婚約破棄するのでしたら、私が頂いても構いませんよね?
「あのお方は……身体は逞しいけれど、婚約者が居るからダメね。あのお方は、筋肉が全然ないから論外だわ」
ここは王宮で開かれているパーティーの会場。
数多のシャンデリアが煌めき、麗しい令嬢令息がダンスを楽しむ中で、18歳になっても婚約者が見つかっていないメリッサ・マッスルダイア公爵令嬢は呟いていた。
貴族の令嬢は大抵17歳までには婚約が決まっているから、メリッサはすっかり嫁き遅れだ。
「ひっ、ゴリラ令嬢と目が合った」
「まずい、近付かれる前に逃げろ」
目が合った令息からはたちまち逃げられてしまい、メリッサが求める条件の令息を見つけたとしても、婚約はおろか一言だけ話すことも出来ていない。
そしてメリッサが求める条件というのも、やや問題があった。
「ジェイク様のようなムキムキで逞しいお方はいらっしゃらないわね……。あのお方以外で私のハグに耐えられるお方は居ないのかしら?」
「申し訳ありませんが、ジェイク様以外は細身のお方ばかりです」
他の令嬢たちに気に入られやすい体形が引き締まった身体――細マッチョなのに対して、メリッサの好みはムキムキのマッチョだったりする。
しかし、嫁き遅れになってしまっている現状で見た目に拘っている余裕は無くて、自分のハグに耐えられる令息なら誰でも良いと考えるようになっていた。
けれども、悲しいことにこのパーティーに参加している婚約者が居ない令息で、体が丈夫そうな人は見つからなかった。
「今日もダメそうね……」
悲しそうな表情を浮かべながら、両手でティーカップを包み込むメリッサ。
そんな時、よく通る声が響いた。
「もう我慢の限界ですわ! ジェイク・ゴリアテレス、お前との婚約を破棄するわ!」
同時に何かを床に叩きつける音と、粉々に割れる音が響いた。
突然のことに、ダンスを楽しんでいた人々の肩が跳ね上がり、優雅にお茶を楽しんでいた人のティーカップからは熱々の雫が零れ落ちた。
貴族達は突然のことが起きても驚かずにいられるように練習しているから、声には驚かない。けれども、襲撃に備えてガラスが割れる音には敏感なお陰で、軽い惨状が出来上がってしまった。
それはメリッサの手の中も同じで、真っ白なティーカップがバキバキと音を立てて砕けてしまった。
「どうしましょう……驚いて割ってしまったわ」
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ。でも、ドレスが濡れてしまったわ」
全く心配そうにしていない侍女がメリッサに問いかける。
けれども、案の定メリッサの白くきめ細かい手には傷一つ付いていなかった。
侍女から見れば、この他の令嬢達とあまり変わらない体形のどこにゴリラのような馬鹿力があるのか、不思議で仕方ない。
ちなみに、メリッサは公爵令嬢の名に恥じないほど美しく、プラチナブロンドの髪から分かるように王家の血も引いているのだから、本来なら人気の的になっていてもおかしくない。
この騒ぎを起こしたクラリス・モヤシルヴァ王女が癇癪持ちの男好きで、令嬢達からも令息達からも好かれていないことを考えると、事情を何も知らない人から見ると不思議で不思議で仕方ない。
もっとも、力加減が苦手なメリッサと握手をしようものなら手が砕け、気に入られてしまってハグをされようものなら……ゴリラ令嬢と言われる原因となった馬鹿力で窒息に追い込まれてしまう。
そして厄介なのが、彼女は家族のスキンシップが多かったことに影響されて、少しでも心を許すと簡単に手を握ってくるのだから、避けられて当然だった。
何人もの手が砕かれたことで『メリッサ=ゴリラ令嬢、決して近づくな。近付けば手が砕かれる』という事実が広まり、ゴリラ令嬢という蔑称で呼ばれるようになっている。
マッスルダイア公爵領では、ゴリラは力持ちを指す誉め言葉だから、言われている本人にとっては誉め言葉だからメリッサにダメージは全く無い。けれども、周囲の人々はそのことに気付かない。
「今日はお暇した方が宜しいと思います」
「そんなこと出来ないわ。あのジェイク様を手に入れるチャンスなのよ!?」
「まさか、その濡れたドレスで告白されるおつもりですか?」
「大丈夫よ。今日のドレスは暗い色だから、濡れていても気付かれないわ」
こんなことを言い残して、騒ぎの場に近付くメリッサ。
そうすると、騒ぎに興味を持って囲っていた貴族達がメリッサが通ろうとしている場所から蜘蛛の子を散らすように離れていく。
皆、我先にと必死の形相だ。
「あら、皆さんお優しいのですね。ありがとうございます」
パニックになっていることなど知らずに配慮と受け取ったメリッサは、輝かしい笑顔を浮かべて小さく頭を下げている。
そんな彼女の笑顔を見てしまったとある令息は、少し顔を赤らめながらこんなことを呟いた。
「やばい……俺、メリッサ様に惚れたかもしれない。可愛すぎるだろ」
「正気になれ! あれはか弱い令嬢の皮を被ったゴリラだぞ!? 抱き締められたら、強すぎる力で圧死する!」
「いや、でもあの笑顔は捨てがたい」
「おい!」
すっかり落ちてしまったらしい友人の姿を見て、一緒に居た令息が拳を降らせる。
「痛ってぇ……。殴ることないだろ!?」
「お前、死にたいのか? 少しずつメリッサ様に近付いていたぞ?」
「マジで? 凄まじい吸引力だな。助かった、ありがとう」
「ようやく目を覚ましたか」
「ああ、お蔭様で痛いけどな。後で治癒魔法をかけてもらうよ」
「ん? 治癒魔法の使い手って、王妃様が王都に居ない今はメリッサ様しか居なかったような……」
「王妃様が戻ってくるまで待つ!」
ゴリラ令嬢は治癒魔法が使える貴重な人。これも社交界では有名なお話だ。
ちなみに、治癒魔法が使える人は合計で五人いるが、王妃とメリッサ以外は幼くて表舞台にはまだ出てきていない。
現状で頼れる人はメリッサしかいない。そんな悲しい現実が令息達を襲った。
一方で、すんなりと輪の一番内側に辿り着くことが出来たメリッサは、事の行方を見守っている。
「殿下、どういうことか教えてください」
「簡単な話よ。貴方が嫌いだから婚約破棄しようって言っているの」
跪いている大きな身体のジェイクを見下ろし、そう言い放つクラリス。
彼女は隣に長身で引き締まった体躯で整った顔の伯爵令息トーマスを侍らせていて、見る人が見れば恋仲なのだと想像出来る。
そのことはメリッサにも理解出来ている。
けれども、トーマスを好きになる理由は理解出来ない。
(どうして、みんな弱そうな人を好むのかしら? 絶対に、自分を守ってくれる人の方と一緒に居た方が幸せになれるのに……)
一方で、周囲の評価は違った。
「隣の美しいお方って、あの最果てのダンジョンから帰還したのよね?」
最果てのダンジョンというのは、毎年のように厄介な魔物を吐き出してきた、いわば王国にとっての癌のような存在だ。
そのダンジョンを攻略して、無事に帰還したトーマスは英雄として扱われている。
「ええ。帰還者のトーマス様で間違いないわ」
「確か、帰還者様って王女殿下と結婚できるって言われているのよね?」
「そのはずよ。可愛らしい王女様と結婚したい殿方が躍起になって鍛えていたのはそのせいよ」
「そうなのね。私なら王女殿下との結婚なんて選ばないのに……」
「私も同じ意見よ。殿下って、男好きじゃない。だから浮気されると思うのよね」
仲良しで知られる侯爵令嬢達の会話は、耳の良いメリッサに届いても王女達には届かない。
同じくして、王女達の会話も少し進んでいた。
「私のことがお嫌いになられたことは分かりました。しかし、これは王家の命で結んだ婚約です。このような形で破棄するなど、許されることではありません」
「何を言っているのかしら?
帰還者のトーマスには私と結婚する権利があるのだから、政治的な意味でも私と貴方の婚約は破棄される運命なのよ?
それに、貴方はすっごく汗臭いのよ?」
「ですが、陛下の命を得ずに破棄するなど、許されることではありません!」
常識を守ろうとするジェイクの言葉も、我儘を優先しようとするクラリスの言葉も、嘘は含まれていない。
そんな時、席を外していた国王が戻ってきて、輪の中に入り込んだ。
「何の騒ぎだ」
「お父様っ! やっと来てくださったのですね!
私、トーマスと結婚するために、ジェイクとの婚約を破棄しようとしていましたの!」
嬉々として口にするクラリスに、国王は顔を顰めながらも口を開く。
「この騒ぎはそういうことか。
ジェイク君、娘が失礼なことをしてしまって申し訳ない。君が望むことなら、出来る限りのことをしよう」
「ありがとうございます。では、クラリス殿下との婚約を正式に破棄したく思います。
彼女の気持ちはもう私には向いていませんから、無意味な婚約を続けたくはありません」
「本当に良いのかな? 余に言える事ではないが、もう後戻りは出来なくなる」
「ええ、構いません」
「分かった。
では、国王として命ずる。クラリスとジェイク・ゴリアテレスとの婚約は正式に破棄する。これは王家の都合によるもので、ジェイク殿に非は無い」
「寛大なご処置、ありがとうございます」
あまりの急展開に様子を窺っていた人々が一歩も動けない中、ただ一人だけジェイクに飛び掛かる者がいた。
ずっと機会を窺っていたメリッサだ。
「ジェイク様、私と婚約していただけませんか?」
「メリッサ様!? なぜ俺……私のような者との婚約を望むのですか?
私は今婚約破棄されたばかりの冴えない男ですよ?
それと、今は冷や汗で臭いと思うので、近付かない方が宜しいかと……」
謙遜するジェイクだが、他の令息達と違って逃げようとはしていない。けれども、汗臭くなっていると思っているから距離は詰められたくないようだ。
そんな汗臭いという理由はメリッサにとってはどうでも良くて、気に入っている人の手を気持ちのままに取っていた。
(ようやく、ようやく理想の人とお話が出来るわ……!
身体の逞しさも、頭の良さも、穏やかでも芯が強い性格も、全部好き!)
心の中で叫びながら、分かりやすく目を輝かせるメリッサはぐいぐいとジェイクとの距離を詰めようとしている。
一言で表すなら一目惚れではあるが、政略結婚が主流の貴族会では恋した相手と結ばれることなんて出来ないから、メリッサは嬉しくて仕方が無かった。
「ジェイク様は臭くないです!」
「ですが、クラリス殿下が私のことを汗臭いと……」
「きっとクラリス様のお鼻の中か、クラリス様自身が汗臭いのですわ!」
つい本音が漏れてしまったのは、嬉しすぎて頭が回っていないからなのか、それともわざとか。
答えはメリッサにしか分からない。
「なっ!? 無礼よ、無礼! お前なんて死刑にしてやるわ!
大体、そんな男と婚約しようだなんて、頭がおかしいとしか思えないわ! だから馬鹿なゴリラ令嬢と言われるのよ!」
「ごめんなさい、地位とか婚約破棄とか、ゴリラ令嬢の私には難しいお話ですの。
ジェイク様はもう自由の身ですから、私が狙っても問題は無いと思うのですけど……」
不思議に思っているかのように、首をかしげながら口にするメリッサに向かって手を上げるクラリス。
そして、次の瞬間には頬を張る乾いた音が響いた。
「私が間違っているなら、正解を分かりやすく説明して頂けませんか?」
「なんなのよ……!」
頬を張られても全く気にしていない様子のメリッサの言葉に、クラリスはそれしか返せなかった。
だから、メリッサは自分が正しいと判断して、ジェイクに向き直る。
「私にとっては、ジェイク様がとっても魅力的ですの。是非! 私との婚約を受け入れて頂きたいです!」
臭いと言われたクラリスは分かりやすく顔を真っ赤にして、今にもとびかかりそうな勢いだ。
実際に一度手は出ているのだけれど今は国王が腕を掴んでいて身動きが出来ずにいる。
その様子を完全にスルーしているメリッサは、嬉々とした様子でぐいぐいと婚約を持ちかけている。
そしてついに、ジェイクが折れた。
「……分かりました。私で宜しければ、受け入れます」
「ありがとうございますっ! 大好きです!」
嬉しそうに満面の笑顔を浮かべながら、ジェイクに抱きつくメリッサ。
今まで美しい女性に抱きつかれた経験が無いジェイクは赤面している。
けれども、同時に驚きもしていた。
(メリッサ様は力強いですね。これなら、私が抱き締め返しても、苦しませることは無さそうです)
そう思いながら、恐る恐る抱き返していく。
するとメリッサは、すっかり緩んでいる表情をさらに緩ませている。
二人の噂を知っている人なら、今の様子をこう表すだろう。
『デカマッチョとゴリラのハグ』
けれども、二人とも美男美女なので、場の人々を魅了していた。
そしてメリッサとジェイクの相性が良さそうなことも、周囲の人々は勘付いていた。
ひとしきり喜んだメリッサは、今度はトーマスに向き直って手を差し出しながらこう口にした。
「帰還者トーマス様。ジェイクからクラリス様を奪ってくださってありがとうございます」
「はあ。喜んでいただけたなら何よりです。ですが、僕はクラリス殿下と結婚したいとは思っておりません」
メリッサと握手をしながら放たれた言葉に、メリッサを含めた大勢が驚いてしまった。
同時に、トーマスの手がバキバキと折られる音が響いた。
「あっ……申し訳ないですわ。今治します!」
「あ、いえ、お気になさらず。これくらいの怪我、十分もすれば治りますから」
一番驚いているのは、イケメンなトーマスと結婚出来ると信じていたクラリスで、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
けれども、流石は王女で、すぐに立ち直るとこんなことを口にした。
「どうして!? 私と結婚するためにダンジョンを攻略したんじゃなかったの!?」
「いえ、僕はアイリスだけを愛していますから、貴女と結婚するなどあり得ません。
ダンジョンを攻略したのも、全ては国民の安全のためです」
治癒魔法によって手が元に戻ったトーマスがそう口にすると、周囲からは「流石はトーマス様」「国民のためとは、尊敬出来る」などといった声が上がる。
一方で、クラリスを馬鹿にする声もちらほらと聞こえる。
そして……。
「トーマス様の手を粉砕するとは、ゴリラ令嬢は恐ろしい……」
「ゴリラ令嬢の全力ハグでもビクともしないジェイク殿は、一体どんな身体をしている」
メリッサとジェイクの評価は今までよりも上がるのだった。
ちなみに、ゴリラというのは、ここモヤシルヴァ王国で最強かつ温厚で有名な魔物だ。
◇
それから1週間。
貴族達の間で色々な情報が飛び交った。
クラリス王女が王家の威信を下げたとして辺境の地へと追放されたこと。
ゴリラ令嬢ことメリッサ・マッスルダイアが帰還者トーマス・ダンジョニスタ侯爵令息の手を容易く砕いたこと。
そのゴリラ令嬢の全力ハグに耐えたジェイクというゴリアテレスの侯爵令息が居たこと。
ついに嫁き遅れのゴリラ令嬢に婚約者が出来たこと。
この4つの情報は、色々な意味で貴族達を驚かせた。
そんな話題の渦中にいるメリッサは、ジェイクに領地を案内して回っていた。
「メリッサは人気者ですね」
「また敬語になっているわ。やり直し」
「メリッサは人気者だね。羨ましいよ」
「あら? ジェイクも十分人気だと思うわ」
将来、マッスルダイアの領主になるメリッサは当然のこと、ジェイクもまた領民達からの人気を集めている。
「凄い筋肉ですね。どんな鍛え方をしているんですか?」
「毎日腕立てと腹筋背筋のトレーニングを1万回ずつ、10セットしている。君も頑張れば俺みたいになれる」
領民の子供にペタペタと腕を触られながら、トレーニングの中身を語るジェイクの隣では、メリッサが母親と思わしき女性に囲まれている。
そして、お互いにぎゅっと手を握り合っているのだ。
「メリッサ様、会いたかったです!」
「私もよ。元気にしてた?」
「あの、メリッサ様……。そんなに強く握って大丈夫なのですか?」
ブンブンと腕を振るメリッサ達を見て、侍女はいつものように驚いている。
ここの領民達は、皆身体が丈夫なのだ。
男爵家の令嬢でもある侍女にとって、この光景はいつまでも慣れそうになかった。
それから数時間。
ゴリラを一回ずつ吹き飛ばしてから屋敷に戻ったメリッサ達は、優雅にお茶を……出来ていなかった。
「ああ、またやってしまったわ」
「仕方ありません。ティーカップの持ち手はこれ以上頑丈に出来ませんから。
ゴリラのようにすぐに回復すれば良いのですけど……」
すっかりこのことに慣れてしまっている侍女は、呆れた様子を一切見せずに代わりのティーカップにお茶を淹れていく。
「……そうね。
ジェイクは凄いわ。ゴリラを私よりも遠くに吹き飛ばせるのに、力加減も出来ているなんて」
「俺で良かったら練習に付き合うよ」
「ありがとう! 大好き!」
「俺も大好きだ。愛してる」
侍女の前でも気にせずに唇を重ねようとするメリッサを力強く抱きしめるジェイク。
幸せそうな二人の様子を眺めながら、侍女はこんなことを呟いた。
「これでダメになるティーカップが減ると良いですわ……」
「何か言ったかしら?」
「おっと、まだ途中だよ?」
「んんっ……!?」
今度はジェイクから唇を重ねに行って、言葉にならない声を漏らすメリッサ。
そんな二人の様子は、使用人だけでなく屋敷の近くで暮らす領民達にも見守られていた。
それから十年後。
マッスルダイア家には三人の子供が加わり、毎日幸せに過ごしている。
どこかの誰かの時と同じように物が壊れる頻度は上がったけれど、ますます豊かになったマッスルダイア家や領地には全く痛手にならなかった。
この豊かさをもたらしたのは、ゴリラ令嬢の名にふさわしくない頭脳を持つメリッサと、トレーニングばかりしていることで脳筋とも呼ばれながらも優れた知識と判断力を兼ね備えるジェイクが協力することで成し遂げられたことだ。
そして、この二人がゴリラを容易く吹き飛ばせることは瞬く間に貴族達に知れ渡り、揉め事も起こらなかったという。
そんなわけで、今日もマッスルダイア領は平和の風が流れている。
子供たちのせいで、今でも時折ゴリラが空高く打ち上っていることはまた別のお話。
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