第6章 風鈴の声、井戸の記憶
第二幕
【少女と歩む過去の足音】
第6章
『風鈴の声、井戸の記憶』
どうぞ、お楽しみください
予約投稿2025/8/7 15:00
ーーーチリン……。
やわらかい風が、庭先の風鈴をそっと揺らした。
それは、まるで朝と昼の境目に生まれた音のようで、夢と現実の間に響いた。
「今日は、少しだけ遠くまで行ってみようか」
おとはがそう言ったのは、昼前のことだった。
縁側で干していた洗濯物のシャツの袖が、風に揺れていた。
「……どこまで?」
「ふふ、それは着いてからのお楽しみ」
おとははそう言って、いつものように、白い帽子をかぶった。
私は頷いて、並んで玄関を出る。
これまで歩いてきたこの町の道。
けれど今日の空気は、ほんのすこし違って感じられた。
* * *
「この道、初めて通る気がする」
「うん。いつもは別の道を選んでたから。……でも、今日はなんとなく、こっちにしたの」
おとはの選んだその道は、少し寂れた路地だった。
細い石畳が斜めに続き、ところどころ雑草が顔を覗かせている。
見上げると、古い木造の家々が両側に並んでいた。
壁には年季の入ったヒビが走り、窓のすだれが、風にかすかに揺れている。
「昔はね、この通りに小さな紙屋さんがあったんだって。風鈴の短冊とか、手書きの便箋とかを売ってたの」
「へえ……おとは、昔からのこういうこと詳しいよな」
「ふふ、それはこの町の声が教えてくれるから」
「町の声?」
「うん……。なんとなく、聞こえるの。誰かがそこにいた時間とか、残した想いとか。ちゃんと耳を澄ませば、少しだけね」
私はその言葉の余韻に黙ったまま、歩き続けた。
そして、その先にあったのは――
「ここ、前にも来た……かもしれない」
見覚えのある古い井戸。
そのそばには、朽ちかけた木のベンチがあり、さらに奥には、小さな社のような建物。
「あのときは夕方だった。……おとはとは、いなかったけど」
私はそう呟いたあと、自分でも気づく。
"おとはとは、いなかったけど"。
その言い回しには、確かに「それ以外の誰かと来た記憶」が前提としてあった。
「……誰と来たんだろう」
おとははそっと井戸の前に立ち、手のひらを縁に置いた。
「この井戸、誰も使わなくなったけど、昔は“願いを沈める場所”だったらしいよ」
「……願いを沈める?」
「うん。願いを唱えながら、小さな石を落とすとね……叶うんじゃなくて、願いごとが、静かに“町に溶けていく”んだって」
「それって……叶わないってこと?」
「そうじゃないと思う。叶うかどうかよりも、願いそのものを、この町が受けとめてくれるって意味なんじゃないかな」
私はいつの間にかポケットの中にあった、小さな石を取り出した。
それは、いつ拾ったのかも覚えていない。
けれどずっと、ここにあったもののように思えた。
井戸の中を覗くと、陽の光が水面にちらちらと揺れている。
私はそっと、その石を落とした。
ぽちゃん――
水音が、風鈴の音とまじりあって、空気の中に溶けた。
「……何を願ったの?」
おとはが訊いた。
私は少し黙って、それから笑った。
「秘密。……でも、たぶん、願ったというより……思い出したかっただけ、かな」
「そっか……」
おとははそう言って、私の隣に腰を下ろした。
「……ねえ、ゆうと」
「ん?」
「記憶って、さ。全部が全部思い出さなくてもいいと思う?」
私は少し考えてから答えた。
「……そうだな。たぶん、思い出した記憶より、忘れずにいた“気持ち”のほうが大事なんじゃないかなって、最近思う」
「……うん。あたしも、そう思う」
風が吹く。
風鈴が、井戸の屋根の下で、ひとつだけ鳴った。
ーーーチリン……
どこか、切ないような、でもあたたかい音だった。
私はふと、おとはの手が、自分の袖をほんのすこしだけつまんでいることに気づいた。
言葉にはしない。
けれど、その仕草が、何よりもやさしい繋がりのように感じられた。
「そろそろ……帰ろうか」
「うん」
私たちは立ち上がり、井戸に背を向けて歩き出した。
町の音が、少しずつ日常に戻っていく。
それでも風鈴の声だけは、ふたりの背中に、なおも寄り添っていた。
ーーーチリン……。
その音が、今日の記憶を、やさしく包み込むように響いていた。
この場面、少しわかりにくい。
ここ、少し変じゃない?
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モチベがぐぐっと上がるので