秘密
彼女の鼻歌で目が覚めた。助手席に座っていながら、俺はいつの間にか眠ってしまったらしい。カーステレオから流れているのは、俺の知らないポップスだった。知らないメロディと知らない歌詞。けれど彼女は楽しそうに歌っている。そうして、慣れた手つきでハンドルを切り、右折していく。彼女の運転は、いつもとても静かだ。
小さなパールのピアスが、彼女の耳で揺れている。明るい茶色に染められた髪に、そのピアスはよく似合う。一番のお気に入りだと、彼女もいつか言っていた。いつそんなことを言っていたのだっけ、そんなことを考えていたら、彼女が不意にこちらを向いた。
「起きた?」
「ああ、うん。ごめん、寝ちゃってて」
「ううん、いいの。でも、もうすぐ着くから起きててね」
彼女はそういって微笑んで、CDに合わせて鼻歌を歌う。俺の知らない綺麗なメロディが車内に満ちていく。彼女は、いつこのCDを買ったのだろう。それとも以前から持っていたのだろうか。どうやってこの曲を知ったのだろう。聞いてみればいいのかもしれないけれど、鼻歌を遮ってしまうのが躊躇われるほど、彼女は楽しげにその歌を歌っていた。だから結局、俺は黙ったままで、流れていく窓の外を見ることにした。
珍しく彼女から電話がかかってきたのが、今から二時間くらい前。夜景を見に行かないかと、彼女が言った。そうやって彼女から誘ってくれたのが珍しいのと嬉しいのとで、深く考えずに返事をして、それから三十分後には彼女の車に乗っていた。ということは、一時間半くらい車に乗っているということになるのだけれど、まだ目的地には着いていない。彼女は、どこに向かうつもりなのだろう。そういえば、具体的にどこへ向かうつもりなのかは聞いていなかった。
夜景を見に行く、なんて、ただの口実なんじゃないか。
こんなマイナスなことしか浮かばない俺は、たぶん、彼女のことが怖いのだ。彼女から、別れを切り出されてしまうことが。
きっと彼女とは、別れるべきなのだろう。全部の関係を断ち切って、何もかも忘れて、お互いにまったく別の道に進むべきなのだろう。最初から、そんなことはわかりきったことなのだ。彼女との関係を始めた、その瞬間から。でも何故か、俺は彼女の隣に座っている。突然の電話にも律義に対応して。起きててね、そう言われたことを忠実に守って。彼女の鼻歌が何の歌なのか、一生懸命に考えて。まったくもって、惨めな話ではある。でも自分で望んでこんな非生産的なことをやっているのだから始末に負えない。
ゆっくりと車が停まり、エンジンが切られた。気が付けば車は、どこかの山道に入っていた。車のライトが消えると、真っ暗と言ってもいいほど暗い道だった。
「着いたよ、降りて」
彼女はそう言って先に降りる。のろのろとシートベルトを外し、俺も車を降りた。
夜景は、本当に広がっていた。山道の、少し開けたところ。冬の澄んだ空気に街の光がきらめいて、ゆらゆら揺れていた。宝石を散りばめたような、とは、使い古されてはいるがなかなかに的確な表現だ。少し風があるから、マフラーか何かしてくるべきだったかと、小さな後悔がよぎった。
彼女は本当に、夜景を見に行きたかったのだろうか。俺と、夜景を。もしそうなら、どうして。
「ね、綺麗でしょう?」
「そうだね」
「ここ、穴場なんだ」
誰も連れてきたことないの、と彼女は笑う。その言葉を証明する術もなく、彼女を信じ切る強さもない俺は、曖昧に笑うことしかできない。
そんな俺を気にする風でもなく、彼女は目をきらきらさせて夜景を見ていた。山道にしてはしっかり整備されたガードレールを手すりにして、彼女は身を乗り出す。
「危ないよ、そんなことしたら。落ちたらどうするの」
「大丈夫!助けてくれるでしょ?」
「……まあね」
夜景を背景にして悪戯っぽく笑う彼女は、そのまま消えてしまいそうなほどに、綺麗だ。彼女がここから落ちてしまうなら、俺はきっと、何を引き替えにしてでも助けてしまうだろう。見捨てるなんて、そんな選択肢は、浮かぶことさえない。
彼女はふわりと笑い、ねえ、と俺を呼ぶ。何、と言おうとした俺を遮って、彼女の声が俺の耳に届く。
「別れたい?私と」
「……それは、君のほうなんじゃないの」
何も答えない代わりに、彼女はまた夜景に視線を戻した。これは、否定か、肯定か。俺には、わからない。彼女の本心も、たぶん、俺自身の本心も。
背中を向けたままの彼女から聞こえる声は、ひどく冷たい。でもきっと彼女は笑っているのだ。さっきみたいに、あるいは、出会った時のように。優しくて透明で、ほんの少しの憂いが混ざった、俺が知っている限りで誰よりも美しい笑顔を浮かべているのだ。
「別れたいくせに。意気地なし」
「君のせいだろ」
彼女がゆっくりと振り返って、俺の目を見た。今日初めて、彼女と目を合わせたような気がする。彼女の瞳に、憐れみと、蔑みが沈んでいるように見えるのは、きっと俺の被害妄想だ。そう思っていなければ、やりきれない。もしも本当に、俺が彼女の瞳の中に見つけた感情が、存在しているのだとしたら、俺は、もう。
すべてに目を伏せて、ただ目の前の夜景を楽しめば、きっと傷つかないで終われるのに。どうして俺は、彼女に何も言えないのだろう。どうして彼女は、こんなことを言うのだろう。もう貴方なんていらないから私の前から消えてよ、とでも、思い切り冷たく突き放して言ってくれればいいのに。そうすれば俺は、わかったよ、とでも呟いて、背中を向ければいい。別れたいかどうか、なんて、そんなこと。
そう聞かれれば、俺はもう、何も答えられない。別れるべきだとわかりきっていても、別れたくは、ないから。別れるという選択肢自体、俺にはない。そのことを、彼女も知っているのだ。知っていて彼女はそれを口にする。俺が何も答えられないのを見て、笑うでもなく、怒るでもなく、ただ静かに彼女は存在している。例えそれが今だけだとしても、俺の前に、いるのだ。
真っ直ぐに俺の目を見つめていた彼女が、無意味にスカートの裾を伸ばして視線を外した。
「私のせいで、私と別れたいってこと?」
「……君は、彼氏と別れる気なんて、無いんだろ」
「……さあね」
今度は彼女が、曖昧な笑顔を浮かべる。さっきの俺もこんな顔をしていたのか。何もかもを隠したような気になって、何一つ隠せていないような顔。こんなに人を傷つける笑顔があるなんて知らなかった。
彼女はきっと、何日か後に、俺じゃない誰かと一緒にここに来るんだ。そうして、俺に言った言葉と同じ言葉を吐くのだろう。誰も連れてきたことないの、と。綺麗に笑って、ガードレールから身を乗り出して、貴方なら助けてくれるでしょ、と呟くのだろう。俺ではない誰かに向かって。それはいったい、何という名前の、地獄なのだろう。
今日はやけに、憂鬱だ。悲劇のヒロイン――俺はヒロインではないけれど――を、気取りたいわけではないのに。
「……もう、帰ろう。寒くなってきたし」
「――もし私が、帰りたくないって言ったら?」
「……それに対してどう答えるのが正解なの?」
彼女は三秒くらい黙った。笑いながらため息をついた。何も言わずに車に戻ろうとする彼女を慌てて引き止めると、何とも形容しがたい表情を浮かべていた。呆れているような、迷っているような、照れているような。この表情を正しく表現するための言葉を、俺は持たない。
「そういうとこだよ、きっと」
「何が」
「貴方が一番になれないのは」
バタン、と車のドアが閉まって、俺のいる世界と彼女のいる世界が完全に分断されたような錯覚を覚える。冬の寒さが首筋に滑り込んできて、途端に身体が震えだした。やっぱり、マフラーを持ってきた方がよかった、なんて、今この瞬間にはそぐわないことばかり頭に浮かぶ。
早く乗りなよ、と窓越しに彼女の口が動く。まったくもっていつも通りの表情だから、どうしたらいいのかがよくわからない。……つまりこういうところなのだろう。俺じゃいつまで経っても、彼女の一番に、なれない。
俺は、彼女の言いたいことを、きっと半分も理解できていないのだろう。理解できているなら、彼女は最初からこんなことを言う必要もないのだから。
寒空の下でいつまでも突っ立っているわけにもいかないので、俺の行き先は助手席しかない。車に乗り込んでシートベルトを締めると、車は静かに動き出した。視界の端のほうに夜景が映って、しばらくして消えた頃、彼女がカーステレオのスイッチを入れた。ほとんど同時に、彼女の鼻歌も始まる。
流れ出すのは、やっぱり知らない曲だった。何故か、何度聞いてもメロディが頭に残らない、不思議な曲。彼女の鼻歌に耳を澄ませても、すべて耳を通り抜けてしまう。
車がゆるやかなカーブに差し掛かった時、彼女の鼻歌が不意に途切れた。CDの中の歌手が高らかに歌い上げる中、彼女は聞こえるか聞こえないかの小さな声で言う。
「私ね、貴方のこと好きよ」
「……へえ」
できるだけ彼女のほうを見ないよう、目の前に続く道路だけを見つめた。彼女が笑ったのが気配でわかった。何かしらのからかいの意味が含まれているのだろうけれど、それを口にするのは躊躇われた。やっぱりね、だからそうなのよ、と言われるような、そんな気がしたから。
「だから、貴方をいつか、一番にしてあげる」
「……え?」
思わず彼女のほうを見たけれど、まっすぐ前を見たままの彼女の顔はよくわからなかった。今の言葉が、どれくらい本気なのかどうかも。
そのくせ、彼女の呟きはいつまでも耳に残って消えてくれなかった。そんな口約束、信じられるはずもないのに。そんなわけないだろ、さっき俺は一番になれないって言ったばかりじゃないかって、笑い飛ばせばいい話だ。どうして俺は、いつとも、どうやってとも、何もわからない曖昧な呟きに、縋ってしまうのだろう。彼女は明日にも、さよならとも言わずいなくなってしまうかもしれない。何もかもが曖昧で、いつ消えてしまうともわからない彼女を、俺は。
こんなにも残酷で、こんなにも綺麗な人を、ひどく愛してしまっている。
「あのさ、一つだけ聞いてもいい?」
「何?」
「この曲、なんていう曲?」
赤信号で車を止めた彼女が、こちらを向いて、笑う。パールのピアスが揺れる。
「秘密」
なんとなく悪い女を書いてみたかったので書いてみました。
「俺」はあまりに女々しいかもしれないけど、まあ、それだけ彼女が魅力的ということで。