08.みつけたもの
廿日市がやって来てから三日目。
アンナはベッドに座り、窓から外を見ていた。
彼女が暮らすのは、元々は農奴のために設えられた納屋の二階の居住スペースである。今はこの農場の主となった彼女の父親でさえ、納屋の二階の窓から神々の愛児が居座る樹木がよく見えるということを忘れるほど、近づかなくなった場所だ。
最初は、自分のお気に入りの場所に戻りたくて恨めしく廿日市を見ていた。
だが今は。
七歳の少女は、花を集め贈ってくれた相手の優しさを信じて、彼を大人たちから守るために廿日市を見ていた。
∵ ∴ ∵ ∴ ∵
「どうしてこうなった? 」
自分のためだろう藁でベッドを設えている幼女の後ろ姿を見ながら廿日市は呆然と呟く。
ここは、廿日市が蹲っていた樹木から見える納屋の二階。絞ったランプの灯りに照らされた部屋の中で、せっせと働く幼女の背中を眺めながら廿日市は立ち尽くしていた。
「Taageememtemejtadliwkl」
いつものように夜の森に入って喉を潤そうとした廿日市に茂みの中から声が掛かった。
「Reihmok」
突然の人の声に狼狽える。
「Deogtein」
森の外へ出ようと踵を返す廿日市に反応してガサリと茂みが動き、中から子供の右手が伸びて続いて小さな女の子が姿を現した。
「Taageememtemejtadliwkl」
ガシッと半ばぶら下がるように、両手で廿日市の左腕を掴んだ少女は真っ直ぐに彼の瞳を見上げる。
「Reih」
彼女が何を言っているのかは解らない。けれど、余りに必死な様子から彼女に従った方がいいと廿日市の本能が反応した。
「ど、どこかに連れていこうとしてるのか? 」
アンナだって廿日市が何を言っているかは判らない。しかし、彼女は時間がないことだけは判っていた。
「Tfeilbejslaemglov」
手を引っ張られるままに、星明かりが頼りの森の中を彼女の後をついて走る。
「Gitsur」
森の中を移動して、二階建ての建物の裏手に辿り着くとアンナは注意深く周囲を窺ってから廿日市を連れて茂みから出た。
建物に近付くと木と土と乾いた麦わらの臭いが廿日市の鼻腔を擽る。離れた所から眺めていただけだった建物だが、近くで見ると思っていたよりしっかりとした造りであることが解った。
「Nennib」
扉を開けた少女が手招く。ここで廿日市は、我に返った。つい勢いで付いてきてしまったが、この土地に来てからの人々の反応はどうだ。彼女はもしかして、自分のためにとんでもないことをしでかそうとしているのではないか。
そこに思い当たると腰が引けて後退る。そんな廿日市の動揺を見てアンナは強く彼の腕を掴んだ。
「Nennibraanagnepoteihcs」
キノスクにガーダーは三人いる。うち一人はキノスクに愛児が現れたことを村長に報せに行って不在だ。残りは二人。元からのガーダーの仕事をしながら愛児を見張らなければならないのだから当然交代制となる。
そして、彼らだって寝ないわけにはいかない。
アウヴェスたちがダニエウに夜のひととき愛児の見張りを代わって欲しいと頼んでいたのをアンナは昨夜聞いていた。
アンナは、父親が母屋の窓から廿日市を見ているのを知っていた。
そしてアンナは、廿日市が夜中に森に入ることも知っていた。
「夜の森は恐ろしい。決して入ってはいけないよ」アンナの祖母のレイマニが、夜になると必ず口にした言葉だ。
信心深いダニエウが、昔からの言い伝えを破るとは思えなかった。
だから、愛児が森に入る時を待って連れ出すことを決め、アンナは見事に成功したのである。
「あ、あのさ。俺のこと、連れてきてよかったのか? 」
四十過ぎの男が未就学児童に頼るというのは社会的などうなのだろう?
そんな考えが過るが、背に腹というか生命の危機的状況での緊急避難では許されるのではないか。などと、廿日市は自分の中で言い訳を積み上げる。彼は混乱していた。
「……? 」
身振り手振りで気持ちを伝えようとする廿日市に、アンナは不思議そうに首を傾げて彼を見上げ、そのいたいけな瞳が廿日市に更にダメージを与える。
「うっ、心臓が……! 」
言葉が通じないことを承知しているアンナは、呻き声を上げて蹲る廿日市の行動は無視して、次の行動へと移った。
「Djitlaam」
チェストの上に置かれていたラペアを手に廿日市の前に戻ってきたアンナは、ラペアに掛けていた布を取りながら中身を廿日市へと掲げるようにして見せる。
「っ……! 」
否応なく廿日市の目に飛び込んできたラペアの中身は、ベーグルっぽいものが半分と、乾燥したベーコン。プラムっぽいリンゴにスライスされた山羊のチーズ。木の実が混ぜられたシュトレンみたいな見た目が二切れと、おやつを取っておいてくれたのだろうか。ゴマ団子みたいな大きさの丸いものが一つ。
「やはり、君が」
そうだろうと思っていたことだ。大人の一食にはまったく足りない。けれど、子供ならば足りる量なのではと。
だが、目の前の彼女を見るときっとこの少女の一食でも、きっと足りない。そんな気がした。
その食事を彼女は懸命に貯めて自分に差し出してくれている。
「Retawbehkl」
廿日市の胸にラペアを押し付けると少女は階下に降りて行ってしまった。
「あぁ……、言葉が解らない事がこんなにもどかしいとは」
少女が自分に座れと出してくれた椅子に、ため息を吐きながら腰掛ける。
フワリと動いた空気が頬を撫でた気がしてそちらを見れば、暖炉に目が止まった。
「暖炉、男のロマン! 」
一瞬、テンションが跳ねたが、すぐに現実に意識は飲まれた。
「やっぱ、これってミレーとかルソーとかの時代ってことか? 」
落穂拾いのような格好の人々に、現代人の廿日市が憧れるような古めかしい暖炉。通じない言葉。見た目はそれっぽいが、味付けや食感は未知の領域の食事。
廿日市は、無敵の勇者でも完璧超人でもなくただの人である。
一日目は、衝撃から。二日目は、昨日に茫然として。冷静に受け止めていたわけではない。置かれた立場に順応したわけでもない。ただ理解が出来ず、考えることを放棄していただけ。
だが、三日目。自分の置かれた現状が、理解し難い現実が、ようやく廿日市の大脳へと届いた。
廿日市は、ごく普通のただの人である。
弱く、弱く、誰かの助けなくては生きられない。
「オレ、このままお亡くなりになるのだろうか」
生きる気力をなくした人は、儚くこの世を去っていく。
「Tehthcarbki」
可愛らしい声に、抜け掛けていた魂が廿日市の中に戻る。
廿日市のために水を汲んできたらしい彼女は、慎重に階段を上ってニコニコと笑いながら木のコップを廿日市に差し出すのだった。




