弐
実に数十年ぶりの現世だった。
鬱然とした林のなかに降り立てば、途端に永き眠りについていた五感が蘇ってきた。
やぶを漕ぐ感触、遠くから聞こえるエンジン音、あたりを満たすいきもののにおい。
以前は気に留めたこともなかった事象さえも、次々と意識の海へなだれこんでくる。
溺れるかと思った。
感覚をかき乱すような不快感に思わず視線を流せば、後をついてきた迷魂は平気で立っていた。
彼岸へ渡ってからまだ日も浅いのだろう。
「着きました。この場所に、あなたを助けてくれる人物がいるはずです」
山林を抜ければ、海と紛うほどに大きな湖があった。
ごみや濁りひとつない。湖面は満月の皓晃を反射して白くすき通るようだった。
迷魂が水面にぽっかりと浮かんだまるいものを凝視している。
覆面を被っているのに見えているのか謎だった。
「あれは月です。現世でしか見られない天体です。覚えていますか?」
軽い気持ちで尋ねてみたが、答えが返ってくるまでに間が空いた。
「あの……」
恐々と顔を覗きこもうとすれば、迷魂の白衣の袖が揺れる。
「つき、ですか。ああ、そういえば、以前よく耳にしていました」
ざわりと草花が擦れ合う音がした。
「彼女も月を見るのが好きでした。そう、はじめて出会った日も今日のような満月だった。わずかに開いた窓から、彼女は月を眺めていたのです」
郷愁とも哀愁ともつかない、複雑な色をにじんだ声音。
その裏に秘められたものに、気づかぬはずがなかった。
「前世の、記憶ですか?」
思いもよらなかった台詞に、かろうじて声を絞り出すと、相違ないとばかりにうなずかれた。
外界からの刺激で、魂の記憶に変化が生まれている?
「おや、めずらしい客人だね」
ぽつん、と女の声が耳に入った。
弾かれるように正面を向けば、湖の上に波紋が広がっていた。
冴えわたる水面に輪が広がったところから、とろりとした蜜色が侵食している。
視界の端でうっすらとたなびく紫煙を捉えれば、思考を放棄して湖に向き直った。
「范」
「となりのは迷魂かい。ついに万年見習いから卒業したんだね」
名を呼べば、湖のほとりに立つあずまやから長煙管を持った女が出てきた。
くつくつと喉の奥を鳴らして笑う姿こそ花盛りだが、まとう空気からは老獪さがにじみ出る。
いかにも怪しげなこの女は、彼岸に属す者でありながら、現世に留まり、湖を訪れる魂にとある支援を行っていた。
范はふうと煙を吐き、こちらへ歩み寄った。
「彼女は范といって、私の古い友人です。かつては冥土の高位な鬼使いでしたが、隠居してからは現世で燈籠師をやっています。彼女の力を借りれば……」
言いながら横を向いて、気づいた。
先ほどから声がない。
かと思えば、迷魂は湖に向かって進み、何かに吸い寄せられるように見入っていた。
まるで見えない糸に操られた傀儡のごとく。あと一歩進めば湖に落ちてしまいそうだ。
急いで背中を追いかけ、視線の先を手繰るようにたどってゆく。
瞬間、忽然と昼が現れたような明るさに、思わず目を眇める。
眩しさに目が慣れてからもう一度湖の中心に視線を向ければ、おびただしい数の星が浮いていた。
否、星のように輝くその正体は光を抱いた燈籠だった。
「あんた、ここは初めてかい。きれいだろう? 生者があんたらのために作り上げた星空だよ」
月光で銀に染まる水面を切り裂いてひとつ、またひとつと光がたゆたってゆく。
どこかで人々が燈籠を流しているようだ。それも大勢で。
遠くから眺めれば、その光景はまるで銀紙に砂金を散りばめたように見えた。
燈籠の光に満たされた湖は、たしかに夜空に似ている。
もしもこの湖が空だとすれば、そこには望月と満天の星が同時に存在していた。
どうしてこうも欲張りなのだろう。これでは明るすぎる上に、何もかも雑然としていて騒がしい。
しかし同時に彼岸花よりも鮮やかで、忘川河よりも清らかで。
冥土にはない光に満ちあふれた生者の世界に、はからずも見とれてしまう心があった。
「あ……魂が」
迷魂が声を漏らし、上空へ手を伸ばした。
つられて視線を滑らせれば、本物の空には月だけがぽっかりと浮かんでいた。
嘘のように大きな満月から、いくつかの燐火がこちらに向かってくるのが見える。
青白い燐火は湖の上空を数度旋回した後、燈籠のそばへ寄り添うように近づく。
どこかで聞いたことがあった。
死者の魂は、生者の光にどうしようもなく焦がれるのだと。
気づけば、その場にはたくさんの霊魂が集まっていて、燈籠の光を囲むように宙を舞い踊っていた。
燈籠がずるりと湖へ沈みこむ。
それを皮切りに、まるで引きこまれるように、無数の光の群れが湖の中へと沈んでいった。
不思議なことに、水に触れても火はついたままで、照明は水底で依然として輝いていた。
水中に伸びる光の筋に導かれるように、魂も次々と水底へ潜ってゆく。
驚いて声も出ないようすの迷魂とは反対に、たいして動揺することはなかった。
この光景は、忘川河の鬼使いからすれば見慣れているものだった。
「彼岸と此岸は表裏一体。思わぬところであの世へ通じていてもめずらしくはありません。古来より人々は、水を死者の世界に属するものだと考えてきました。だからこそ霊魂を冥土へと送り出すために、川へ燈籠を流すのです」
「今は鬼月だからねえ。あんたみたいな死者の魂があの世とこの世を頻繁に行き来するのさ。家族と先祖の霊魂を見送るために、星を流す人間も特別多い」
黄泉路はとても暗く、細い一本道である。
照明とはすなわち照冥。黄泉路を照らし、魂を導く唯一の星。生者が死者のために、迷ってしまわないように作り上げたあの世への道しるべ。
それこそ、死者の国に降り注ぐ星々の正体だった。
「范、彼にも燈籠をひとつ」
「はいよ。とっておきのを用意しておいたからね」
あんたもいい夢見ておいで、と煙をくゆらせながら范は燈籠をひとつ手渡した。
ふたりで礼を言い、別れを告げてから湖を離れる。
「彼女はその道のプロですから、燈籠も特別製なのです。冥土だけでなく現世でも、霊魂の行くべき場所の道しるべになってくれる。だから、迷魂さん」
ぱちんと軽く指を鳴らせば、手もとに小さな鬼火が現れた。
「あなたの内なる星の導きに従って、未練の行き着く先までの道を照らし出してください」
火種を差し出すと、迷える魂によって静かに火がともされた。
小さな星にあたたかな光が宿ると同時に、表面に書かれた文字がぼうと淡く光り出した。
◆ ◇ ◆
魂が彼岸に属してしまった以上、移動のためにわざわざ歩いたり、交通機関を使う必要はない。
それらは非効率で、一夜限りの旅には極めて不向きだった。
だからこそ、鬼使いや霊魂の移動はもっぱら空を飛ぶ形になる。
しかし、此度は燈籠の導きに合わせて、歩いて目的地へ向かうことになった。
いつもより緩慢と流れ去る景色を眺めてゆけば、道中で気づきもある。
燈籠は浮遊して迷魂の先を行き続けていた。
その後ろをついてゆくように歩く。
鬼使いは迷魂の監視者でもあった。彼らはすでにこの世の存在ではない。
もしも現世で幽鬼が出たなどと騒がれれば、罰せられるのは鬼使いだ。
夜は遠くから迫ってくる。
街灯が増えたおかげで、真夜中でも先は見えるほど明るかった。
漂う甘い芳香に気づいて視線を巡らせれば、田畑に囲まれた田舎道のわきに咲く白い花が目に留まる。
懐かしい香り。
小さく上品な白花は、殺風景な町中に咲けば一際目を引いた。
太古の昔から人々に愛でられた植物なのだと、かつて教えてくれたひともいた。
ほんの少し記憶を引き出してみたが、すぐに意味はないと切って捨てる。
現世に行けば感傷的になるのはしかたがなかった。鬼使いの性なのかもしれない。
代わりに、久しく思い出さなかった歌謡を口ずさんでみる。
あの白く気高い花を謳ったものだった。
綿雪を薄く伸ばして一枚ずつ貼りつけたような花びらは、触れてしまえばどうなるのだろうか。
「茉莉花ですか?」
「はい?」
突然、前から声をかけられた。
間の抜けた返事をすれば、ふり向きはせずに首だけ傾げられる。
「その歌です。茉莉花をうたったものでしょう」
……驚いた。
この歌は地方に伝わる民謡のはずだった。その地域の民でなければ知らないものだと思っていたのだが。
そんなことよりも。
「また、記憶が?」
「やはりそうでしたか。どこかで聞いたことがあると思った」
問いかけようとすれば、間延びした声に遮られる。
「草花に関する歌謡はそれなりに知っています。彼女がよくうたっていましたから」
お上手ですね、どこかで習われたんですか? と今度は向こうから質問がくる。
この迷魂、もしかしたらかなり自由人なのかもしれない。
いろいろと言いたいことはあったが、まず最初に思い至ったのがそれだった。
しかし、困り果てる内心とは裏腹に口は勝手に回っていた。
「生前のことです。歌が得意なので、他人によく歌って聞かせていました。特にあのひとは花が好きでしたから……」
そこまで言ってはたと口を閉ざす。失言だった。
すみません忘れてください、と早口でそれだけを言うと、一瞬ふり向きかけた迷魂は前を向いたまま何も言わなくなってしまった。
ふわり、と。その場に沈黙が降り立つ。
すっかりおとなしくなってしまった背中を見ると、どことなくむずがゆい気持ちになって視線を泳がせた。
ふと目にとまった迷魂の後ろ姿は、かなり変わっているように見えた。
前世もそういう体質だったのだろう、肌は女性顔負けの白さだった。
それも蒼白というよりも、どちらかといえば色が抜け落ちたような純白で。
くせ毛なのか、頭の上で左右に跳ね上がった毛先が動物の耳を思わせる。
少し長めの髪も死装束も白色なので、どこからが本体なのか衣服なのかわかりにくかった。
輪郭がおぼろげなのも相まって、それはまるでつつけばすぐに崩れてしまいそうな雪人形のように見えた。