わりと切実な異世界恋愛事情
「おはよう。昨日は情熱的な夜だったね」
薄いカーテンを透過して降り注ぐ陽光。
朝と呼ぶには少々高い位置から注がれるその光を受けて、毛先にのみ癖を持つ艶やかな黒髪に白い輪が浮かび上がっている。
気だるげな様子の彼の頬にかかる黒髪が、男の持つ色気を助長させていた。
肘をついた右の掌に顎をのせて、寝台の上に伏したまま、とろけるような笑顔をうかべて、ラザールは私を見つめる。
ブラウンの瞳に篭る熱に、昨夜の情景が次々とフラッシュバックの如くに脳裏に閃いては消えていった。
――――愛しげに肌を撫でる指先、熱い唇が体をついばむ音、繰り返し囁かれる愛の言葉、むせ返る酒の匂い―――――
ラザールの手が、毛布からはみ出たむき出しの私の肩に伸ばされる。
つっと人差し指が肩から鎖骨をなぞって、毛布の下に潜り込もうとした時、体を隠すものがなくなるのも構わずに、私は勢いよく跳ね起きた。
驚きに目を見開き、けれどすぐにうっとりとした表情で私の体を眺めだすラザール。その彫りの深い整った顔に、
「死ね!」
と叫んで、私は思い切り拳を振り下ろした。
そもそもの始まりは、一年前の夜のこと。
バイト先から帰る途中、暗い夜道を駅から自宅まで自転車で走っていると、いきなり落っこちた。
見通しの良い直線道路。暗いといっても、等間隔に立つ街灯のおかげでアスファルトの道はずっと先まで見えていた。
なのに、落ちた。地面が闇に溶けたようにまっ黒になって無くなり、風を切る音は聞こえなかったけれど、臓腑を押し上げられるようなあの浮遊感は、「落ちた」としか形容しようがないものだった。
そして、気付けば、私は畑の真ん中で寝転がっていた。
腰ほどまでの高さの柵にぐるりと囲まれたそこには、見慣れぬ形の野菜がたわわに実っており、そのど真ん中で、紫色のキャベツのような、白菜のような作物をぐちゃぐちゃに押し潰して、私は倒れていた。
呆然としていると、白い前掛けを身につけた恰幅の良い中年の女性が、農耕具を手にして現れて………滅茶苦茶怒られた。
そりゃあそうだろうな。と落ち着いた後になってから思った。
精魂込めて作った作物をぼろぼろにされたんだから怒るのも当然だろう。
けれどその時の私は、混乱の極致で、眉を吊り上げて怒るその女性―――アリアさん―――に、ヒステリックに訳の分からない事を叫びまくった……らしい。
といのも、あまりに錯乱していて、曖昧な記憶しか残っていないのだ。残っていなくて良かったと、その時の事を、笑い話として語るアリアさんの話を聞く度に思う。
アリアさんは豪放磊落な女性だった。
叫びまくった後は、意気消沈して、延々と泣き続ける私を、訳ありの身の上と悟ってくれたらしく、自分の家に連れて帰ってくれた。
家にはアリアさんの夫がいたのだが、これがまた人のいいおじさんで、突然現れて「日本人です」「大使館に連絡をとりたい」「電話を貸してほしい」などなど、彼らにとっては全くもって、意味不明なことを喋り続ける私を、宥めて、温かいスープをご馳走してくれて、着替えも用意してくれて、泣き疲れて舟をこぎだした私にベッドまで貸してくれた。
翌朝、少し落ち着きを取り戻した私に、二人は朝食をとりながら色々と話をしてくれた。
ここはユダルーガという国で、自分達が暮らすこの村は王都から馬で半日の距離にあるルッソン村であるということ。日本という国名は聞いたことがないということ。大使館も電話も初めて耳にする言葉であるということ。などなど。
そこまで聞いても私はまだ、ここが地球のどこかの国であると信じて疑わなかった。だから、人のたくさんいる所に行って、ヒッチハイクでも徒歩でも、なんとか連絡をつけられる場所まで出て、日本に帰るのだと、帰れるのだと、そう思っていた。
けれど、その考えは、仕事に行くおじさんを見送ってからしばらく後、昼食の支度をするアリアさんを手伝おうと、共に厨房にたった時に、間違いであると思い知ることになる。
下ごしらえを終えたアリアさんは、鍋に具材を放り込み、火をつけるのに、なんと己の指先に小さな炎を灯したのだ。
「えええええええええ」と絶叫する私に、どうしたのかという眼差しを向けながら、調理台の上に置かれた黒い石に指先を近づけるアリアさん。するとその火が石に燃え移り、私は二度目の叫び声をあげることになった。
この国の人は、いや、この世界の人は、量や質の差こそあるものの、誰しもが力を内包しているらしい。
ごくごく力の弱い人では、明日の天気を当てることが出来たり、動物の機嫌が分かったりする程度のもの(それって本当に力のせいなのか? と何度か思ったりもしたけれど、百発百中なので、やはり力の賜物なのだろう)だけれど、大きな力を持つ人になると、雨を降らせたり、火の玉を生み出して魔物を退治したり出来るそうだ。魔物……見た事がないけれど、辺境にはいるらしい。
まあそんなこんなで、力がないこと、力の存在を知らないことから、ちょっと訳在りな女から、ものすごく訳在りな女に昇格した私に、やはりアリアさんとおじさんは変わらずに優しく接してくれた。
そして私の為に、王都で騎士をしているという彼らの一人息子を、次の休日に呼び戻してくれることになった。
騎士と聞いて、「体育会系な金持ち」というイメージしか抱けなかった私は、息子を呼び戻す事がなぜ、私の為に繋がるのか分からなかったが、アリアさんの説明を聞いて、なるほどと納得した。
アリアさん達の息子は、村にいたときには神童と呼ばれたほど利発な子供だったらしい。学ぶ事、何より本を読む事が大好きだった彼は、学者を夢見て王都に旅立ち、数年の後、何故か栄誉ある騎士になって故郷に錦を飾ったそうだ。
てっきり、学者になっているものと思っていたアリアさん達は大層驚いたらしいが、息子から騎士になるに至った経緯を聞いて、息子らしい、と笑ったそうだ。
なんでも王都には爵位を持つ人間しか利用できない図書館があり、その膨大な蔵書を一刻も早く読み漁りたかった彼は、学者として功を成すより、武人として功を成したほうが近道であると気付くやいなや、ペンを捨てて剣を手に取ったという。
もともと、質の良い膨大な量の力を有していた彼はあっというまに武勲を立て、若くして地位を授かり、その後は仕事の暇を見つけては図書館に通う生活をしているらしい。
なので、博識な彼ならばきっと私の力になれるはずだとアリアさん達は意気揚々と彼に文を書き、彼は8日後の休暇に、馬に揺られて村に帰ってきた。
彼を初めて見たときの光景は今でもよく覚えている。
それは家の前で、すっかり乾いた洗濯物を取り入れている時だった。
アリアさんの家は、村の中でも少し離れた森の縁にあって、その三方を草地に囲まれており、家の前には、王都へ続く道と村へと続く道が、それぞれ通っている。
なだらかな起伏のある草原に、すっと通った土をならしただけの細い道。緑と薄い茶色の対比が美しいその景色の中に、ぽつんと栗毛の馬と、詰襟の騎士服に身を包んだ馬上の人が現れたのだ。
遠目に見る彼は、まるで絵画の一部のように景色に溶け込み美しかった。
そして近くで見る彼は、背の高い美丈夫だった。
ぎりぎり結べる長さの黒い髪を後ろできゅっと一つに纏め、濃緑の騎士服を颯爽と着こなしている。
アリアさんも、おじさんも、茶色い髪色だったから、黒髪の彼が二人の息子であるとすぐに結びつかなかった。
聞く所によると、彼の髪色は、アリアさんの母、つまり彼の祖母にあたる人物から受けついだものらしい。アリアさんはよく、風呂上りに、「なんでこんなに真っ直ぐなのかしら。きれいねえ」と感嘆の声をあげながら私の髪を丁寧に梳ってくれたが、彼女の黒髪好きは、母と息子を彷彿とさせるからのようだ。
彼が馬から下りる前に、蹄の音を聞きつけたアリアさんが、家の中から飛び出して、肩にかけた外套を脱ぐ息子の背中をばしばしと叩いて、出迎える。
アリアさんは見ている私まで嬉しくなるほどの上機嫌だった。
黒髪のラザールは、一見するとアリアさんやおじさんと変わりない、人当たりの良い笑みを浮かべながら私に接してくれた。しかし、彼が私を怪しんでいることは、鋭い光を宿す目を見れば明らかだった。
自分が留守をしているあいだに、変な女が家に入り込んだと、そう思ったのだろう。さもありなん。
警戒しまくりな態度をとられたところで、仕方が無いこと。むしろアリアさんやおじさんのほうがちょっとあれなのだと思う。
彼は両親の話を聞き、次に私の話を聞くと、王都に使いを頼んで、十日間の休暇をとった。
騎士になってまだ日も浅いのに、図書館に通いつめたり、いきなり長期の休暇をとったりと、この時の彼に騎士として上に行くつもりはさらさらなかったのだと、その後、騎士や国の体制を学んでから知った。彼はとにかく本さえ読めればいいのだ。
実は親が危篤であると嘘をついて得ていたらしい、十日間の休暇を、ラザールはひたすら私を観察する事に費やした。
アリアさんの畑仕事を手伝いながら、村を散歩しながら、時には着替えている扉越しに、彼は思い出したように質問を投げかける。
私の話に矛盾がないか、試していたのだと思う。
地球は丸いとか、太陽の周りを回っているとか、猿から進化したとか、一部の宗教家以外には常識とされる知識に(その知識がこの世界に当てはまるとは限らないけれど斬新だと思ったそう)、時折驚きの表情を見せたが、結局ラザールの茶色い瞳から警戒の色が消えることがないまま十日目を向かえ、そしてその日の朝、事態は一気に好転した。
腕時計が発見されたのだ。
バイト中邪魔になるからと、ハンカチに包んでポケットに突っ込んでおいたままだったそれを、アリアさんは服を洗濯するときに取り出して、そのまま洗濯場の側の、木箱の上に置いたまま忘れていたらしい。防水でよかった。
十日目の朝、さあ洗濯をしようとして、ふと木箱に目がいって、ようやく思い出したそうで……。
アリアさんの美点は細かい事は気にしない豪快な所だけれど、欠点もまたそこにあると、ラザールがこっそりぼやいていたっけ。
それはさておき、この世界にも時計はあった。あったのだが、機械式の懐中時計で手巻きが最先端だという。小さな、それもクォーツ時計にラザールは度肝を抜かれたようだ。
散々彼に時計の仕組みを聞かれたが、上手く説明できないでいると、彼は焦れて、今度は分解させて欲しいと頼み込んできた。
「いや、でも壊れたら……」「少し中を見るだけだから、自分に直せないと思ったらいじらないよ」「でも……」「頼む! 少し見るだけでいいんだ」等と押し問答を繰り返し、そろそろ日が暮れるまでに王都に着くには馬を乗り潰さなければならないという時間が迫った頃になって、ついに私は折れた。
「分かりました」
と口にした瞬間、ぎゅっと抱きしめられて頬に口付けられる。目を白黒させている私の手を取って、彼は何度も「ありがとう!」と叫んでは、ハグと口付けを繰り返した。
実のところ、彼の熱心さに負けたというよりは、お世話になっているアリアさん達の手前、断れなくなっただけなんだけどね。
顔を赤らめて頬を押さえる私に、彼は十日後の休暇にまた帰ってくる。その時に見せてほしい。変わりと言っては何だが、異世界について語られている書物がないか探してみよう。そういい残して王都へと帰っていった。
そして、彼が再びやって来るまでの十日間で私は驚愕の事実を知る。
一日が二十五時間ある。
そう気付いた時、元の世界とこの世界の違い。何より、一見すると同じように見えるこの世界の人々と私の違いについて真剣に考えるようになった。
手始めに村の共同浴場で気付かれぬように他の女性達の体を観察した。乳房が二つに臍もあるし、あそこは……さすがに見られないけれど、まあ、変わりはないかな。と思われた。一つ気になった事があるとすれば、体のどこかしらに四葉のクローバーのような刺青がある人が多数いたことぐらいだろうか。あれは何なのかと、アリアさんに尋ねると「大人の印さ」と教えてくれた。どうやら成人した暁に入れる村の風習のようなものらしい。
男性の体も見たかったが、「ちょっと裸を見せてください」なんてとても言えない。しかし好機はすぐに訪れた。畑仕事の帰りに道を逸れて立ち……排尿している村の男衆がいたのだ。見ていると気付かれぬように、手ぬぐいで顔を隠し、ばっちり見た。……同じだと思う。良かった。
見たことがない種類ばかりだが、そう変わらぬ食べ物を食べて、排泄して、睡眠をとり、子を産み育て、泣き、笑い、怒り、歳をとり老いる。
はっきりとした違いは力があるかないか。考えても考えても私に分かった違いはそれだけで、その力も、夕焼けの翌日は晴れだとか、犬が尻尾を振っていればご機嫌だとかなんて、私にだって分かるし、そんなに大した違いはないのかもと、そう思い始めたとき、再び恐ろしい事実を知った。
なんと妊娠期間は300日らしい。
7日×4週×10ヶ月=280日。という元の世界での常識がガラガラと音を立てて崩れていった。
20日間のずれ、さらにそこに一日の長さの違いを加算しなければならないのだ。
私は恐怖した。
絶対、妊娠は無理。
結婚し子を産み育てるのが当たり前のこの世界で、私は残る余生を一人寂しく過ごしていこうと、夜空に浮かぶ月を見上げて、かたく誓った。
そんな私の決心などとは関係なく、満面の笑みで帰ってきたラザールは、まずは時計を分解するための道具を揃えにかかった。紙に精密に時計の図を書き取り、ほくほくとした笑顔で王都に帰っていく。
さらに十日後、試作品の道具を持ってきて、不備を書き止め、ついでに私に元の世界の話を根掘り葉掘り聞き込み、また王都へ帰っていく。
またまた十日後、ついに裏蓋を外す事に成功した彼は、丸一日時計と睨めっこをしていた。変なことをされまいか心配でずっと張り付いてみていようと思ったけれど、付き合いきれずに寝た。
時計との睨めっこは、休みで帰ってくるたびに10回ほど続いた。図面に書き起こしたり、延々と眺めたり、模倣してみたりと、好きに過ごして、時計に対する興味を満たすと、彼の標的は私に移った。
朝から晩まで質問漬け。
国や、街の様子。動物の生態。またその種類、人種、言葉、思想などラザールの興味は多岐に渡った。中でも彼のお気に入りの話題は法令で、特に、離婚の制度について物凄く突っ込まれたっけ。財産分与という概念が珍しかったのだろうか。
用を足すのにも後をついてきては質問を繰り返すものだから、正直、いくらイケメンでも、ものすごく鬱陶しかった。
新しい玩具を手に入れたようなラザールの態度に、苛々を募らせていたのがアリアさんには分かったのだろう。次の休みは私を王都へ招待して、開催中の雲祭りを案内してやれとアリアさんはラザールに厳命を下した。
雲祭り? なんじゃそりゃ。と思ったが王都と祭りという言葉に私は浮き足立った。
ルッソンの村も好きだけれど、賑やからしい王都もぜひ見てみたかったのだ。さらに祭りも大好きだ。
けれど後々考えてみれば、この祭りが分岐点だったのだ。
まあ、そんなややこしい未来を知るべくも無い私は、乗り合い馬車に揺られて、初めて村を出る。
手筈どおり馬車の到着場所で待っていてくれたラザールは、洗練された王都の人々の中にあっても全く 見劣りすることなく、格好良かった。
アリアさんに精一杯着飾らせてもらって、おじさんに可愛い綺麗だと褒めてもらって、自分でもそれなりに見られるようになったんじゃないかと思っていたが、彼の隣に立って街を歩いていると、どうにも釣り合わない気がして仕方がない。けれど、ラザールは優しく微笑んで紳士的に街を案内してくれた。「今日は、俺からの質問は禁止されてるんだ」とそう笑って。
雲祭りは名前の通り雲を愛でる祭りだった。雨を降らせてくれる雲に感謝し、雲や虹を象った飾りをつけ、子供達は雲を模したお菓子を食べる。
街は着飾った人々で色にあふれていた。真昼間から酒を飲み交わし、喧嘩も余興。
沸き立つ王都を、練り歩き、美味しいものを食べて、飲んで、ラザールとたくさん言葉を交わした。ものすごく楽しかった。
宿は男も女も関係ない、8人の相部屋で、慣れない私に付き添ってラザールも騎士寮に帰らず泊まってくれることになった。簡素なベッドに横になって、夜中じゅう喋った。彼はそう話術に長けているわけではない。けれどその膨大な量の知識を流れるように披露してくれるのを聞くのが、私は好きだった。
私がこの世界に生まれて、この世界で歳を重ねてきたのなら、彼の話を聞いて「なにこのうんちくオタク野郎」と退屈に思ったかもしれない。けれど、何も知らない私はこの世界の知識を頭にいれようと必死だった。
ラザールを見つめて、熱心に話に耳を傾ける。
これがいけなかったのだ。
楽しい時間はあっという間に終わり、お土産を持ってルッソン村へと帰った私は、次にラザールが尋ねてくるまでの日々を、鼻歌交じりに過ごしていた。
そして、十日後に尋ねてきたラザールの目を見て、己の失敗を悟った。
以前まではなかった熱が、私を見つめる彼の瞳に宿っていた。
やべえ。
私は焦った。
何せ私は生涯独り身を誓った身。
苦労して爵位まで手に入れた彼に、後を継がせる息子を産んであげられない。という乙女チックな理由と、お世話になっているアリアさんとおじさんの一人息子である彼と、惚れた腫れたでこじれたら、住家を失う! という即物的な理由から、私は彼の気持ちに気付かぬ振りをした。
十日ごとにおくられる贈り物、向けられる笑顔、時折混じる欲情の視線。それらに込められた想いを徹底的にやり過し、二人きりにならぬよう、甘い雰囲気を作らぬようにひたすら努めた。
業を煮やしたラザールが、畑仕事から帰った私の腕をひいて、森の中に連れ込み、花束を片手に「好きだよ」と囁いてきた時には、「私も好きよ……………ラザールもアリアさんもおじさんも、それからリュシアンも、マリーも、ルイも、ローランも、エリザも、リリーも! まあラリアンの花! ジャムにすると美味しいのよね。さっそく明日の朝食に間に合うように煮詰めようっと」
とお約束のぼけをかましておいた。
そろそろ気付けよ、と思う。
けれど世の中には逃げられれば逃げられるほど、追いかけたくなる、不毛な人種がいるのだと、私はほとほと困ることになる。
ラザールの愛情表現は苛烈になり、所かまわぬ愛の告白や抱擁に、もはやアリアさんをはじめ村中の人間が彼の気持ちを知っていた。
そろそろ「愛してる」「私も愛してるわ。ラザールもお日様も、雲も、子犬のランも。この世界は愛に満ちているわよね」なんて言い逃れも辛くなってきた。
だから私は彼に告げたのだ。何気ない風を装って、「私の世界と妊娠期間が780時間違う」と。彼は「そう」と呟いた。聡い彼にはそれで全て分かっただろうと思っていた。思っていたのに………。
「ラーザーァールー。なんて事してくれたのよ。この馬鹿!」
眉を顰めて頬を擦るラザールを睨みつけた。
「うー、口の中切れた。腕力あるね」
引き結ばれた彼の口の端に赤い血が滲んでいる。
思わず、「大丈夫?」と伸ばしかけた指を、彼が掴んで、引き寄せた。
「朝からいいもの見れたし、気にしてないよ」
とその甲に唇を寄せて微笑む。
この休暇に、ラザールは隣の隣の隣の村にある湯治場への旅行を両親に贈っていた。
下心が見え見えだった。
けれど、ラザールを応援していたアリアさんとおじさんは「嫌なら殴り飛ばしていいからね。はい、これ」と私にすりこぎを手渡して旅立ってしまった。
ラザールなら780時間の差が何を示すか分かったと思っていたのに。
彼は、早々に自室に引っ込み、つっかえ棒をかけて、篭城する私の元へ、そろそろ戸を睨みつけるのも疲れてきた夜半になって訪れた。
窓から。
薄い板を差し込んで、鍵を開けて。
それもう犯罪じゃない? と私が盛大に引いているのにもかまわず、手にした酒ビンを振ってみせるとラザールは寂しげな笑みを浮かべた。
「君が憂いている事はちゃんと分かってる。俺だって君の命を危険にさらしたくはない。今までごめん。…………そうやって距離をとられると辛い。仲直りがしたいんだ」
「って言ったよね? 言いましたよね? 確かに言ったよね?」
「うん、言ったね」
なのに酔い潰して襲うとか、どういうこと!?
掴まれた手を振り解こうと必死に腕を振る私をあざ笑う様に、彼はさらに手を引いて、軽々とその胸の中へと私を引き寄せた。
「ああ、気持ちいい」
ああ、ほんと、すべすべで人肌って気持ちいい……じゃねえ!
「いや、無理って分かってくれたんじゃなかったの!?」
「分かってるよ。だからちゃんと避妊はしたし」
ああ、そう避妊してくれたんだ。じゃあいいか……って、わけにもいかないのよ!
すったもんだあって別れる事になったら居場所がなくなってしまう。
ラザールはじたばたと暴れる私をしっかりと腕の中に抱きこんで、頬に口付けた。
「これで、俺達も夫婦だね」
は?
「結婚、するつもり?」
「そのつもり。というか、もうしたよね。昨晩さんざん」
え?
目を見開いて、ラザールの茶色い瞳を覗き込む私に彼は微笑んだ。
「こっちでは、初夜を迎えれば、それはもう君の世界でいう結婚になるんだよ。身内だけでご馳走を食べるくらいで、お祝いの式をするような習慣はないけれど、君がしたければ、してもいいよ。結婚式」
「ウェディングドレスを着るのは女の子の憧れなんでしょう?」と彼は頭に唇を寄せる。そのまま髪の感触を楽しむように、唇を滑らせる彼に私は呆然として呟いた。
「私、子供産めないんだよ。爵位を継ぐ息子が産めないんだよ。ラザールってば、なりたくもない騎士になってまで苦労して爵位をとったんでしょう!?」
「え、本を読むためだけにとった爵位だし、どうでもいいよ。平民出の俺の爵位なんて、三代までしか継げないやつだしなあ」
彼は暖かな茶色い目を瞬かせて、私を見る。
「ああ、そう三代で取り潰し」「そうそうその間に子供か孫が功をあげたら、また三代伸びるの。合理的でしょ」「へえ、本当」「だからいいんだよ」という彼の言葉にふむふむと頷きかけ、慌てて首を振る。
「いやいやいや、よくないよ! ラザールはよくても、アリアさんやおじさんだって孫を抱きたいでしょ?」
「うーん、お袋達はもともと諦めてたと思うけどね。俺の恋人は書物だって、呆れてたし。連れ添おうと思った相手が出来ただけで万々歳だと思ってるよ」
でも、だからって、と反論しようとして、上手く言葉が出ない私の鼻の頭にラザールはちゅっと音をたててキスをした。
「それにね。もう無理だから。俺、君以外は抱けなくなっちゃった」
胸焼けしそうなぐらい甘いラザールの言葉と笑顔。
「うんうんうん、皆最初はそう思うんだよ。でもそういうのは錯覚だからね。やっぱり他を味見したくなっちゃったり、でもって子供が」
ラザールは、まくし立てる私の唇にすっと手を当て、言葉を遮った。
「違う。本当に無理なんだよ。俺達は、生涯一人の相手しか出来ないの。気持ちの問題じゃなくて、そういう生物なの」
ちょっと意味が分からない。「は?」とか、「え?」とか、短く言葉を繰り返す私に、彼は子供に諭すようにゆっくりと話し始めた。
「この世界の人間は、一人の異性と一度でも関係をもったら、その人以外には反応しなくなるんだ。痣を見た覚えはない? 四葉を象ったような模様なんだけど。浴場で見たことあるでしょう? あれはね、契りを交わすと体に浮き出るんだ。もう決まった相手がいます。って証になるんだよ。俺の体もどこかに出てるはずだよ。どう?」
ラザールは、私から少し体を離すと、きょろきょろと自分の体を確かめだした。
くいっと彼が体を捻ったとき、私は息を呑んだ。
左肩の後ろに、痣があった。
昨日は確かになかったはずの痣が。
「あ、あったね?」
私の反応に気付いた彼が、うーんと首を伸ばして肩を確認する。
「これで分かった? 俺はもう君から離れられないんだよ」
いたずらが成功した子供のように満足気に笑うラザール。
私は眉を寄せて唇を噛み締めた。
「うわっ。ごめん。そんなに嫌だった? 俺は確かに本の虫だけど、人の機微には敏感だって自信はあったんだけどな………それに昨晩、何度も言ってくれたよね?「愛してる、好きだ」って、あれは俺の聞き間違いだったのかな?」
ぼっと顔に熱が上がるのが分かった。
酒で火照った体を抱きしめられ、まさぐられて、朦朧とする頭で、確かに何度も口にした覚えがある。
そう、私はラザールが好き。
私が何も知らないこの世界に、なんの心の準備もせぬままにやってきて、泣き暮れなくてすんだのは、アリアさんとおじさんと、何よりラザールのおかげだ。
異端の存在であるはずの私に、優しく接してくれて、暖かさを分けてくれて、興味を抱いてくれて、何度も好意を伝えてくれて、………自分でもびっくりするくらい私の心は簡単に彼に傾いた。
でも、彼と自分の為に気持ちを伏せておこうと思っていたのに。
「嫌なわけないじゃない」
声が震える。目の端からは今にも涙が零れ落ちそうだ。
「愛してるよ。俺のただ一人の人」
ラザールの熱い唇が、頬を伝う雫をすくい取った。
~半年後~
「子供のこと。なんとかなるかもしれない」
王都に引っ越して彼と暮らし始めた私が、アリアさん仕込みの腕で夕食の支度をしていたときだった。 ラザールがそっと後ろから私の体を抱きしめる。
どういうことかと、お玉をもったまま振り返ると、彼はふわりと笑った。
「異世界からの旅人について記してある本が見つかった。神話めいた書物で、今まで手をつけてなかったんだけど、異世界からきた女性が子供を産み育て、その子がとある国の王になったって記述があったよ」
でも、神話じゃなあ、と首を傾げる私の体を、ラザールはくるりと反転させて、腕に抱え込んだ。
「図書の中には、もう一段管理の厳しいものがあってね。それにはもっと詳しい話がのっているらしいんだ。今の俺の身分じゃ見れないけれど、すぐに上がるから。待ってて」
ぎゅっと力の篭る腕。私はラザールの胸に顔をすりつけた。
隣家から赤ん坊の泣き声が聞こえるたびに、耳をそばだてていたのを気付かれたのだろうか。子供はとうに諦めたはずなのに、愛する人と、温かい家庭を手に入れると、欲が出てしまったのを気付かれたのだろうか。
「ありがとう。でも無理はしないで」
彼の胸から抜け出し、踵をあげて唇に顔を寄せる。
ちがうんだ。君には痣が出ないし、だから、………ずるくて、ごめんね。と彼は囁いて、そっと唇を合わせた。
恋愛ものが書きたくて、小説を書き始めたはずなのに、気付けば甘さが足りないなあと思う今日このごろ。
よし! べた甘を書くぜ! って事で、なんとか短編で。
ちなみにおじさんの名前はジョゼです。