19.素直になりたい
急いで救急車の元へ向かうと、開いた門の向こうで担架を持った救急隊員が家の中に入っていく。さすが豪邸だ。門から玄関までも広い空間があった。
「アキは? てかアキなのか?」
「まだ見えない」
いきなり家の中に押しかけるのは混乱のもとだろう。僕たちが様子を見ていると担架に人が乗せられて出てきた。
長い脚がはみ出している。――やっぱり、風谷だ。
苦しんでいるというより、意識もなく眠っているように見えた。僕はすぐにでも駆け寄りたい衝動を抑える。
どうしよう、怖い。大丈夫なんだろうか?
担架について家から出てきたのは男性が二人。風谷によく似た父親らしき人と、制服を着た少年……弟か?
気になるが、割り込んで事情を訊くこともできない。家族は心配そうな表情をしているけど、取り乱してはいないのが唯一の救いだ。一刻をも争う状態ではないことがわかる。
父親と思われる人は僕たちの方を一瞬ちらりと見て驚いた顔をする。しかし救急隊員になにかを尋ねられてそのまま救急車に乗ってしまった。
目的地は決まっているのか、すぐにサイレンを鳴らし救急車は走り去ってしまう。
「碧斗くんに聞こう。アキの弟だ」
先立つ木谷の背を追いかけ、救急車を見送ったまま呆然としている少年に声をかけるのを見守った。
風谷の弟は、少し幼い顔立ちをしているものの僕と同じくらい身長がある。あいつの兄弟なら、この子もまだまだ成長しそうだ。
顔のパーツは男前というより綺麗めで、あまり風谷に似ていない。もっとも、途方に暮れた表情はどこか風谷を想起させるし、美形家族であることは間違いないが。
木谷とは面識があるらしい碧斗ははじめこそ気安く応対したが、なにが起きたのかという問いには頑なに口を割らなかった。
「これは家の問題なんです。大丈夫なんで……今日は帰ってください」
「なんでだよ。おれだって親友なんだから知る権利はある!」
木谷くん、強引すぎる理論である。病気だとしたら繊細な問題だし、簡単に第三者へ教えていいものではない。
でも僕にはひとつだけ心当たりがあった。一縷の望みを賭けて、横から口を出す。
「Domの不安症じゃないのか……?」
「え、なんで知って……」
「病院はどこ!」
それさえ分かれば充分だった。Domにはサブドロップに匹敵する言葉はないものの、不安症が重症化することは大いに考えられる。
自分が行ったって意味がないかもしれない。風谷を拒否したのは僕自身なのだ。それを分かっていても、じっとしてなんていられなかった。
僕を真っ暗闇な世界から何度も救ってくれたあいつを、できるなら……今度は俺が助けたい。
病院は予想どおり自分も数日入院したところだった。ダイナミクス専門で入院施設のある総合病院は市内でそこしかない。
(自力で行ける距離か? ……いや、車でも距離があった気がする。タクシーにするか? 財布にいくら入ってたっけ……)
「碧〜! じゃあお母さんも行ってくるから! 戸締りだけちゃんと……って、え! 息子くん!?」
病院名を聞いたとたん考え込んでいた僕の耳に、少し離れたところから女性の声が届いた。顔を上げると、開いた車庫の中で車に乗り込もうとする女性の姿がある。
お姉さん……はいないか。ずいぶん若く見えるが、母親らしい。弟はお母さん似だな。
『息子くん』が誰を指すのか疑問だったけど、その目は僕を見ている気がする。僕たちはお互いに駆け寄った。
「あの……僕、飛鳥井っていいます。もし病院に行くなら、一緒に行ってもいいですか!」
「朔くんね! 元気になってよかった……!」
「え?」
「病院で会ったことあるのよ、お母様にもね。さ、悪いけど急ぐわよ。乗って乗って!」
車に乗り込もうとすると、彼女は慌てて助手席から後部座席に荷物を移動してくれた。服ばかりに見える大荷物は、入院することになる息子のためだろう。
内装まで高級感のあるセダン車が、家の敷地を抜けて走り出す。母親の口調は明るいものだったが、ハンドルを掴む手や運転する横顔には焦燥が見えた。
勢いで乗ってしまったけど、家族から見れば僕は部外者だ。余計なことをしてしまったかもしれない。
「すみません、いきなりついてきて」
「朔くんは不安症、大丈夫なの?」
「あ、僕はぜんぜん……」
突然訊かれて、素直になりきれない返事をした。プレイをしていなかったら身体はボロボロになるし、雪さんのお世話になっていても絶好調とは言いがたい。
パートナーのいる人や、薬を継続的に買える余裕のある人が羨ましかった。
「暁はね、不安症の薬が合わないみたいなのよ」
「え……」
「パパの店に行くのも嫌だって突っぱねて、病院でもらった薬を飲みはじめたとたんに体調崩して……不安症とどっちが悪いのかわかんないくらい。それでも薬を飲んでいればDomの欲求は抑えられるし、グレアもちゃんと制御できるようになるらしいんだけど」
パパの店というのは、父親の経営するプレイバーのことらしい。まさかとは思うが、あの店のことだろう。
体調不良の原因が不安症の薬だとは思わなかった。単純に不安性で体調を崩しているだけだと思い込んでいたのだ。薬が駄目だったら、選択肢は実質なくなる。
「いろんな新薬を試したんだけどね、良くなったり悪くなったりで。私やパパのパートナーとプレイさせようとしても、今度は拒否反応で吐くのよ? 信じられないほど頑固というか、潔癖だわ。誰に似たのかしら……私かな」
「……じゃあ、いま運ばれたのは」
「海外で出回ってる薬を試してみたら、倒れちゃって……。いつも冷静なパパが応急処置してくれたから、大丈夫だって、信じてる……」
「…………」
僕のせいだ、という言葉が頭の中を埋めつくす。薬の合わない人がいるなんて、今の今まで考えたこともなかった。
良かれと思って行動したことがぜんぶ裏目に出ている。いや……結局いままでの行動は自分のためでしかなかったのだと、認めざるを得ない。
パートナーになれるとしても恋人になれないことが耐えられなかった。あいつの恋人なんて見たくなかった。どう見てもつり合わない自分が風谷の隣に立って、他人に謗られるのが、笑われるのが怖かった。
風谷のためだなんて言い訳だ。あいつのためを思うなら、望むとおりにしてやればよかった。僕の弱さがあいつを苦しめ、今回の事態を招いたのだ。
目の前が真っ暗になったようだった。信号機の向こうでは、冬の太陽が空を暁色に染めることなく沈んでゆく。
後悔に押しつぶされそうになっていると、病院についた。荷物も持たずに走っていく彼女を追いかけようとして、ためらう。
僕が行って何になるんだ? ただの元凶じゃないか。
「来て! 早く!」
しかし彼女はそれを許さなかった。焦った声で呼ばれると無視しがたいし、人に指示し慣れたひとの声には自然と身体が動いた。
『パパ』から連絡は入っていたらしい。病院に入るとまっすぐに病室へ駆けつけ、僕はひとり廊下で立ち尽くす。
とんでもない一日だ。昼までは風谷がピンピンしていると思っていたのだ。
「ふぅ……」
タイミングが良かったといえるのだろう、何も知らないまま冬休みを迎えるところだった。なんとか追いついてここにいることが不思議だ。
病院の廊下は煌々と明るいが、もうすっかり日は沈んで夜だ。自分が入院していた部屋とは階が違うもののつくりは同じで、ところどころクリスマスの飾り付けがしてあった。
(そういえば今日、クリスマスイブだったな……)
弟や妹がクリスマスパーティーをするのだと一週間以上前から意気込んでいたのだ。それを思い出し、慌てて家に連絡を入れる。
母に風谷のことを正直に伝えると、思った以上に真剣に心配していた。家まで来てくれたのに僕が追い返してしまった件も、怒られはしなかったが僕に非があると思っていた節がある。事件のときに上がりきった風谷への好感度は下がる予定もないらしい。
役に立てることがあるならしっかり勤めを果たしてくるように言われ、もちろんと応えた。いまの僕にできることなんて、あると思えないけど……もし、風谷と話せるのなら……。
風谷の家族に帰りまで送ってもらう訳にはいかないので、姉が仕事を終えたら病院まで迎えにきてくれるよう頼んだ。この時間帯は道も混んでいるし、だいたい一時間後だろう。
通話エリアを出て病室の前に戻ると、ちょうどご両親が出てくるところだった。先ほど一瞬だけ見かけた父親と目が合い、会釈する。……気まずいな。
上背以上に迫力がある人の前で身を縮めていると、話しかけられた。声は低く、落ち着きがある。
「朔くんだね。私たちはこれから先生と話があるから、その間だけ息子を見ていてくれないか」
「あ……、はい」
「ありがとう」
数十年後の風谷――この人も風谷だけど――を見ている心地がして、妙に恥ずかしくなる。とんでもない美丈夫なのだ。
感謝のことばを深みのある声で言い残し、二人は去っていってしまった。つかのま惚けていた僕は頼まれたことを思い出して、慌てて病室に入る。
病室は静かで、なぜか寂しかった。白いベッドに風谷が横たわっている。違和感しかない。こいつは……もっと大勢に囲まれているのが似合う。
蛍光灯の光のもとでは肌に生気が感じられず怖かった。目を閉じた顔は整いすぎて、精緻な彫刻のようだ。わずかに上下する胸を見つめながら、囁く。
「あきと……やせ我慢してんじゃねーよ……」
こんな時でも文句がついて出る自分に、ハハッと乾いた笑いがこぼれた。
心配していても素直になれない。とことん可愛くない性格だと、心の中で自嘲する。
「……せんぱい……」
「っ……!」
「いま……名前で呼びました?」
「、え……起きて……?」
とつぜん聞こえてきた声に、狼狽えて声が震える。懐かしい声だ。
勝手に意識はないものと思い込んでいた。信じられなくて、動いた唇から視線を動かす。
ゆっくりと上がっていくまぶた。優しいブラウンの瞳と目が合った。
――それだけで、胸がいっぱいになってしまった。
「泣かないでください……」
「っ、うるさい」
頬に流れるものを感じて、自分がぼろぼろと泣いていることに気づく。涙は次から次へと生まれ、止める間もなくこぼれ落ちる。喉の奥が痛くて苦しい。
風谷が……暁斗が起きて、喋っている。それだけのことにどうしようもなく安心した。僕を見て困ったように微笑んでいる顔が愛おしくて、たまらなかった。
「先輩、こっち来て」
「ぅわっ。え……っ!」
急にコマンドを放つから転びそうになる。その前に腕を引かれて、立っていた僕は暁斗の方へ倒れ込んだ。
薄い布団にボフッと顔から突っ込んでしまい、混乱を感じる前に優しく頭を撫でられる。グレアは出されていないのに、それだけでふわ……と嬉しくなってくるのだから可笑しい。まるでパブロフの犬だ。
顔を上げると、少しかさついた手が頬に添えられ、眼鏡の下をくぐった親指が目の下をなぞる。
「……いったい、どうしたんですか?」
「こっちの台詞だ! 僕はなにも知らなかったんだぞ!」
「そりゃ、知らせないようにしてましたもん。俺のことなんて気にしてもなかったんじゃないですか?」
「…………」
どこまでも平然としている暁斗にふつふつと怒りが沸いてくる。
こいつの前でだけ、僕は感情の振れ幅が大きくなるのだ。たったひとことに振り回され、視線ひとつで胸が熱くなる。
「へっ……?」
前触れもなくぎゅう、と両腕をつかって暁斗の胸に抱きつくと、まぬけな声が聞こえた。
ドクッドクッと強く、早い鼓動が伝わってくる。――大丈夫、生きてる。
顔を上げ、上目遣いで見つめる。
これだけは伝えなければならなかった。
「僕を……暁斗の、……パートナーにしてくれ」




