おとなになったあなたと
下校中、自宅最寄り駅行きの路線へ乗り換える駅のホームで目を引く女性に出会った。シンプルなオフィスカジュアルで特別美人でも、派手で目立つわけでもないのに吸い寄せられるように目が離せず、どことなく懐かしさを覚えた。
混雑する電車に揺られながら正体の掴めない感情に思いを馳せているとあっという間に最寄り駅到着を知らせるアナウンスが聞こえて慌てて降りる。改札に向かう人波に先程の女性の姿を見つけて、同じ最寄り駅だったのかと思った。
自室でコンビニで買った弁当を食べていたら、突然彼女に覚えた懐かしさの正体がわかった。
そして、再び彼女を見かけることになったのはあれから一週間ほどした同じ駅、同じホームでだった。緊張しながら名前を呼ぶと丸くなった目がこちらを見た。困ったように首を傾げる彼女に姉の名前を告げるとぱちぱちと数度目を瞬き
「弟くん!」
と驚いたように声を上げた。
「はい、お久し振りです」
「全然わからなかった、大きくなったね」
頭の天辺から足の先まで顔を大きく動かして眺めながらそういう彼女に思わず苦笑してしまう。
彼女は姉の友達だった。仕事の忙しい両親は幼い俺の世話を歳の離れた姉に任せていた、だから姉が遊びに行くときは当然俺というおまけがついて回った。その時によく俺のことを気にかけてくれていたのが彼女だった。
「でもよくわかったね」
嬉しそうに笑う顔はあの頃のままではないけれど面影が残っていた。
「自分でも驚きました、なんていうんですかね、想像した通り大人になってたので」
別に具体的に想像していたわけじゃない、実際すぐには気付けなかったし、でも合点がいってから考えてみたらイメージ通りだったのだ。
ぽかんとこちらを見る彼女に慌てて変な意味じゃないと言い訳するとあの頃よりも大人っぽく笑われた。
「ごめんごめん、そんなふうに思ってないよ、ただすごいこと言うようになったなって思ってただけ」
「すごいことって……別に大したこと言ってないと思うんですけど」
「いやあ、今の高校生は普通にそういうことを言えてしまうならすごい世の中だ」
彼女の言うすごいが分からず首を捻っているとアナウンスに続いて電車が入ってきて彼女に促されるまま乗車する。普段は気にしないが、混雑する扉近くを避けて通路側に横並びで立った。
改めてなにを話そうか考えていたら彼女から姉はどうしているか聞かれて、大学進学を機に家を出て、今は大学で出会った彼氏と同棲していると説明した。そうなんだ、私なんて今でも実家で悠々としてるのにと中学卒業以来会ってもいないだろう友人の現状を好意的に聞ける彼女はきっと、当時姉が彼女のことをどういう風に見ていたのか知らないのだろう。
『あんたのこと見てくれるから一緒にいただけだし』
姉が高校に進学してから彼女と遊んでいる様子がなく、何気なく姉に訊ねたときの温度を感じない声を未だに覚えている。
『あんたもあの子に構われてる方が良かったでしょ』
その若干の嘲りは俺に向けられたものなのか、それとも――。ただ姉が彼女のことを友達ではなく都合の良い人間としてしか見ていなかったのだと知って、俺を押し付けられていた姉に対する同情心がスッと冷えていった。
「彼女は?」
姉のことを思い出していて生半可なやり取りになっていたところに投げられた言葉を一瞬理解できず、え? と聞き返すともう一度、先程より丁寧に彼女はいるの? と繰り返された。
「俺ですか?」
「他に誰が?」
「いませんよ」
「えー、モテるでしょう」
何度か告白をされた経験はあるものの、それがモテていると言えるのか自分では判断がつかず、どうですかねと愛想笑いで濁した。
「恋愛には興味ない?」
どうだろうか、告白は基本的に断っているし恋人が欲しいと思ったこともない。しかし、昔は見上げるばかりだった彼女が好奇心を隠さずにこちらを見上げている。
「そうですね、でも憧れてる人はいます」
確かに好きだった、久し振りに再会して少し話しただけでもまだ好きだと思えた、でも、この感情を恋と定義するのは違う気がした。目を輝かせた彼女から追撃が来る前に降車駅到着のアナウンスが流れた。喋ってたらあっという間だったね、彼女が笑う。
彼女に続いて改札を抜ける。その背中を見ていたら無性に淋しくなって無意識に手を伸ばしていた。丁度こちらを振り返った彼女の目が瞬いて、その瞳の中に驚いた自分の顔が映っている。言い訳をしようと出てくるのは意味のない音ばかりで、言葉が見つからず俯いて口を閉ざした。困らせていると分かっているのにどうしても掴んだその手首を離せない。
「どうしたの?」
優しい声がした。幼い頃に聞き慣れた声だった。心がじんわりと暖かくなる。顔を上げる。柔らかくて穏やかな迷惑だなんて微塵も感じさせない、いつも俺に手を伸ばしてくれていたあの頃の彼女だった。
「迷惑じゃなかったら、まだ話したくて、ご飯とか」
子どもじみた我儘に彼女はいいよと即答した。え、本当に、と困惑している俺にでもと続ける。
「そっちは? ご飯用意されてるんじゃないの?」
「大丈夫です、両親は相変わらず忙しいので」
苦笑気味に答えると彼女は申し訳無さそうな表情でそっかと呟いた。家族に連絡するという彼女の手首を離して、自分もした方がいいだろうかと考えもしたが既読がつくかどうかもわからないし、聞かれたら答えたらいいかと思い直した。
どこか行きたいお店はあるか聞かれたけれど、高校生の身分で思いつく場所など高が知れているから彼女に任せたところ、結局ファミレスに落ち着いた。
「お金のことは気にしなくていいから好きなの頼んでいいよ」
メニュー表を差し出しながら彼女が言う。
「えっ、無理を言ったのはこっちだからむしろ俺が出します」
俺も慌てて言い返す。お金は両親から不足なく貰っているからファミレスの飲食分くらいなら問題はない。
「いいからいいから、お姉さんはこれでもお金を稼いでいるのです」
任せなさいと言わんばかりに胸を張る彼女に対してお小遣いはあると張り合っても意味はなさそうで、自身の主張は飲み込んで素直にわかりましたと頷いた。
だからといって全く気にしないというのも出来ず、遠慮していないと思えるボリュームであろうハンバーグとチキンのプレートセットを選んだ。しかし、俺の考えることくらい分かりきっていたのだろう、私が食べたいからと前置きをして彼女が頼んだポテトフライが俺への気遣いなのは明らかだった。
「ドリンクバーで色々混ぜてよくわからないオリジナルドリンクとか作ったことある?」
「俺はしたことないですけど、やってる友達はいます。一度任せたらすごい色したの渡されて、ちょっと飲んでみたらすごく不味くてその場にいた全員がちょっとずつ飲んで最終的に作ってきた奴に残り一気に飲ませました」
「あはは、男子って感じだね。私の友達もやってた子いたけど多分そこまでじゃなかったかな、たまに失敗してすっごいまずいって言いながら渋い顔して飲んでたけど」
入れ替わりでドリンクバーから飲み物を取ってきて、ふとそんな話になった。共通の話題ひとつで距離を近く感じられる。そんな話をしている間に次々と頼んだ料理が運ばれてきた。
「ナイフとフォークでいい?」
「ありがとうございます」
当たり前のように差し出されるナイフとフォークを受け取った。箸を持つ彼女が手を合わせたのに習って手を合わせ、いただきますと挨拶をして正面の彼女を見る。ご飯の盛られた器を片手に野菜と鶏唐揚の黒酢和えのれんこんを口に運ぶ、少し咀嚼してご飯も一口。その幸せそうに綻んだ表情から食べてもいないのに美味しいのだろうと分かった。
いつまでも食事をしている彼女を見ているのも趣味が悪いし、なにより彼女の表情につられて空腹を訴える腹を満たしてやらねばならない。両手に持ったナイフとフォークでチキンを切り口に運ぶ。食べ慣れた味なのにいつもより美味しく感じられた。
黙々と食事を進めていると、ふと視線を感じて正面に視線を向けるとニコニコ笑う彼女と目が合った。先ほど口の中にチキンを入れたばかりで喋ることが出来ず、喉に詰まらせない程度に咀嚼して飲み込む。若干、喉に引っかかった感じがして飲み物を一口、そうしてようやく口を開くことが出来た。
「あの、なにか可笑しかったですか?」
「ううん、大きいひとくちだなって、いいね豪快で」
「そう、ですか?」
確かに彼女に比べれば一口は大きいだろうが、今まで言及されたこともなく改めてそう言われるのは気恥ずかしかった。それを言うなら、彼女の箸使いや美味しそうに食べる様子も俺は好きだと伝えると、彼女はわずかに顔を赤らめてありがとうと視線を漂わせた。
「唐揚げ、食べる?」
ピタリと止まった視線の先にあった唐揚げを箸でつまんでこちらに向けられ、思わず固まってしまった。きっとそんな意図はない、そのままこっちの器のどこかに置いてくれるのだろう、だが、浮かんだ下心を飲み込んで、大丈夫ですときっぱり断り、それを態度でも示すようにハンバーグを口に放り込んだ。残念そうに持ち上げていた唐揚げをそのまま自身の口に運ぶ彼女に少しだけ胸が痛んだ。
ポテトフライを食べながら他愛もない話を交わし、皿が空になると時間を確認した彼女が、そろそろ出ようかとお開きの言葉を口にした。楽しくて気が付かなかったが既に二十時を回っていた。
店を出て彼女にご馳走様でしたと頭を下げると俺に合わせるようにどういたしましてと彼女も頭を下げる。
「久し振りに話せて楽しかった、誘ってくれてありがとうね」
「俺も楽しかったです。本当にありがとうございました、奢ってもらったのも」
ここで終わりにしたくなかった。だから、彼女の優しさにつけ込んでもう一度我儘を言う。
「もし、また、よかったら……ご飯一緒に食べませんか」
駅で誘ったときと同じように目を瞬かせ丸くなった目が柔らかく細められて
「ぜひ、喜んで」
嬉しそうに受け入れて貰えたことが嬉しかった。
次の予定を決めるために連絡先を交換して、彼女が俺を家まで送ると言い出して慌てて自分が送ると言い含めた。同じ学区で自転車があるとしても俺の家から彼女が自宅に帰るのに一〇分はかかる、流石に女性をひとりで帰らせるわけにはいかなかった。
彼女の家の前、玄関が閉じるのを見届けてから自宅に足を向けた。またねという彼女の声がずっと耳の奥に残っていた。