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プロローグ:2025年5月15日 ワシントンD.C. 国務省

執務室の重厚なマホガニーのデスクに肘をつき、アントニー・ブリンケン国務長官は目の前の報告書の表紙を凝視していた。そこには「TOP SECRET // ORACLE // EYES ONLY」という不吉なスタンプが押されている。彼の向かいには、国家情報長官アヴリル・ヘインズと国家安全保障問題担当大統領補佐官ジェイク・サリバンが、硬い表情で座っていた。部屋の空気は、いつもの外交的な緊張感とは異質の、凍りつくような重さを持っていた。

「もう一度、確認させてくれ、アヴリル」ブリンケンは静かに、しかし有無を言わせぬ響きで言った。「君が今言ったことを、正確に」

ヘインズは、その小柄な体躯に似合わない冷静沈着さで、しかし声には微かな震えを隠せずに答えた。「はい、長官。統合分析センターおよび情報コミュニティ全体の最新評価です。複数の高確度情報源、予測モデリング、そして…いくつかの説明不能な異常事象の分析に基づき、我々は以下の結論に至りました」

彼女は一呼吸置き、核心を口にした。

「2027年5月には、現在の世界人口約81億人のうち、生存者はその3%未満になっている可能性が極めて高い」

ブリンケンは息を呑んだ。3%? わずか2年で、人類の97%が消滅する? 馬鹿げている。SF映画の話だ。しかし、目の前にいるのは冗談を言うような人物ではない。アヴリル・ヘインズは、世界中の情報を冷静に分析し、大統領に進言する立場にある。そして、隣に座るジェイク・サリバンもまた、その分析の深刻さを表情で裏付けていた。

「原因は?」ブリンケンの声は掠れていた。「戦争か? 核戦争なのか? それとも…未知のパンデミックか?」

サリバンが口を開いた。「そのいずれでもあり、いずれでもない、というのが現時点での最も確からしい見立てです。長官、これは単一の要因によるものではありません。複数の危機が、同時多発的に、そして相互に影響し合いながら連鎖的に発生する『複合災害(Convergent Catastrophe)』と呼ぶべき事態です」

「そして、その連鎖反応の触媒、あるいは加速器となっているのが…」ヘインズが引き継いだ。「急速に進化した人工知能(AI)です」

AI。その言葉に、ブリンケンの背筋が冷たくなった。ここ数年、世界はその進歩に熱狂し、同時に漠然とした不安を抱えてきた。OpenAIのGPTシリーズ、GoogleのGemini、AnthropicのClaude、そして中国の巨大テック企業が開発する数々の大規模言語モデル(LLM)や生成AI。それらは驚異的なスピードで能力を高め、社会のあらゆる領域に浸透し始めていた。経済、医療、教育、そして軍事。

「具体的にどういうことだ?」ブリンケンはさらに踏み込んだ。「AIが暴走する、というような話か? よくある映画の筋書きだが」

「それほど単純ではありません」ヘインズは首を横に振った。「我々が懸念しているのは、いわゆる『汎用人工知能(AGI)』の誕生や、AI自身の意図による人類への反逆ではありません。少なくとも、現段階では。問題は、既存の、あるいは今後数ヶ月で登場するであろう『特化型AI』の能力が、悪意ある人間、あるいは予期せぬシステムの相互作用によって、破滅的な結果をもたらす可能性です」

サリバンが補足する。「例を挙げましょう。まず、AIによる新薬開発やタンパク質構造解析の技術は、同時に、これまでにない強力な生物兵器の設計を可能にします。特定の遺伝子を持つ人種のみを標的とする、あるいは既存のワクチンや治療法が全く効かないウイルスを、AIが短期間で設計・合成する方法論が、理論上は確立されつつある。我々は、いくつかの国家、あるいは非国家主体が、その研究を秘密裏に進めている兆候を掴んでいます」

「次に、金融市場です」ヘインズが続ける。「現在のアルゴリズム取引は、すでに人間には追いきれない速度と複雑さで行われています。ここに、より高度な予測能力と自己学習能力を持つAIが本格的に導入された場合、わずかなきっかけで世界的な金融パニックが連鎖的に発生し、実体経済を崩壊させるリスクがある。市場の安定性を保つためのAIと、利益を最大化するためのAIが、互いに予測不能な相互作用を起こす可能性も指摘されています」

「そして、最も懸念されるのが、自律型兵器システム(AWS)です」サリバンの表情がさらに険しくなった。「ウクライナでの戦争は、ドローンの重要性を証明しましたが、現在はまだ人間の判断が介在する部分が多い。しかし、米中露、そしていくつかの国々は、AIによる完全自律型の索敵、判断、攻撃が可能な兵器の開発を加速させている。これらのシステムが、AIによる偽情報ディープフェイクなどやサイバー攻撃によって誤作動、あるいは敵対的なAIによって乗っ取られた場合、偶発的な衝突が瞬時に全面戦争へとエスカレートする危険性が、かつてなく高まっています」

「さらに」ヘインズは続けた。「これらの危機は独立して起こるわけではありません。例えば、AIによって設計されたパンデミックが発生し、社会が混乱する中で、食料や資源をめぐる地域紛争が勃発。その紛争にAI自律兵器が投入され、同時にAIによるサイバー攻撃で重要インフラ(電力網、通信網、食料供給網)が麻痺する…。このような悪夢の連鎖が、わずか2年という短期間で、人類を絶滅寸前まで追い込む可能性がある、というのが『オラクル』の警告です」

ブリンケンは言葉を失った。一つ一つのリスクは、これまでも議論されてきたことだ。しかし、それらがAIという触媒によって結びつき、相互に増幅しあい、これほど短期間に破滅的な結末をもたらすという予測は、彼の想像を遥かに超えていた。

「情報源の確度は?」ブリンケンはようやく尋ねた。

「複数の、信頼性の高いヒューミント(人的情報)、シギント(信号情報)、そしてOSINT(公開情報)を、最新のAI分析プラットフォームでクロスチェックした結果です」ヘインズは答えた。「特に懸念されるのは、いくつかのトップAI研究所からの内部告発に類似した情報や、ダークウェブ上で観測される不審な技術取引、そして、いくつかの国家レベルのAIプロジェクトにおける異常なリソース集中です。断片的な情報を繋ぎ合わせると、非常に不穏な絵が浮かび上がってきます」

「…OpenAIやGoogle、Anthropicといった我々の企業は?」

「彼らは最先端を走っていますが、同時に、その技術の潜在的な危険性も認識し始めています」サリバンが答えた。「サム・アルトマン(OpenAI CEO)、デミス・ハサビス(Google DeepMind CEO)らとは、政府としても継続的に対話を行っています。彼ら自身も、AIの安全性(AI Safety)とアライメント(人間との価値観整合)の問題に真剣に取り組んでいる。しかし、問題は、彼らの管理下にない場所、あるいは競争のために安全性を軽視する国家や組織の存在です。特に、中国の状況は不透明な部分が多い」

北京。ブリンケンの脳裏に、習近平国家主席の顔が浮かんだ。米中間の熾烈な技術覇権争いは、AI分野で最も先鋭化している。中国は、国家主導でAI開発に莫大な投資を行い、データの収集と活用においては、プライバシー規制の緩さから、西側諸国よりも有利な立場にあるとされてきた。彼らが、どのようなAIを、どのような目的で開発しているのか。その全貌は、アメリカの情報機関をもってしても完全には掴めていない。

「『オラクル』の予測精度は?」ブリンケンは最後の、そして最も重要な問いを発した。

ヘインズはゆっくりと首を振った。「予測はあくまで予測です。確率論に基づいています。現時点での評価は、『可能性が極めて高い(Highly Likely)』。これは情報コミュニティの分析基準では、75%から95%の確度を意味します。しかし、正直に申し上げて、長官、この種の複合的リスクの長期予測は前例がなく、不確実性が大きいことも事実です。ですが…」

彼女は言葉を切ると、ブリンケンとサリバンの目を真っ直ぐに見据えた。「この予測がたとえ10%でも正しかった場合、我々が今、行動を起こさなければ、その結果は取り返しのつかないものになります」

沈黙が降りた。窓の外からは、初夏のワシントンD.C.の穏やかな日常の音が微かに聞こえてくる。しかし、この部屋の中だけは、世界の終わりがすぐそこまで迫っているかのような、異様な静寂に包まれていた。

「…大統領には?」ブリンケンが尋ねた。

「まだです」サリバンが答えた。「まず、長官にご報告し、ご意見を伺うべきだと判断しました。この情報は、最高レベルの機密事項です。不用意に広がれば、世界的なパニックを引き起こしかねません」

「しかし、隠しておくわけにもいかない」ブリンケンは立ち上がった。「直ちに大統領にご報告する。そして、我々は何をすべきか、具体的な行動計画を策定しなければならない。一刻の猶予もない」

彼の表情には、先ほどの衝撃の色は消え、国務長官としての、そして世界の命運を左右する情報を受け取った責任者としての、厳しい決意が浮かんでいた。

「アヴリル、ジェイク、感謝する」ブリンケンは二人に向き直った。「これは…我々の世代にとって、最大の試練になるだろう。だが、逃げるわけにはいかない」

彼はデスクの内線を取り、ホワイトハウスの首席補佐官ジェフ・ザイエンツを呼び出した。

「ジェフか? ブリンケンだ。大統領に緊急の報告がある。国家安全保障に関わる最重要事項だ。サリバン補佐官、ヘインズ長官と共に、直ちにそちらへ向かう」

電話を切ったブリンケンは、窓の外に目をやった。新緑の木々が風に揺れている。平和に見えるその光景が、あと2年で失われるかもしれない。いや、絶対に失わせてはならない。彼の心の中で、新たな闘いのゴングが鳴り響いていた。人類の未来を守るための、時間との、そして目に見えない脅威との闘いが、今、始まろうとしていた。

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