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2.氷から陽へ

「はぁ……いってぇ〜……」


 白いティーシャツに紺ジャージのパンツ。まさに体育の授業を抜け出してきました、という格好で廊下を歩いている。授業中の廊下はとても静かで、俺の足音だけが響く。

 

 バスケのチーム戦で、ヤスの繰り出したノールックパスを受け取りそこねた。まじダセぇ。右手の指、付け根が赤くなっている。

 犯人のヤスは『アキちゃんごめ〜ん!』とふざけた感じで謝ってきたが、顔はガチで焦っていた。

 

 保健室へ一緒に行くと言われたのは断った。大袈裟にされるとよけい恥ずかしいんだよ。

 教師も見慣れた様子で『突き指だね』と何でもないように告げた。


 普段はこんな凡ミスしないのだ。一年のとき、あらゆる運動部から勧誘を受けたくらいには運動神経にも自信がある。

 入学して以来場所だけ知っていた保健室へ到着し、ガラッとドアを開けた。


「センセ〜、頭痛薬くださーい」


 理由はこれ。さいきん頻繁に頭が痛くなる。

 体育の授業がはじまる時点ではちょっと痛いかも程度だったのに、途中からガンガン響くような痛みに変化した。おかげで試合に集中できず、こんなダサい怪我をする羽目になったのだ。


「きみ。いま寝てる子いるから、静かにね。頭痛いの? いつから? ――そう……ごめんね、保健室で薬は出せないの」

「え……そーなんすか。知りませんでした」


 まじか。申し訳なさそうに告げた養護教諭の言葉に、俺は素直に驚いた声を出した。

 昔から保健室にはあまり縁がなかったし、頭痛みたいな不調だってここ最近始まった。それならまっすぐ教室へ向かえばよかったな。

 

 後悔しながら、はーっとため息を吐きつつ椅子に座る。教室にある自分の鞄には市販の頭痛薬が入っているものの、今から取りに行く気力もなかった。

 

「ちょっと横になってたら? 目を閉じるだけで楽になることもあるから。あんまり酷かったら親御さんに連絡して、病院に連れて行ってもらいなさい」

「はーい……あ」

「あ! 保健だより配布しなきゃいけないんだったー! ちょっと出るけど、きみは勝手にベッド使っていいから。飛鳥井(あすかい)くんも、良くなるまで寝ててねー!」

「…………」

 

 手の処置をしてもらおうと思ったのに、それを伝える前に養護教諭はあわてて部屋を出ていってしまった。ずっと保健室にいるだけの仕事だと思っていたが、意外に忙しそうだ。

 

 そんなことより……

 

 俺はふり向いて保健室の一角を見た。春の日差しが生成りのカーテンを通りぬけ、柔らかく室内を照らしている。手前のベッド二つは無人で佇んでいるが――奥のベッドを囲うよう、薄緑色のカーテンが引かれている。


 あそこに、あの人がいるのか。


(いや……だからなんだってんだ)


 会話になるほど話したこともない。それどころか頑なに無視してくる男が保健室で寝てるからって、なんなんだ?

 どうしてもベッドの方へ意識が向かうのを無理やり引きはがし、俺は自分で手の応急処置をすることにした。湿布は消毒や絆創膏と一緒に置かれているのを見つけたし、使って事後報告でも多分大丈夫だろ。


(つーか冷やした方がいいんだろうなー……氷嚢とかあるかな。あー。頭いてー)


 怪我したのが利き手じゃなかったのは不幸中の幸いだ。それでも片手で貼った湿布はかなり皺が寄ってしまった。

 とにかく手より頭の痛みが酷くて、そこで限界だった。少し横になろうと、ふらふら空いているベッドの方へ向かう。


 しかし、半分目を閉じていたせいで――俺はパイプベッドの脚を思いきり蹴飛ばしてしまった。ガァーン!と大きな音が室内に鳴り響き、「やべ」と小さく呟く。

 足は無事だけど、これはまた……ウザがられる案件じゃ……。


 飛鳥井って名字のやつは他にもいるかも……なんて淡い期待は打ち砕かれ。そっと開けられたカーテンの向こうから怪訝な表情で顔を覗かせたのは、あの飛鳥井先輩だった。


「…………」

「すいません、煩くして……」


 自分が圧倒的に悪い状況に、若干血の気が引いた。この人も体調が悪くてここで寝ていたはずなのに、バカでかい音で起こしてしまったのだ。

 先輩は何も言わずに立ち上がり、そのまま保健室の出入り口に向かう。その行動にも、俺は胸の内を引っ掻かれたような心地になった。

 

 謝罪さえ無視される。同じ空間にも居たくないのか……。


 そのまま背中を見送ろうとして、小さな違和感に気づく。あれ、なんかいつもと違った?

 顔色は良くなかったように思う。保健室で休むほど体調が優れないのだから当然だろう。いつも白いけど、今日は紙のようで。ただそれだけじゃなくて、なんか顔が幼く見えたというか……


「あ」


 先輩がいたベッドのカーテンが半分開いている。その枕元に、眼鏡が置いてあった。俺はとっさにそれを取り、ドアを開けようとしている先輩を呼び止めた。


「先輩っ」

「…………」


 呼んでも振り向かない。また無視かよ……。頭痛で気が短くなっているのを感じながら、理由があるのをいいことに俺は先輩の肩を掴んだ。あ、突き指が痛ぇ。

 

 肩を掴んだ手はしかし、全く手応えがなかった。


「ちょっ、先輩!」


 その瞬間、ドアに縋りつくように――先輩が倒れた。

 

 咄嗟にしゃがみ込み、先輩の身体を支える。触れた指先はあたたかい室内とは対照的に冷え切っていた。


「どうしたんすか、大丈夫ですか!」


 必死の呼びかけも、先輩がぎゅっと目を閉じているから聞こえているのかもわからない。唇も紫色になり、どんどん顔が青くなっていることに気付いた。

 

 こんなのどうすればいいんだ! せっかく保健室にいるのに、養護教諭が戻って来る気配はない。俺の対処が遅れたせいで、取り返しのつかないことになったら……!

 過去の記憶がフラッシュバックし、余計パニックに陥った。すぐに誰か、いや救急車を呼ぼう!


「ああもう! スマホ教室だし……この部屋に電話とかあったか?」

「……から」


 ジャージのポケットは空だった。悪態をついて電話を探そうとするが、先輩をこのまま床に転がしておくわけにもいかないと纏まらない思考で迷っていたとき。下から先輩の声が聞こえた。


「だい、じょぶ、だから……横に、ならせてくれ」

「……!」


 力ない声が余計に不安を煽ったものの、眉尻を下げたつらそうな表情で頼まれたことを無下にできるはずもない。なるべく揺らさないようにそっと抱き上げ、元のベッドへと運んでいく。

 半分閉じたカーテンの内側に入りシーツの上に身体を横たえると、カーテン越しの光でも眩しいのか目の上に腕を乗せてからは微動だにしない。


 見たことのない弱々しい様子に、これがあの飛鳥井先輩なのかと疑いたくなる。焦りで汗がこめかみを伝った。

 まだパニックから抜け出せていなかった俺は、もう一度電話を探そうとそこから出て行こうとした。


「う……ぅ」

「先輩!?」


 うめき声に振り返れば、先輩は身体を胎児のように小さく丸め、ガクガクと震えている。尋常じゃない様子に目を離すことができない。


「さむ……さむぃ」


 その言葉を聞いてようやくひとつやるべきことを把握した。隣のベッドからブランケットを取り、先輩に掛ける。ブランケットの上から身体をさすると、わずかに震えが落ち着いたような気がした。

 にもかかわらず、今度は浅かった呼吸に異変が生じた。ハッ、ハッと激しく息を吸い、喉を掻きむしろうとする。


「息がっ……、くるし……ッ!」

「ちょっ、先輩!」


 その症状を俺は見たことがあった。先輩が自らの首に当てた指を引き剥がし、「ゆっくり息をして!」と声掛けする。

 だが先輩の視界に俺は映っていないように感じる。声も届かず、俺は必死になってなんども先輩と視線を合わせようとした。押さえていても、くり返し手が皮膚を掻きむしろうとする。


「飛鳥井先輩! だめだって、落ち着いて! ……止めろ(Stop)!」


 ぴた、と先輩の動きが止まった。いきなり言うことを聞いて俺の方が驚いたくらいだ。しかも先輩の震えまで止まっていることに気づき、まさか……と思い至る。

 苦しんでいたときの中途半端な体勢のまま固まってしまったので、試しにコマンドをひとつ投げてみた。


「先輩、寝転がってください(Roll)


 すると丸めていた身体から力を抜き、先輩はごろんと仰向けになった。俺は最近読み返したDom向けの本に書いてあったことを思い出し、グレアが出せているといいなと思いながらなるべく優しい声を発した。


よくできました(Good boy)。先輩」


 その瞬間――先輩がこちらを見てふにゃ……と表情を崩し、嬉しそうに笑った。

 驚きに目を見張る。

 

(うわ……まじか……! いつも超絶クールなこの人が!?)

 

 前髪は冷や汗で額に張り付いているし眼鏡がないから、薄い二重の目をキラキラとさせているのがよくわかる。警戒心ゼロの微笑みは控えめに言って破壊力抜群だ。

 ドクン、ドクンと焦っていたときとは違う動きで、心臓が居場所を主張する。

 

 俺は戸惑いを隠せなかった。先輩が俺の命令を聞いてくれたことが、こんなにも嬉しいなんて。

 しかも湧き上がってくる感情は、目の前のSubをもっと褒めたい、甘やかしたいという感じたことのないものだ。


 俺は先輩の頭に手を伸ばし撫でたくなったのを我慢して、身体を起こしてベッドの端に腰掛けた。自分も必死で先輩の上に覆い被さったままだったのだ。


「こっち見て(Look)。ゆっくり息を吐いて、吸って……慌てないで。大丈夫ですから」


 後半はコマンドになっていなかったかもしれない。だが、まだ息の浅かった先輩は俺の顔にちゃんと目を向けながら、指示した通りにゆっくりと息を吐く。

 しばらく続けているとようやく安定した呼吸に戻った。頬に朱が差し、顔色もだいぶ良くなってきている。


「ちゃんとできましたね。偉いです、先輩」

「えへへ」


 褒めると歳上とは思えないほど幼い顔で、目を細めてふにゃふにゃ頬を緩める。あー、まつ毛が長いな……

 見てはいけないものを見てしまっている心地になって、俺は天を仰いだ。これはまずい。


 今回のプレイは偶然だが応急処置になった。俺も冷静じゃなく、また意図せずグレアが出てしまったのだろう。焦ってかけた言葉がコマンドになって、先輩の症状は落ち着いた。その理由にひとつだけ思い当たることがある。

 

 ――ダイナミクス由来の不安症だ。

 

 SubやDomといった二次性をもつ人間は、欲求の程度こそ個人差はあれど、プレイをしないでいるとさまざまな不調が出る。高校生でも、ダイナミクスの成熟が早ければあり得ると聞いた。

 俺はまだ、その辺りよく分からないけど……プレイというのも可笑しいほど未熟なプレイは、驚くほど心の柔らかい部分をくすぐってきた。


 少しでも、この人の助けになれていたらいい。苦しむ人を見ているだけなのはつらいから。


「先輩。目を閉じて、眠って……今のことは忘れてください」


 願いを込めて差し出した言葉は、温かい陽の光に混ざって溶けてゆく。触れないようにしながら目の上をそっと手で覆い、先輩が素直に微睡むのを見守った。


 これ以上ここにいては駄目だと判断し、ベッドの周りをカーテンで覆う。このままだと自分がなにを仕出かすかわからないし、先輩を見ていると心臓が変な音を立てるのだ。

 

 保健室を出てから、忘れかけていた手の痛みがズキズキと戻ってくる。もっとも、頭痛に苦しんでいたことを思い出したのはずいぶん後になってからのことだった。

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