第十三話 母親とは
確かによくよく考えてみれば、不思議だった。
――たった一度助けただけで、どうしてあんなにも親切にしてくれるのか。
それに最初から、事件の真相を知っていたかのように。
「でもね、まだ返事はいらないよ」
「どうして?」
「はやてくんには、まだやることがいっぱいあるでしょ?」
あの子たちとも、いつかはちゃんと話さなきゃいけないしね
彼女は小さな声で、呟いた。
「とりあえず今は、好きっていう気持ちだけ伝えたかったの! じゃあ、あとはあの人に任せるね! じゃあねっ」
そう言って、俺に向かって――突然の投げキス。
「先輩、そういうところですよ……」
苦笑いしながらも、どこか顔が熱くなるのを自覚していたその時。
ガチャ、と教室の扉が開き、入れ替わりで如月たちが入ってきた。
「……なに、それ。顔、赤くなってるけど?」
如月の目が、まるでスキャンするように俺の表情を読み取ってくる。
「はーくん、すっごくかっこよかったよ。でもね、ちょっと無茶しすぎ。少しくらい僕たちにも頼ってくれてよかったのに」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛む。
確かに、危ない橋を渡ったのは事実だった。
「……今度からは、少し頼らせてもらってもいいか?」
「うん、もちろん!」
「で? さっき先輩と、何話してたのかな〜? ……ふふっ」
如月の笑顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
横にいた真斗も、なぜか黙って俺の顔をじっと見てくる。え、怖い。
「いや、実は……」
俺が言いかけると、なぜか如月と真斗が同時に声をあげた。
「「先輩に告られた!?」」
あまりに息ぴったりで、こっちが驚く。
「……うん。まあ、過去にいろいろあって……奇跡的に再会してさ」
「そんなことがあったんだ……」
「で、どうするの? 付き合うの?」
如月が、さりげなく間髪入れずに聞いてくる。笑ってるけど、目がギラついてた。
「いや、まだ返事は保留、俺にはまだやらなきゃいけないことがあるから」
「……そっか」
その瞬間、如月の表情がふっと緩む。
気のせいか、ちょっとだけ安心しているように見えた。
*
──家に帰ると、いつになく真剣な声が飛んできた。
「颯! どうしたのその怪我?!」
「……ただ、転んだだけです」
「転んだだけでそんな怪我になるわけないでしょ! 外で何があったの? ちゃんと話して!」
(何を今更、)
俺はその言葉を口に出しながら、部屋に戻ろうとした。
「待って……!」
その腕を引いて、俺を抱きしめたのは――紗栄子さんだった。
「離してください」
「……ごめんなさい。今になって、やっと気づいたの。自分がどれだけ最低だったか。……本当に、母親失格だよね」
「じゃあ、なんで……! 今まで無関心だし、あの事件当日もまるでいつかはやるみたいな目でみてきた!?」
「ごめんなさい……怖かったの。
それまで、ろくに颯と向き合ってこなかった。
あなたが何を思ってるのか、どうしてるのか、全然わからなかった。
だから、何か言うたびに嫌われる気がして……
でも、黙ってたらもっと嫌われてたんだよね。……バカだよね、私」
泣きじゃくる母の姿を見るのは、父の葬式以来だった。
その瞬間、頭の奥でズキンと激しい痛みが襲う。
「……なんで、うっ……!」
「颯!? どうしたの、どこか痛いの!?」
「……今は……少し、一人にさせてください」
そう言って、俺はふらつきながら自室へと戻った。
ベッドに倒れ込みながら、思考の波に呑まれていく。
(……今さら、何なんだよ)
昔は、確かに母は俺を可愛がってくれていた。
家族の中も、あたたかくて笑いが絶えなかった。
でも父が亡くなってから、すべてが変わった。
母はまるで、生きる目的を失ったかのように絶望の色を宿した目をしていた。
俺が何回も励ましても、返ってくるのは無感情な「ありがとうね」の機械的な言葉だけ。
そしてあの時からだ――
「母親」としてではなく、「結城紗栄子」という名字が同じだけの他人としてしか、彼女を見れなくなったのは。
決定的だったのは、あの光景だ。
妹の佳奈を、母が泣きながら抱きしめて「ごめんね」と言っていた。
……俺には、そんな言葉一度もなかったのに。
ああ、やっぱり俺はいらないんだ。
そう悟ってからは、ずっとこの家では「居候」として演じてきた。
……なのに今さら、母親面なんて。
本当に、どうかしてる。
*
翌日。
ごほっ、ごほっ、二度寝
頭が割れるように痛い。身体も鉛のように重たい。
「……うわ、39.5度って……」
額に当てた体温計の数字に、ビックリする。
「まあ、そうなるよな……ここ最近、いろいろありすぎたし。ろくに眠れてなかったもんな……とりあえず何時だ?」
ベッドに倒れ込んだまま、スマホを手に取ろうとしたそのとき――
ピンポーン。
「……誰だ?」
スマホをちらりと見れば、もう午後四時を過ぎていた。
早朝に起きてだるさを紗栄子さんに連絡したときは、「今日は仕事休むから、しっかり休みなさい」と言ってたが、結局重要な会議があるとかで、朝には出社していった。
期待はしていない。
玄関を開けると、そこに立っていたのは――
「……如月?」
「はいこれ、今日のプリントと、テストの範囲。それと、上がっていい?」
「いや、風邪うつるし、帰ったほうが……」
ぐぅ~~~~~っ……
と、そんなタイミングで、盛大にお腹が鳴った。
「……今日、何か食べた?」
「いや……食ってない」
「親は?」
「……あの人は、俺に関心ないから」
如月は一瞬だけ何かを言いかけたように口を開き、そして小さく息をついた。
「……じゃ、遠慮なく上がるね!」
「お、おいっ……!」
ずかずかと靴を脱ぎ、キッチンへと向かっていく如月。その背中は妙に頼もしくて……まるで、本当の“母親”みたいだった。
*
「よし、ご飯できた!あ、あーんしてあげる!」
「いや、自分で食えるって」
「だーめ。病人は黙って甘えなさいっ。はい、あーん」
恥ずかしさで耳が熱くなる。
……なんだこれ。新婚夫婦かよ。
「お、美味しい、」
「でしょ?笑」
ニヤついている。
「体調、大丈夫そう?」
「うん。ご飯食べたらさっきまでが嘘みたいに、スッキリした」
「そう。まあ、最近いろいろあったもんね。疲れも溜まるよ」
「……昨日も、紗栄子さんといろいろあったしな。それが原因だろ」
「……紗栄子さんって?」
「……あー、母親のこと」
つい口を滑らせた。けど、如月はその言葉に反応した。
「ねえ、その……お母さんのこと、聞いてもいい?」
「別に、大した話じゃないよ」
「私は、もっと颯のことを知りたい。……てか、知らなくちゃいけないって思ってる。だから、教えて」
彼女の瞳は真剣だった。
俺は観念して、昨日のこと、そしてこれまでの母との関係を、包み隠さず話した。
如月の表情が、徐々に曇っていく。
「……如月?」
「それは……許せない。あんなに颯は辛かったの、自分の子供になんてことを……!」
「落ち着け、でも、今は如月たちがいるから。もうそんなに気にしてない」
「颯……」
その時だった。玄関の開く音と、ヒールの軽い足音が廊下を進んでくる。
「颯? ドア開けるね? 仕事、切り上げて早退してきたの。今からご飯作るけど……なにが食べたい?」
最悪のタイミングだった。
よりにもよって今、もっとも接触させてはいけない二人が出会ってしまった。
「颯、この人は……」
如月が立ち上がり、母さんに向き直る。
「あなたが、颯のお母さんですか? 私、言いたいことがあります」
「ちょ、如月……」
俺の制止の声は、彼女には届かない。
事態は、静かに、でも確実に動き始めていた。
タイトルを少し追加させていただきました。ご了承ください。