16.見えない枷
石田先輩に頼み込んで、朔先輩の家を教えてもらった。――たっぷりの嫌味を添えて。
身近なSubに対する過保護は、石田先輩の親族にもSubがいるかららしい。Subに関連した差別や事件は日々世界中で起こっている。もしかして家族を巻き込むほどつらい目に、あったことがあるのかもしれない。
少しでもいい方向に動く可能性があるのなら、と俺に託してくれたことに感謝した。
朔先輩はいま、俺だけじゃなく誰からのメッセージにも反応しないらしい。
ただし担任は親御さんと連絡が取れているようで、しばらく休んだら学校に来るつもりであることは確認済みだという。出席日数とかあるもんな……
「……ここか」
どこにでもあるような一軒家を見上げて、緊張に跳ねる心臓を服の上から押さえる。いまは制服だ。学校が終わって、母親に教えてもらった店で手土産を買い、まっすぐにここまで来た。
登校拒否しているのに俺にいきなり訪問されたら先輩は嫌だろうな、と思うけど……。一度会ったお母さんがいれば、追い返されずに済むのではないかという打算がある。
俺がなにかした訳じゃないし……してないよな? 話くらいは聞いてもらえないだろうか。今日は……ひとつの決意を持って会いに来たのだ。
インターホンを押すと、機械ごしでなく直接「はーい!」と家の方から聞こえた。女の子の声で、朔先輩に電話を掛けたとき勝手に出てしまった子かもしれない。たしか、名前は……
「みそか! お願いだからモニターでお客さん確認してからにして〜!」
「うわすっごいイケメン」
ガチャッと開いた扉の向こうにいたのは、おそらく朔先輩の妹ミソカちゃんと、それを追いかけてきたお母さんだった。いきなりドアを開けるのは危ないと思うよ。
「暁斗くん! え〜どうしたの……って当然朔に会いにきたのね!? わ〜とにかく入って入って!」
「あ……お邪魔します」
お母さんの雰囲気が家だとぜんぜん違うな。まぁ病院で会った日は落ち込んで恐縮してるって感じだったし当然か。ポカンと口を開け「これがアキト……」と俺を見上げている妹を置いて、お母さんは俺を家の中へと誘う。
片付いてなくて恥ずかし〜! と言いながら案内されたリビングは、こぢんまりとしていて家族写真ややりかけの宿題などがあちこちに置かれている。適度に雑然としているのが、温かみを感じた。大きな窓から日の光がたくさん入る部屋だ。
しかしすぐに部屋の様子よりキッチンに目が吸い寄せられる。そこには花柄のエプロンを着て前髪を上げた朔先輩がいた。オーブンからなにかを取り出していて、目つきは真剣だ。キッチンからは甘い香りが漂っている。まさかとは思うが……お菓子を作って……?
「朔〜お客さんっ」
「え゙。まさかむさ、し……ッ!?」
「アキトだよ〜。ねぇ、朔の彼氏なの?」
ミトンをつけ四角い型のようなものを持っていた先輩はそれを落としかけ、慌てて台に置く。俺の名前を訂正したのはミソカちゃんだった。ついでに爆弾発言をかます。
内心激しく動揺していたものの、俺は聞かなかったことにしてお母さんに手土産の箱を渡した。中身はフルーツたっぷりのロールケーキだ。
「あの……これよかったらみなさんで食べてください。甘いものは、足りてるかもしれませんが……」
「レスールのケーキ! わたしこれ大好きなの〜〜っありがとう! あとで朔の部屋に運ぶわね」
朔の部屋……に行っていいのだろうか? それが目的だったが、いざとなるとためらいが出る。
だがいつの間にか先輩はエプロンを脱いでいて、「行くぞ」と俺に声を掛けた。両手にお茶をいれたグラスを持っている。ふわっと喜びが胸の中に広がり、浮ついた足取りで先輩のあとを追った。
先輩の部屋は二階にあった。六畳ほどの空間で、ベッドと学習机以外にあまり物はない。近づいたときに感じる、先輩の匂いがしてドキドキする。
机の上には広げた赤本があり、それを押しのけてグラスを置いた先輩はクローゼットから低い折りたたみテーブルを出した。慌てて手伝う。
俺の勝手な行動に怒っているのだろう、先輩の表情は終始むすっとしていて、全く喋らない。俺もどうしたものかと考えながら身体を動かすが、テーブルのセッティングは一瞬にして終わってしまった。
お母さんがカットしたロールケーキを持ってきてくれて、そのあとは痛いほどの沈黙に包まれる。他の姉弟は今いないのか、二階はとても静かだ。
「エプロン……脱いじゃったんですね」
「あ゙ぁ?」
「アッ、ナンデモナイデス……」
うっかり導入を間違えてしまったせいで、先輩が怖い。けど思ったよりいつも通りで安心した。ホッとした表情に気付いたのか、先輩は気まずそうに視線を逸らす。
「怪我は……大丈夫か?」
「はい! 明日には抜糸なんです。先輩こそ……大丈夫ですか?」
先輩だって殴られていたし、一番心配なのは精神面だ。見た目にはもう、傷もなく元気に見える。ただすぐ頷いた先輩に、それ以上のことを訊く勇気も出てこない。
ごまかしにロールケーキを食べ、他愛のないことを聞いた。お菓子作りは無心になれるからたまにやるらしい。
二人で話していても以前のようなくすぐったい空気にはならず、先輩の態度はどこか固い。邪険にされている感じは消えたが、ぴくりとも笑わないのだ。
俺はどうすればいいのか分からず、小さな疑問は棚に上げて、みずからの本題を切り出すことにした。崩していた足を正座に変え、姿勢を正す。正面からは怪訝な目を向けられている。
「朔先輩。俺、ずっと考えてたんです。前にも俺以外とプレイしないでほしいって、言いましたけど……その気持ちは変わってません。他のDomなんかに跪かせたくない」
「……うん」
初心者Domのくせに独占欲まる出しで、なにをお前がと言い返されたっておかしくない。それでも朔先輩は小さく相槌を打ち、聞く姿勢でいてくれる。その頬はほんのりと色づいているように見えた。
いや、こんな告白聞く方も恥ずかしいよな。震える息を吐き出し、言葉を紡ぐために先輩の部屋の空気を吸い込む。
「俺の……ちゃんとしたパートナーに、なってもらえませんか。せめて自分が成人してからって、思ってたんですけど……それまで我慢できません。周囲のやつらにも先輩は俺のSubだって知らしめたいんです」
「は……」
目も口も丸くした先輩が思わず漏れたような声をこぼす。たった十七歳のガキが将来を誓うなんて、馬鹿らしいに決まってる。でも本気だ。初めてプレイしたSubが先輩だったことは、偶然じゃなく運命だったと信じたい。
俺はこのまま言いたいことを言い切ってしまおうと言葉を重ねた。
「本当はすぐクレイムも結びたいくらいです。もう、先輩以外の相手なんて考えられない。パートナーがいるだけでも、Subは安定しやすいっていうし……この前みたいなことも、ある程度は防げると思うんです。もっと、ちゃんと俺に守らせてください」
「風谷、自分がなに言ってるかわかってんの? 僕のせいで、お前まであることないこと言われてるんだぞ!?」
「違う! 先輩のせいとか、そんな風に考えたことないし……俺は他人になにを言われても気にしません」
「僕が気にするんだよ!」
泣きそうな響きをともなった叫びに、ハッとする。思わず先輩の方まで近づいていって、顔を覗きこんだ。焼き菓子の甘い香りが鼻をかすめる。
先輩が気にしていたのは、自分への中傷じゃなくて、もしかして……俺のことだったのか?
「俺はぜったいに、大丈夫です。何を言われたって跳ね返してやりますよ。それより、先輩が他の人とプレイするほうが耐えられない」
「プレイとかクレイムとか……そこに僕の意思はあるのかよ」
一段と低くなった声に、少し身を引く。色づいたと思っていた先輩の顔は逆に青褪め、目尻は怒りに染まっている。
自分が先輩に相手をしてもらえること前提で話を進めてしまっていたことに気づき、あわてて弁解した。
「もちろん、先輩が嫌なら……他の人も相手にしてもらって……」
「は?」
「専属契約じゃなくても我慢します」
もともと望み薄の提案だったのだ。ただ、受け入れてもらえば大手を振って先輩を守れる。俺は先輩を独占できる。
双方にとってメリットがあると踏んでいた。にもかかわらず……空気は凍りつくばかりだ。もしかして、他にパートナーになりたい人がいるとか?
グラスに残った最後の氷が、ピシッと音を立てて裂ける。
「契約……ね。お前はさ、俺やお前に恋人とかできて、いつか結婚しても俺のDomでいたいわけだ」
「え……」
「お前の言ってるパートナーって、そういうことだろ? お互いとしかプレイしないっていう、契約」
「そう、ですけど……」
そうだけど、そうじゃない。確かに自分の理想としていたのは、両親とパートナーたちとの関係だ。それなのに、いざ朔先輩に整理して説明されると、鉛のような違和感が胃に落ちる。
先輩が立ち上がって、俺を見下ろした。今日のいのちを終えようとしている太陽が西日となって、窓から差し込む。逆光で先輩の表情がよく見えなくなる。
「そんなのお断りだ。勘違いするなよ、僕はDomに守られたいなんて思ったこと、これまで一度もない!」
「あ……すみません。俺が勝手に守りたいって、思ってただけです……」
「強いDomだからって調子に乗ってるんだよお前は。相手が、僕が……なにを考えてるかなんて、想像したこともないんだろうな」
「そんな……こと」
「風谷……出ていってくれ。もうお前の身勝手なことばを聞きたくない。もう、お前とは……プレイ、したくない……」
出ていけという命令が、まるでコマンドのように俺を動かした。ショックで呆然としていたから、先輩から示された唯一の願いに応えることしかできない。
俺は間違えたのだ。どこかでボタンをかけ違えて、不格好な望みを差し出してしまった。それで……先輩を傷つけた。
腹の奥に落とされた鉛は重く、平衡感覚を失ったように頭がぐらぐらする。
気づけば俺はプレイバーの入っているビルの前にいて、手のなかにはアルミホイルで包まれたパウンドケーキがあった。朔先輩の家を出たとき、誰かが追いかけてきて俺の手に押し付けたのだ。
『せっかく来てくれたのに、ごめんね。あの子はDomとSubの関係に理想を抱いているの。対等で、慈しみあって、愛し合えるような関係に。決して暁斗くんのことが嫌いになったわけじゃないから、それだけは信じてあげて』
先輩のお母さんだったような、似ているけど違う人だった気もする。せっかくフォローしにきてくれたのに、俺は頷いたどうかも定かではない。
まだ家には帰りたくないとふらふら歩き、ちょうどやってきたバスに乗ってやってきたのが繁華街の中にあるここだったという訳だ。
エレベーターを降り、受付の前で会員証さえ持ってきていないことに気付いた。本当になにも考えてなかった自分に嫌気がさす。
父親が経営してるんだから中に入れろなんて横暴さを見せる御曹司になれるはずもなく、肩を落として踵を返そうとしたとき「アキくん!?」と雪さんの声に呼ばれた。
「びっくりしたよ! 会員証を忘れてしかも制服で来るなんて……マックじゃないんだから」
「あーー……すみません」
学校帰りに立ち寄る場所じゃないと暗に言われて、素直に反省した。俺はここに来る資格を有しているものの、プレイバーは酒も提供する場所だ。
受付の人が制服姿の俺を不審に思い、バックヤードにいた雪さんに連絡してくれた。おかげで彼に捕まり、いまはスタッフルームでお茶をごちそうになっている。
迷惑ではないかと心配になったが、様子のおかしいDom――しかも高校生――を放っておくのは主義に反するらしい。
「そろそろ来るころかなって思ってたけど、ひとりとは思わなかったな。なに、喧嘩でもした?」
背中を丸めて座る俺に投げかけられたのは、的確すぎる問いだった。
手元のグラスに入ったウーロン茶が突然ウイスキーになったかのように、俺はぽろぽろと今しがたあったことを吐露してしまう。
無意識に話を聞いてくれる大人を探してここまで来たのだと思う。身内以外で、俺と先輩の事情をあるていど分かっている人。文化祭の事件では犯人のことで雪さんも捜査に協力したらしく、話は早かった。
「――で、家を追い出されて……気づいたらここに」
「なるほどねー。見事にすれ違ってるね! そしてアキくんの分が悪い」
「ゔ」
分かっていたけど耳が痛い。そもそも自分の決意が固まったからって、今日先輩に切りだすべき話ではなかった。でも、もしかしたら先輩は喜んでくれるんじゃないかと期待したのだ。
――結果として、知らないうちに地雷を踏み抜いて、怒らせてしまった。
「アキくんはさ、最初のカウンセリングで訊かれた内容って覚えてる?」
「あれですよね? 相手は男女どっちがいいか、みたいな……」
唐突に尋ねられたのはもう忘れかけていた記憶についてだ。まだ二ヶ月ほどしか経っていないけど、初めてここで朔先輩と出会ったときの衝撃が鮮烈すぎて、その前のことはあいまいになっている。
確かタブレットの問診票にさまざまな質問があった。相手の性別については『どちらでもない/どちらでもいい』にチェックを入れたと思う。あれも先輩と関わる前だったら迷いなく女にしたと思うんだけどな。
「そう。他にも、プレイのパートナーと恋人は同じ派か、別派か……とかね。君は別って回答してたね?」
「そう、でしたっけ……」
「家庭環境もあるんだろうね。君は無意識にそこは別だと判断してるってことだ。それ自体は別に悪いことじゃない。でも、違う考えを持つ人もいるってことを一度ちゃんと考えたほうがいい」
「それって……先輩は違う回答をしたってことですか?」
「んー、ごめん。こっちには守秘義務があるんだ」
いやもう答えを言ったようなもんだろ……。そう突っ込みたかったけど、雪さんの立場もあると思ってやめた。
バーの方では仕事帰りの客が増えてきたらしく、雪さんがスマホで連絡を受けていた。もう帰るように促されて、席を立つ。外ではすっかり日が落ちて暗くなっているはずだ。
頭の中では答えが見えてきていた。先輩を怒らせてしまったショックで脳が思考停止していたけど、ここへきてようやくゆっくりと動き出したみたいだ。
先輩の言ったこと。雪さんの助言。照らし合わせれば自然と答えは出てくる。
こんなにも簡単なことなのに、俺は自分の作り上げた固定観念にぎりぎりと動きを制限されていたらしい。一度理解してしまえば、見えない枷を外されて身軽になった鳥のように、己の心があるところへ向かって飛んでゆくのを感じた。
ビルの外は秋を思わせる涼しい風が吹いている。昼間は太陽が夏にしがみつくような暑さをもたらすが、季節は確実な歩みで進んでいる。
俺が朔先輩の存在を認識したのは春。まだ二年にあがったばかりの頃だったな……最悪な第一印象だったのに、今は…………。
問題は現在のこじれにこじれた関係だ。もう俺とはプレイしたくないとまで言われてしまったことを思い出し、唇を引き結ぶ。あれが致命的な決裂になっていないといい。
「俺は先輩に謝ってばっかだな……」
ダメ男にもほどがある。それでも、なんとか赦してもらっていた過去に勇気をもらい、俺は一歩足を踏み出した。
家に帰ってから食べたパウンドケーキは甘酸っぱいレモンの味がした。まるで俺が遅ればせながら気づいた先輩への気持ちみたいだ。
薄くスライスされたレモンの皮がほろ苦さを運んできて、だいじにだいじに噛みしめる。こんな状況なのに先輩手作りのものを食べられる幸運に、俺は深く感謝した。




