7.打算的誘惑
心臓がバクバクと音を立てる。いま脳裏に浮かんでいたばかりのあいつが、どうしてこんなところに。
いや、Domならおかしくないけど。……なんでこのタイミングなんだ!?
背丈のある風谷はここでも注目を浴びている。その綺麗な顔についている口は先輩、と言いかけて開いたまま。目は僕に釘付けだった。
とにかく風谷と話がしたい。いや、話すことなんてない。いつもどおり無視すればいい。
自分でもどうしたいのか判断がつかないまま、混乱した僕はカウンターチェアから立ち上がろうとした。
「痛っ……!」
ツキン、と手の甲に痛みが走る。見れば、アツシが僕の手の甲を指先で強くつねっていた。
「おれと話してるのに、余所見なんて悪い子だね?」
「ちょ、はぁっ? やめてくれ」
強引に振りほどこうとするも、手首まで掴まれ離せない。
アツシの目には先ほどまでは見えなかった嗜虐性がありありと浮かんでいる。口角は上がっているが、微笑みとはほど遠いものだ。
「嬉しいくせに。これだからSubは……。わざとなんだろ? おれに楯突いて、お仕置きしてほしいんだろ?」
「わざとなわけねぇだろ!」
「おすわり。跪いて頭を下げろ」
「ッ……!」
唐突なコマンドに、ガクンと身体から力が抜ける。至近距離からグレアを浴びせられ、周囲の音が遠のいた。
僕の中にあるSubの本能が、命令を守らなければと叫ぶ。でも、こんなやつに……従いたくない。吐き気がした。
「う、ぐっ……」
座った状態を保てず、ぐらりと身体が傾いでゆく。小さなカウンターチェアから僕の身体は滑り落ちた。雪さんが叫ぶ。
「カイくん!!」
受け身も取れず床に叩きつけられようとしていた身体はしかし――ほとんど衝撃がなかった。誰かに受け止められ、強く抱きしめられる。
「ぁっ。ざ、や……?」
「見るたびに心配かけないでくださいよ……!」
僕はすでにその体温を知っていた。衝撃に備えぎゅっと閉じていた目を開くと、眉間にしわを寄せた風谷が僕を見下ろしている。
なぜかその姿が自分よりも大人に見えて、私服だからだとすぐに理解する。見慣れない格好だったとしても、この空間ではこの男の腕のなかが、どうしようもなく安心した。
「カイくん、大丈夫? あいつはもう出禁だから」
「すぐに助けられず、申し訳ありませんでした……」
ほっと身体から力を抜いているあいだに、アツシはバーから追い出されていた。いつも見えないところにいる警備員が仕事をしたらしい。
雪さんともう一人の店員が謝りながら声を掛けてくる。僕は二人に頷いたものの、頭を動かした瞬間ひどいめまいに襲われた。
悪意を持って浴びせられたグレア、従えなかったコマンド。どちらもが僕を蝕んでいる。
「かざやぁ、コマンド、くれない……?」
「ぐ。先輩……でも、ここでは…………」
「アキくん、プレイルーム使いな」
また風谷に甘えてしまっている自覚はあるが、なりふり構っていられなかった。徹底的に風谷を無視していた事実にはふたをして、同じ学校の後輩だしまぁいいかと図太い自分が背中を押す。
Subの生存本能と理解してほしい。目をウロウロとさせ、ためらう風谷の服の胸元あたりをツン、と引っぱる。ちょうどそこに手が掛かっていたので。
雪さんの援護もあって、僕たちはプレイルームに移動した……というか風谷に運んでもらった。普通に男なんて重いはずなのに一切ブレない。細身で背が高いだけじゃないらしい。
雪さんは嫌がる人を無理やりプレイの相手に宛てがったりしない。つまり風谷も僕とのプレイを拒否していないわけだ。……たぶん。
「先にSafe Wordを決めましょう」
「……真面目だな」
興味深げにプレイルームを見渡しつつも、風谷がまず発したのはそんなひと言だった。
高級ホテルのような一室には、ベッドはないが広く座り心地のいいソファがある。僕は横抱きにされたまま、腰掛けた風谷の腿に乗せられた。
プレイに必須のセーフワードは、Domのコマンドが行きすぎないようにするためのSubの砦だ。さっきの男なら無視しそうなルールだが、セーフワードなんてなくても自制できそうな風谷は真面目にルールを守ってくる。
「じゃ、『真面目』にしましょう」
「おいっ。適当かよ……」
予想外に決められて面食らう。なんでもいいっちゃいいけど、風谷が強引に決めてしまうのはなんか意外だ。
「先輩よりは真面目ですよ? あと、早く始めたいんで」
「あ……っ」
早く始めたい、と言った目の奥には熱がこもっていた。問答無用で出された弱いグレアにふわと包まれると、期待が身体の奥底から生まれ、膨れ上がってゆく。
「飛鳥井先輩、俺を見てください」
風谷の腕に支えられ、グレアに恍惚とまぶたを伏せていた。胸にべったりと体重を預けながらコマンドに従って相手を見上げれば、強い視線に射抜かれる。
命令を守れたという満足感と増やされたグレアに、吐き気がおさまっていくのが分かった。風谷のグレアは、心地いい。
「もっと……」
「ん。もう、一人で立てますか?」
「うん」
「じゃあ、跪いて。無理のない体勢で」
跪くのはSubの基本姿勢と呼ばれるものだ。さっきは嫌悪感しかなかったコマンドに、いまは身体中が歓喜する。
目の前のDomを喜ばせたい。ただその一心で膝からよたよたと下り、床に座り込む。両膝を立てて、膝の間で犬のように手を前に下ろす。
褒めてもらえるかな……?
「んー……先輩、それいつもの体勢なんですか?」
「うん……だめ?」
期待を胸に見上げた風谷の表情は、あまり明るいものではなかった。
「これまでに何度もここでプレイしたことあるんですね?」
「うん……え、なに?」
どうして突然そんなことを尋ねられるのかわからない。膝の上に片肘をついている風谷は、眉根を寄せてどこか不満げだ。
そんな表情を見るのははじめてで、僕は戸惑った。怒らせてしまった気がするけど、理由がわからない。
「静かに。膝は床につけましょうか。正座を崩した感じで……女の子座りってやつ」
「ッ……」
喋ることを制限されて、言われるがまま床にぺたんと座った。手は前に置いたままだから腰が反る。服従というより本当に女の子みたいで、甘えるような姿勢だ。
これでいいのだろうか? じっと目を見つめていると、風谷はふっと微笑んだ。眉尻が下がって目が細まる。
「うん……すごくいいです。よくできましたね、先輩」
「……ぅ……ん……っ」
褒めながら優しく頭を撫でられて、褒められるのも気持ちいい。
思わず目の前の膝にくてん、と頬を乗せ、接触部分を増やす。勝手な行動をしてしまったものの、叱られることはない。
頭を撫でる手が止まらないのをいいことに、僕は膝に頬ずりした。ふわふわとした快感が僕を包んでいる。ずっと揺蕩っていたいと感じるほど、気持ちよくて幸せ。
――なんとなく、勝手にそこで終わりだと思っていたのは、いままで風谷とは軽いプレイしかしたことがなかったからだ。
離れて行った手に名残惜しさを感じていると、新たなコマンドが発せられた。
「さて、先輩。脱いでください。できるところまで」
「え……」
「しっ。コマンド破ったらお仕置きですよ? 嫌ならセーフワードを使ってください。さぁ、朔先輩。俺に見せて?」
まさかと思った。風谷がそんなコマンドを使うなんて。
プレイは性的接触に繋がりやすいけれど、僕はこれまでそういった行為をしたことがない。高校生特権でオーナーの許可を振りかざし、事前に脱ぐことさえできないと伝えていたのだ。
それでも雪さんのプレイバーでは優しい人が多く、今までの相手はみんなお遊びみたいなプレイにも付き合ってくれていた。
他の相手だったら迷わずセーフワードを使っていたはずだ。でも……僕の手は考えている間にも動き、半袖シャツのボタンを外しはじめている。
できるところまでって、言ってくれたし。自分でセーフワードを使ってもいいとまで言ってくれるDomなんて、初めてだ。
支配する本能を持つくせに、Subに甘さを見せる風谷に報いたかった。ていうか、たぶん……プレイの相手を僕しか知らないだろう風谷を、引き止めたかったのだ。
男として、Domとしても引く手あまたに違いない風谷が、僕だけを見ている時間。ぞくぞくと痺れのような興奮が沸きおこり、頭にもやがかかっていく。
シャツを脱いで、勢いのまま中のインナーも脱いでしまった。空調が効いているはずなのに、汗ばんだ胸に涼しさを感じる。ズボンに手をかけたとき、迷いがよぎって風谷を見上げた。
彼はじ……っと僕を見ていた。頬に上る熱を感じ、視線を下ろす。いや、見てのコマンドがあるんだった。いま免除されているのは、脱いでを遂行中だからだ。
(ど……どうしよう)
いまや僕は、風谷のくれた優しいコマンドにとっても困らされていた。できるところまで、なんてずるい。
そんなの、『俺のためにどこまで脱げる?』と同義じゃないか。僕は……どこまでできる? 頭の中の天秤がゆらゆら揺れる。
「先輩、無理しないで」
「…………」
――カタン、と天秤が音を立てた。
ゆっくりジッパーを下ろす。腰を上げズボンを太ももまで下げて、あとは足先から抜き去った。
恥ずかしくて身体が熱い。でもここまで来たら、自分がちゃんとできるSubであると証明したい。
僕はもう一度風谷に教えられた姿勢で跪いた。しっかりと目を見つめる。
「よくできました。嬉しいです」
「ん……」
褒めてもらえた。うれしい。このために自分はがんばったのだ。
「こっち来て。もっと寄ってください」
風谷が自身の手で腿をポンポン叩く。僕は吸いよせられるように風谷の脚のあいだまで身体を進め、腿の上にこてんと頭を乗せた。その頭に大きな手が乗せられる。
撫でながら、上げた前髪をくしゃくしゃっと混ぜられて、くすくす笑う。
甘やかされて、幸せで。わずかに残っていた理性も溶けて消えてゆく。
「あぁ〜〜〜っ、もう!」
ぐっと身体を折りたたんだ風谷が、上から僕の頭を包み込むように抱きしめてきた。目の前が真っ暗になり、風谷の匂いと体温に包まれる。グレープフルーツみたいな、爽やかな香りがした。
「かわいすぎでしょっ……!」
耳元で喋られて、くすぐったさにぶるっと身体を震わせた。素肌に風谷が触れている。実感してしまうと、どきどきして、ぞくぞくが止まらない。
「なぁ、ぐれあもっと……」
もう気持ちいいということしか考えられなかった。また一段と増やされたグレアに、身も心もとろけてゆく。
プレイのあと、風谷が起き上がったことでまぶたの裏に光を感じた。でも眠くて眠くて、とても目を開けられそうにない。
不安症のせいでここのところずっと寝不足だったのだ。欲求が解消されて、身も心もスッキリして。下着の中だけ気持ち悪いけど……それを上回るくらい眠気が強い。
「ちゃんとできて、えらいですね。先輩」
「えへへ、うれしー……」
また頭を撫でられて、ふにゃふにゃと顔が緩む。風谷にほめてもらえた。きっとこれで、風谷にとっていちばんのSubになれた。
僕は自分の成果に大満足して、そのまま夢の世界へと旅立った。