5.過去の願い事
家に帰ると、珍しく弟の碧斗が家にいた。リビングにある大きなテレビでゲームをしている。
二つ下の碧斗は中学三年で、受験生だ。俺と同じ、一応県内トップクラスの高校を目指しているらしく、毎日塾のため遅くまで帰ってこない。
だが今日は珍しく俺より早く帰ってきたようだ。音で気づいたのか前傾姿勢で画面に集中しながらも、視線を寄越さないまま口を開いた。
「おかえりー」
「碧、珍しいな。塾は休みなのか?」
「それ本気で言ってる? 塾なんてたまにしか行ってないよ。兄貴とは頭の出来が違うんで」
「へーへーそうですかあ」
歳が近いから、小学校の頃とかはよく喧嘩した。いまは家で話す時間も減ったし、ちょっと距離ができたおかげで喧嘩もしなくなった。別に弟と仲は悪くない。けど、わりと俺は馬鹿にされている。
なぜなら碧斗は俺よりよっぽど頭がいい。俺が必死に予習復習して取った点数を、こいつは授業を聞いただけで取れるタイプ。
母に似た穏やかな顔立ちは父親似の俺よりも真面目そうに見えるのに、サボって遊ぶのが大好きなやんちゃ坊主だ。
「あ! なぁなぁゲーム一緒にしよーぜ。対戦でレベル上げたいやつあってさー」
「いや、俺は……」
明日の予習がある、と断りかけたものの、碧斗と遊ぶのも正月ぶりかもしれない。テスト期間もまだだし……と二階への階段を上ろうとしていた足を止める。
なにより部屋でひとり勉強していると、今日あった出来事を思い返して悶々としてしまいそうで、どのみち手につかない気がした。
「やっぱ俺も……」
「暁〜? 帰ってるの?」
「母さん」
階段の上から声がして、二階から下りてきたのは母親だった。碧斗と似た薄茶色で細い髪を長く伸ばし、後頭部でゆるく纏めている。
おっとりして見えるし実際家では怒ることもないが、父親とは別の会社を自ら経営する女社長だ。パートナーである秘書の女性いわく、外では隙のない敏腕社長と言われているらしい。俺にはなかなか想像がつかない。
この時間に家にいることからして、今日はリモートワークだったらしい。新しい働き方を率先して取り入れるのが母のモットーだというから、まぁまぁいい会社なんじゃないかと思う。
仕事中はちょっと怖いけど、母は周囲に慕われているというのもパートナーの秘書談。会うたびに聞かされる俺は、もはやこれは惚気なのだと思っている。
「もう、もっと早く帰ってくると思ったのに……ほら、閉まる前に行くわよ」
「ん? どこに?」
「病院に決まってるじゃないっ。自分で薬を買うほど頭が痛いんでしょう?」
「え……気付いてたのか」
「まだまだガキンチョが、どうして隠せると思ってるのかしら。薬の包装シートが頻繁に捨ててあれば気付くに決まってますぅ」
あー。確かにそうか。心配をかけたくなかっただけで、絶対に隠し通したいとまでは考えていなかったから詰めが甘かったようだ。
別に市販薬で足りてるけど……と内心言い訳しながら連れて行かれたのは、予想もしていなかったダイナミクス専門の病院だった。
二次性由来の事故を防ぐため、この病院の外来は曜日によってDomの日とSubの日、あとはその他の日に分かれているらしい。
ちょうど仕事の融通も効いて、今日を逃すとまた先になりそうだからと母は急いでいたのだ。
入り口からすぐのところで受付を終えて番号を書いた紙をもらう。待合室の椅子に座っていたとき、ふと奇妙な懐かしさを覚えた。案内板を見ると、一階の奥は救急外来、二階以上は入院患者専用のフロアとなっている。うーん、入院はしたことないな。
「俺、ここ来たことあったっけ?」
二次性判定の結果が出てからまだひと月ほどしか経っていない。それまでにここへ来る用があったとは思えなかった。
「ああ……一回だけね。一瞬だったから覚えてなくても無理ないわ」
「んー?」
珍しく口ごもった母に違和感を感じ、記憶の端を掴んだ。見たくないような感覚のそれを手繰り寄せようとしたとき、診察室前のモニターに自分の番号が表示された。こういった病院では、プライバシー配慮のため名前を呼ばれることはない。
俺は一旦考えるのを止め、母を連れて診察室へと入り、医者と向かい合った。記載した問診票に従って色々と質問されたあと、医者は小難しい顔をして告げた。
「不安症の可能性があるね」
「……まだ息子は二次性が判明したばかりで」
「判定が最近だっただけで、他人より早熟であることは十分にありますよ」
俺は唖然としていた。不安症、という言葉を自分に当てはめられるとは想像もしていなかったのだ。
母も二次性由来の原因があると思ってこの専門病院に連れてきたはずなのに、いざ診断されると複雑そうな表情をする。
「先生、Domでも不安症になるんですか」
「もちろんだよ。Subの不安症のほうが重く、よく取り沙汰されているけどね。Domだって欲求が解消されないと生活に支障をきたす。――じゃあ、君はあちらで血液検査をしてきてね。結果はすぐに出るから」
促されるまま、母を置いて俺だけ別室で採血した。チク、と刺される感覚に身構えつつも脳裏に浮かぶのは飛鳥井先輩のことだ。
今日の出来事は関係ないにしても、この前の保健室で見た限り、先輩も不安症に見えた。もちろん俺は専門家じゃないし、本人に聞いた訳ではないから予想だけど。
厄介なことになったなぁと嘆息するも、本音はそれほどでもない。先輩と同じ悩みを抱えるなら、それはそれでいいかも……なんて。
しかし楽観的に考えていた俺とは対照的に、診察室に戻った俺を出迎えたのは深刻な顔をした母親だった。
「母さんなに、どうした?」
「――暁斗くん、おそらく君のDom性が早熟なのは五年前の出来事がきっかけになっているようだと話していたんだよ」
「五年前……」
血液検査の結果を看護師から受け取って、医者は困ったように微笑みながら告げた。言われてようやく合点がいく。母が顔を強張らせている理由も。
――小学校六年のとき。
俺は学校からの帰宅途中、目の前でサブドロップした人に縋りつかれた。
彼は俺にコマンドをくれと叫びながら、知らない誰かの名前を呼ぶ。泣いて、縋って、誰かに向けて謝って……なんとかしてやりたいと俺が呼び掛けた声も全く届いていない。
そのまま、子供の俺に何かできるはずもなく。どこかで救急車はまだかと叫ぶ声も聞こえたけど、彼は……車の行き交う道路に走っていってしまったのだ。
けたたましいクラクションの音と、甲高いブレーキ音。ドンっと鈍い音がして、人型のものが宙に舞うのを茫然と見ていた。
『きみっ、大丈夫か! 親御さんは!?』
突っ立っていた俺も誰かに声を掛けられた瞬間、目の前が真っ暗になり倒れて病院に運ばれた。きっとそこが……この病院なんだろう。今なら分かる。あのSubと同じ病院に運ばれたのだ。
駆けつけてきた両親の憔悴した顔や、何より俺に縋ったSubの顔は今でも忘れられない。でもあの人は一命を取り留めたと聞いたし、俺もカウンセリングを何度か受けて落ち着いた。
「暁斗くんはあのとき、目の前のSubを救いたいと強く思ったはずだ。そういうきっかけが二次性の成熟を早く進めた例は多くある」
「そうなんすか……」
「ま、単に遺伝ってこともあるけどね! お母さんに聞いたらそうじゃなさそうだったから」
俺のトラウマとなった事件を、母は思い出してほしくなかったようだ。医者があえて明るく話すのを聞きながら、俺は「大丈夫だって」と母の背中をポンポン叩く。
いや、実際は飛鳥井先輩の前でパニックに陥りかけたわけだが。なんとか乗り越えたし、それをあえていま教える必要はない。
頓服にと不安症用の弱い薬を処方されて、酷ければいますぐに飲んでいいよと医者が言う。
「あ。いまは全然大丈夫なんで。めちゃくちゃスッキリしてます」
「……まさかもうプレイしてるのかい? まぁ君くらい格好よければ年上のパートナーくらいすぐに見つかりそうだけど……」
「暁、そうなの……!?」
「いやいやいや……あ、あれか」
興味津々の医者と、興奮しだした母親に詰め寄られてやっと気づいた。悪くなる一方かと思いきや、たまに調子が良くなっていた理由に。
少し迷って、うろうろと視線を彷徨わせる。恥ずかしいし言いたくないけど、変な誤解をされるのも嫌だ。
「学校の、先輩……たぶんSub不安症で、ひどそうだったから……応急処置だぞ? それで簡単なプレイした……」
「へぇ〜! ウィンウィンならいいね。でもまたやるならSafe wordを決めること。まぁ、ドロップしかけてたらそれどころじゃないけど……」
「やだぁ〜楽しい! 暁にパートナーができたなんて! 帰りに詳しく聞かせてね!?」
「だからまだパートナーじゃねぇって……」
「まだ、ねぇ……」
揚げ足を取ってくる母親を睨んでから、医者から薬の飲みすぎも副作用があると注意を受けた。やはり薬で欲求を抑え込むより、プレイで発散するのが身体にはいい。
高校生でも利用できるプレイバーもあるよと聞いて、知っていると頷く。父親が何軒か国認定のDom/Sub専用プレイバーを経営しているのだ。
帰りの車中で、どうせプレイするなら先輩のかわいい顔を見たいな、と気づけば想像してしまっていた。冗談でもキツイ。なに考えてるんだろう俺は。
偶然に偶然が重なって小さなコマンドを与えただけだ。プレイバーでちゃんとしたプレイをするなら、もっと……俺の足元に跪かせて、それで…………
「それで? その先輩は男の子? 女の子?」
運転する母親に訊かれてハッと思考を現実に戻した。さっきの様子とは一転、わくわくと尋ねてくる彼女に安心すればいいのか、鬱陶しがればいいのか。
ただ俺も、誰かに話したい気持ちは確かにあるのだ。こんな話、学校の誰にもできない。
「男……すっげぇ地味なやつ」
「……血筋かしらね〜……ねぇ。Subの子ってスイッチ入るとすっっっごく可愛くなるじゃない? 地味とか見た目なんて全く関係ないのよ!」
「あーーー、まじ。ほんとそれ」
熱が入った口調でまくし立てられて、つい深く頷く。母親というより、同じ二次性を持つ仲間意識か? 夜の車内は暗く、本音がこぼれやすい。
飛鳥井先輩が特別じゃないのかもしれない。他のSubが相手でも、俺は同じように感じるのだろうか。
「私のスゥちゃんも吊り目だからさぁ、一見キツそうに見えるでしょ? それがこう、トロンとなるわけよ。プレイやるよ〜ってグレア出しただけでね……」
母親のパートナー自慢を耳半分に聞きながら、さらに深く思いふける。
Domとしての本能。Subを支配したい、甘やかしたいという思い。プレイ中、先輩に対して芽生えた感情を俺は持て余していた。
そう、これでもかなり我慢しているのだ。先輩が我に返ったとき不快に思わない態度で接しなければと、いつも考えている。
許してもらえるコマンドしか投げてはいけないのだと自制するたび……もっと、もっと俺のコマンドで支配したいという気持ちが強まってゆく。
本当に他のSubでも同じならば、一度プレイバーに行ってみるのもいいかなと思った。適当な相手を見つくろって……欲求を解消できればそっちのほうがいいだろう。
どうしてか気が進まないけれど、降り積もる欲求をどこかで解消しなければ、また頭痛に悩まされることになるのは目に見えている。
窓の外に視線を巡らすと、夜の景色が素早く視界を流れてゆく。
ダイナミクスの成熟は止められないし、人より数年早いだけでしんどいことが増えるから損だとも思う。
……でもこれからの数年間が、自分の人生にとって大きな意味を持つことになるような、そんな気がした。