前編
新学期そうそうのテストで俺は94点をとった。
もちろん1教科ではなく、国語、社会、理科、数学、英語の5教科を合わせて。ついに100点をきった。最悪としかいいようがない。数学にいたっては、たったの2点。0点だけはなんとか回避する根性の悪さは俺らしいといえば俺らしい。
しかしこれからどうしたものか。このままじゃ俺は間違いなく高校に落ちる。総合点が100点もいかない中学生を拾ってくれる公立の高校なんてこの世に存在する訳がない。まいった。俺の未来は絶望的だ。
俺は学習机の上に5枚の答案用紙を置いて、深い溜め息を吐いた。現状を乗り切るこれといったいい打開策が思い浮かばずに溜め息ばかりが出る。
今まで勉強をしてこなかった自分が悪いことはよく分かっているが、だからといっていろんな欲を捨てて人生を生きるほど俺はできた人間じゃない。俺は楽してこの人生を生きていきたい。とはいえ、そうも言ってられない差し迫った厳しいこの現実。なんて可哀想な俺。一体、どうしたらいいものか。
もしかしたら点数が変わるんじゃないかと思い、期待を込めて答案用紙を薄目で見てみたが、何度やっても点数は変わらなかった。俺はまた深い溜め息をつくと、学習机に頬杖をついた。手のひらに顎を乗せながら打開策を考えていると、貰ったばかりの連絡網の紙が学習机の左隅に見えた。
俺の動きがビデオの一時停止のように止まった。
その連絡網の紙は不思議な魔力を持っていた。なぜか気になった。何かの魔法にかかったかのように俺は連絡網の紙を手にした。
これからの1年間、卒業までの時間を共に過ごす3年4組のクラスメイトの名前と電話番号が載っている。左上から順番に見ていった。丁寧に見ていった。そして、ある女子生徒の名前のところで俺の視線が止まった。
『川井理花』
知っている。とはいっても小学校が一緒だったというだけで、俺が持っている情報はわずかしかない。陸上部で頭がいいということぐらいだ。顔もあまり思い出せない。
そのまま川井の名前をぼおっと見ていると、俺のお腹がぐうと鳴った。テストの点数が悪すぎたショックから、晩御飯を食べるのを忘れていた。
ひとまず俺は連絡網の紙を学習机に置いて、リビングへと向かった。ガラステーブルの上に晩御飯を買うお金が置いてある。親父は仕事へ行く前に、毎日このガラステーブルにお金を置いていく。2年前に兄貴が大学の寮に入ってから1人で晩御飯を食べるのが俺の日課になっていた。
俺はそのお金を握りしめ、いつもの弁当屋で唐揚げ弁当とポカリスエットを買った。リビングに戻ると、手に提げていた弁当をガラステーブルに置いてテレビをつけた。できたての唐揚げ弁当を食いながら気まぐれにチャンネルを切替え、最終的にバラエティ番組にチャンネルを合わせた。
考え事をしているせいかテレビの内容が頭に入って来なかった。心が浮わついた状態でテレビを観ていた。
バラエティ番組が終わると今度はニュース番組が始まった。俺は唐揚げ弁当のサラダだけを残し、テレビをつけたままベランダへと出た。
見慣れているとはいえ、マンションの5階から見渡す夜景はそれなりに綺麗だった。明かりのついた窓が夜の闇にいくつも浮かんでいた。リビングからテレビの音が遠く聞こえる。
肌寒い夜の風に当たりながら、俺はまだ考えていた。このままだと俺が高校に合格する確率は限りなく低い。というか0だろう。
「頼んでみるか」
俺が高校に合格するにはもうこの方法しかない。
とりあえず今日のところはテレビゲームをして遊ぶことにした。
翌日。俺はテレビゲームのやりすぎで寝不足のまま学校へ登校した。
1時間目が終わると俺はさっそく川井の席へと向かった。川井は同じ陸上部の本田亜沙美と楽しそうに話をしていた。俺はそんなことなど一切気にせず、2人の会話に割り込んでいった。
「川井。俺に勉強を教えてくれよ」
前髪を綺麗に揃え、長い後ろ髪をひとつに束ねている川井は、俺の唐突な申し出に鳩が豆鉄砲を数発食ったような顔をしていた。
「何、突然?」そばかすの上にある川井の大きな目が驚きでより大きく開いていた。
「だから、俺に勉強を教えてくれよ」俺はもう1度言った。
「ちょっと祐太。あたしたちの話の邪魔をしないでよ」
背の低い、下手すれば小学生にも見えそうな本田が口を挟んできた。
本田とは去年も同じクラスだったのでよく知っている。去年の2学期、本田が席へつこうとした瞬間に手際よく椅子を後ろに引いたら、本田はバナナの皮を踏んだかのようにひっくり返った。
その事件以降、俺と本田の抗争が絶えることはなかった。
「すぐ終わるから少し待っとけよ」俺はうるさい本田を黙らせてから、また川井にお願いした。「川井、頼む。俺に勉強を教えてくれ。俺は高校に合格したいんだ」
「どうしてわたしなの?」川井はまだ状況を把握できておらず、そして明らかに困っていた。このままでは断られそうだった。これはまずい。
川井を納得させる、きちんとした理由を言う必要があった。
「川井が頭いいからに決まってるだろ」俺はきちんとした理由を言った。
「わたしの他にも頭のいい人はいるじゃない」
「少なくとも俺の友達に川井より頭のいい奴はいねえ」俺は自慢気に言った。
「あんたそれ自慢にならないから」小学生本田がまた会話の邪魔をしに入ってきた。
「いいからお前は喋るな」俺は本田に釘をさし、話を続けた。「川井、俺はどうしても高校に合格したいんだ」
「それなら普段からちゃんと勉強しておけばいいのに。3年生になって慌てて勉強する方がおかしいわよ」川井が反論の余地のない正論を言った。
「その通り。そこをなんとかお願いします」
「やめといた方がいいって。祐太に構ってたら理花まで落ちちゃうよ」
何度も口を挟んでくる本田に俺は本気でイラついた。
「うるせえな。お前には頼んでねえだろ」
「うるさいのはあんたよ、急に出てきて。それにあたしは理花にアドバイスをしてるだけ」
俺と本田がしばらく言い争っていると、そんな醜い争いを止めるように川井が俺に質問をしてきた。
「この前のテストは何点だったの?」
俺は川井の方を向き、自信を持って正直に答えた。
「5教科で94点!」
川井と本田の動きがシンクロナイズスイミングをしているように綺麗に止まった。というより、競技中にプールが突然凍った感じだった。
「理花、絶対やめといた方がいいって」
本田が川井を逆に説得し始めた。このちびっ子本田は本当に頭にくる。
「だから、お前には頼んでねえ。俺は川井にお願いしてるんだ」
「やる気があるなら自分でもできるでしょう?」
「理花の言う通り」本田が頷きながら言った。
イエスウーマン本田を無視して俺は言った。
「もちろん自分でもするよ。川井は分からないところを教えてくれるだけでいいんだ」
俺がそう言うと、川井はしばらく黙って考えていた。俺は餌を待つ犬のように川井の返事に期待した。そして長い沈黙のあと、川井の口が動いた。
「それぐらいなら別にいいけど。でも、高校に落ちてもわたしのせいにしないでね」
川井の素敵な返事を聞いた俺は、嬉しさのあまりその場で飛び上がりそうになった。
「マジで助かる!」
川井の背後から燦々と光が射した。
「あたしは理花の方が心配だよ。祐太の場合は今まで遊んでて自業自得なんだから」
本田は不安と不満が入り交じったなんとも言えない複雑な表情をしていた。
「わたしは大丈夫だから」川井は本田の手に触れ、笑ってそう言った。
「理花が高校に落ちたら、あんたのせいだからね」本田が厳しい口調で俺に言ってきた。
その場は一応、
「もちろんだ。川井が落ちたら俺に責任がある」と言ったが……そんなの知ったことじゃねえ。俺は自分さえ高校に受かれば、あとは川井が落ちようが本田が落ちようがどうでもいい。
まあいろいろと手間取ったが、とにかく交渉が成立してよかった。俺は必ず高校に合格してみせる。
川井理花。陸上部在住の中学3年生。身長は170cmの俺より少し低い。学年で常に5位以内に入る学力の持ち主。俺はほとんど話したことのないこの女子に自分の未来を託した。
休み時間の終了を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。
「チャイム鳴ったわよ」川井の声に押されるように、俺と本田は席についた。
俺は万年1回戦負けの弱小バスケ部に所属している。3年の男子部員の中では俺が1番身長が低かった。なんでこんな背が高いもん勝ちのスポーツをやっているんだろうと思う。いや、そもそも怠け者の俺とスポーツという組み合わせ自体に無理がある。
「部活行こうぜ」
放課後、同じバスケ部の松木恭介が地味に話しかけてきた。バスケ部でクラスメイトは恭介だけだった。俺とは反対に恭介はバスケ部で1番身長が高く、184cmある。眉毛が水平で、鼻が高く、そして坊主頭。とはいっても、学校の規則で男子生徒はみんな坊主にすることが決まっている。
俺は学生鞄と学校指定のショルダーバッグを肩にかけ、恭介と体育館にある部室へ向かった。部室とは名ばかりの体育倉庫みたいな部屋で、しかもバレー部との共同部室だ。
体育館の玄関に繋がっているドアと、校門側の窓、それに部室と体育館のフロアを仕切っている引き戸。それらが全部閉まっている時は女子が着替えていて男子は中に入れない。
今日はドアが開いていたので、なんの心配もなく部室へ入った。
部室内の風景はいつもと変わらない。部屋の中央に長テーブルがあり、それにあわせてパイプ椅子が並んでいる。部屋の隅にはバレーボールやバスケットボールを収納する円筒状のボール入れ、スコアボードやモップ、持ち運びできる小黒板などが無造作に寄せてある。
俺と恭介は長テーブルに鞄とバッグを置き、ジャージに着替え始めた。
3年の男子バスケ部員は7人いて、その内2人はもうすでに来ていた。何人かのバレー部員や後輩たちを交え、少年ジャンプの話やとんねるずの話をして盛り上がった。
ジャージに着替え終わると、俺たちはボロボロのバスケットボールを持って校庭に出た。体育館はバスケ部とバレー部が日替わりで使う決まりになっている。今日はバスケ部が屋外練習の日だ。屋外練習はボールをあまり使わずにランニングや腕立て伏せなど、体力や筋力作りを中心に行う。
しかし、少し不公平な気がする。屋外練習というのはサッカー部や野球部の邪魔にならないような場所で、平たく言うと校庭の隅っこで練習をするのだが、バスケットを校庭でするのには多少無理がある。ドリブルは安定しないし、ストリートバスケと違い、ボールに校庭の砂がついてパスやシュートが滑りやすくなる。リバウンドしようとしてゴール下に入ったら、砂のついたボールがバスケットボードに当たって、ボールよりも先に無数の砂が隕石のように降り注いでくる。目や口に砂が入ってリバウンドどころの騒ぎじゃない。ビーチバレーやビーチサッカーは聞いたことあるが、ビーチバスケットボールなんて聞いたこともない。いくら万年1回戦負けとはいえ、この待遇はひどい。
練習前の柔軟体操をしている時に、男子バスケ部の主将でもある6人目の3年生が来た。これであと1人で3年生は全員揃うのだが、そいつがまた問題児だった。恐らく今日はもう来ないだろう。
練習が一通り終わると体育館前の階段に座り、乾いた雑巾でバスケットボールについた砂を払い落とした。
恭介とはいつも一緒に下校する。帰り道の途中に目立たない公園があり、俺たちはそこで別れた。3年生最後の試合は6月にある。最後に1回ぐらいは勝って、華々しく引退したい。
4月の半ばに今学期初めての席替えが行われた。
ついにこの席から解放される時がきた。俺は名字が『伊東』なので、廊下側の前列から2番目という、かなり居心地の悪い席に座っていた。出席番号順に座ると名字で必ず損をする。俺は心が踊り、机の下で足をブラブラさせた。体を動かさずにはいられなかった。
この学校の席替えはちょっと変わっていて、純粋なくじ引きではなく、挙手制で生徒の希望をとったあと残りの余った席をくじで決める、という変則的なシステムだった。この席替えのシステムはクラス内の力関係がはっきりとでる。クラスの中で力のある生徒が後ろの席や窓側の席を取っていき、そうじゃない生徒がくじで前列や中央の席に振り分けられていく。
担任の先生が黒板に6×6のマス目を書いて、みんなの希望を取り始めた。
すぐに1人の男子生徒が手を挙げた。バレー部の主将で運動神経抜群、背も高く見た目も格好いい、このクラスを主導していくであろう人物。
バレー部の主将が手を挙げると、他の生徒も手を挙げ始めた。
顔のデカイ男子生徒が手を挙げていた。今度は柔道部の主将だった。身長は俺と同じくらいだが、肩幅が異様に広く筋肉のつき方が中学生じゃなかった。去年の運動会の時、クラス対抗リレーで3組のアンカーを務め、最後方から4人抜きをして3組を優勝に導いた男。今でも俺の目に焼きついている。静止画の中をこいつだけが走っていた。
女子生徒も手を挙げていた。
佐伯美佳。なんの会社かは忘れたが、社長令嬢。ただ、決して上品ではなかった。かすれた声でだるそうに喋る。同い年には見えないぐらい大人っぽく、私服を着ていたら恐らく中学生には見えない。
俺は後ろの方を見て恭介の様子を覗った。恭介は机の中を漁っていて、今のところ手を挙げる気配はない。
俺は余裕だった。ここより悪い席は一番前しかない。いくら後ろや窓側の席が取られようとも、前列以外の席は充分に残る。くじを引いても一番前にいく可能性は低い。
席替えが進み主要な席がなくなった頃、後ろの方で1人の女子生徒が静かに手を挙げた。
川井だった。
いい席はもう残ってないのにどこに行くんだ、と思いながら川井の行く末を見守っていると、川井はど真ん中の、しかも最前列の席を希望した。もちろんそんな席を他に希望する奴などいなく、川井の席はあっさりと決まった。
川井、それはないよ。ありえない。わざわざ自分から処刑台に行かなくてもいいじゃねえか。自分を犠牲にしてどうする。下手したら共倒れだ。他の奴らを蹴落としてでも、自分は生き残らないといけねえ。世の中は頭がいいだけじゃ生きていけねえんだ。人生という橋は、上手に楽して渡らなきゃいけねえんだ。それほど人生は厳しいんだ。それと大事なのは運だ。どんなに実力があっても運がないと意味がねえ。運が人生で一番大事なんだ。わかるか川井? 運だぞ、運。
数十分後。
「……なんで俺はここにいるんだ」気がつくと、俺はど真ん中の一番前の席に座っていた。
隣の席の川井が冷静に言った。
「くじで引いたから」
そう、川井の言った通り、俺は中央最前列という最強最悪の席を見事に引き当ててしまった。
「あんたって本当に運ないね」
川井の後ろの席は金魚のフン本田だった。
「うるせえ。お前はランドセルしょって、小学校からやり直せ」
「総合点が理花の1教科分しかないあんたがやり直せば」
カッチーンときた。本田はマジでムカつく。卒業するまでにこのお子ちゃまより上にいって見返してやる。
「2人とも、楽しそうね」川井が微笑みながら言った。
「全然!」
「楽しくねえよ!」
俺と本田はハモりさえしなかった。
初めは憂鬱な気分の俺だったが、一番前の席になったのは結果的によかった。隣の席に川井がいるというのはとても心強く、頼もしかった。授業中に分からなかったところを休み時間に聞いた。川井は嫌な顔ひとつせずに俺が納得いくまで教えてくれた。たまに本田が「そんな問題も分からないの?」と後ろからちゃちゃを入れてきたが、それは放って置いた。
授業を真面目に受け、川井に勉強を教えてもらい、本田と喧嘩をして、意味のない部活に励み、家に帰ってまた勉強する。こうして俺の新しい生活スタイルが確立した。
俺の通う中学校は住宅街の中にある。南向きに建てられた3階建ての校舎で500人を越える生徒が学校活動をしている。3年生は182人いた。
この校舎から、直接校庭は見えない。校舎に寄り添うように花壇があり、次に中庭があり、技術室や理科室などの特別教室のある校舎があって校庭がある。だからアニメやドラマのように校舎から校庭を見下ろす機会はそうそうない。
俺の住むマンションから学校までは歩いて20分ぐらいかかる。これといって珍しい道ではなく、途中にコンクリートで整備された小さな川があるぐらいで、あとは普通の住宅街にある普通の道だ。
気持ちよく晴れた朝空の下、俺はその普通の道を普通じゃないスピードで走っていた。あろうことか大幅に寝坊してしまったのだ。起きた時は晴れた空のようにすっきりとした目覚めだったが、目覚まし時計を見て急に大雨洪水警報が発令された。朝のトイレをベッドの上でしそうになった。
なんて見事な2度寝。
嘘だろ、と現実を否定し、念力で時計の針を戻そうと目覚まし時計を凝視したが、そんなことで時計の針が戻るはずもなく、その間にも時間はコツコツと真面目に進んでいた。
たまには俺の不真面目さを見習え。
俺は急いで顔を洗い、歯を磨き、学生鞄に教科書を詰め込み、制服に着替え、部屋を出た。部屋を出てから走りっぱなしだった。喉が焼けるように痛かった。それでも俺は学校へ向かって全力で走り続けた。
男子生徒は3年生になると罰則が厳しくなり、体罰も普通に許される。1、2年生の時には見逃してくれたことを見逃してくれなくなる。理由はよく分からないが、下級生へのみせしめだと俺は考えている。1番上の3年生を抑えることで、先生たちは学校の調和を保とうとしていた。
そんな学校の教育方針を支える強力な生徒指導の先生がこの学校には2人いる。1人は技術科の先生であり、バレー部の顧問でもある高村先生。年齢不詳。あだ名はナイジェリア。若い時にナイジェリアに留学して悟りを開いたらしく、国名がそのまま高村先生のあだ名になっていた。
『お前ら! やる時にやらないでいつやるんだ!』が口癖。顔は野人で声に張りがあり、感情のまま突き進む直情型の先生だった。
そして、もう1人は……。
「伊東、帽子はどうした?」
篠田壱鉄。体育の教師にして柔道部の顧問。あだ名はハンセン。柔道4段のプロレスおたく。あだ名もプロレスラーのスタン・ハンセンからきている。顔はホームベース型で、体型は逆三角形。既婚の38才。この学校の柔道部が強いのもハンセンの功績だった。
ドスの効いた声で、
『男は強くなきゃならん。お前らも将来は家族を持って、家を守っていくんだからな』とオウム返しのように言う。最悪にも3年生の男子の体育は必ずこのハンセンが受け持つことになっている。
ハンセンは毎朝、校門の前に立ち生徒の服装が校則に違反していないかをチェックしている。
「急いでいて忘れました……」
そして俺はせっかく登校時間に間に合ったのに学生帽を被ってくるのを忘れてしまった。
「そこへ立っとけ」とハンセンは校門から少し離れた場所を指差した。
「はい……」俺はハンセンの指示に従った。
登校時間が終わり、生徒会役員によって門が閉められるとハンセンは俺を手招きした。
「舌を噛まないように気をつけろ」と言って、俺の頭のてっぺんに鉄の拳を振り下ろした。昨日覚えた社会の歴史が変わりそうだった。恐らくというか、間違いなく頭蓋骨が陥没した。
朝の学活のあと、俺は隣の川井にそのことを愚痴った。
「というわけで川井、俺を慰めてくれ」
「ごめん、わたし忙しいから」
国語の教科書を机の隅に揃え、どう見ても暇そうな川井が言った。俺はめげずに愚痴った。
「せっかく間に合ったのに、帽子を忘れただけでどつかれるなんておかしくねえか? 人間なんだから忘れることぐらいあるだろ? むしろあの時間に起きて遅刻しなかった俺を褒めるべきじゃねえ? 家から学校までずっと全力ダッシュだぜ」俺は川井のすました横顔に不満をぶちまけた。
川井は俺の方をチラッと見て、「そうね」とだけ言った。
「クシュン!」
突然、川井の後ろから本田の控え目なくしゃみが聞こえた。イラついていた俺はそれを聞き流せなかった。
「お前何くしゃみしてんだよ。タイミングの悪い奴だな」
「くしゃみのタイミングに文句を言われても困るんだけど」本田は図々しく言った。
「お前次くしゃみしたらデコピンな」
「なんでよ」
俺は平和で穏やかな学校生活を過ごしていた。
毎日川井と一緒にいると、嫌でも川井の情報が入ってくる。俺は小説を2冊とCDを2枚、川井から借りていた。
川井はビートルズが好きで、その中でも特にジョン・レノンがお気に入りだった。俺はビートルズをまったく知らず、ジョン・レノンを知ったのも川井からの情報だったので、川井に珍獣のように扱われた。
「英語の時間にイマジンを聴いたでしょう?」
確かに『イマジン』は覚えているが、歌っている人の名前まではいちいち覚えていない。
一度、川井からジョン・レノンの格好よさを延々と説かされたことがあった。しかしジョン・レノンの格好よさをいまいち理解できなかった俺は、早く終わらないかなと思い、曖昧な返事をしながら川井のジョン・レノン演説を聞いていた。
そんな興味のないビートルズのCDが俺の部屋にあるのは、川井の熱弁に押されてしまい、川井から借りるのを断りきれなかったからだ。一応CDを聴いたことは聴いたが、特にこれといった感想も出てこなかった。
そしてビートルズと同じくらい川井は小説が好きだった。俺や本田が話しかけなければ、川井はほとんど小説を読んでいる。
「そんな字ばっかりの本読んで面白いか?」
「面白いわよ。読んでみる?」
俺が何気に聞いたその質問のせいで、俺の部屋には川井から借りた宮沢賢治の小説がもうすでに2冊ある。俺は受験勉強に加え、川井から借りた小説にも時間を追われていた。俺がそうしてまで小説を読むのは、川井と共通の話題が持てることと、小説を読む川井の姿が格好よかったからだ。
椅子に座って夢中で小説を読んでいる川井の姿は1枚の絵画になりそうで、美術室に飾ってあってもおかしくないぐらいはまっていた。
そこからヒントを得て、俺も本を読めば俺のその姿に惹かれた女子が山のように群がり困るほどモテるんじゃないか、という素晴らしい考えに辿り着いた。ただ残念ながら実行している期間が短いせいか、今はまだ結果がついてきていない。
大丈夫、これからだ。
俺と川井の意外な共通点もあった。それは2人ともよく寝る、ということ。3時間目が終わると、俺も川井も机の上に上半身を被せて寝ていた。とはいっても本気で寝てはいなかった。
俺は目を閉じ川井の方に顔を向けて、社会の授業で習ったことを頭の中で何度も復習していた。要点の整理をして一段落すると、不器用に目を開けた。
視界が広がるにつれ、机に伏して顔だけをこっちに向けている川井の姿が俺の目に入ってきた。川井も目を開けていた。
川井と目が合う。
2人とも机の上に伏せたまま顔を横にして、お互いを見つめ合っていた。
川井の大きな目は周囲の光を取り込み、教室の景色を明るく映し出していた。川井は俺の方を見ていたが、俺の先にある何か遠いものを見ているようにも感じた。川井の視線は俺や学校、町や国を越えて、地球の裏側に到達している。そう思わせるほど深い目をしていた。
俺を通して、その遠い何かを見ている川井の目に俺は惹きつけられそうになり、つい反抗したくなった。
「何こっち見てんだよ」
俺がそう言うと、川井は何も言わずにプイッと反対の方へ顔を向けた。
本気で眠くなってきた俺はまた目を閉じた。
俺は小学生の頃の記憶がほとんどない。友達と遊んだ記憶は断片的にあるが、それ以外に何をしたのか記憶がない。ドラクエⅢの宝箱の中身は全部覚えられたのに。俺の記憶力は一体どういう仕組みになっているんだ。
前の方でカチャカチャと音がしていた。
俺は重たい瞼をなんとか上に押して、機械的な音を追うように少しずつ目の焦点を合わせていった。焦点が定まると、恭介がビデオデッキからビデオテープを取り出している映像が目に映った。
「もしかしてもう終わった?」俺はソファーに横になったまま恭介に聞くと、恭介は「ああ」といってレンタルビデオを袋にしまった。
どの辺まで観ていたっけ、と俺は記憶に残っている映画のシーンを丹念に思い起こした。潜水服を着た男が海底にゆっくりと落ちていくシーンまでは覚えているが、そこから先のシーンが全然記憶にない。
「わりい。すげえ眠たくてさ」
俺はソファーから体を起こして罰が悪そうに目をこすった。恭介の借りたレンタルビデオを無駄にしてしまったことで、起きてすぐに罪悪感に襲われた。
恭介は料理番組にチャンネルを合わせて立ち上がると、
「ラーメンでも食べるか?」といって俺に確認の視線を送ってきた。
寝起きのせいなのかそんなにお腹は空いていなかったが、どうせだから頂くことにした。
恭介がキッチンに向かうと、俺はダイニングの壁にかかっている丸い時計を見た。もう午後の5時を過ぎている。貴重な日曜日を有効に使えなかった後悔の念が胸の奥から込み上げてきた。鬱蒼とした気分を払拭する必要があった。俺は勝手にカーテンを開けて、外の景色を眺めた。ガラス窓から夕方の曇り空が見える。
恭介の住むマンションは結構大きなマンションで同じ中学の奴が何人も住んでいる。
もちろん小学校もみんな一緒だ。同じクラスの将太、5組の橋本、3組の岩田、1組の信也。それに川井。俺が知らないだけで、まだ他にもいるかもしれない。恭介はこのマンションの12階に住んでいる。ちなみに川井は7階に住んでいるらしい。
恭介のラーメンが出来上がると、俺はカーテンを閉めてソファーに戻った。2人でテーブルを挟み、ラーメンを食べながらお互いの兄貴の話をした。
俺と恭介は境遇が似ている。
両親が離婚して小さい時から母親がいないことや、親父が夜遅くに帰ってくること、大学生の兄貴がいることなど。そのせいかは分からないが、こんな無愛想な恭介とも仲がいい。中学で同じバスケ部に入ったのも俺たちの関係に拍車をかけた。腐れ縁なのかもしれない。
「今日は塾いかないのか?」俺はたいして話すこともない兄貴の話題に限界を感じ、話題を変えた。
「もうサボる」恭介は丼を持ってスープを啜った。「祐太も塾にいったらどうだ?」
「俺はいい。気合いで合格する」
「気合いで高校に合格できるのか?」
「できるんじゃねえ。それに川井から勉強を教えてもらってるし」
恭介は2回頷き、「そういえば最近川井と仲いいな」と言った。
俺は少し考えて、「まあ、悪くはない」と返した。
「あいつは優しいもんな」恭介はラーメンを食べ終わり、丼の上に箸を置いた。
俺はまた考えて、「そうか?」と言った。
俺たちのたどたどしい会話にテレビの音が入ってきた。
7時までには家に帰りたかった。頃合いの時間になると、俺は食事をご馳走になった礼を言って、ソファーから立ち上がった。
恭介が玄関まで見送りに来てくれた。玄関でバスケの話になり、別れ際に恭介は言った。
「試合勝てるといいな」
俺たちの最後の試合が近づいていた。
夏になると制服が替わる。俺の席が後ろの席なら、制服から透けている女子生徒のブラを見て平和を感じることができるのだが、いかんせん俺は最前列で川井とツートップを組んで厳しい受験戦争を戦っているので、そんな素晴らしい平和は訪れない。大人になったらプラカードを持って国会の前でデモを起こす。
『俺は平和を望む!』
ただまったく楽しみがない訳じゃなかった。給食時間は班を作って過ごすので、隣同士の俺と川井は向き合って食べることになる。その時、川井がスプーンで給食のオカズをすくうたびに若干前かがみになり、胸元の開いた制服から川井の胸の谷間が見える。セクシーショット! 川井のセクシーショット!!
川井はまったく俺の視線に気づいていなかった。だから俺は臆することなく、正々堂々と川井の胸の谷間を凝視していた。川井は給食のオカズでパンを食べていたが、俺は川井の胸の谷間で給食を食べていた。
川井が鈍感なのか俺のチラ見テクニクックが凄いのかは分からないが、こっちが悪いんじゃないかというぐらい川井は気づいていなかった。それで俺の方があることに気づいた。いくらなんでもあまりに無防備すぎる。きっとこれは川井のサービスなんだ、と思い始めた。勉強を頑張ってる俺へのご褒美なんだ、と都合よく解釈した。
そんなことより川井は胸が大きい。夏服に替わって初めて知った。俺は心の中で川井のあだ名を『がり勉巨乳』と命名した。
俺のささやかな楽しみは永遠に続くかと思われたが、そんなに人生はうまくいかなかった。
ある日、例のごとく川井の胸元を見ていると、ふと痛い視線を感じた。棘ありまくりの鋭い視線。川井のじゃなかった。俺の右斜め前方、いわゆる2時の方向、本田亜沙美から発せられていた。
本田は明らかに、
『もしかして今、理花の胸見てた?』的な軽蔑した視線を俺に送ってきていた。
本田の鋭い視線攻撃を全身に浴びた俺は一瞬焦ったが、そんな証拠はねえ。だから強気に出た。
『見てねえよ(本当は見てたけど)。証拠はあんのか? だいたい見るほどの胸もねえお前が言うな』的な視線を送り返してやった。ざまあみろ。
俺と本田は数秒ほど睨み合うと、また給食を食べ始めた。
ビビりな俺はこの事件以降、川井の胸を見れなくなった。まな板本田によって、給食時間の俺のささやかな楽しみさえ泡になって消えた。
トラブルメイカーという人種がいる。本人が意図している、していないに関わらず、何かとトラブルを運んでくる奴らのことだ。俺の学年にはそんなトラブルメイカーが2人いた。1人は柔道部の佐藤修司。そしてもう1人が俺と同じバスケ部の野田宏明。
学校も終わり、俺が家の鍵を開けて中に入ると、リビングで宏明がカップラーメンを食べていた。俺は自分の目を疑った。帰ってきた俺を見ても、宏明は動揺した様子もなく、
「邪魔させてもらってるよ」と言った。
いまいち状況を把握できていない俺は焦りながら宏明を追求した。
「お前何してんだよ! ここ俺の家だぞ! それにどうやって入ってきたんだよ! ここ5階だぜ」
玄関の鍵は間違いなくしていた。まさか針金でも使って開けたのか?
「階段の踊り場に窓があるだろ。そこからベランダをつたってきた。ベランダの鍵も開いてたし」宏明はカップラーメンをすすった。
「お前、これ住居なんとかっていう犯罪だぜ」俺は呆れてしまった。
「友達だからいいだろ。何も盗ってないし」
「それもそうだな……いや、よくねえだろ!」俺は危うく納得しかかったが、すぐに思いとどまった。
とにかくこいつはバスケ部のトラブルメイカーだった。俺が2年生の時に柔道部の先輩に殴られたのも、バスケの練習中にサッカー部の先輩が殴り込んできたのも、女子の身体検査を覗きに行ってバスケ部の評判を下げたのも、体育館の床下で蝋燭をつけながらエロ本を読んでボヤを起こしたのも、全部こいつが絡んでいた。
平和な学校生活を送りたい俺としては、あまり関わり合いたくない人種だった。こいつと同じバスケ部なのは完全に俺の不運だ。
俺は鞄とバッグを肩から外し、自分の部屋に放り投げた。
「最後の試合ぼろぼろだったな」宏明は言った。
俺たちは引退試合もダブルスコアで負けた。それも1回戦で。
「しょうがねえんじゃね」
俺はボタンを外して制服のシャツを脱ぐと、Tシャツ姿でソファーに腰を沈めた。宏明はフローリングの上であぐらをかいて、食べ終わったカップラーメンのゴミをまとめていた。
「塾はいいのか?」
別に宏明の予定なんかどうでもいいが、たいして話すこともないので聞いてみた。
「そんなのサボっちまえ」となぜか宏明が俺に言った。
「いや、お前のことだから。俺は塾行ってねえし」どうもこいつとは話が噛み合わない。
「ところで何をしにきたんだよ?」
「寂しいから、祐ちゃんに会いにきたんだよ」宏明はふざけた口調でそう言った。
「気持ちわりいな。さっさと帰れ」
「冷たいねえ」宏明はそう言うと鞄から、何か雑誌らしきものを取りだし、テーブルの上に置いてペラペラとめくり始めた。よく見るとそれはエロ本だった。さらによく見ると、どこかで見覚えのあるエロ本だった。
「お前、それ俺のじゃねえか!」俺は焦った。
「こんなエロ本が好きなのか」宏明は俺のエロ本を読みながら言った。
「馬鹿。それは貰ったんだよ」俺は本当のことを言ったが、どうも信じてもらえそうになかった。
「ここのページ、少し濡れてないか?」
「濡れてねえよ。欲しけりゃやるからさっさと帰れ」
「俺がいつ欲しいと言った?」
こいつはマジで面倒くせえ。
「鞄に入れてただろ? つうか人の部屋を勝手に漁るなよ」
「俺はエロ本が欲しかったわけじゃない。お前の部屋を漁ったのも、お前のことが心配でやったことなんだ。タバコやシンナーは吸ってないか、いじめられてはいないか、エッチする時はちゃんとゴムをつけているか。俺はお前のためを思って、よかれと思って……」
宏明はしおらしくエロ本をたたんだ。
「わかったから、もう帰れって」俺はもう疲れてきた。
「このやろう、呪われちまえ!」いきなり宏明にキレられた。この言葉についに俺もキレた。
「うるせえ! お前が呪われろ! さっさと帰れ! タコ助!」
「お前が早く帰っちまえ!」
「なんで俺が帰らないといけねえんだよ! ここは俺んちだぞ! 馬鹿かお前!」
「このエロ本で毎晩シコってることみんなに言うぞ!」
「シコってねえし、それは貰ったのを置いてただけだ馬鹿!」
「嘘つくな! 誰から貰ったんだよ!」
「誰でもいいだろ! お前に言う必要もねえ!」
「なんだとこのチンカス野郎! 前から言おうと思ってたけど、お前のチンチンくせえんだよ!」
「臭くねえよ! だいたいお前、俺のチンチンかいだことねえだろ!」
「ある!」宏明は自信満々でそう言った。
「嘘つけ! この10円ハゲ!」
「言っていいことと悪いことがあるぞ、包茎野郎!」
「馬鹿! 俺は最近むけたばっかだ!」
「見せてみろよ!」
「誰が見せるか馬鹿!」
「ガラス割るぞ」
「はあ?」いきなり宏明は変なことを言い出した。
「チンチン見せないなら、お前んちのガラス全部割るぞ」宏明が俺を脅しにかかった。
「そしたらお前んちのガラスも全部割るぞ」俺も脅した。
「それは困る」宏明は困った。
「俺も困る」ガラスなんて割りたくもないし、割られたくもない。
「仲直りするか?」宏明はしんみりと言った。
「ああ」
こうして仲直りは成立したが、こいつと一緒にいると本当に疲れる。
「さてと、帰るか」宏明はカップラーメンのゴミを置いたまま立ち上がった。本当にこいつは何をしにきたんだろう。俺は嫌々ながら玄関まで見送りに行った。
「これ、どうだ」
宏明は靴を履き終えると、鞄から1本のビデオテープを出してきた。
「なんだよ、これ?」
「エロビデオだよ」
「くれるのか?」
「やるわけないだろ。1週間レンタルで200円な」
「金とるのかよ!? ケチくせえな」
「当たり前だろ。嫌ならいいぜ」
当然俺は払った。
「まあ、楽しんでくれ」宏明は不気味な笑顔をして帰っていった。
俺は宏明が散らかしたテーブルを片付けると、借りたばかりのエロビデオをさっそくビデオデッキに挿入した。
筋肉質な男と胸の形のいい女が温泉旅館でセックスをするビデオだった。俺はソファーに横になり、下半身を反応させながらビデオに見入った。じっと集中して見ている内に、川井の胸の谷間チラ見映像と、騎乗位で男の上に跨がり、激しく縦揺れしている女の胸の映像が頭の中で綺麗に重なって見えた。
俺は自分の特異な才能に驚愕した。
ただそこから先の想像がつかなかった。将来自分がもっと大人になって、このアダルトビデオで行われている行為や、女の尻めがけて必死で腰を振る自分の姿がまったく想像できなかった。
俺はギンギンになった下半身のまま、リモコンの停止ボタンを押した。
日曜日。晴れた空の下で俺はキコキコと自転車を漕いで市営プールに向かっていた。夏休み前に行われる水泳大会の50M平泳ぎの選手に選ばれてしまったのだ。水泳は好きだからそれは別にいいのだが、俺は35Mぐらいまでしか泳げない……。練習が必要だった。
市営プールの駐輪場に自転車を停め、受付でお金を払い、脱衣場で水着に着替えた。
屋内プールは小学生用で浅いため、俺は屋外プールへと向かった。
プールサイドで準備体操をしていると、遠くで飛び込みの練習をしている人たちの姿が見えた。飛び込み台からピョンと飛び降り、クルクルと体を器用に回して着水していた。
「楽しそうだな」機会があればだが、やってみたくなった。
準備体操を済ませると、一番端のレーンに飛び込んだ。息の続く限り潜水をして、距離を稼ぐ。苦しくなると水面から顔をだし、酸素の補充をして平泳ぎの練習を始めた。スピードを重視しているわけでもないので、ゆっくりと水を掻き分けた。どうも俺は足の使い方や息継ぎの仕方に問題があるらしい。
平泳ぎに飽きた俺は、体を回転させて背泳ぎを始めた。水面を手で叩いて、進んでいく。プールの壁に頭を打ちそうで恐い。
背泳ぎにも飽きると俺は手足の動き止めて、ぷかぷかとプールに体を浮かべながら澄んだ夏の空を見ていた。いくつもの細長い雲が隊列を組んでいて、地球に攻撃を仕掛けてきた宇宙艦隊のように見えた。その宇宙艦隊の背後では、何も迷わずに太陽が光を放っていた。それはあまりにも眩しくて直視することができなかった。
俺は鼻をつまんで、そのままゆっくりとプールの中に沈み、水中から太陽を見つめた。水中から見る太陽もやっぱり眩しく、その光で自分の存在が掻き消され、このまま水中に溶けてしまいそうな気がした。太陽の光がプールを透過して、俺の周囲をカーテンのように揺らいでいた。
息が続かなくなり浮上しようとしたら、競泳水着を着た女子高校生らしきお姉様がクロールで俺の横を通り過ぎていった。うむ、市営プール最高。
練習終了後、帰り道にあるデパートでアイスクリームを買い、公園で食べた。
こうして俺は何度か平泳ぎの練習をして、クラス対抗水泳大会の本番を迎えた。
水泳大会だけが、男女合同で水泳をする唯一の日だ。とはいっても、ほとんどの女子が体調不良で学校を休んだり見学にまわるので、男子ばかりの水泳大会になる。これならもういっそのこと男子だけでやった方が盛り上がりそうな気がする。
プールサイドには見学の女子がズラリと並び、男子は見世物になっていた。動物園にいる動物の気持ちがわかる。
学校指定の肌にまとわりつく水着を着て、女子から品定めを受ける。
俺はそんなにたいしたモノを持ってないから別にいいが、2組の藤田くんは可哀想だった。藤田くんは柔道部にしては珍しい草食動物のような性格の持ち主なのに、下半身が肉食動物だった。生きている生物ならなんでも食べてしまいそうなほど自己主張をしまくっている。真っ直ぐにしていたら肉食動物の顔が水着から出てしまうため、藤田くんはモノを斜めに傾けてなんとか水着に収めていた。それでも形がはっきりと浮き上がっていて、プールサイドにいる女子の視線をどうしようもなく下半身に集めていた。
水泳大会が始まると、水しぶきと歓声があちこちであがった。そして結構早い段階で俺に出番がまわってきた。
俺はスタート位置に立って、体を屈折させ、いつでも飛び込める体勢に入った。ピストルの号砲の合図と共に俺はプールに飛び込んだ。練習通り俺は潜水をしてそこから両手両足を総動員し、プールの水を豪快に掻き分けた。
勝てる! はずもなく結局5人中の5位でビリ。そりゃそうだ。まあ、50M泳げるようになっただけでもよしとしよう。それになかなか楽しかった。この面倒くさい行事が終われば、あとは夏休みが待っている。
1学期の終業式が終わってクラスに戻ると、俺は川井に聞いてみた。
「川井って夏休みの勉強どうすんだ?」
塾に行ってない川井が夏休みどうするのかが気になった。
川井は鞄にプリント用紙を入れながら、
「家で勉強したり、図書館で勉強したりすると思うけど」と言った。
「俺も一緒に勉強していいか?」
「どこで?」作業中の川井の手が止まった。
「どこでもいいぜ。俺の部屋でもいいし、図書館でもいい」
川井はしばらく考えて、
「わたしの部屋ならいいわよ。毎日は無理だけど」と言った。
「川井の都合のいい日でいいよ。俺も毎日は無理だし。昼頃なら電話大丈夫か?」
「うん」と川井は頷いた。
「わかった。じゃあ電話するから」
こうして俺と川井の炎の夏合宿が始まった。
夏休みに入って3日目。
蝉時雨の中を俺は自転車で疾走していた。マンションの駐輪場に自転車を停めて、エントランスに入る。管理室窓口の横にはインターホンが備えつけてある。俺はテンキーを使い、昨日電話で聞いた川井の部屋番号を入力して、呼び出しボタンを押した。このマンションは恭介で慣れているからお手のものだった。
「はい」インターホンのスピーカーから川井の声が聞こえてきた。
「俺、伊東」
恭介の時もそうだが、このけったいな機械を前にすると、なぜか原始人のような言い方になってしまう。
「今開けるから」
入り口のガラス製のドアからガチャッと鍵の外れる音がした。俺はドアを開け、廊下を進み、ボタンを押してエレベーターを呼び寄せた。綺麗なマンションなのにエレベーターの中は意外と落書きがひどい。ただの自己紹介だったり、誰のことが好きだの、誰がムカつくだの。知っている名前もちらほらあるが、そんなに興味はない。
川井の部屋はエレベーターを降りてすぐそばにあった。玄関脇のチャイムを鳴らすと、スピーカーから川井の声が聞こえた。
「俺、伊東」とまた原始人のように言った。
「待ってて」
川井の言われた通り素直に待っていると、不意に玄関のドアが開いて、短パンに白いTシャツ姿の川井が出てきた。私服の川井を見たのは初めてだったので、かなりドキッとした。恋の矢が2、3本飛んできて俺に突き刺さりそうだったが、俺は軽やかなフットワークでなんとかかわした。危ない。
「あがって」
「お邪魔します」俺はスニーカーを脱いで川井の家にお邪魔した。
ダイニングを過ぎたところが川井の部屋だった。几帳面な性格の川井らしく、部屋の中は綺麗に片付けられていた。部屋の隅に学習机があり、その隣で小振りのタンスが仁王立ちしていた。タンスの上にはCDラジカセが置かれていて、川井の好きなビートルズの音楽が部屋中を駆け巡っていた。
狭い部屋には不似合いなほど大きな本棚がベランダと向き合う場所に位置していた。参考書や見たこともない難しそうな本がずらりと並べられている。フローリングの床には薄い絨毯が敷かれていた。
ベッドは部屋の奥にあった。川井はベッドの前に置いてある丸いテーブルを指差し、
「そのテーブル使ってね」と言った。
「おう、ありがとう」
俺はボストンバックを床に置いて、テーブルを前にして座った。
「カルピス飲む?」部屋の入り口に立ったままの川井が聞いてきた。
「おう、飲む」慣れない人の家で恐縮しているせいか俺は返事がぎこちなかった。川井がカルピスを準備している間、俺は筆記用具とノート、地理の教科書と問題集をバッグから取り出した。
川井は部屋に戻ってくると、カルピスの入ったコップをテーブルに置いて、
「さっそく始めましょう」と言った。
そして俺たちは勉強を始めた。だが、いつまで経っても俺の集中力は上がってこなかった。どうしても勉強に没頭できない理由が川井の部屋にあった。
いい部屋だと思う。そんなに広くはないが、川井らしいシンプルでいい部屋だと思う。ただ川井の部屋には致命的な欠点があった。クーラーがない……。やる気のない扇風機が1台あるだけでクーラーがない。地獄の蒸し部屋を一瞬で天国に変えてくれる近代文明の傑作品であるクーラーが川井の部屋についてない。汗かきな俺からすればそれは重大な出来事だった。勉強の準備はしてきたが、暑さ対策の準備はしてきていなかった。
身体中から新鮮な汗が滲み出てきて、右腕に触れているノートが濡れた。命綱のカルピスがあっという間になくなった。
俺は川井の方をチラッと見た。川井は暑さを感じさせずに、学習机で勉強をしている。よくこんな暑い部屋で勉強できるな、と思う。ああやって熱心に勉強する川井の姿を見ていると川井の凄さがわかる。毎日少しずつ努力を積み上げて、今の川井の成績があるんだろうな。もうここまでくると努力ではないように思える。きっと勉強が好きなんだろう。
川井は黙々と勉強していた。左手にタオルを持ったまま黙々と勉強していた。……ん? と俺は思った。何か心にひっかかった。タオル? ……いいな、タオル。俺は急にタオルが欲しくなった。
「川井。俺、タオル持ってきてないから貸してくれ。ちゃんと洗って返すから」吹き出る汗に我慢できなくなった俺は川井にタオルを借りることにした。
すると川井は振り向きもせずに、
「はい」と言って背中越しに自分が使っていたタオルを俺に渡そうとした。俺は当然怒った。
「ふざけんなよ。お前、さっきそれで汗拭いてたじゃん」
「嫌なの?」
「嫌に決まってるだろ。新しいの貸してくれよ」
「贅沢ね」そう言うと、川井は小振りのタンスからタオルを取り出し、俺に貸してくれた。
「サンキュ」顔の汗を拭きとろうとしたら、借りたばかりのタオルから嘘みたいなほどいい匂いがした。
「川井の匂いがするな」
「当たり前でしょ」川井の後ろ姿が冷たかった。
俺はタオルを借り、暑さにも慣れてきて、とにかくやっと落ち着いた。集中して勉強ができそうだった。
学校では川井はいつも俺の隣にいる。そのため川井を後ろから見ることはあまりない。川井は長い後ろ髪を1本に束ねていて、いたずら好きな俺からすればその綺麗にまとまった髪を引っ張りたくなる。もしそんなことをしたら、俺の身がどうなるか簡単に想像がつくので決してやりはしないが。
あまり見慣れないそんな川井の後ろ姿に異変が起きたのは、勉強に没頭して1時間ほどが経ってからだった。2人で黙々と勉強をしていたら、突然ベランダの方からバタバタと何かが入ってくる奇妙な音がした。
その瞬間、
「きゃあ!」と川井が叫び、学習机の椅子から飛び上がった。
「なんだよ!?」俺はその声にびっくりして、川井に視線を当てた。
「バッタが机に跳んできたの」川井は学習机の上を見ながら言った。
「何を馬鹿なこと言ってんだよ。ここはマンションの7階だぜ」
こんなところまでバッタが跳んでくるわけ……いた。
俺が立ち上がって学習机を見ると、かなりの大きさのバッタが学習机の上に佇んでいた。その立ち振舞いがあまりに堂々としていてなんか格好よく、小学生の時に見た仮面ライダーを思い出した。
「取って」
俺がバッタを見たまま硬直していると、川井は学習机の上に佇むバッタを指差して言った。
「嫌だよ。俺、虫触りたくねえもん」俺は率直に断った。
「お願い」
川井にそう頼まれたら、勉強を教えてもらっている俺としては断れなかった。それでも俺はバッタを触りたくなかったので、ノートでバッタをすくってベランダに放り投げる作戦にでた。
手にしたノートをバッタの足元と学習机の間にゆっくりと差し込んでいく。上手くいきそうだな、と思った瞬間、ノートに乗りかかったバッタが俺たちの方に飛んできた。
「きゃあ!」
「どわあ!」
突然のライダージャンプに2人ともびっくりして、大声で叫んだ。たかがバッタ1匹で部屋の中は大騒ぎだった。そんなことは露知らずのバッタは今度はベッドの上へと移動していた。
「ちゃんと捕まえて」川井は俺を叱咤したが、俺はすでに面倒くさくなっていた。
「もういいんじゃね? 勉強しようぜ。放っておいたら勝手に逃げるだろ」
「絶対ダメよ」川井は眉をつり上げて、今まで見たことないめっちゃ怖い顔で俺を睨んできた。しょうがない。俺は覚悟を決めてバッタを手で捕まえることにした。
ベッドの上で悠々と過ごしているバッタの背後に手を回し、そっと優しく捕まえた。力を入れたら潰してしまうようなこの柔らかい感触が俺は堪らなく嫌だった。捕まえたバッタはベランダから外に放り投げた。
「窓閉めていい?」信じられないことに川井はベランダの窓を閉めようとした。
「無理無理無理無理、暑さで干からびるから」
窓を閉めようとした川井の腕を俺は左手で掴んだ。なんて恐ろしいことをする奴だ。
「だってまた入ってくるかも」
「入ってこねえよ。それにせめて網戸にしてくれよ」
「小学生の時に網戸壊しちゃったの。閉めてもいい?」
「ダメだって。心配しなくてもここまで跳んでくるような気合いの入ったバッタはそんなにいねえよ」
「もし入って来たら責任とってくれる?」
川井は真面目な顔をして言った。どういった責任をとらされるのか分からなくて怖かったが、早く勉強をしたい俺は、
「分かった、責任とるから」と言って川井を納得させた。「それより手を洗わせてくれよ」汚れとかよりも、右手に残っているバッタの感触を洗い流したかった。
バッタのせいでどっと疲れた。2時間分ぐらいの集中力を失った。
帰る時間になると、俺は教科書や筆記用具をボストンバッグにしまい、テーブルの上を綺麗に片付けた。
「バッグ持ってきた?」
大きめのバッグを持ってくるように川井から言われていた。
「ああ。このバッグでいいか?」俺はボストンバッグを川井に渡した。すると川井は本棚から参考書をみつくろい、俺が持ってきたボストンバックにじゃんじゃん入れ始めた。
えっ!? と思った。みるみる内にバックが膨れあがっていく。
バックが一杯になると川井は、
「夏休みが終わるまでに全部済ませてね」と軽い感じで言った。今にも破けそうなほどパンパンに膨れあがったボストンバックと、川井の信じられない言葉に俺の目が丸くなった。
「こ、こんなの無理に決まってるだろ! 絶対に終わらねえよ! 学校の宿題だってあるのに」
「やってみてから言って。あ、それと参考書には直接書きこまないでね」
ついに俺は本物の悪魔を見た。
とにかく川井の宿題の量は半端じゃなかった。食事とお風呂以外は川井の宿題に追われていた。あまりのひどい仕打ちに俺は川井に抗議の電話をかけたことがある。
「別にしなくてもいいわよ。わたしが落ちるわけじゃないし」
川井のその言葉は俺の感情の引き金を引いた。冷え切った感情が沸々と煮えたぎった。やってやる。こうなったらやってやるよ。川井の宿題を終わらせてやるよ!
川井に対する怒りがやる気に変わった。
しかし現実の誘惑はそんなに甘くはなかった。空気の湿った生暖かい夏の夜に、恭介からお誘いの電話がかかってきたのだ。
「肝試しに行こうぜ」
堪らなく行きたかったが、俺は例のごとく川井の宿題に追われていてそんな余裕などなかった。まだ終わっていない参考書が部屋で山積みになっていた。
だが俺は、ふたつ返事でOKした。なぜなら、俺は遊びたいからだ! すまん、川井。受験生にあるまじき行為と意志の弱い俺を許してくれ。
夜中の12時30分頃に俺は部屋を出て、自転車で待ち合わせの場所に向かった。
集まったメンバーは5人だった。
俺と恭介、チンチンのデカイ藤田くん、潰れた声の正樹、まつ毛の長い和馬。俺と恭介以外は全員柔道部だった。
俺たちはさっそく肝試しの現場に向かった。なんでもトンネルが通っている山の上に、ボロい美術館と墓地があるらしい。
最初、トンネルの入り口付近にある階段を地道に上がり、途中から木々に囲まれた暗い山道を歩き進んだ。気のせいか暗闇がいつもより濃く見えた。
「誰か懐中電灯を持ってきてねえのかよ」俺は試しに聞いてみたが、誰も持っていなかった……。でも怖くはなかった。俺たちは談笑しながら暗い山道をひたすら突き進んだ。肝試しとかではなく、ただみんなで楽しく散歩をしているだけだった。
山の上に着いて開けた場所に出ると、右手に美術館らしき建物と左手に墓地が見えた。
「全然怖くねえな」
俺たちは余裕で一本道を進み、美術館に近づいていった。美術館のそばを通り、中の様子を覗おうとした、丁度その時だった。けたたましい警報器の音が山に鳴り響き、回転灯の赤い光が俺たちの周りを駆け巡った。
まったく予想していなかった出来事に何が起こったのかさっぱり分からず、俺たちは咄嗟に墓地の方へ向かって猛ダッシュした。短い坂を駆け下り、墓地の入り口に差しかかる。
すると突然、前列を走っていたチンチンのデカイ藤田くん、潰れた声の正樹、そして俺の3人が得体の知れない何かに体を吹き飛ばされた。柔道部の2人は空中で体を捻り、見事な受け身を取った。俺もハンセンの授業で習った柔道の受け身をなんとか決めた。そのおかげで3人ともかすり傷で済んだが、体を吹き飛ばされた原因が分からなかった。目を凝らして吹き飛ばされた場所を見ると、緩くたゆんだチェーンが暗闇に浮かび上がった。
「あれか……」
俺たち3人は墓地の入り口に張ってあるチェーンに気がつかず、下り坂の全力猛ダッシュでそこへ突っ込んでしまった。
「何やってんだお前ら」恭介が笑いながらクールに近づいてきた。後列にいた恭介とまつげの長い和馬は被害を免れていた。俺は地べたに座り込んだまま、反論した。
「チェーンに気がつかなかったんだよ」
「そんなに慌て逃げる必要ないっしょ」まつげの長い和馬が言った。
「いきなり警報器が鳴ったら普通は逃げる」潰れた声の正樹が俺たちを代弁して言った。
「まあな。それより赤外線に引っ掛かったから警備員が来るかもしれないぜ」恭介は冷静に状況を分析していた。
警報器の音と回転灯の光はもう消えていて、周囲は静けさを取り戻していた。まさか幽霊とかじゃなく、現実的なものに驚かされるとは思っていなかった。
俺たちは夜の墓場のど真ん中で今後の緊急会議を開いた。会議中、サイレンの音が遠くで聞こえた。みんなでフェンス越しに下界の様子を覗った。サイレンの音はこっちへ近づいてこなかったが、そのうち1台の車がライトで夜道を照らしながらゆっくりと上に登ってくるのが見えた。
「あれかな?」俺はフェンスにしがみつきながら、みんなに聞いた。
「普通車っぽいから違うと思う」潰れた声の正樹が言った。
「反対側から下りようぜ」と恭介が言った。
恭介の意見に賛同した俺たちは山を下りることにした。しかしだいぶ冷静になった俺はふと思った。
「待てよ。よく考えたら俺たち何も悪いことしてねえぞ」
「どっちにしろこの時間だと補導されるぜ」恭介は親指と人差し指で鼻の頭をつまみながら言った。
「大丈夫だろ。肝試しをしてましたって言えば」俺はあっけらかんと言った。
「それならずっとここにいろよ」恭介は突き放すように言った。恭介の言い方にカチンときた俺はムキになった。
「おお、いてやるよ」そして根拠のない啖呵を切った。
「じゃあ俺たち先に行くから」
白状な言葉を残し、恭介たちは暗がりに消えていった。
「帰れ帰れ、根性なし」
俺は言ってやった。という訳で、俺は真夜中の墓地に1人取り残されることとなった。
両太股が猛烈に痛み始め、立つのが辛くなってきた。下り坂で、しかも全力疾走でチェーンに突っ込み、かすり傷だけで済むはずがない。俺はその場にしゃがんで太股を押さえた。痛みが落ち着くまで少し休むことにした。
周囲は異様な雰囲気だった。ざわついた虫の声がフルオーケストラのレクイエムに聞こえてきた。墓石の背後で美術館の玄関照明が不気味に青白く光っていた。今見ているお墓から、ゆらりと白い人影が出てきてもおかしくなかった。急にどこからか冷たい空気が流れてきて、ぞっと寒気がした。いろんなことがあってすっかり忘れていたが、俺は幽霊や呪いといった類いのものが大の苦手だった。
「みんな待って!」
俺は立ち上がり、太股の痛みを我慢しながらみんなのところへ走った。
「まだチェーンの跡が残ってるんだぜ」
俺は太股についたチェーンの跡を川井に見てもらいたくて、ズボンを脱ごうとした。
「お願いだからここで脱がないで」
川井に制止された俺は、舌打ちをして渋々とベルトを締め直した。
川井の部屋は相変わらず暑かった。扇風機が温風機になっていた。下手をしたら、外よりも暑い。身体中の血液が蒸発してカラカラに干からびそうだった。以前、漁師が魚を天日干ししている映像をテレビで見たが、その魚の気持ちが今の俺には分かる。俺もこのままだといずれ網の上で焼かれるだろう。
追い詰められた俺はピンと閃いた。アイスクリームを食べよう。
「アイス買ってくるけど川井も食べるか?」
川井は振り向いて、
「うん。食べる」と目を輝かせながら頷いた。
「何がいい?」
「バニラアイス」
「わかった」俺は立ち上がった。
「待って、お金」
「いいよ。家庭教師代」
「いいの?」
「ああ」
俺はサウナ状態の部屋を脱出し、エレベーターで1階に下りて、最近できたコンビニへ向かった。コンビニでカップのバニラアイスを2個買ってマンションに戻ると、エントランスでばったりと恭介に出くわした。
「あら、こんにちは」俺は昼下がりの奥様風にいってみた。
「何してんだ?」恭介は普通に聞いてきた。
「川井んちで勉強。川井の部屋は暑いからアイス買ってきた。恭介は?」
「俺は今から塾」
「そうか。頑張れよ……あっ、わりい。このドア開けてもらえる? 川井に頼むの面倒くさいからさ」暗証番号を知らない俺は恭介にお願いしてドアを開けてもらった。
「サンキュウ」とお礼を言ってその場から立ち去ろうとしたら、恭介に呼び止められた。
「いつも何時頃に帰ってるんだ?」
俺は考えながら、
「まあだいたい4時か5時ぐらいかな」と言った。
「今日カレー作るからうちで食べて行けよ」
「マジで! 行く行く、何時に行けばいい?」
今度は恭介が考えて、
「7時ぐらいに」と言った。
「分かった。じゃあ、あとでな」
俺は恭介と別れて川井の部屋に舞い戻った。
「1階のドア大丈夫だったの?」
「ああ、下でちょうど恭介と会ってさ、開けてもらった」
「そう」と川井は納得した。
「アイス食べようぜ」
俺はバニラアイスの入ったコンビニ袋を自慢気に見せた。
「台所で食べましょう」川井は笑った。
俺はダイニングテーブルについてバニラアイスの蓋を開けた。川井は食器棚から底の深いガラスの小皿を取り、それにバニラアイスを移していた。
面倒くさい食べ方をするな、と思って見ていると、今度は冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出した。
俺は当然それを飲むものだろうと思って見ていたら、川井は小皿に移したバニラアイスにそのお茶をかけた。
え? と思った。
ついに俺は勉強のし過ぎで幻覚を見るようになったのか?
俺は理解不能な川井の行動に怯えながら聞いてみた。
「な、何してんだよ?」
「こうして食べると美味しいの。ほら、抹茶アイスみたいなもの」
川井はそう言って嬉しそうにお茶のかかったバニラアイスをスプーンで掬った。俺は頭が混乱した。到底納得できなかった。川井は一体何を言っているんだろう、と思った。
「それなら初めから抹茶アイスを買えばいいだろ」俺は凄くまともなことを言った。
「抹茶アイスは嫌いなの」
川井の出題した問題は今まで解いてきたどんな問題よりも難しかった。
きっとあれだな、と俺は考えた。牛乳は嫌いだけどチーズは好きとか、茄子は嫌いだけど焼き茄子は好き、みたいなやつだな。意味はだいぶ違うような気もするが、俺はそうやって強引に自分を納得させた。
アイスを食べ終わると川井の部屋に戻ってまた勉強を始めた。何か府に落ちないモヤモヤとした気持ちのままで数時間が経つと、俺は帰り仕度をして川井の部屋をあとにした。
恭介との約束まで2時間ほどあったので一旦家に帰り、本日2回目のシャワーを浴びた。汗をかいたあとのシャワーは本当に気持ちがいい。シャワーを済ませてもまだ1時間ぐらいあった。それで30分ほど寝ようと、目覚まし時計をセットしてベッドに横になった。
目が覚めると完全復活していた。お腹もいい具合に空いていて、恭介のカレーを食べるのになんの障害もなかった。
俺は服を着替えて、住宅街にそびえ建つマンションまで自転車をこいだ。学校帰りに恭介と別れるいつもの公園を右へ曲がると、あとは一本道で行ける。1日に何度もこのマンションを行き来していると、俺がここに住んでいるような錯覚に陥った。
マンションに着いた時には約束の7時を少し過ぎていた。
夕食のカレーはまだ準備中らしく、恭介は俺を家の中にいれてキッチンへと戻っていった。
俺はソファーには座らず、フローリングに腰を落ち着けた。テーブルに置いてあるテレビのリモコンをいじくって、勝手にチャンネルを変えた。恭介のカレーが待ち遠しい。食欲をそそるカレーの香りがダイニングに充満していた。だいぶお腹が減っていて、観ている動物番組が遠く感じた。
目をパチパチさせながら動物番組を観ていると、恭介が、
「できたぜ」と使い込まれた大きなトレーにカレーライスと水を乗せて持ってきた。恭介のカレーライスを心待ちにしていた俺の目が星のように輝いた。輝きを増す俺の目がテーブルに置かれたカレーライスを捉えると、俺はふとあることに気がつき、俺の目から星のような輝きが消えてなくなった。
「これ玉ねぎとニンジンが入ってるじゃん。俺が野菜嫌いなの知ってるだろ」
せっかく恭介にカレーを作ってもらったのに俺は文句を言った。
「こっちに移せよ」
恭介はソファーに座り、自分の皿を俺の目の前に置いた。俺はスプーンを使い、目の前に置かれた恭介のカレーライスに玉ねぎとニンジンを器用に移していった。
「完了!」玉ねぎとニンジンを一通り移し終えると、俺は若干寂しくなったカレーライスを盛んに食べ始めた。
「なんでも食わないと身長が伸びなくなるぞ」
背の高い恭介が言うと説得力がある。
2人でテレビを観ながら淡々とカレーライスを食べていると、恭介が唐突に質問してきた。
「勉強って、川井の部屋でしてるのか?」
「ああ。でも川井の部屋ってクーラーねえんだぜ。最悪だよ。灼熱地獄」
「大変だな」
「大変だよ、本当に」俺は大きく頷いた。頷いた瞬間に記憶のスイッチが入ったらしく、昼間のアイスクリーム事件を思い出した。「そういえば川井ってバニラアイスにお茶をかけて食べるんだぜ。信じられねえよな?」
口の軽い俺は川井の秘密をあっさりと暴露した。
「本人が好きなら別にいいんじゃないか」恭介はたいして気にもせずにカレーライスを咀嚼していた。
「ところが話はそこで終わらねえんだ。なんでもバニラアイスにお茶をかけたら抹茶アイスみたいな味になるらしいんだけど、川井は抹茶アイス嫌いなんだぜ。おかしくねえ? 抹茶アイス嫌いならお茶かけなけりゃいいじゃん」
恭介はスプーンを持ったまま軽く笑い、
「なんでだろうな」と他人事のように言った。
感情のない恭介に力説している自分が馬鹿みたいに思えてきたが、まだ川井のことを話したかった。
「川井って頭いいけど、なんか変なんだよな。大人しそうに見えてすげえ気強いし、わがままだし、周りを気にせずに我が道を進んでるし」
「お前も周りを気にするタイプじゃないだろ」恭介に鼻で笑い飛ばされた。
「失礼なことを言うな。俺がどれだけみんなに気を使っているか」
恭介はまた軽く笑い、
「でもいいと思うぜ」と言った。
「何が?」俺は聞いた。
「お前と川井」
恭介の意味深な言葉だった。
「どういう意味だよ?」
「似合ってる。告白でもしたらどうだ」
「冗談だろ。あんな前髪整列そばかす女。……違うな、がり勉巨乳自己中女だな」
最初の悪口がしっくりこなくて、俺は言い直した。
「俺なら付き合いたいけどな」恭介は表情を変えずにさらりと言った。
俺は何度も噛み砕いたカレーライスを胃袋へと送り、冷たい水を飲み、そしてテレビに一旦視線を移し、ああ、平和で幸せな時間だなと思って、最後のカレーライスを口の中へと詰めこんだ。綺麗にたいらげた皿にスプーンを置いた。
『俺なら付き合いたいけどな』
恭介の言葉が俺の脳に時間差で辿り着いた。俺は一度頭の中を整理するために、恭介の言葉を疑問文にして自分に問いかけてみた。
『俺なら付き合いたいけどな?』
女子嫌いとは思えない恭介の言葉に、食べたカレーライスを全部吐き出してしまいそうなほど驚いた。
「恭介は川井みたいなのがいいのか?」
「さあな。もう片付けるぞ」恭介は空き皿をトレーに乗せてキッチンへと去っていった。
「あんなのがいいんだ」俺はぼそっと呟いた。
お盆になると俺は実家に帰り、玄関の前で迎え火をした。こんな小さな火でご先祖様が迷わずに帰ってこれるなんて、どうしても思えなかった。どうせ燃やすならいっそのこと家を丸々燃やせばいい。炎が空まで高く昇れば、たとえご先祖様が重度の方向音痴だとしても、きっと迷わずに帰って来れる。そして炎に包まれた家の前に立って、帰ってきたご先祖様にこう言おう。
「久しぶり。家は燃えたけど、元気なみんなに会えて嬉しい」
……怒られそうだな。
実家からマンションに帰ると、俺は川井に勉強を教えてもらいたくなり電話をかけた。
俺が予想するに、恭介はほぼ間違いなく川井のことを好きとみた。俺のようなどんくさい奴が他人の色恋沙汰に介入すると、かえって事態を混乱させそうだったが、川井に好きな人がいるのかどうかは、恭介とか関係なく俺自身が知りたかった。
「川井って好きな奴とかいるのか?」
俺は勉強をしている川井の背中に質問した。
「いないわよ。どうして?」川井はいつものように学習机に向かったまま、そう答えた。
「別に。川井がどんな奴を好きになるのか興味を持っただけ。川井はどんな感じの男子がいいんだ?」
「そんなことより勉強をしましょう」
川井は俺の質問を邪魔そうに扱った。それぐらいじゃあ、俺の質問攻撃は止まらねえ。
いきなり恭介の名前を出すのは怪しまれるので、格好よくてモテる奴の名前を適当に挙げていくことにした。
「2組の聡太郎とかはどうだ? 川井的に」
「それって今答えなきゃいけないこと?」
「当然」俺がきっぱり言うと、川井の面倒くさそうなオーラが背中から発せられた。
「西島くんでしょ? 話したこともないわよ」
「それなら5組の義晴は?」
「格好いいし、明るくていいんじゃない」
「1組の涼一」
「そうね……いいと思うわ」
川井はどうでもいいような答え方をしていた。
「ちゃんと答えろよ」
「答えてるじゃない」
俺は強引に話を進めると、最後に恭介の名前を出した。
「じゃあ、恭介とかは?」
俺が恭介の名前を出すと、川井の答えが返ってくるのに少し時間がかかった。
「格好いいと思うわよ。背も高いし。でも恭介くんは幼馴染みみたいなものだから」
「だからなんだよ?」
「だから、それだけ」
残念、恭介。
「そうか。それはしょうがねえな」俺は腕を組んで頷いた。
「何がしょうがないの?」川井は椅子を回転させて俺の方を見た。まさか川井がこっちを振り向くとは思わず、俺は不意を衝かれてしまい焦って答えた。
「か、川井に好きな人がいないことだよ」
「どうしてそれがしょうがないの?」
「中学3年で好きな男子が1人もいないなんて、なんか青春してねえだろ」俺は適当なことを言ってごまかした。
「そうかしら?」
「そうだよ」俺は深く頷いた。
「伊東くんは?」
「えっ?」
「伊東くんは好きな人いるの?」今度は川井が興味津々に聞いてきた。
「俺のことは別にいいだろ」
「わたしも答えたんだから伊東くんも答えてよ」
俺は短い間に考えたが、これといった該当者はいなかった。
「そういえば俺もいねえな」
「伊東くんも青春してないわね」川井はそう言うと思い出したように「亜沙美と仲いいじゃない」と本田の名前を嬉しそうに引っ張り出してきた。
「どこがだよ。いつも喧嘩してばっかりじゃねえか」
「そう? 仲良さそうに見えるけど」
「よくねえよ。あいつムカつくだけだし」
「そう言って本当は好きなんでしょう。亜沙美はかわいいから」
「本田をかわいいと思ったことは今まで一度もねえし、あんな奴、好きでもねえ」俺は断言した。
「亜沙美と伊東くんは合うと思うけどな」
「馬鹿なことを言うな。それに俺は本田より川井の方がいい」
その発言のあと、俺は何かがおかしいことに気がついた。……。一瞬の沈黙。何を言ってるんだ俺は! どさくさに紛れて変なことを口走ってしまった。川井はなんとも言えない不思議な表情で俺の方を見ていた。これは非常にまずい、ごまかさなければ。
「ほ、本田なんかよりはまだ、最低、ギリギリ、なんとか川井の方がましってことだからな」
「それってわたしにも亜沙美にも失礼じゃない?」川井が怒っているのが分かった。しかし、ここはなりふり構っていられない。
「本当のことだからしょうがねえだろ。この話もうやめ。勉強する」
「伊東くんから振ってきたのに」
「うっさい。黙って勉強しろ」
俺が注意をすると、川井は呆れたように溜め息をついて、俺に背を向けた。そして、眠たそうに欠伸をした。
「わたし、もう無理みたい」
俺が自分で振った話を強制終了したそれから1時間ほどあと、川井はそう言って急にシャープペンを学習机に置き、部屋から出ていった。15分ほどで戻ってきた川井はベッドで横になり、タオルを顔にかけて、そして完璧な寝る態勢に入った。
それを見た俺は当然怒った。
「川井! 何寝ようとしてんだよ! 川井が寝たら俺がここに来た意味ねえだろ!」
タオル越しに川井の力尽きそうな声が聞こえた。
「すぐ起きるから適当に勉強してて」
適当ニ勉強シテテ? 俺の怒りメーターがMAXまで振りきれた。川井の言っている意味がわからなかった。俺は全身全霊をかけて勉強するためにわざわざここへ来てるんだ。適当に勉強しててとは何事だ。見損なったぞ川井。
「何ふざけたこと言ってんだよ。起きろよ」俺は寝ている川井の肩を揺すった。
「本当にすぐ起きるから。少しだけ寝かせて」
川井はテコでも起きそうになかった。ベッドに体を沈めたままだった。あまりしつこく起こすと本気で怒られそうだったので、俺は諦めて1人で勉強を始めた。
川井の部屋中に変な感じの空気が流れていた。灼熱の部屋で、その部屋の主である川井はベッドでぐうぐう寝ていて、川井に放っとかれた俺は汗をだらだらと流しながら勉強をしている。これならクーラーの効いた自分の部屋で勉強しとけばよかった。
集中力が散漫になっているせいで、道路を走る車の音がやけに大きく聞こえた。シャープペンを動かせば動かすほど、部屋中に虚しい筆記音が響き渡った。
ベッドで眠っている川井の方を見ると、シャープペンを持つ俺の手が止まった。川井は俺に背中を向けて寝ていた。
よくこんな蒸し暑い部屋で寝られるな。
そう感心しながら川井の健康的なお尻をじっと見ていると、なぜか俺の方が照れてしまい、1人で勝手に気まずくなった俺は川井に背中を向けて、またシャープペンを動かした。
結局、川井が起きるまでに2時間近くかかった。
「ごめん、わたし結構寝てたね」川井は小爆発を起こしている髪を気にする様子もなくそう言った。
「結構どころじゃねえよ。俺もう帰る時間じゃねえか」俺は勉強道具をバッグに片付けていたところだった。
「1時間ぐらいで起こしてくれたらよかったのに」
「俺はそんな臨機応変な奴じゃねえ」本当は途中で起こそうかと思ったが、川井があまりに気持ちよさそうに寝ていて、起こすのに気が引けた。「それじゃあ、もう帰るな」俺はショルダーバッグを肩に乗せた。
「待って、小説」
そういえば川井から小説を借りるのを忘れていた。川井が本棚から選んだ小説を俺はショルダーバッグに入れた。
晴れた日を狙って久しぶりに部屋の掃除をした。窓を開け、ベッドのシーツを替え、学習机の上を簡単に片付けて床に掃除機をかけた。そんなに激しく散らかってはいなかったので、思っていたより掃除は早く済んだ。
掃除が終わると俺はシャワーを浴び、冷蔵庫からポカリスエットを奪い取って、恭介から借りた『エデンの東』をリビングで鑑賞した。ぼおっと映画を観ている最中に、その恭介から電話がかかってきた。大変なことにストリートバスケのお誘いだった。どうしてこのクソ暑い真夏日に外でバスケットをしないといけないんだ。しかもシャワーを浴びたばかりなのに。俺は恭介の誘いを体よく断り、映画の続きを再生した。
映画が終わると飲み残したポカリスエットを持って部屋に戻り、ベッドに寝転んで川井から借りている『不思議の国のアリス』を読んだ。川井が好きそうな本だな、と読みながら思った。川井は現実的な性格に似合わず、メルヘンやファンタジーな話が好きだった。俺はそれを川井の前で言ったことはない。怒られそうで怖いから。
しかしなんだかんだですっかり自分が川井の影響を受けていることに気づく。川井がいなかったらビートルズも聴いてないし、こんな小説も読んでない。
川井が卑怯者に思えてきた。俺は川井から一方的に影響を受けている。勝ち逃げされているような気がした。俺だって川井と同じ土俵に立てれば、川井に影響を与えられる。ただそれがいつ頃になるのかはまったく見当がつかなかった。
俺は小説に栞を挟み、ベッドの下に投げて、軽く欠伸をした。どうやら俺は小説を読むと眠くなる体質らしい。
たぶん夢を見た。
俺は体が小さくなり、小学生になっていた。教壇の椅子に座っている先生が採点の済んだ算数のテストを返すところだった。
俺は大人しく席について待っていた。しばらくして返ってきた俺のテストの点数は22点だった。算数の苦手な俺にしてはかなり頑張った。俺は胸を張った。
やりきった感じで満足しながら答案用紙を見ていると、クラスのどこからか女子の泣く声が聞こえた。俺は声のする方をレーダーのように探知し、そして探り当てた。
俺の隣の席にいる女子が泣いている。
俺は何を泣いているのか不思議に思い、そいつに理由を訊ねてみた。
「お前、なんで泣いてるんだよ?」
そいつは泣くばかりで、一向に答えなかった。俺はもう一度訊ねた。
「お前、なんで泣いてるんだよ?」
そいつは泣きながら答えた。
「テストの点数が……」
ひっきりなしに泣いているせいで、後半がよく聞き取れなかった。
「テストの点数がなんだよ?」話の進まない状況に俺はイライラし始めた。そいつは唾を飲み込み、声を搾り出すように言った。
「テストの点数が悪くて」
俺はテストの点数が悪くて泣いている女子というものを初めて見た。泣くほどだから相当悪いに違いない。10点台か、1桁か。どっちにしても俺よりは低いな。それは可哀想に。
「何点だったんだよ?」俺はそいつの答案用紙を盗み見した。答案用紙の右上に『78』という赤い数字が見えた。ぷつんと俺の中で何かが切れる音がした。同情が怒りに変わった。
「お前、ふざけんなよ! めちゃくちゃいいじゃねえか! 78点で泣いてたら22点の俺はどうなるんだよ!」
俺は凄くまともなことを言った。
「今までずっと80点以上はとってたの」
そいつは泣きながら言った。嫌味にしか聞こえなかった。なんて嫌な奴だ。こんなことでいちいち隣で泣かれてたら、この先たまったもんじゃねえ。
「貸してみろよ」
俺はそいつから答案用紙を奪い取った。自分の筆箱から赤ペンを取り出そうとしたが、勉強をしない俺は赤ペンさえ持っていないことに今頃気づいた。
「赤ペンも貸せよ」
俺はそいつの筆箱からさらに赤ペンを奪い取った。そして答案用紙の右上にある『78』の『7』という数字を強引に『9』に書きかえ、おまけに花マルをつけてやった。
「はい、98点。大変よくできました。これでいいだろ。もう泣くなよ」
俺は答案用紙と赤ペンを自信満々に返した。
「こんなの意味ない……」
滝のごとく流れる涙をせき止めるかのように、そいつは唇をグッと噛み締めた。俺はその涙を堪えようとするいたいけな顔が面白くて笑ってしまった。印刷ミスのプリントをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨てたような顔だった。
「変な顔すんなよ。また次頑張ればいいだろ」次も頑張る気のない俺が偉そうに言うと、そいつは鼻をすすりながら頷いた。
テストの点数が悪いぐらいで泣く意味が俺には分からないが、そいつにとってはよほど大事なことだったんだろう。
夏休みは相変わらず、勉強だらけの毎日だった。
勉強をするリズムにも慣れてきて、勉強自体はそんなに嫌じゃなくなったが、俺には余裕がないこともあり、勉強をしているとイライラする。俺が頭脳明晰ですぐに仕組みを理解できれば、多少の余裕もでてきてそんなイライラもなくなるのだろうが、残念ながら俺の頭脳は明晰じゃなかった。未だにかけ算すらまともにできない。そんな頭脳で受験戦争に放り込まれたら、誰だって余裕はなくなる。丸腰で戦車に立ち向かうようなもんだ。川井の援護射撃がなければ、今ごろ俺は戦車の大砲で木っ葉微塵になっていただろう。
川井との勉強会は行き詰まった俺の気晴らしになっていた。いつものように俺が意気揚々と川井の部屋に入ると、川井は今まで聞いたことのない恐ろしい言葉を口にした。
「今日は亜沙美も来るから」
「本田も来んの!? じゃあ、俺帰ろうかな」あいつと一緒に勉強すると集中力がなくなりそうだった。
「別にいいわよ、帰る?」川井の言葉にはひと欠片の感情もこもっていなかった。
「どうかいさせて下さい」勉強をしたい俺は懇願した。
川井からもらった麦茶を飲み、あぐらをかいてテーブルで勉強をしていると、話題の女子である本田が到着した。俺の頭の中でダースベイダーのテーマソングが流れた。
「なんでアンタがいるのよ」涼しそうな花柄のワンピースを着た本田が部屋の入り口で不満そうな顔をして言った。
「それは俺のセリフだ」というか、川井は俺がここに来ることを本田に話してないのか……。
「理花、なんで祐太がいるの?」本田は川井に食ってかかった。
「たまには3人で勉強するのもいいじゃない」川井は学習机の椅子に座ったまま、本田を諭した。
「そうだ、嫌なら帰れ」俺は本田の帰宅を促すように言った。
「あんたが帰りなさいよ。あたしは理花の友達なんだから」
「馬鹿言え。俺と川井は小学校から一緒なんだぜ。付き合いはお前より俺の方がなげえんだ。だからお前が帰れ」
「一緒なだけでしょ。早く帰って」
「俺は絶対帰らねえ。お前が帰れ」
「喧嘩するなら2人とも帰ってもらうわよ」川井に怒られた。
「バーカ、川井に怒られてやんの」
「あんたもでしょ馬鹿」
川井は椅子から立ち上がって、「亜沙美も麦茶でいい?」と言った。
「うん。ありがとう」
本田が頷くと、川井は部屋から出ていった。
本田と2人っきりになった。本田は手提げのバッグを小振りなタンスの前に置いた。
「なんだ、そのやる気のねえ小さいバッグは? 俺のやる気を見ろ」俺はそう言って自分のショルダーバッグを自慢気に叩いた。
「悪いけど、あたし祐太に構ってるほど暇じゃないの」俺の挑発を受け流した本田はバッグから勉強道具を取りだし、俺の使っているテーブルに置き始めた。
「なんだよ、これ俺のテーブルだぜ」
「あんたのじゃなくて理花のでしょ」
「だから俺が川井から借りてるんだよ。お前は別のテーブルを借りろ」意味が分かってる癖に本当に腹の立つ奴だ。
「あんたが借りれば」本田はノートと英語の参考書を広げ、シャープペンを手にした。
そんなに大きいテーブルではないので2人で使うと、本田との距離がとてつもなく近い。小学生みたいな本田の幼い顔が目の前にある。まずい。いくら本田とはいえ、なんか照れる。
「お前と一緒のテーブルで勉強する気はねえ。俺は床で勉強する」俺は勉強道具を床に移し、体を伏せた。
「あっ、そう。好きにすれば」本田は気にする様子もなく言った。
そこへ麦茶を持った川井が戻ってきた。
「どうして床で勉強してるの?」
「本田にテーブルを奪われた」俺は川井に堂々と告げ口をした。
「人のせいにしないでよね。あんたが勝手に移動したんでしょ」
「お前が強引に来たからだろ」
川井は麦茶をテーブルに置いて、
「お姉ちゃんのテーブル持ってくるから」と言った。俺は川井の優しい言葉に甘える気はなかった。それに床で勉強するのは思っていたより快適だった。
「いいよ。俺はここで勉強する。楽だし」
「嘘? 疲れるでしょ?」川井はまた聞いてきた。
「全然余裕」俺はガッツポーズを決めた。
「本人がそう言ってるんだから、好きにさせれば」
それを本田に言われると頭にくるが、余計なことを言うとまた喧嘩になりそうだったので、俺は我慢して黙ったまま勉強を再開した。
「本当にいいの?」川井は最後まで俺に気を使ってくれた。
「いいよ」俺は気のない返事をした。
3人での勉強会は無言のまま進んだ。集中して勉強をしているのはいいことだが、3人が口を開かず無言のまま勉強をしているのは喋らない人形同士が集まったようで奇妙な感じがした。
喉が渇いた俺は上半身を起こし、麦茶で一息ついた。一息つきながら、本田との喧嘩の最中に言った言葉を思い出していた。確かに俺と川井は小学校も一緒だが、同じクラスになったことはなかった。
俺は喋れる人間に戻って、そのことを川井に話した。
「だけど珍しいよな。川井とは小学校から一緒なのに中学3年で初めて同じクラスになるなんて」
「覚えてないの!?」川井は驚いて、珍しくこっちを振り向いた。俺は川井の反応にびっくりした。
「な、ないだろ。1回も」
「ひどい、忘れてる。あるわよ。5年生の時、一緒だったじゃない」川井は呆れていた。
「こんな記憶力のない人を相手にしたらダメだって」ノートに何かを書いている本田がさりげなく横槍を入れてきた。
「うるせえな。それより川井、嘘をつくならもっと上手くつけよ」俺はまだ川井の言葉を信じていなかった。
「5年1組だったでしょう? クラスのみんなで書いた文集も、わたし持ってるんだから」
それを聞いた俺はやばいと思った。俺は自分が何組かだったのかも覚えていない。
「うーん、覚えてねえなあ」
「わたしと席が隣同士だったのは覚えてる?」
「それはさすがに嘘だろ」同じクラスというところまでは妥協してもいいが、それ以上は譲れなかった。
「それも覚えてないの?」川井は疲れた様子でそう言った。
「祐太をまともに相手にしたらダメだって」小うるさい本田がまた横槍を入れてきた。
しかし、この追い詰められたギリギリの局面で俺はピンと閃いた。
「待て、わかったぞ。きっと俺の過去にはとんでもない秘密が隠されているな。宇宙人に連れ去られて改造されたとか」
「ただ単に記憶力がないだけでしょう」
「あんたに記憶力がないだけ」
川井と本田から同じように、しかも同時に否定された俺はムキになった。
「俺が人類を救う方法を思い出しても、お前らには絶対教えねえぞ!」
川井と本田は同じタイミングで吹き出した。
人を小馬鹿にした2人のリアクションに俺の怒りはしばらく治まらず、俺はまた喋らない人形に戻った。
いくら高校に合格するためとはいえ、貴重な夏休みの時間をこんな風に過ごしていいものかと疑問に思う。俺からすれば夏休みは楽しく遊ぶためのものであって、イライラしながら必死で勉強するためのものではなく、ましてや川井と本田に馬鹿にされるためのものでもない。
俺はふと遊びたい気持ちに襲われ、俺の怒りがそれと反比例するように治まり始めた。時間が経ち完全に俺の怒りが治まると俺は2人にある提案をした。
「なあ、今度みんなでどっか遊びに行かね?」
「受験生にそんな暇があるわけないでしょ」例のごとく背中を向けたままの川井が言った。
「そうそう」川井の言葉に本田が相槌を打った。今日は2対1なのでかなり分が悪い。しかし俺は諦めなかった。
「1日ぐらいならいいじゃねえか。せっかくの夏休みなんだから海水浴とか行こうぜ」
「もうクラゲがいると思うけど」川井が優秀な分析結果を報告した。
「じゃあ、遊園地にしよう。俺、ジェットコースターとか大好きなんだ」
「それなら1人で行ってくればいいじゃない」振り向いた川井が冷たく言った。
「1人で遊園地とかうける」本田が笑いながら言った。
じゅ、15年間生きてきて、こんな屈辱を受けたのは初めてだ。しかし俺は諦めなかった。遊園地に行きたい。なんとか説得しなければ。
「あのなあ、中学3年の夏休みは人生で一度しかないんだぜ。大人になって振り返って、あの時は勉強しかしていない、なんの思い出もない。そんな中学3年なんてつまらなさ過ぎるだろ」
いいこと言った俺。久しぶりにいいこと言った。どうか俺の熱い想いがこの2人に届きますように。
「わたしは勉強楽しいけど」
「あたしも」
俺の熱い想いはこいつらに届かなかった……。しかも川井の言ったあとに本田が続くこの黄金パターンは一体なんなんだ。俺はもう駄々っ子のようになっていた。
「いいから行こうぜ、みんなでさあ。恭介も誘って」恭介の名前を出すと、若干空気が変わった。俺が予想するに4人なら行ってもいいかな、という空気になった。
俺はここぞとばかりに追い討ちをかけた。
「分かった! こうしよう! 俺と川井がテストで勝負をして、俺が勝ったらみんなで遊園地に行く! これでどうだ?」
「あんたが理花に勝てるわけないじゃん」と本田が当たり前のように言った。
「だから少しハンデくれよ。勝負科目は俺の一番得意な理科。そして俺はプラス5点」俺は右手を大きく開いた。
「わたしが勝ったら?」
「川井と本田のいいところを10個づつ言う」
「それだけ!?」川井と本田の見事なハーモニーが聴けた。
「馬鹿。お前らのいいところを10個も探すのがどれほど大変なことか」俺は1人頷き、「で、どうする?」と聞いた。
「いいわよ、それで。勝負しましょう」俺の挑戦状を川井は女らしく受け取った。
「ふっふ、ついに師匠を越える時がきたようだな」
俺と川井の遊園地をかけた勝負が始まった。
同じ問題集が2冊なかったので、本田の選んだ問題集を俺が先に解いて、そのあと川井が解いた。
そして運命の採点。採点をしてすぐに俺は勝ったと思った。俺の点数は96点だった。さらに5点プラスのハンデだから合計101点! 川井が満点でも俺の1点勝ち。
「川井! 俺、96点だったから俺の勝ち! 川井が100点でも俺の1点差で勝ち! 川井は何点だった?」
「わたしは86点」とノートに書いた数字を見せた。
「全然ダメじゃねえか」喜ぶどころか俺は逆に心配になった。たいして難しくもない問題で川井が90点以上をとれないなんて。いや、感情に流されるな。勝負の世界はそんなに甘くねえ。それと遊園地は別の話だ。
「まあとにかくこれは勝負だし、約束だからな。ということで遊園地行き決定! じゃあ明後日決行な。恭介にも連絡いれとくから」
「明後日!? 恭介くんと亜沙美は塾があるんじゃない?」
「うん、ある」と本田は頷いた。
「午後から行けばいいだろ。1日中遊園地にいるわけじゃないんだし。とにかく勝負に勝ったのは俺なんだから、塾をサボってでも約束は守ってもらうぜ」
ここにはいない恭介の都合も無視して、俺は強引に遊園地の約束をとりつけた。
約束の日、俺はバスで遊園地へと向かった。時間には間に合ったものの俺が一番遅かった。3人は遊園地の入り口の前で何やら話をしていた。俺は元気よく挨拶をしてみんなと合流した。入場料金とフリーパス代を払い、遊園地の中に入った。
夏休みだけあってさすがに人が多い。俺たちは学校の話をしながら、混雑した遊園地内を散策した。
入り口の側にあるメリーゴーランドは長閑かな音楽を奏でながらゆっくり
と廻っていた。派手な装飾を施した木馬が父親と子供を乗せて、波のように揺れている。鉄柵の外にいる母親がその2人に手を振っていた。
メロディペットに乗った子供が壊れるんじゃないかというぐらいハンドルを左右に強く振っていた。もし子供が壊したらやっぱり親が弁償するんだろうか? と他人事ながら心配になった。
スカイサイクルに乗った小学生が俺たちの頭上を悠々と横切っていった。小学生がおもらししないことを祈った。
ジェットコースターのレールが園内から空に向かって突き出していた。風を切り裂くジェットコースターの音と断末魔のような乗客の悲鳴が園内に響き渡っていた。
「あれに乗ろうぜ」
俺は恭介の隣に座り、俺たちの後ろの席に川井と本田が座った。
俺たちが乗り込んだジェットコースターは壊れた列車が無理に動くような不気味な振動音をさせながら地道にレールを上って行った。ジェットコースターがレールの頂点に達すると、遊園地内の景色はもちろん、遠方にあるホテルや海も見えた。その瞬間、急速降下。地面に向かって突き進んだ。硬い風が体を押さえつけてくる。後ろでジェットコースターを堪能している川井と本田の声がかすかに聞こえた。カーブを曲がる度に強い遠心力がかかり、体が外に飛ばされそうになる。これは楽しい。
コースを1周してジェットコースターに満足すると、俺たちは搭乗口の階段を下り、次のアトラクションを目指した。バカでかい観覧車が青い空に蜘蛛の巣を張っている。観覧車はゆっくりと回転しながら獲物を待っていた。
「観覧車乗ろうぜ」
俺はみんなを誘うと、観覧車に乗り込んだ。
俺の正面に川井、右に恭介、余った席に本田が座った。
観覧車は普通、会話をしたり外の景色でも見ながらのんびりと楽しく乗るアトラクションのはずなのだが、ここの遊園地の観覧車は信じられないほど怖かった。わざとなのか老朽化なのかはわからないが、床に5ミリほどの小さな穴がプツプツと開いていて足元から下の景色が見える。ジェットコースターとは比べものにならないぐらい怖かった。
「この床さあ、思いっきり蹴ったら底が抜けるんじゃねえ?」と俺は言ってみた。
「やめてよ」川井はびびっていた。
「今までにない観覧車だな」恭介は感心していた。
「でも流行らなさそう」本田が呟いた。
俺たちは景色を見る余裕もなく、丸い箱の中で脅えながら1周した。観覧車から降りると、踏みしめた大地がとても懐かしく、見上げた空がいつもより広く感じた。
ロケットのアトラクションの方へ川井と歩きながら話をしていたら、俺と川井の後ろからどんよりとした重たい嫌な空気が流れてきた。俺はその空気に耐えられず、何事かと後ろを振り向いた。
そこには無言で一緒に歩く恭介と本田の姿があった。
よくよく考えてみたら、確かにそうだ。同じクラスとはいえ、恭介と本田は初対面みたいなものだった。小学校も違うし、中学1年と2年の時のクラスも違う。学校で2人が話をしているのを見たこともない。しかも恭介は自分から女子に話しかける方ではないし、本田もああみえて意外と引っ込み思案なので、そんな性格の2人を一緒にしたら、どうしたって沈黙になる。
「川井。俺、本田と話してくる」俺が恭介と本田のところへ行こうとすると、
「ダメよ。邪魔しちゃ」と川井になぜか止められた。
「だってあの2人全然盛り上がってないぜ」
川井は後ろを見て、
「いいのよ、あれで」と問題なさそうに言った。
「いや、よくねえだろ」俺は問題ありそうに言った。
「いいの、大丈夫。行きましょう」
川井はそう言って前を向いた。何がいいのかは分からなかったが、川井がそう言うのなら俺も放っておくことにした。
グルグルと回るカプセル錠剤のようなロケットのアトラクションに乗ると、見事に酔った。しかも俺だけ。
「ちょっと休ませてください」俺は遊園地内にあるゲームセンターのベンチで休憩をとらせてもらった。1人ではしゃぎすぎた。
「ねえ、理花。ぬいぐるみ見に行こう」
本田と川井の2人はすぐ目の前にあるUFOキャッチャーのところへぬいぐるみを見に行った。
「コーラ買ってくる」恭介はコーラを買いに旅立った。残された俺はベンチで1人うなだれていた。
ロケット酔いごときに負けてたまるか、と気合いでなんとか顔を上げると、川井と本田の遊んでいる姿がUFOキャッチャーのガラス越しに見えた。ぬいぐるみが取れないらしく、川井たちはUFOキャッチャーの動きに一喜一憂していた。
それを見た俺は少しドキッとした。あんなにはしゃいでいる川井を見たのは初めてだった。いつも冷静で感情をあまり表にださない川井があんなに楽しそうにしていることが信じられなかった。川井でもああいう表情するんだな、と感心しながら俺は川井を見ていた。ガラスを通して見える川井の笑顔からどうしても視線を外せなかった。
「調子はどうだ?」
いきなり恭介に話しかけられた俺は心臓が止まりそうなほどびっくりした。川井に夢中だった俺は、戻ってきた恭介に全然気がつかなかった。
「ああ、たいしたことないからもう大丈夫」俺は驚きを隠しながらそう言った。ちょうど川井と本田もこっちに戻ってきた。帰ってきた2人に恭介はコーラを手渡した。
「ありがとう。ねえ、あのキティのぬいぐるみ欲しいんだけど取れる?」と川井はUFOキャッチャーの方を指差した。
「俺は無理だ。UFOキャッチャーなんてほとんどしたことねえからな」俺は取れない方に自信があった。
「俺も」と恭介も自信なさそうに言った。
2人の頼りない男子の言葉を聞いた川井は、
「そうなんだ」と残念そうに言った。
そこで俺はピンと閃き、勢いよく立ち上がった。
「みんなで頑張って取ろうぜ!」
そして俺たちは4人がかりで、UFOキャッチャーにかじりつくことになった。結局、キティのぬいぐるみをひとつ取るのにみんなで2000円かかった。
その日の夜。俺はなかなか寝つけずにいた。目を閉じる度に、ゲームセンターで川井が楽しそうにはしゃぐ姿が浮かんでくる。川井の楽しそうな姿と俺の感情が頭の中で繋がっているのが分かった。そんなに悪くない感情だったし、恭介の気持ちも少し分かった。ただ受験勉強や川井との関係に支障をきたしそうだった。
『前髪が揃っている。そばかすありすぎ。性格が冷たい。無駄に乳がでかい。わがままで自己中。がり勉。友達が本田だけ』
俺は川井の悪口を羊の代わりにして、眠りについた。