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6.大人の世界 side.朔

「あーーー。だるすぎ……」


 梅雨特有のまとわりつくような空気と重だるい身体に、大きなため息がこぼれる。

 

 前のめりに夏がやってきたかのような日々が続いて、ついに梅雨入り宣言された今週。週末もずっと雨予報だった。

 誰もが家にこもっていたくなる、そんな土曜日に僕は繁華街まで足をのばしていた。


 事情を知っている母親や姉は「(さく)、夜道にはほんっとーに! 気をつけてね」と見送ってくれたものの、なにも知らない妹や弟にはバイトだと言ってある。成人前の弟妹を除いて、家族はみんなUsualだ。

 

 それは本当によかったと思う。ダイナミクスなんてろくなもんじゃないし、特にSubはだめだ。定期的に誰かに支配してもらわなければ、本能的な欲求を解消できず体調を崩す。

 その不調には薬もあるとはいえ、飲み続けるとだんだん効かなくなるという副作用もあって、しかも高い。切実にジェネリックを希望したいけど、ダイナミクス関連のホルモン剤は新薬が多い。どんどんいい薬ができているというのはわかる。でも保険がきいてもお高いんだよ……


 もともと父の収入でほそぼそと生活していた僕の家族は、六年前に父が死んでから急激に経済状況が悪くなった。母がひとりと四人の子供。上は二十二歳の姉に一番下が十二歳の妹だ。

 姉は高校を出て働いているけど、僕は奨学金を使って大学まで卒業するよう家族から勧められている。本当は姉と母にだけ負担を強いるのが嫌で、高校を出たらすぐに働きたかった。

 でも担任に大学を出たほうが良い企業に就職できると説得されて、折れた。家族はホッとしていた。

 

 父が駆けおち同然で母と結婚したせいで親交はないが、父方の親類は大学教授とか国家公務員とか優秀な人が多いらしい。僕も勉強だけは得意なので血の繋がりはそんなところに出ているのかもしれない。

 結構、ぽやっとした父さんだったけどな……健康診断を怠ったせいであっさり死んだし。


 そんなわけで、僕は受験生になったいまもアルバイトをしながら学校に通っている。志望校はA判定。唯一のネックがSubという二次性だ。

 しかも隔世遺伝で成熟がかなり早いタイプだったようで、二次性判定直後から不安症に悩まされている。母方の祖父母がDomとSubだという。

 

 僕の場合、プレイもせず放っておくと倦怠感やイライラ、不眠が症状として出てくる。この前なんて、運の悪いことに学校で不安性によるパニックを起こして周りが全く見えなくなった。


「うわ、最悪なこと思い出した……」


 一学年下の風谷(かざや)。たぶんうちの高校で一番有名な男だ。去年一年のくせにミスターコンで優勝してたし、どこかの御曹司だと噂を聞いた。


 ああいうやつは僕みたいな貧乏人のSubと対極のところにいる。無意識といえど学校でコマンドを出すし、Subがもの珍しいのか僕を興味津々で見てきやがって……舐めたガキだ。

 僕にないものを全部持ってるくせに、やけに僕に関わってくる。たとえ偶然が重なった結果だとしてもすべてが気に食わなかった。

 

 それなのに……本当に地方の高校生かよ、と言いたくなるほどきらきらしい見た目は、気を抜けば目を奪われてしまいそうで。

 僕から見れば、はるか遠くの世界にいるやつにプレイの相手をしてもらうなんて、信じられなかった。


 でもあの日、保健室でサブドロップしかけたとき――あいつに救われた事実は変えられない。


『先輩。目を閉じて、眠って……今のことは忘れてください』


 低くて甘い声。コマンドは優しくて、ほぼケアばかりのプレイだった。

 Domのグレアなんて無理やり思考を奪われる感じがして嫌いだったのに、風谷のそれは僕をどうしようもなく蕩けさせる。Subの本能が目の前のDomに従いたいと、命令が欲しいと強く願ってしまう。


 ちゃんとしたプレイではなかったから、みっともなく縋ってしまうことはなかったけど……悲しいほど記憶はある。この前の放課後だってそうだ。あれだってあいつが悪いけど、馬鹿みたいに甘えてしまった。


「あ〜くそ、忘れたい。初めてあんなんなった……」


 プレイバーでのプレイ経験はあるけど、自分から甘えたことなんてない。風谷もはじめてっぽかったし、結果的にプレイになっただけのもの。

 それなのに、事後の爽快感はいままでで一番だった。イケメンはプレイまで爽やかなのか? Domなんて穏やかそうに見えても、根底に加虐的な支配性を秘めたやつばかりだと思っていた。


 ……まぁ、一度症状が改善しても永遠に保つわけじゃない。数週間たてばまた欲求は溜まり、身体や精神に不調をきたす。僕にはもう慣れた感覚で、限界を迎えそうになったらプレイバーに向かうのだ。


 繁華街の目立たないビルのひとつ、エレベーターに乗り込み四階で降りる。そのフロアにはここ……Dom/Sub専用のプレイバーしかない。

 元々プレイバーの運営は国の認可制だが、高校生も利用できるところは安全性を鑑みさらに上の認可が必要らしい。厳しい基準をクリアしたプレイバーで家の最寄りだったのがここってわけ。

 

 高校生ならなんと利用料は無料。知らない人とプレイすることに抵抗はあれど、やはり高い薬と比較するとこちらに軍配が上がる。

 というか、薬も無料にしてくれ。あー、副作用があるから無理か。念のための頓服薬は持ち歩いてるけど、僕の選択肢は実質これしかない。

 

 エレベーターを降りただけで静かに自動ドアが開き、重厚感のある受付で会員カードをかざす。このプレイバーに初めて来たとき、二次性や性的指向をカウンセリングされた。その内容がこのカードに登録されている。

 僕の場合は二次性がSub、相手は男、プレイは高校生なのでバニラ一択。

 

 他のプレイバーを知らないけど、ここは高級感があって落ち着いた空間だ。メジャーリーガーが使うロッカールームのような場所で荷物を預け、身だしなみをちょっとだけ整える。

 伸ばしっぱなしで普段は下ろしている前髪をかき上げる。加えてメガネをはずしコンタクトを装着すると、嫌というほど視界が明瞭になった。


 鏡に映るのは眠たげな目をした冴えない男だ。目の下には定期的にできる青い隈。これを隠すために学校では前髪や眼鏡で目元を覆っているのだ。

 あとは、そうだな。自分なりのSubの自衛手段として、必要以上に目立たず、関心を持たれないため。風谷が僕に関心を抱いてるっぽいのは完全に想定外だ。意味わかんねー。


 プレイバーは基本的に大人の空間だ。明らかに高校生らしい人が混じるのは、自分にとっても公序良俗的にもよくない。

 だから制服では来るなと言われているし、僕だって知り合いにバレたくないからささやかな変装をしてるってことだ。ま、同年代でここに来るやつなんてほとんどいないから、念のためだけど。


 来たときとは別のドアの前でもう一度会員カードをかざし、店になっている空間に向かう。


「いらっしゃーい、カイくん。ちょっと久しぶりじゃん? 相変わらず隈ひどいねー」

「……どうも」


 まっすぐバーカウンターに向かって端っこに座ると、マスターの雪さんがいつもどおり出迎えてくれた。ここで使用しているネームは飛鳥井から取ってカイだ。

 はからずも風谷とのプレイのおかげで、二周期はここに来なくて済んだ。


「え、ほんと丸二ヶ月ぶり? なに、Domの彼氏でもできた? 受験生なのにーっ」


 プレイのパートナーと恋人は別派もいるけど、僕は一緒にしたい派。そういったことも最初のカウンセリングで調査されている。だから雪さんはわざわざ彼氏と言っているのだ。

 カウンターの下にあるタブレット端末に客の情報が表示されているらしい。受験生、というワードだけ声を抑えながらも彼はきゃっきゃと楽しそうに訊いてくる。

 

 雪さんはけっこう年上だという。中性的な見た目の美人だからそんな無邪気な様子も似合うけど。僕は酒に見えなくもないサイダーをひとくち飲んでから答えた。

 

「彼氏ができてたらここに来ないって。まぁ、色々あって……とにかく。いまは勉強とバイトとで、恋愛してる余裕なんてない」

「恋はするものじゃなく落ちるものですよ、カイくん。ま、いままでの相手には全くなびいてなかったみたいだけどねー」


 冗談ぽく、突然さとすような言い方をされて笑ってしまった。これまでプレイの相手は全員、雪さんに選んでもらっている。未成年には手厚い対応でありがたいし、変なDomがいなくて助かっている。

 しかしまた同じ相手がいいとか、特別相性がよかったなどという感想を抱いたことはなかった。


 しばらくぽつぽつと会話して、雪さんは新規客のカウンセリングがあるからとカウンターを他の店員に任せて行ってしまった。あっちのドアだから、Domの新規か。

 新規だったら二十歳前後の若いやつの可能性が高い。この店は男女関係なく利用できるけど、どっちだろう。


(男だといいな。あ、でもプレイ慣れてないやつは怖いかも……)


 勝手なことを考えながら、こっそりと周囲を見渡す。店内には十人程度があちらこちらで談笑したり、ひとり酒を飲んだりしていた。外はまだ夕方だとしても、店内の薄暗さは夜を錯覚させる。

 長いバーカウンター以外にも立って話せる小さなテーブルがいくつかあるため、店内はかなり広い。バーエリアと別にプレイルームも奥にあるから、本当に贅沢な空間だ。

 

 ジロジロと見るもんじゃないから、見たことのある人がいるのかはわからないけれど。月に一回程度とはいえいつも土曜の、夜には早い時間に来ているから顔ぶれはそう変わらないのかもしれない。


「隣、いいかな」

「あ……どうぞ」


 声を掛けられて、反射的にうなずいた。中肉中背で白シャツの似合う若い男性だ。手首にはDomを示す青いタグが巻かれていた。イベントで使われるような紙のタグだ。

 僕の手首には緑色。ダイナミクスは見た目で判断できないから、ここにいる間はタグをつけることが義務付けられている。

 

 髪を茶色に染めているから大学生かな。カウンター内の店員がちらっと見てきたが、問題ないと判断したのかなにも言わない。

 いつもは雪さんに相手を選んでもらうけど、いまは忙しそうだし。さいわいにも年はそう離れていないようなので、自分で相手を選ぶ練習だと思って会話に応じることにする。


「実はこの前はじめて来たときさ、君をここで見かけてたんだ。すごく童顔だよね? あっ気にしてたらごめん!」

「あー、よく、言われます」


 実際は言われないけど。実年齢が若いことと、ここでだけ顔を晒してるからそんな風に言われるんだろう。相手の男は思ったことをそのまま口にしてしまった、という感じで慌てて謝ってくるから気が抜けた。

 

 Sub相手には高圧的なDomも多いという。支配したい性という本能がそうさせるのだとは思うが、彼はそういったタイプではないらしい。もちろん、極端に高圧的な人はこの店の安全基準から外されてるらしいけど。


 アツシと名乗った彼との話は意外に弾んだ。近くの大学に通っていて、実家暮らしだから自由度が低い愚痴とか、周りはサークル内恋愛ばかりで面白くないとか。

 基本彼が話していたが、大学を目指す僕としては、一年後の自分の姿が想像できて興味津々に聞いてしまった。


 アツシは顔立ちこそ素朴だけど、これだけ喋れるなら普通にパートナーがいても良さそうだ。そう感じていたとき、プレイに誘われた。


「彼女はいるんだけどさ、Usualで。別にパートナーを作りたいんだけど、なかなかこれっていう相手を見つけられなかったんだ。カイ君さえよかったら、おれと……どうかな」

「……そうなんすか」


 水滴の浮かぶグラスを掴んでいた手を、甲から掴まれる。ぎゅ、と手をカウンターに押し付けられて、拘束するような動きに性的な空気を感じた。眉根を寄せる。

 話し相手としては悪くないけど、アツシとプレイしたいかと問われれば、わからない。どっちかというと無遠慮に触れてくるのは嫌だなと思った。……僕に触れるのをためらった、優しい手を思い出す。


「――それで、こっちがバーエリアね。出せる飲み物は限られてるけど、基本的にはカウンターに座ってほしい。僕が見てるし、よさげな相手がいたら紹介できるから」

「はい」


 雪さんがバーエリアに戻ってきたことに気づき、反射的に振り向く。それで――視線がぶつかった。


「かざ、……」

「せっ……!?」

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