14.癒しと救済
俺のコマンドが届かない。先輩はまだアツシの支配下にいる。
眼の前の身体はハッハッと呼吸を荒げ、もがき苦しみだした。喉を掻きむしる動作を見て、また過呼吸を起こしているのだと気づく。
「止めろ! 先輩、お願いだから!」
「ぐる゙しっ……たすけ……ぁ、かざゃ……!」
肩を掴み揺さぶるが、声は届かない。目の前で苦しむ先輩は、みるみるうちに顔から血の気が失せ、青いほど白くなっている。
目の前にいるのに、助けられない。
「はっ……は……」
いつの間にか自分の呼吸までおかしくなってきている。気が遠くなってくる。
結局、俺は何も成長していない。グレアを出せるようになっても、目の前のSubひとり助けられないなんて……俺には、何の価値もないじゃないか………
「風谷くんッ。グレアを増やすんだ!! しっかりしろ! ――君にしか、助けられないんだぞ!!」
「ッ……!」
吉本先生の言葉にハッと意識を揺さぶられる。『俺にしか助けられない』……そうだ。
いま朔先輩と定期的にプレイしているのは俺だけ。つまり先輩を救える可能性をいちばん持っているのは自分なのだ。俺が諦めたら、先輩を見捨てることになる……!
俺はなかなか目の合わない先輩を抱きしめた。体温の低い華奢な身体を腕の中におさめ、ぎゅうぎゅうと全身に俺の存在をわからせる。
混乱している先輩の手で背中が掻きむしられ、怪我した色んなところが痛んだ。でも……先輩の苦しみを分かち合っている感じがしていい。
先生が言うのなら遠慮はいらないだろう。その状態でグレアを思いっきり解放した。威嚇とは違う、自分のSubを従わせるだけのためのグレアだ。
「朔先輩。なぁ、朔……お願いだから。俺の言うこと聞いて……」
まるで恋人に縋り付くように、口からこぼれるのは情けない懇願だ。先輩を見下ろし、かたく縮こまる背中をなんども撫でる。
――最初に起きた変化は、腕の中の身体がぴくっと震えたことだった。次に、爪を立てていた手から力が抜ける。
「んっ。ぁ……」
小さな声が聞こえ、伏せられたまつ毛が震える。ゆっくりと開いた瞳は今度こそ、俺を捉えた。視線を逃さないように、瞬きさえしないよう意識して。
視界の端では、先生が先輩の腕に注射を打っている。不安症の抑制薬に違いない。すぐに効くとはいえ、数分はかかるだろう。
「先輩……」
「か、ざ……ぁっ……コマンド、ほしっ……」
頬に赤みがさす。というより、いきなり強いコマンドを浴びてプレイ後みたいになっていないか……?
腕の中ではこわばっていた身体がふにゃ……っと柔らかくなり、目もトロンと蕩けている。とたんにゼロ距離で抱きしめていることが恥ずかしくなってきた。
さっきより、ぜんぜん、いい傾向だけど……!
俺まで顔が赤くなりそうなのを堪えて、先輩の言うとおりにした。先生がグッと親指を立て、看護師を連れ部屋を出ていく。
「ひざまずいて。先輩、できますよね?」
「ん……」
足を左右にぱたんと曲げ、腕を俺の背中からはずし、手を膝のあいだに置く。……完璧だ。俺と朔先輩のあいだでだけ通用するSubの姿勢。
Domの欲求もだいぶ高まっていたらしい。ぱああっと光が胸のうちに広がった。
「すごい、先輩! よくできました……!」
「かざやぁ、もっと。もっと強いコマンドがほしい……っ」
片膝を立てた俺を見上げ、先輩がもっともっとと欲しがる。その蠱惑的な姿にウッと胸を押さえた。
さすがにスカートはパンツに履き替えていたけれど、丸襟の半袖シャツと、細くて赤いリボンは女子生徒のものだ。先輩の中性的な雰囲気にくらくらする。
「じゃあ……キスして」
我ながら暴走している自覚はあった。もう一人の自分が耳元で「馬鹿!」とわあわあ叫んでいる。
うるせぇ。わかってるって。無理ならセーフワードだってあるし。
でも…………
「んっ……」
朔先輩は、ふたりのあいだにあったわずかな距離を詰めてくる。
潤んで蕩けた目が伏せられ、俺の唇を捉える。
「……!」
なんの抵抗もなく。先輩から、あっさりと唇を重ねてきた。
嘘だろ……!?
「……はっ」
重なり合っていた唇がゆっくりと離れた瞬間、どちらともつかない息が口から漏れる。まだすぐ近くにあって、互いの息が唇にかかる。
俺は先輩と視線を交わす。
「…………」
今度は同時に、引きよせられるように唇を重ねた。右手は細い腰に添え、左手は逃がさないように頭の後ろを支える。
薄い唇を何度もはみ、その柔らかさに耽溺する。ずっと……もう一度触れたいと思っていた。
「かわいい」
些細な刺激にも敏感に反応を返してくれるから、たまらなくなる。顔を反対方向に傾け大きく口を開き、がぶっと噛みつくようなキスをする。
「んっ、んんぅ……」
今どこで自分が何をしていたのか、つかの間忘れていた。本能のままに先輩の唇を貪り、素直に返ってくる反応を楽しむ。
漏れる吐息と甘い声。自然と腰が重たくなった。
ああ、この身体を組み敷いて、すみずみまで可愛がりたい。触れる場所によって先輩がどんな風になるのか、どんな触れ方がすきなのか。
俺の先輩に対する興味と欲望はとどまるところを知らない。
腕の中の身体が重みを増し、くたっと体重が預けられたのを感じて顔を離した。唇を繋ぐように銀糸がつたい、たまらずもう一度ちゅうっと唇を吸った。
顔は上気し、いつの間にかリボンが解けシャツも乱れている。……俺がやったのか?
まぶたの半分落ちた目は水気をたっぷりと含んで俺を見つめている。俺の着ている水色の病衣をぎゅっと両手で掴んで……
なんだこのかわいい生き物は。
「朔先輩、ちゃんとできたな。どうしよ、ほんとかわいい……」
「えへへ、うれひぃ」
ろれつが回ってないし。ふにゃふにゃ笑って胸に顔をくっつけてくる。
俺はこの愛おしい身体を抱き上げ、ベッドに優しく横たえた。
頭の中は男子高校生らしい煩悩でいっぱいだ。まさか男相手にこんな欲望を抱く日が来ようとは思わなかったが、ごく自然に抱きたいと思ってしまった。
身体を離そうとすると、むずかるようにくっついてくる。
「ねーぇ、もっと……」
「ぐ。だ、だめです……」
「かざやぁ」
「…………」
先輩が悪魔に見えてきた。こんなにも可愛く強請られて、我慢できる男がいるか!?
いやだめだ。これはプレイの影響で……あ。グレア引っ込めればいいのか。
垂れ流しだったグレアの放出を止め、先輩の様子を見る。
「なぁ……おねがい」
「…………」
変わらないな!?
甘えたがりの猫のようにすりすりとすり寄られ、天を仰ぐ。……むりだ。抱きてぇ。
――コン、コン
「ッ……はい!」
空気に水を差すようなノック音に、慌てて返事する。そうだ、ここは病院だ。
狭く開いた扉から吉本先生が顔を覗かせると、空気が通って窓から涼しい風が入り込んだ。沸騰していた頭が落ち着いてくる。
「きみたち、想像以上だね〜。飛鳥井くん、大丈夫?」
「…………」
「すみません先生、まだプレイの影響が残ってるみたいで……」
朔先輩は先生に気づかず反応もしない。まだ? みたいな顔をして俺を見ている。くそ、かわいいな……
「Sub Spaceに入ったんじゃないかな? 風谷くんの言うことなら聞くと思うよ」
「え……」
サブスペースはサブドロップの対になる言葉だ。プレイの影響で、Subの意識が完全にDomにコントロールされてしまうことである。Subはこの状態になると、ふわふわと幸せな気持ちでいるという。
Subがサブスペースに入ることを喜ばないDomはいない。二人のあいだに深い信頼関係がないと、そもそもこの状態になり得ないからだ。
俺は信じられない気持ちで、もう一度先輩を見下ろす。本当にそうだとしたら、こんなにも嬉しいことはない。
「先輩。ちょっと腕、離してください」
一瞬ちょっと不満げに眉を寄せたように見えたが、先輩は掴んでいた俺の病衣からス、と手を引いた。……まじか。本当に言うことを聞いてくれる。
俺もようやく身体を起こし、先輩に上掛けをかける。思い出したように肩や背中が痛みだす。
しかし先輩の視線が別の方へ向かったことに気づき、俺は「ん?」と首を傾げた。視線の先にあるのは、俺の手だ。
「……あー。じゃあ、手は繋ぎましょうか」
「うん」
これってどこかに触れていたいってやつですか!? 素直な先輩かわいすぎるんですけど!!
手を繋ぐことがこんなにも嬉しくてドキドキすることだなんて、知らなかった。
「痛いところとかつらいところはないですか?」
「うん……」
「飛鳥井くんはもう大丈夫そうだね! 問題は君だよ風谷くん! 血が滲んじゃってるよ〜」
先生にポンと肩を叩かれて、苦笑いする。痛み止めが切れたのか、正直すげー痛い。急に激しく動いたせいもあるだろう。ちょっと頭がもうろうとしてきた気もする。
それでも先生は先輩の対応に俺が必要だったと理解してくれたし、俺も追いかけてきてよかったと心から思っている。
いまは先輩の手を離せないため、俺の処置はその場でおこなわれた。簡易ベッドを出してもらったけど、先輩が眠ってしまう方が先だった。眠くなるのは抑制薬の影響らしい。
なんとなく名残惜しくてそのまま俺も隣で眠ってしまおうかと思ったが、部屋の扉が開きぴょこっと顔を覗かせた二人を見てそれどころじゃなくなった。
「母さん! と……」
「朔の母です」
先輩はお母さんに似たらしい。切れ長で大きな目を見てまっさきにそんなことを思った。いつの間に仲良くなったのか、母たちは友人同士のように連れ立って病室に入ってくる。
一人用の病室は四人もいるとかなり狭くなる。簡易ベッドに腰掛けていた俺は慌てて立ち上がり、場所を譲ろうとした。
「あ! いいのよ、このまま朔の傍にいてやってくれる? ……ご迷惑じゃないなら」
「あ……」
繋いだ手に視線を感じて、途端に恥ずかしくなった。迷惑では全くないとはいえ、お互いの母親の前でこれって……とんだ羞恥プレイじゃないか!?
すみません先輩、いますぐ起きてください!
俺が内心先輩に向かって叫んでいるあいだに、先輩のお母さんは俺に頭を下げた。
「ありがとう。息子を守ってくれて。ダイナミクスのことで不便な思いをたくさんさせてしまっているから……あなたのような子が味方してくれて本当に嬉しいし、安心したわ。怪我をさせてしまってごめんなさいね」
「いいのよ〜! そもそも怪我は犯人のせいだし、飛鳥井さんも息子くんも全く悪くないじゃない。暁斗は好きでやってんのよ。どっちかというと息子くんに助けられてるのはこっちなんだから! ねぇ? 暁斗」
「う、うん」
母親の勢いに呑まれ、俺はコクコク頷くマシーンにならざるを得ない。先輩のお母さんは俺と朔先輩の関係を知らなかったようだけど、これで完全にバレてしまった。
まぁ俺が一方的に先輩へ迫ってやらかした上で許しを乞い、先輩の方はすげない態度だったという苦しい現状までは知らないはずだ。
こうなったら俺が真剣であることを伝えておいたほうがいいだろう。座ったまま姿勢を正し、真摯に見えるよう願って先輩のお母さんに話しかける。
「あの……俺。卒業したら、朔先輩にパートナーになってほしいって……言おうと思ってます。受け入れてくれるか、分かりませんけど……」
「まぁ。うふふ、嬉しい。うちの両親がDomとSubの夫婦なのよ。朔とも、末長く仲良くしてくれると嬉しいわ」
「おっ、外堀から埋めていく感じね! さすが私の息子。飛鳥井さん、うちの息子は次期社長だし……優良物件ですよ?」
母さんは黙っていてほしい。




