09.月が赤く錆びた夜に
夜が明けるかどうかの時間から、人々は活動を始めていた。
人の気配に目を覚ませば、牧場には既に山羊が放たれ、畑には人が出ている。
眠い目を擦りながらそれらの光景をこっそり窓から覗き見た廿日市は、いよいよ現代日本からかけ離れた場所に来てしまったのだと嘆息した。
廿日市自身、自分は歓迎されていない存在で、それをあの少女に助けられた。と、理解している。
今は匿われている身の上で、今後事態が好転する見込みもないと思ってもいる。
「俺がいた木が見える」
自分がどうして少女にここに連れてこられたのかを察した。
彼女は、ここから自分を見ていたのだろう。そして、子供なりの純粋さで助けようとした。
そう結論付けた廿日市は、ますます自分の身の振り方に悩み始める。
いつまでも子供の食事を分け与えて貰う訳にはいかない。たとえそれが善意から分けられたものでも、子供の食事を奪ってまで腹を満たす必要性は何処にもないのだ。
大人はひもじくてもいい。子供には、腹一杯食事を与えるべきだ。そう考えると、この状況は非常に不味かった。
「どうしたものか」
顎を撫でる。三日も髭を剃らないと顔中髭だらけで、触れた手のひらに程よい刺激を感じた。普段ならだらしがないと感じるところだが、こんな状況では髭の処理など後回しだ。
それに、外で働く大人たちは髭を蓄えているものが多い。髭だらけの廿日市を見ても少女は嫌悪感を顕にすることがなかったので、この土地で男の髭は標準装備なのだろう。
「文化の違いだな」
そそくさと窓辺から離れた廿日市は、ゴロリと自分のベッドに寝そべると綺麗に組まれた天井の木目を見ながら思考を巡らせる。
食を満たすという点では、近くに森があるから森に入るのが一番だろう。実際、廿日市は森で見つけた植物の実を主食としていた。
サバイバルやってみた。みたいなディスカバリーチャンネルの兄貴のように森で罠を張り、捕らえた獲物の肉を捌いて調理なんて非現実的だ。
「昼間は外に出ない方がいいだろうから、活動は夜か……。昼夜逆転させた方がいいな」
昼間は寝て、夜活動するなんて長期休みの怠惰な学生のようではないか。
年甲斐もなくときめきを覚えてしまうが、問題は絵空事のように消えてはくれない。
「言葉がなぁ」
識字率という問題が浮かぶ。言葉は話せても書くことはできない。もしくは正確な綴りができない。なんて、海外では意外と普通だ。
あの少女に言葉を教えて貰うつもりではあるが、幼児語と大人の口語は違うという問題もある。
「うううう、日本に還りたい」
衣食住事足りて、人は冷静な判断を取り戻すのだろう。
しかし、生きていくと心を新たにした廿日市の手探りの未来はこの日の夜、潰えることになる。
ナゼ――――。
なぜ何故ナゼ何故なぜナゼ何故ナゼ何故なぜ何故ナゼ何故ナゼ何故なぜナゼ何故ナゼ何故ナゼ何故なぜ何故ナゼ何故ナゼ何故なぜ何故ナゼ何故ナゼ何故なぜ何故ナゼ何故……!
頭の中をなぜが埋め尽くす。
「Pouoh! 」
アンナの叫びが、納屋の二階に響く。
何故、自分は殴られ、蹴られ、打たれ、罵声を浴びせられなければならなかったのか。
「Pouoh! Pouoh! 」
何故、彼女は叩かれ、髪を掴まれ、突き飛ばされ、蹴られ、それでも……俺を守ろうと必死に床に蹲る俺に覆い被さらなければならなかったのか。
「Ch……n、na……」
Channah……。彼女に教えてもらって何とか発音できるようになった彼女の名を呼ぶ。
手を伸ばす。
視界は半分で、暗くブレてよく見えない。身体中が痛い。耳もおかしい。殴られた拍子に鼓膜が破れでもしたのだろうか。
息苦しい。鼻血が喉の奥に詰まってるのかな。
ああ、畜生。熱い……寒い……。
「か……な」
農耕具が武器になるって歴史の授業で習ったなぁ。なんて、手加減なしにボコボコに殴られてる最中に思い出した。
腹が痛い。胸も痛い。防御瘡なんてドラマで聞いた言葉だけど、よく解った。人間、反射的に手や腕で身を守ろうとするんだ。
「Nedognavnedehdog……」
カンナハの声が聞こえる。
ごめんよ、俺を助けようとしたばかりに。
子供殴るなよ。お前の子供じゃないのかよ。もう一人いる方とよく似てるじゃねーか。
「Nevelnigon」
ゴッ……――――。
それが俺が最期に聞いた音。
キンキン酷い耳鳴りと、膜がはったみたいに遠くで聞こえるカンナハの泣き声とゴッとはっきり頭の中で鳴った骨が砕ける音。




