17.淡々と過ぎる side.朔
まる十日ほど休んでから、模試のために土曜の学校へ行った。最終学年にもなると毎月のように模試がある。志望校に対して自分がどういった位置にいるのか把握しつつ、苦手分野のトライアンドエラーを繰り返すのだ。
一、二年はおらず、音や声を出す部活動は模試のあいだ止められているから校内はとても静かだった。文化祭直後の興奮は鳴りをひそめ、三年のクラスが立ち並ぶ廊下を歩いていても注目は浴びない。
自分のクラスへと足を踏み入れるとさすがに何人かはこちらを見てきたが、「はよー」と普通に挨拶を交わしてからは参考書に視線を落とす。
みんなクラスメイトのちょっとしたゴシップより、目の前の模試の方が重要らしい。そのことに思いのほかホッとして、知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
しばらくすると武蔵と辻がほぼ同時にやってきて、教室の入口から「朔、」「飛鳥井くん!」と声を上げる。バタバタと駆け寄ってきた辻が片手を上げるから、パチン! とハイタッチを交わす。
「もうブタバコをでてきたのか? 不良勇者くん」
「ひどい! 今日はお姫様を迎えに来たのに!」
「悪いけど、僕は模試があるから城にはひとりで行ってくれ」
ひどいよぉ飛鳥井くん……と泣き真似をする辻を小突き、視線を合わせてあははっと笑う。夏休み明けはこいつが謹慎中で会えなかったし、僕がしばらく休んだせいで会うのはかなり久しぶりだ。
「……もう大丈夫なんだな?」
「うん、ありがと。辻のおかげでかなりスッキリしてる」
「わりとへなちょこパンチだったけどな」
「言うなよ石田くん〜。親父を殴ったこともないおれなのに……」
武蔵のツッコミにまた辻がしょげる。懐かしくさえ感じるやり取りのおかげで、あれ以来ようやく日常が戻ってきた気がした。
武蔵がなにか言いたげな視線を寄こしたけれど、気づかなかったふりをして「サボりすぎて模試やばいかも……」と再び教科書に集中するふりをする。メッセージを長らく無視していたことは、あとでちゃんと謝りたい。
しばらく手つかずだったSNSに溜まっていた友人たちからの大盛りメッセージは、昨日のうちにあるていど消化した。「明日の模試は行く」といえば、下手に説明しなくても大丈夫なことは伝わると思ってのことだ。
――そう。僕は大丈夫なんだ。
いろいろあったから、しばらく学校にも行きたくないと思っていたのは事実だ。望まない注目や他人から浴びせられる罵倒は想像以上にストレスだった。でもまぁ人のうわさも七十五日というし、最初はなんとか耐えられると思っていた。
新学期初日の放課後、ぐうぜん喧嘩の仲裁に入る羽目になった。あの事件でSubとバレてしまった生徒は校内に何人もいる。
バスケ部のキャプテンだという二年も、高い身長と立場からはSubだなんて誰も想像できなかったに違いない。だからって、二次性を馬鹿にして暴言を吐くのは見過ごせなかった。
――『学校一のイケメンとどんな鬼畜プレイしてんの?』『風谷ってさぁ、頭だけじゃなくて趣味も悪かったんだな』
風谷と同学年であろうバスケ部員の言葉に、頭を殴られたような衝撃があった。僕に流れ弾がくるのは別にいい。低俗なやつの発言だと思えば正面から受け止めようとも思わない。けど……
僕よりも遥かにやさしい心を持つ風谷が、僕を守ったせいでこんな風に言われている。鬼畜とは真逆の甘いプレイが好きで、陰では勉強ばかりしている真面目な努力家。そんな風谷のことをなにも知らないやつが、なにを言ってる?
気づけば身体が勝手に動いて、大きく腕を振り上げていた。さいわい武蔵が止めてくれたけど、あのときは目の前が真っ赤に染まって目の前の奴を殴ることしか考えられなかった。むかつく。悔しい。風谷を……僕の好きな男を悪く言うな!
感情が身体のなかで荒れ狂い、鼻の奥がツンと痛む。ちくしょう……ちくしょう!
走ってきた顧問が部員を引きずっていくのを見届け、武蔵と別れ家に帰ってからも、僕は気づいてしまった事実に愕然としていた。
(僕といると……風谷は幸せになれない……)
風谷のことを好きだと認めざるをえなかったのは、文化祭の事件と病院でのプレイがきっかけだ。あんなふうに身を挺して守られて、いつも本気で心配してくれて、好きにならずにいられる奴がいたら教えてほしい。な、無理だろ?
サブドロップからのサブスペースを抜けて病院で目覚めたとき、僕はまだ十八年しか生きていないけど真剣に、もうこれ以上の人には出会えないと思った。
次に会ったらどうしよう、あいつももしかして僕のこと……なんて心配と期待が入り混じり、待ちわびて迎えた新学期だったのに。
もし僕という恋人兼パートナーができたら、風谷の価値を大きく貶めてしまうことに気付いたのだ。こんなにも冴えない貧乏人のSubじゃなくて、もっとあいつに釣り合う相手はたくさんいる。
恋を自覚した直後の気づきに、絶望的な気分だった。居心地の悪い学校になんてちっとも行きたくない、と思うほどには。
さいわい三年分の教育課程はもう終わり、授業は受験対策が主になっている。しばらく家で勉強することにして、事件のこともあったし無理しなくていいと担任からも伝言があった。
クラスメイトや風谷からの連絡を無視して、家に閉じこもっていたとき……本人がやって来た。僕をふたたび、絶望へ突き落とすために。
はじめこそその誠意に絆されそうになったけど、その後はパートナーとかクレイムとか、あいつは契約の話しかしなかった。僕とは違う考え――パートナーと恋人は別だと思っていることがひしひしと伝わってくる。
悪気がまったくないからこそ、決定的な差が壁のように立ちはだかる。僕はその壁に押しつぶされてしまう。
どれだけ僕に好意を抱いてくれて、プレイの延長線上でキスしたり身体に触れてくれたとしても、それはあいつにとって、単なるDomとSubの関係でしかないのだ。
風谷は女子と付き合っていたことがあったから、同性なんて考えたこともないはずだ。僕が風谷と付き合ったり、恋人同士のふれあいを求めているなんて……想像もつかないんだろう。
『もうお前の身勝手なことばを聞きたくない。もう、お前とは……プレイ、したくない……』
身勝手なのは自分の方なのに、とにかく風谷に出ていってほしくてひどいことを言った。恋をしたとたんに失恋した情けない男の涙なんて、見せられない。
それから数日かけて気持ちを整理して、風谷の連絡先もブロックしてしまった。もう終わりだ。きれいさっぱり忘れよう。
苦しくて切なくて、なかなかスッキリとはいかなかったけど。膿んだ傷のようにじくじくと痛みを訴える心に蓋をする。
思えば半年に満たない関係だったのだ。向こうもすぐに忘れてくれるだろう。
あと数ヶ月で本格的な受験シーズンに入り、僕たちは学校にもほとんど来なくてよくなる。その後は卒業するだけだ。
入試が目の前に迫っている。風谷のことを考えている暇なんて、僕にはない。
答案用紙が配られ、教室がつかのまの緊張感に包まれる。頭から余計なことを追い出し試験のことだけを考えれば、心が凪いでいった。
「勝手に家を教えて、ごめん」
「あー……別にいい。どうせあいつがしつこかったんだろ」
数日経って、武蔵と二人になったとき改めて謝られた。登校しはじめてから僕は、これまで以上に徹底的に風谷を避けていた。もしすれ違っても、決して視線を合わせない。
昼も、食堂で食べる楽しみを犠牲にして教室から出なくなったので、さすがの武蔵もなにかあったと感づいたらしい。
謝られると気まずくて、小さく舌打ちする。武蔵は悪くないし、ましてや風谷も悪くはないのだ。ただ、互いの望みが決定的に噛み合わないだけで。
後悔はしている。関係を断つにしても、あんな言い方はよくなかった。
あのとき風谷がどんな顔をしていたのか僕は見ていなかったけど、必要以上に傷つけてしまったと思う。
でもあれくらいしなければ、風谷は諦めてくれないかもしれない。どうせなら徹底的に嫌われてしまったほうが、こちらとしても都合がいい……早く忘れるために。
もうどうでもいい、後に引けないところまで来てしまったと納得しているくせに、まともに顔を合わせるのが怖くてこのザマだ。
窓からぼんやりと空を見上げていた僕は、どんよりと暗い天気にため息をもらす。分厚い雲は隙間なく空を覆い、息苦しささえある。天気予報のとおりなら、夕方から雨が降り出すだろう。
「もう終わったことだ。大丈夫だよ」
「……いいのか?」
「いいんだよ」
教室の壁に背をつけた武蔵が気づかわしげに眼鏡の奥で目を細めた。『いいのか』という言葉にどれほどの意味が込められているのか、考えたくもなくて視線を逸らす。
いいんだ、これで。
無事に受験戦争を勝ち抜いて卒業したあかつきには、僕は家を出て県外の大学へ通うことになる。物理的に離れてしまえば、視界のはしに風谷が映ったからといって慌てて窓に背を向ける必要もなくなる。
「え、どうしたの? ――あ……噂の彼か。よくこの距離ですぐに見つけるね」
「違う! 気のせいだからっ」
「はいはい。あんまり意地はるなよ」
あからさまな反応をしてしまい、じわじわと顔が熱くなった。なんか武蔵、風谷に優しくなってないか?
それからさらに一ヶ月ほど経ち、街のプレイバーへと向かった。さいごに来たのは夏休みだったから、もう二ヶ月は経っている。体調はぎりぎりだった。
僕は上がっていくエレベーターの階数表示を見つめながら、風谷が来ていないことを願った。よっぽどタイミングが合わないかぎり会うことはないと思いつつ、同じ高校で早熟のDomとSubという関係性は、油断していると『偶然』の確率がはね上がるのだ。
「あれっ、珍しいね〜平日なんて。休暇じゃないんでしょ?」
「あいつは……アキは来てないよな?」
「待ち合わせ? ……でもなさそうだな。まだこじらせてるの? カイくん」
高校生男子をつかまえて『こじらせ』はないと思う。これでも最近は風谷のことを考えてズンと落ち込むことも減ってきた……はず。
「あの……プレイの内容なんですけど、触れるのもNGって……できますか?」
「ええっ。それって頭撫でたりとかもできないってこと?」
「……はい。いまは誰にも、さわられたくなくて……」
「ははーん」
もともと性的接触は完全NGかつ、脱ぐのもNGにさせてもらっていた。その上さらに制限を加えたのは、どうしてもいまは無理だと思ったからだ。事件のせいだと自分に言い聞かせてはいるが、まだまだ僕は引きずっているらしい。
なにかを理解しニヤニヤ笑った雪さんが、「それならぼくがやったげる」と言いだす。ぽかんと口を開け驚いてしまった。この人、Domだったのか!?
「グレアの完全制御が絶対条件だけどね、Domの方が都合いいんだ」
プレイバーの店長になるには、厳しい条件をクリアしなければならないようだ。パートナーがおり安定していて、客同士のトラブルにも対応できる。
そんな彼も、僕の出した制限を守ってくれる相手を探すより自分が相手した方がよっぽど早いと判断した。さすがに申し訳なさがたつ。
「すみません……」
「ごめん、五分で終わらせるよ」
短い時間制限はなんとも色気がないものの、ビジネスライクな態度は都合がいい。てきぱきとセーフワードを決めて、軽いプレイをしてもらった。
離れたところからコマンドを投げ、言葉だけで褒められる。このDomじゃない、と心は違和感を訴えていたけれど、とりあえずの欲求は満たされる。頭がすうと軽くなった。
雪さんだってそういう契約で雇われているとはいえ、パートナー以外とプレイなんてしたくないはずなのだ。
自分の心の折り合いがなかなかつかなければ、最悪薬に頼ろうか。これ以上、他人に迷惑をかけるようなことはしたくない。
「おーいカイくん。なんか思い詰めてない? これくらいのプレイならいつでもやってあげるから、ガキんちょが勝手に遠慮するなって。大人に頼りなさい」
「……はい」
雪さんから見れば、成人したての僕なんてほんの子どもだ。ちょっと泣きそうになって、スンと一度だけ鼻をすすった。
帰りぎわ、引き止めるわけでもなく雪さんは僕の背中に話しかける。
「アキくんは来てないよ。あれから一度も」




