03.神、神であることに戸惑う
「……」
じっとりと背中を嫌な汗が伝う。
いや、そもそも汗をかく機能が備わっていない存在のはずの自分が汗をかいている。
この由々しき事態に少年の姿をした神は混乱していた。
「なんで? 」
既に聖女希望者は下界に送ったあとだ。
「どうして? 」
この姿は、聖女希望者の無自覚な欲望が反映された姿である。神々とは、固定された容姿を持たない故に、この空間を通過する人間の欲望通りに姿を変えた。
今は、天使のような巻き毛にそばかすが薄く浮く白い肌。明るい青緑の瞳は不自然に濡れた光を放ち、顎は細く鼻筋が通り、笑うと片えくぼが出来るやせ形の成長期に入る手前の子供というものだった。
元凶が去れば、砂浜に書かれた文字が波に浚われ消えるように神が纏う姿も泡沫と消え、神は自我なき概念に戻る。
「ボクが、消えない」
神は概念である。と、同時に神にとっての人も『人という存在』という概念である。
神は人の望みを叶えない。概念は概念でしかなく、秩序をねじ曲げ無秩序な幸福を与えることはできない。
神々もまた世界の理に神という役割を与えられた『神という存在』なのだ。
「これは、大問題だ! 」
光が溢れる真っ白な空間に、少年神の叫びが響いた。
世界の理。
それは神という概念すら凌駕する法である。
理が世界を支配し、理だけが世界を征する。
理が先にあり、世が生まれ、人が生まれ、人が神を求め、神は天に坐す安寧の王となった。
すべては理の定めるままに。
理は、その内に数多の世界を包有する。
世界たちは常に混沌として、創造、調和、破壊が繰り返されていく。
重なりあう世界、すれ違う世界、砕けて散って交ざりあう世界。
目眩く形を変え留まることを知らない理の宇宙。
聖女希望者は、行き交う数多の世界のひとつからこぼれ落ちた迷い人であった。
彼女だけが特別ではない。
するりと、自分が生まれた世界から隣り合う世界に落ちる者。
吸い込まれるように別の世界に落ちていく者。
何かの拍子に自分の世界から弾き出され、戻れなくなった者。
迷い人は、常にどこかの世界で生まれ続ける。
少年神が世界の理から与えられた役割は、適当な間引きだった。
それは嵐にのまれた船が、転覆しないように重りを調節するようなもの。
自然発生する迷い人の存在に、三千世界がバランスを崩さぬよう調整する調和役である。
彼の足先は常にひとつの世界に触れていて、指先が触れた世界から人を落とす。
ただ落とすのは忍びなくて、理に許される範囲で異能も与えた。
それを使いこなすことが出来るかは、本人任せになるのだが。
つい先程までこの空間に居たのは女性で、彼女の願いは聖女となって人々を癒し、崇められ、自分を慕う見目麗しい異性の中から一人と添い遂げたいというものだった。
神は決して迷い人たちの夢を否定することはない。
すべてを肯定し、理より許された権能の限りを尽くして迷い人を送り出す。
ただ彼、彼女ら迷い人が夢を叶えるために必要な一番大切なことは告げずに。
彼女が送り出された下界で、まず最初に立ちはだかるのは言葉の壁だ。
それを乗り越え、人々に献身し、信仰を忘れず、傲らず、堪え忍び、心清く穏やかであれば、迷い人は自らの力で願いを成就させるだろう。
神とは、『かもしれない』の可能性を示してくれる存在でしかないのだから。
出来るかもしれない。
叶うかもしれない。
出会えるかもしれない。
手に入れられるかもしれない。
確定事項ではないアレコレをなぜか確定事項と勘違いした者たちは、下界で一定の時を過ごしたあと時間切れとなって理により元の世界へと還された。
もとより、バランスをとるための一時的な重石の役割でしかない迷い人は、役目が終われば戻されるのが常であり、そこに重石の意思はない。
必要な分だけ落とし、不必要なら還す。それだけだ。
「なぜ、戻らない……」
去れば、消える。
「何か……」
迷い人の願いに耳を傾け、その願いが叶うように気付きを与え、下界に送り出す。
送り出せば仮初めの姿は失われる。
それが自分の役割に与えられた理だ。
空間に記録された聖女希望者との邂逅を引き出す。
落ちてきた女性。彼女との会話、慰め、共感、導き。そして、送り出す。
送り……
「なんということだ!! 」
彼女が下界へと送り出されるその瞬間、光となって消え去るその瞬間に、小さな黒い点が顕れかけ光にのまれて消えた。
少年神が選んだわけではない。するりと世界から落ちてしまったタイプだ。だが、迷い人は直接次の世界に落ちずにこの空間へと落ちてきた。理が招いたことか否か。
いや、問題はそこではない。
あの聖女希望者と同時に存在してしまったからこの姿が継続してしまっているということなのだろう。
神は、等しく存在する。
この空間に招かれた存在には、すべて等しく気付きを与えなければならない。
それが神の役割なのだから。
男か女かはわからない。
だが、あの黒い点の迷い人をこの空間に招き入れ、気付きを与えなければと強い衝動が生まれる。
次の迷い人が現れれば、この姿は一時的には違うものになるだろう。だが、その者が去ればきっとこの少年の姿に戻ってしまう。
「あの黒い点の迷い人を見つけ出さないと」
見た目から連想される『こんな性質なのではないか』を裏切らない思考を持ち始めた神は、イライラと親指の爪を噛みながら聖女希望者が降りた下界を覗き、勝手に落ちてしまった迷い人を血眼になって探し始めるのであった。




