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4.勝って負ける

 開いたままだった多目的室の前のドアから、ひょっこりと小さな顔を出したのは飛鳥井先輩だった。

 タイミングとしては最悪だ。Dom同士がグレアで威嚇し合っている場所なんて、Subじゃなくても避けたいに違いない。


 飛鳥井先輩がよろけたのを見て、慌てて威嚇をやめる。石田先輩と同時に駆け寄ったが、机のあいだをすり抜けるのは俺のほうが早かった。


「先輩っ。すみません、先輩。大丈夫ですか?」

「だ、だいじょうぶ……だから、帰れ」


 ドアの縁へと縋り付くようにうずくまる様子は、保健室での出来事を彷彿とさせる。あのときほどではないが顔を青くし、小さく何度も身体を震えさせていて明らかに大丈夫そうではない。

 威嚇など意図しない強いグレアに当てられたSubは、Sub(サブ) drop(ドロップ)に陥る可能性があるのだ。胸のなかに、恐怖がしのび寄ってくる。


 目の前が真っ暗になりそうだったものの、一度強く目を閉じ自分を奮い立たせた。とにかくこのままじゃいけない。抵抗する力もない飛鳥井先輩の身体を抱き上げると、背後から肩を強く掴まれた。


「風谷、朔を下ろせ。保健室に連れて行くから。……朔?」


 初めて見る余裕のなさそうな顔で石田先輩が話しかけてくる。

 ……どうすればいいかわからない俺より、慣れた人のほうがいいだろう。俺は無力さに悔しい気持ちになりながら、抱き上げたばかりの身体を下ろそうとした。

 

「……あ」


 わずかな抵抗を感じ見下ろすと、飛鳥井先輩の手はぎゅっと俺のシャツを握っていた。苦しそうに眉根を寄せ目を閉じているし、完全に無意識なのだろう。

 俺は心臓まで掴まれた心地になって、下ろそうとしていたその身体をもう一度しっかりと抱き上げた。決意を目に宿す。


 石田先輩もそれに気付いている。グレアは引っ込めたまま憎々しげに俺を睨んでいるが、無理やり引き剥がすことはしない。


「俺が、なんとかしますんで。出ていってもらえますか、石田先輩?」

「調子に乗るなよ。必要以上に触れるな。変なことをして、朔に後悔させたらただじゃ置かない」


 言われなくても分かっている俺は頷いて、視線で廊下を示した。石田先輩は俺をもう一度睨み、つぎに飛鳥井先輩を気遣わしげに見つめて、多目的室を出ていく。

 

 たとえ応急処置だとしても、プレイやケアは一対一の対話だ。とてもプライベートなものでSubだって見られたくないだろうし、特に自分のSubの振る舞いを見せたいと思うDomはいない。それを理解して石田先輩は出ていったのだ。


 その意味を深く考えず、ふたりきりになった俺は飛鳥井先輩を横抱きにしたまま机に腰掛けた。必要以上に触れるつもりはないが、俺を離さないのは飛鳥井先輩だし……と内心言い訳する。

 

 サブドロップはSubに強い緊張や不安を与えてしまう。酷い場合は自殺願望を引き起こしたりする。

 ……そこまで考えて、俺は腕の中にある飛鳥井先輩の存在を確かめるように、きつく抱きしめてしまった。


「ん……」


 不満げな声が聞こえ、また現実に戻される。先輩は威嚇グレアに当てられた影響でつらそうではあるが、この前より呼吸は安定しているし、最悪の状況ではない。

 まだ、大丈夫。深呼吸して言い聞かせる。しっかりしろ……自分。

 

 酷い場合は正式なパートナーによるケアでないと意味はないそうだけど、いまは一般的な対処法を試すつもりだ。俺はさっき感覚を掴みかけたグレアを、じわじわと先輩を包み込むような優しさを意識して身体から放った。怖がらせないように、少しだけ。


 グレアは目に見えないが、確かに存在する。腕の中でぎゅっと縮こまっていた身体がひくん、と揺れ先輩の口が小さく開いた。


「あ……」

「飛鳥井先輩、きこえますか? 俺を見て(Look)ください」


 黒縁の眼鏡越しに長いまつ毛が震え、まぶたが上がる。黒いのに透明感があって、光の加減でグレーにも見える。吸い込まれそうな瞳。

 それが俺を捉えたとたん、先輩はシャツを掴んでいた手をパッと離し、身を捩って膝の上から下りようとした。

 その危なっかしい動きに俺も慌ててしまう。


待てって(Stay)! あ、悪い……悪気はないんです。先輩、危ないから、そのままでいてください」

「ご、ごめ……ん」


 俺の声にぴたっと動きが止まり、不安げに見上げてくる。前髪に隠れた眉尻が下がって、水分量の多い目が俺を見て揺れている。

 飛鳥井先輩の叱られた子犬のような反応に、俺まで罪悪感で胸がいっぱいになってしまう。怒ったわけじゃない。謝らせたかったわけじゃないんだ……


「これは応急処置です。先輩、身体は大丈夫ですか? つらいところがあったら言って(Say)ください」

「だ、だいじょうぶ……さっきは怖くて、身体震えたけど。いまは、治ってきた」

「良かった……!」


 コマンドのおかげだが、素直に答えてくれたことが嬉しくて、同時にめちゃくちゃほっとした。先輩の肩に顔をうずめるように頭を動かしてしまい、「ふぁっ」という声と共に先輩の身体がぴくっと揺れる。

 俺は自分のやるべきことを思い出し、慌てて身体を起こした。


いい子ですね(Good boy)、先輩。ありがとう」


 意識せずその頭を撫でてしまっていた。柔らかい髪と、小さく形のいい頭を手のひらに感じる。先輩の瞳がとろりと熱を帯びていく。


「……うん。やったぁ……」


 動揺で手の動きが止まってしまった。ふにゃ……と表情を緩めた先輩は、バレてないと思っているのか、そぉっと俺の手に頭を押し付けてくる。


 こ・れ・だ・よ……!


 Subってみんなこんななのか!? ギャップがやばい。ぶっちゃけて言えば――可愛すぎてやばい。

 たとえ華奢でも腕の中の身体は確かに男の骨格で、感じる重みも女とは違う。それなのに……顔が熱くて、人生で初めてくらいに赤くなっている気がした。

 

 先輩を支える手と撫でている手で両手が埋まっているから手では熱を隠せない。俺はうまく次の言葉が出てこず、先輩から顔を逸らすことしかできなかった。


「かざやぁ、グレアほしい」

「…………」


 忍耐だ! 俺!

 

 グレアは威嚇にも使うし、逆にSubへのご褒美や、プレイ中コマンドを通りやすくするためにも使う。人にもよると聞くが、Subは信頼する相手からグレアを受けただけで蕩けた心地になることもあるという。

 間違っても信頼されているとは思えないものの、先輩はグレアの影響を受けやすいタイプに見えた。

 

 俺はこれ以上グレアを出して先輩がとろっとろになったり、あるいはコマンドを与え続けていると、間違いなく俺自身の理性が崩壊するという自信がある。そしてそれを、プレイ後の先輩が赦してくれるとは到底思えない。


(……これ以上この人に嫌われたくない)


 ひとつの思いが頭の中を占めてゆく。俺を毛嫌いしてくる憎たらしいひとなのに、もう関わらなければいいだけなのに、グレアの影響を抜けたあとの先輩が嫌がることはしたくなかった。

 そうすると今の先輩の望みを退けるしかないわけで。


「ごめん、先輩」


 ぽつりと謝ることしかできない。潤んで煌めく瞳に押し負けそうで、先輩の長い前髪をぐしゃぐしゃと乱す。

 そんな風にされても撫でられていると思っているのか嬉しそうに目を細めて口元は緩んでいるし、また甘えるように見上げてくる顔は心臓に悪い。


 この時間が早く過ぎ去ってほしいという思いと、永遠に続いてほしいという思いと。しばらく相反する感情を持て余しながら視線を繋いでいれば、す……っと先輩の目に理性が戻ってくるのがわかった。


 状況を認識した途端びくっと身体を震わせ、慌てて立とうとするのを止めて自分が立ち上がった。膝から下ろした先輩を椅子に座らせて、自分が目の前にひざまずく。

 先輩が口を開く前に、こちらが先手を打つ。俺はためらいなく頭を下げた。


「すみませんでした。俺、頭に血が上って……つい威嚇のグレアを出してしまったんです。不意打ちキツかったっすよね」

「ああ、いや……」


 正面から動揺が伝わってきたが、侮蔑の目を向けられることが怖かった。声からは感情を判断できず、視線を上げられない。

 

「応急処置とはいえ勝手にプレイしてしまって、不愉快でしたよね。忘れてください。俺も忘れます」

「まぁ、その……」

「俺、もう行きますね! 石田先輩がたぶん近くにいるんで、声かけときます」

「あ……」


 先輩がなにか言おうとしていることは分かっていた。でもたぶん、俺の言っていることは間違っていない。俺だってプレイじゃなかったら、あんなふうに人を褒めたり撫でたりするなんて恥ずかしくてできるとも思わない。


 情けないのは承知の上でたたみ掛け、先に部屋を出る。一瞬だけ掠めるように見た先輩の顔色は、良くなっていたように思う。


(思い返すと恥ずかしーけど、やっぱなんかスッキリしてるんだよな……)


 夕日の差し込む廊下の先、険しい表情で待つ石田先輩を視界に収めつつ、不思議な爽快感が身体を包んでいるのを感じる。これがDomの本能なのか、と俺は小さく呟いた。

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