井は何度も瞬きをしながら、俺の顔を覗きこんできた。

「食べてねえよ。川井が高校に落ちたら、やっぱり俺が足手まといだったってことになるだろ」

「ならないわよ」

「なるんだよ」

「ならない。それに反対のことも言えるんじゃない? 伊東くんが落ちたらわたしのせいだって」

「なんでだよ。俺は川井の邪魔をしてただけなんだから」話が平行線になりそうで、俺はつい口調が荒くなってしまった。


 川井は正面を向いて、神社の境内に視線を戻した。俺がいつも学校で見る川井の横顔だった。遠くを見つめる川井の大きな目は瞬きさえしてないように見えた。川井の唇がゆっくりと動くと、川井の落ち着いた声が聞こえた。

「大丈夫よ。きっと2人とも合格する」

 川井の視線が変わることはなかった。遠くにある大切なものを見守るように、じっと境内を見つめていた。


 川井のその言葉は自分自身に言い聞かせているようだった。それでも俺は川井がそう言ってくれて嬉しかった。川井はきっと結果を出すだろうから、俺も自分ができることをするしかない。


 長い沈黙のあと、川井は「帰るね」と石段に置いたジュースの缶を取って立ち上がり、俺の方を見た。

「ああ、また明日な」俺は石段に座ったまま川井を見上げた。

「うん。またね」川井は手を振り、神社から去っていった。


 川井がいなくなってから、もっと空気が冷たくなった。そのせいか急にトイレに行きたくなり、神社のトイレを借りて用を済ませた。




 街中を走るバスに揺られながら、車内をどこともなく見ていた。遅れて乗ったせいか、他の受験生はあまり乗っていなかった。試験も無事に終わり、バスの中は緊張感のない時間が流れていた。


 うどん屋の前でバスを降り、街の中をぶらついた。別に何かを見るわけでも、買うわけでもなかった。ただ歩きたかった。いろんな人たちとすれ違い、本屋や雑貨屋などを見て回った。それに飽きると街から大通りに出て、家までの道のりを歩いた。

 

 商業ビルを縫って歩いた。車の群れが交差点を走り抜けていく。陸橋の後ろに警察署が見えた。その警察署に向かって歩く。歩けば歩くほど警察署が大きくなり、そしていろいろなものが目に入ってきた。


 カーショップに並べられた車、マンホールを塞ぐ鉄製の丸い蓋、バス停で雑談をしている女子高校生、不動産の物件の貼り紙、ビルの屋上広告、空に直線を描く飛行機雲、澄んだ空、自転車で俺の横を通り過ぎていく男。


 何度か通ったことのある道だが、不思議と新鮮な感じがした。俺の気持ちが今までと違うからだろう。

 そして高校の通学で俺がこの道を通ることはないだろうな、と思った。いくら俺が馬鹿でも試験ができたかどうかぐらいは分かる。

 どうやら俺は高校に落ちたらしい。




 卒業式が3日後に迫っていた。その前に部屋を綺麗にしようと掃除をしていたら、川井から借りてなくしたはずの小説が、学習机の引き出しの奥から出てきた。どうしてこんなところにあるのか自分でも分からないが、小説はもう新しいのを買って川井に返したので、今さら見つかっても反対に困ってしまう。ただこっちが本当の川井の小説だから、川井に正直に話して交換した方がいいのかもしれない。


 俺は急に出てきた気まぐれな小説と睨み合いながら、しばらく考えた。川井に謝ってこっちの小説を返す方が筋は通っている。だが俺は、この小説を返さずに貰っておくことにした。今さら返すのが面倒くさくなった。


 俺は勉強机の上に小説を置いて掃除を続けた。

 学校で使った教科書やノート、たくさんのテスト用紙や連絡事項の書かれたプリント用紙、クラスの男子から貰った体育祭や文化祭の写真などをアクリルケースに入れていった。


 制服や鞄などはまだ使うし、一度に全部済ませる必要もなかったので、掃除は2時間ほどで止めた。あとは卒業式が終わってからでもいい。それより窓を開けながら片付けをしていたせいで、体がだいぶ冷えていた。


 俺はついでに風呂の掃除をして、浴槽にお湯を注いだ。いい具合にお湯が溜まると、風呂に入った。湯船に体を沈めながら天井を見つめる。風呂場に立ち込める水蒸気が天井で結露していた。


 俺はもう不合格なのは分かっているから、これからのことを考えた。諦めたとか弱気になった訳じゃなく、それは必ず訪れる現実だから真剣に考える必要があった。


『未来なんてないのと同じなんだから』


 結露した天井の下で将来のことを真剣に考えていると、川井が俺の部屋へ来た時のことを思い出した。

 そういえば川井はそんなことを言っていた。

 俺と川井の間には、コーラとバームクーヘンと残り少ないポテトチップスがあって、俺は必ず高校に合格すると豪語していた。


「最近の俺の成績上昇は半端じゃねえ。絶対合格するな俺」

「そんなこと言って油断してると落ちるわよ。それに英語と数学をもっと勉強しないと。伊東くんは教科毎の差があり過ぎるから」

「分かってるけど、英語と数学ってなんか面白くねえんだよな。いまいちやる気が起きねえし」

「ダメよ、今はバランスのいい勉強が大事なんだから」

 俺は敬礼をして、

「分かりました、頑張ります」と川井のアドバイスを素直に受け入れた。


 高校にしろ大学にしろ、受験は人生の分岐点になる。進む道によって環境も変わるし、出会う人も違ってくる。それによっては、今後の人生も大きく変わってくる。


 俺は川井と一緒にいたから、川井と俺の差はよく分かっていた。でも広く見れば川井よりも上の奴だってたくさんいる。川井がどう思っているのかが気になった。

「あのさ、もし高校に落ちたらどうなるんだろうな?」

「それだけよ。高校に落ちるだけ」川井はあっけらかんと言った。

「そっから先のことだよ。高校に落ちたらもう負けみたいなもんだろ」

「何に対しての負けなの?」

「他の受験生とか人生とかだよ」

 川井は右手にコーラを持ったまま笑った。

「来週またこうして会える保証もないのに? 未来なんてないのと同じなんだから」

 俺は川井に笑われてムッとした。

「じゃあ、なんで川井はそんな未来のために頑張ってるんだよ」

「寂しいじゃない」川井はなんのためらいもなくそう言った。

 まったく予想していなかった川井の答えに俺の方が戸惑ってしまい、俺は慌ててしまった。

「どういうことだよ?」

 川井は持っていたコーラをテーブルに置いて答えた。

「未来がないからって、何もかも投げ出すのは寂しいじゃない」

「それならもし川井の未来が決まっていたらどうすんだ。すげー不幸な未来だったら?」川井に納得させられそうになった俺はとにかくなんでもいいから反論した。簡単に納得したくなかった。

「そうだとしても一緒よ。未来がなくても、決まっていても、それで全部放り投げるのは寂しいってこと」

 俺は返す言葉をなくしてしまった。

「それもそうだな」たいした信念のない俺は簡単に納得した。




 練習の成果がでたのか、卒業式は順調に進行していった。強いて順調じゃないと言えば、俺の親が来てないことぐらいか。


 卒業式も無事に終わり、一旦教室に戻ると、今度は体育館の前に集合させられた。体育館の前でクラスの友達と喋っていたら、恭介が話しかけてきた。

「祐太。お前の親は?」

 俺は首を振った。

「来てねえ。いつものことだよ。そっちは?」

「来てない。このあと保護者同伴で在校生に見送られるらしい。体育館から校門まで」

「親が来てない俺たちはどうなるんだ?」

「1人で見送られるんだろ」

「最悪だな、それ」

「もう卒業式は終わったから抜け出そうぜ」

 恭介がいいアイデアを提案した。

「だな」

 ということで俺と恭介は後輩に見送られることもなく、3年間を過ごした中学校を卒業した。あとで聞いた話だが、バスケ部の後輩たちが花束を持って校門で待っていてくれたらしい。悪いことをした。


 家に帰ると親父がネクタイを締めたまま、ソファーで寝ていた。それを見た俺は怒る気力さえなくしてしまい、無言で部屋に戻り、もう使うことのない制服を脱いだ。


 卒業式の翌日に担任の先生から電話がかかってきた。電話に出た親父の対応で自分が不合格だと分かると、俺は部屋に戻り音楽をかけてベッドに寝転んだ。予想していた通りそんなにショックじゃなかった。決めるところで決められない自分の情けなさは変わらずに残っていたが、もう結果がでた以上、自分を責めてもしょうがない。俺は開き直って気持ちを切り替え、ぼけっと部屋の天井を見ていた。


 川井はどうだったんだろう。


 天井を見ながら脳を休めていると、その休憩を邪魔するように川井のことが頭に浮かんできた。


 川井を信じているとはいえ、やっぱり心配だった。これで川井まで高校に落ちていたら、俺の面目が立たない。

 そんな余計な心配をしていると、俺は居ても立ってもいられなくなり、とても休める状況じゃなくなった。恭介なら何か知っているかもしれない、と思い電話をかけたが、恭介も川井の結果は知らなかった。川井に聞くのが一番手っ取り早いのだが、不合格だった俺は川井に電話をかけづらかった。


 川井に電話しようかうろうろとリビングをさ迷っていたら、いつの間にか午後の3時を過ぎていた。どっちにしろこのままでは埒が明かない。

 俺は意を決して受話器を取った。プッシュホンを押そうとした指が震えていた。人の家に電話をかけるのにここまで緊張したのは初めてだった。別に川井に告白をするわけでもないのに。


 俺は手首を何度も振って緊張をとり、川井の家の番号を押した。数回目のコールで、川井の丁寧な声が受話器から聞こえた。俺も丁寧に自分の名前を言った。

「伊東くん? うん、わたしも電話しようと思ってた」

 合格したかどうかを聞くだけだから電話で済ませることもできたが、川井と会って話がしたかった。

「あのさ、今から出てこれねえか?」

 30分後に川井と公園で会う約束をして、俺は電話を切った。


 公園には俺の方が早く着いた。この公園は俺や川井の卒業した小学校のそばにある。俺は公園のベンチに座って川井を待つことにした。どうやら雨が降っていたらしく、ベンチや地面が少し濡れていた。ベンチにしつこく残っている水滴を手で払い、そこへ腰を下ろした。


 5分ほど待っていたら、自転車に乗った川井が遠目に見えた。川井は公園の前で自転車を降り、自転車を押しながら公園内に入ってきた。川井の自転車のハンドルには傘がかけてあった。


「雨降ってたんだな」近づいてきた川井に俺は声をかけた。

「うん。でももう晴れるみたい」川井はベンチの前に自転車を停めた。

「なんで傘持ってきたんだ?」

「念のため」川井の得意気な顔が子供っぽくて憎めなかった。

「雨が降ったら俺も入れてくれ」俺は雨が降った時の保険をかけた。

「嫌です」

 どうやら俺には資格がないらしく、川井の傘保険には加入させてもらえなかった。


 川井はまだ水滴の残っているベンチに座ろうとした。

「待てよ。まだ濡れてるぜ」

 ハンカチを持っていない俺はダウンジャケットの袖を捲り、着ていたトレーナーの腕の部分でベンチを拭いた。

「わたしハンカチ持ってる」

「早く言えよ」もう遅かった。俺のトレーナーが無駄に汚れた。

「言う前に拭くんだもん」

「洗濯するの俺なんだぜ」

「わたしが洗ってあげようか?」川井は綺麗になったベンチに悠々と座り、俺を見た。

「いやいい。トレーナー脱いだら寒いし」

 俺がそう言うと、川井は目をキュッと細めて笑い、「ありがとう」と言った。それを見た俺は自然と溜め息がでた。

「川井の笑顔はずりいんだよな」そして言う必要のないことを言ってしまった。

「笑顔がずるいって最悪じゃない」川井はふてくされた。

 俺はいい意味で、褒め言葉として言ったつもりだったが、どうやら悪い方に誤解されたらしい。ただ言葉の真意を突かれると俺の立場が辛くなるので、俺としては誤解していてもらった方が助かる。


 俺は川井を呼び出した本来の目的である受験の結果を聞いた。

「そういえば高校どうだった? 落ちたか?」冷静を装いながら簡単に言ったが、結構勇気のいる言葉だった。

「合格したわよ」川井のツンとした答えが返ってきた。

「そうか。まあ、川井なら当たり前だよな」


 俺は一安心して胸を撫で下ろした。よかった、本当に。これで川井まで落ちていたら、俺の心はバラバラになって収拾がつかなくなりそうだった。


「あっ、そうだ川井。俺ダメだったんだ。わりい」川井の合格を聞いて安心した俺は自分のことを思い出し、川井に頭を下げた。

「どうして謝るの?」

「せっかく勉強教えてもらったのに合格できなかったからさ」

 川井は何か考えている様子で、

「宿題の量が足りなかったのかな」と言った。

「あれ以上出てたら、俺は出家してる」夏休みの宿題を思い出して、俺は身震いしそうになった。

「きっとわたしの御守りを受け取らなかったからよ」

「ああ、そうだ。たぶんそれだな」俺は笑いながら納得した。川井の神通力を侮っていた。


 雨上がりの公園には俺と川井しかいなかった。人影のない公園で、俺は自分が高校に落ちたことを忘れるほど夢中になって、川井と話をしていた。試験のことや高校のこと、この1年間のこと。時間が過ぎるのが早かった。川井と過ごした時間は本当に早かった。


 太陽がいつの間にか沈もうとしていた。

 川井と話をしていると、俺はふっと川井の家族のことが頭に浮かんだ。よく喋るお母さんや、強面の親父さん、落ち着いた雰囲気のお姉さん。川井は高校に合格したから、このあと家族と合格祝いでもするんじゃないだろうか。


「時間、大丈夫か?」川井に時間をとらせた俺は心配になった。

 川井は左手につけた白い腕時計を見て、

「ごめん。もうそろそろ帰らないと」と言った。

「悪かったな、急に呼び出して」

「ううん、大丈夫」川井は首を振った。

「気をつけてな」

「うん」川井は頷いてベンチから立ち上がると、「握手」と右手を出してきた。

 俺はジーンズで右手を拭いて、川井の手を握った。川井の手は柔らかくて、温かかった。

「なんか照れるな」俺は照れた。

「気にしすぎ」川井は笑った。


 川井の手を離そうとすると俺の右手に原因不明の異変が起こった。離せなかった。川井の手をどうしても離せなかった。理科で習った電気磁石のように俺の手が川井の手にくっついていた。


 このまま川井に触れていたい。

 そう思ってしまい、どうしても川井の手を離せなかった。

「やべえ、俺の手が離れねえ。川井から離してくれ」

 川井がそっと手をほどくと、俺は何もない右手を握りしめ、川井に礼を言った。

「いろいろありがとな」

「うん。高校に行っても元気でね」

「おう。川井も」

 川井と過ごした時間はたったの1年しかない。記憶力のない俺はいつか川井のことさえ忘れてしまう。それでいいんだろうか。時間に任せて、何もせずに、川井が俺の記憶から消えるのを待つ。

 自転車を押す川井の後ろ姿が目に映った。

 もうこのまま川井と会えない可能性だってある。

 これでいいはずがない。


「川井!」我慢できなくなった俺はベンチから立ち上がり、自転車を押している川井を勢いで呼び止めた。しかしただの勢いだけで、そのあとに続ける言葉を全然考えていなかった。この土壇場でなんの言葉も出てこない。もっと国語の勉強をしておくべきだった。川井は立ち止まってこっちを見ている。黙ったまま俺を見て、俺の言葉を待っていた。


 俺は何か大切なことを言い忘れている。

 川井の作ったクッキーは本当に美味しかった。実は川井から借りた小説をなくした。夏の給食時間、川井の胸ばかり見ていた。川井の教え方はすげえ分かりやすかった。川井のそばかす意外と好きだ。バニラアイスにお茶をかけるのやめた方がいい。2回目の告白は本気だった。隣の席にいつも川井がいてくれた。


 残念なことにどれも俺の気持ちに当てはまらなかった。俺は感情を抑えた。俺が本当に言いたいことはそんなのじゃねえ。根性のない俺が今まで勉強を続けてこれた1番の理由。俺が川井のことを忘れる前に言っておきたい。

 川井と2人っきりの公園で俺は声を張り上げた。

「俺、川井と一緒に勉強してて、すげえ楽しかった!」

 凄く大切なことを、あっさりとまとめてしまった。でもその言葉しか出てこなかった。川井と過ごした時間がとにかく楽しかった。それだけは川井に知っていてもらいたかった。


 川井は何も言わずに優しく微笑むと、小さく手を振ってまた自転車を押していった。川井の後ろ姿が遠く離れていく。それを見た俺は体の力が抜け、倒れるようにベンチに座った。見上げた空はまだ灰色に曇っていた。


「さて。俺は1人で不合格祝いでもするか」

 短い休憩のあと、雨が降らないように祈りながら俺も家路についた。




 それから川井とは1度だけ会った。

 21歳の同窓会の時で、俺は地元の大学へ、川井は東京の大学へ進学していた。俺は相変わらず夢もなくだらだらとしていて、川井は相変わらず銀行員という夢に向かって進んでいた。


 川井は居酒屋の隅っこでビールを飲みながら本田と話をしていた。俺は川井の正面に陣取り、2人の会話の邪魔をした。


 本田は中学生の時とは別人でアイドルのように可愛くなっていた。俺は芸能記者並みに本田の整形疑惑を問い詰めたが、本田は怒って否定するばかりでなかなか白状しなかった。川井が中学生の時に言っていたことを俺は初めて理解した。


 大人になった川井も俺の想像以上に素敵で、本当に綺麗になっていた。前髪も整列していなかったし、そばかすも目立たなくなっていた。川井はきっと化粧がうまいんだろう。


 小さなハートのイヤリングが川井の耳の下で揺れていた。

 川井が頷いたり、笑ったりする度にそのイヤリングが揺れて、居酒屋の照明を何度も反射していた。俺がそれを褒めると川井はイヤリングを触り、照れたように笑った。川井のずるい笑顔は昔のままで、俺は懐かしい気持ちになり、少し安心した。


 川井たちと話を済ませると、俺はビールジョッキを片手に恭介や他の男子の席に行って会話に加わった。恭介は中学校を卒業してからも何度か会っているが1年に2、3回会うぐらいのペースだったので、やっぱり懐かしかった。


 川井、恭介、クラスのみんな、おまけに本田。こうしてみんなに久しぶりに会うと、それぞれに別の時間が流れていたことが分かる。みんながこの数年間で何を見てきたのか俺には分からないし、どんな経験をしてきたのかも知らない。これからもきっとそうだろう。


 でもそれは俺にも言える。何年もの時間を過ごして、俺もここにいる。俺がこれから何を見ていくのかは俺だけにしか分からない。それでいいと思う。交わることのない視線だからこそ、未来のない今がある。感謝してる。




 俺は高校の入学式を知らない。目を覚ました時には入学式の始まる時間がとっくに過ぎていたからだ。


 もう遅刻は決定しているので、俺は焦ることなくベッドから体を起こした。洗面所でうがいをして、眠気覚ましの洗顔を済ませると、台所で朝食の準備を始めた。食パンをオーブンで焼いている間にフライパンで手早く目玉焼きを作り、塩胡椒を軽く振って皿に移した。こんがり焼けた食パンをオーブンから取り出し、バターを適当に塗って目玉焼きと同じ皿に置いた。リンゴジュースとできたての朝食を持ってリビングに向かう。

 カーテンは開かれていて太陽の光がリビング一面に広がっていた。


 俺はガラステーブルに朝食とリンゴジュースを置いてソファーに座り、リモコンでテレビをつけた。いざ食べようかと思ったら、目玉焼きを食べるための箸を忘れてしまった。

 

 もう立ち上がるのが面倒くさかった俺は、目玉焼きを手で掴んで食パンの上に乗せ、食パンと目玉焼きを同時にかじった。咀嚼するほどパンや卵の味が口の中に広がった。リンゴジュースを口に含む。今度は甘酸っぱい酸味が口の中に広がった。


 つけたテレビは午前中からテンションが高かった。リポーターが芸能人のスキャンダルを饒舌に語っている。


 俺は最後のひときれの食パンを口に入れて、テレビを消した。ガラステーブルの上を片付け、流しで手を洗い、着替えの準備をしてシャワーを浴びた。シャワーを済ませると洗面所でTシャツとトランクスを着て、鏡の前で歯を磨いた。


 心も体もさっぱりした俺は部屋に戻り、高校に行く準備を始めた。筆記用具とノートを鞄に入れる。ズボンと靴下を履き、制服のワイシャツを着て、覚えたばかりのネクタイを締めた。


 部屋の壁には昨日下ろしたブレザーの制服が待ち構えていた。俺はそれを見て、新しい生活の始まりを感じた。学習机の方を振り向く。机の上でデジタル時計が時間を示している。もう10時を過ぎていた。このままだと遅刻どころかただのサボりになってしまう。

 俺は真新しい制服に袖を通した。




『見つめる先には』 おしまい

 随分時間がかかってしまいました。理由は簡単です。遊びすぎた……。怠け者なもので。

 昔、映画『CUBE』の影響を受けて『ジーニアス~階段編~』という作品を書いたんですが、それを基にして仕上げてみました。山も谷もないから簡単に書けるだろうと高をくくっていたらこの有様です。修行不足でした。

 寒い日が続きます。

 読者の皆様の見つめる先には、きっと幸せで楽しい未来が待っていると思い、またそう願っています。

 2009年11月 英星

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