第2話 メイドのフィリス
「……様……クリス様!」
誰かが俺の名前を呼んでいる。きれいな、幼い少女の声だ。
俺は、国王暗殺を企み、妹のアリアを守ることもできず、惨めに死んだ。
死者の国で、俺を待つ審判は地獄行きに決まっている。
そう思っていたが、目が覚めると、そこには温かい暖炉の火が灯っていた。
徐々に意識がはっきりと戻ってくる。
俺は死んだはずだけれど……。
だが、ここが死者の国とは思えない。視界に自分の手が目に入る。
小さい。子供の手のようだ。
慌てて姿見を見ると、鏡に映っていたのは、幼い少年の姿だった。
11、2歳ぐらいだろうか。
金色の髪はふわふわとしていて、青い澄んだ瞳は純粋そうに輝いている。
おそらく育ちが良いのだろう。身なりも裕福、というより最高級品の服を身に着けている。
公爵家の嫡男だから、当然かもしれないが。鏡に映っていたのは、幼い日の俺自身だった。
「クリス様、寝ぼけてどうしたんですか」
からかうような声に振り向くと、そこには侍女が立っていた。
幼い少女だ。
いたずらっぽく輝く瞳は、淡い黄金色で、髪の色はくすんだ灰色。
小動物的な、可愛らしい子だ。
「……フィリス」
俺が彼女の名を呼ぶと、フィリスは嬉しそうに微笑んだ。
フィリスはかつて俺に仕えていた侍女だ。
同い年の幼馴染で、幼い頃の俺といつも一緒にいれくれた。
まだ魔術の天才でも英雄でもなかった日の俺を支えてくれたのは、フィリスだった。
フィリスが14歳のときに不審死を遂げることがなければ、その日々は続いていたと思う。
だが、目の前のフィリスは生きていた。
そして、俺自身も子供に戻っている。
「フィリス、今の君は何歳?」
フィリスは不思議そうな顔をした。
当然だ。幼馴染だし、知っていて当然のことなのだから。
けれど、今の俺にとっては死活問題だった。
フィリスは首をかしげ、それから面白がるような表情をした。
「女性の歳を尋ねるのはマナー違反ですよ?」
「同い年だよね? それに、俺もフィリスもまだ子供だ」
「あら、あたしはもう立派な大人のレディです。12歳ですもの」
フィリスは優雅に微笑んで、俺のおかしな質問に答えてくれた。
つまり、俺も12歳。教会暦で1057年、すなわちダンカン王の治世の23年目。
そして、俺とアリアが死んだ六年前ということだ。時間が巻き戻っている。
(時間遡行? ありえない……)
この世界には魔法があるが、できることには限りがある。
いかなる魔術師も扱うことのできない奇跡。それは四つの大魔法と呼ばれている
すなわち死者蘇生、未来予知、万物窮理、そして時間遡行の四つである。
四つのうち三つは、時の流れに抗する魔法である。
魔術は、世界に存在する風・火・土・水・エーテルの五大元素に作用する技術だ。
その技術は、あくまでも現在、目の前に存在する元素に働きかけるもので、過去や未来には干渉できない。
時の流れに関わる第六の元素を特定することで、四つの大魔法を可能にできると主張する者もいたが、今の所、机上の空論にすぎない。
だが、現実に時間は巻き戻っている。
いったい誰が、どうやって、時間遡行の魔法を使ったのだろう?
考え込む俺に、フィリスが心配そうな顔をする。
「大丈夫ですか? 今日のクリス様は少し変です」
そう言うと、フィリスはその小さな手を、俺の額に押し当てた。フィリスの手のひんやりとした感触に、俺はどきりとして……そして、自分が生きていることを実感する。
「熱はないですねー」
「ど、どこも悪いところはないよ」
「なら、やっぱり緊張されているんでしょうか」
「え?」
「妹との初対面ですものね。緊張して当然です」
フィリスはいたずらっぽく片目をつぶってみせる。
俺はぎょっとして、まじまじとフィリスを見つめた。フィリスはにこにことしている。
今の俺は12歳。そして、アリアが公爵家に引き取られたのも、俺、そしてアリアが12歳のときのことだった。
けれど、心の準備ができていない。俺のことを好きだと言った義理の妹。俺をかばって死んだ妹。
どんな顔をして、俺はアリアに会えばいい?
もちろん、アリアは、前回の人生の記憶を持っていない。そうはいっても、同一人物であることは確かだ。
それに、前回のアリアは俺に好意を寄せていたという。疎遠だったはずなので、その理由がわからないのも気にかかる。
俺は、アリアにキスされたときのことをふと思い出して、内心でうろたえた。
もちろん、フィリスはそんなことは知らないので、その表情は子供らしい明るさに満ちていた。
「あたしはアリア様にお会いするのがとても楽しみです!」
「どうして?」
「だって、クリス様の妹になる方ですもの」
俺としてはその理由はよくわからなかったが、フィリスが上機嫌なので良しとした。
それ以外の問題は山積みだ。
なぜ時間が巻き戻ったのか? 前回の人生でアリアは何を感じ、何を考えていたのか?
そして、俺自身、どうやって今回の人生を生きていけば、破滅を避けられるのか……。
だが、ともかく、まずはアリアと会うことだ。
今のところ、俺もフィリスも、そしてアリアも生きている。なら、今回はまだやり直せる。
前回の人生では、俺には何かが足りなかった。だから、悲劇的な結末を迎えた。
少なくとも、今回の人生では、何の罪もないアリアを死なせたりはしない。
そう考えて、俺は決然と立ち上がった。
フィリスが微笑む。
「いつものカッコいいクリス様に戻りましたね!」
「そうやってからかうの、やめてよ……」
「あら、からかっているつもりはないんですけれど」
ふわふわとフィリスが笑う。猫のような黄金色の瞳が楽しそうに輝いている。
前回の人生でも、フィリスが生きていた頃は、俺は彼女に頭が上がらなかった。
幼馴染であり、侍女であると同時に、フィリスは俺の補佐役となることを期待されていた。
フィリスの生まれは、ステュアート公爵家に従属する子爵家だ。子爵の三女だったフィリスは、物心がついたときには、ステュアート公爵家に奉公に出されたわけだ。
海の向こうの大国グレイシア王国では、主人と従者・侍女のあいだには厳然たる身分差があるという。
だが、少なくともカレドニア王国では、主人の家族と、貴族出身の使用人とのあいだに大きな区別は存在しない。
フィリスも家族同然に扱われているし、食事も一緒にとる。
もしフィリスが生きていれば、俺をたしなめてくれて、破滅への道を回避させてくれたかもしれない。
それに、単純にフィリスが生きていることが嬉しかった。
前回の人生で、フィリスは外出中に誰かに殺され、犯人は捕まらないままだった。その運命も今回は回避できるかもしれない。
俺は、フィリスの金色の瞳を見つめた。
「いつもありがとう。フィリスがいてくれて良かったよ」
フィリスはきょとんとした顔をして、そして頬を赤らめた。
「きゅ、急にどうしたんですか?」
「いや、べつに理由はないんだけれどね」
「やっぱり、今日のクリス様はどこか変じゃないですか……?」
「さあ、アリアに会いに行こう」
「ご、ごまかさないでくださいー」
フィリスが上目遣いに抗議するのを見て、俺はくすっと笑い、「ごめんごめん」と謝った。
俺にとっては、二度目の人生だ。中身は18歳の俺にとって、フィリスは6歳年下ということになる。
それはアリアも、同じだ。
(今回は、アリアとも上手くやっていけるだろうか……?)
どうやって二回目の人生を生きるべきか、まだわからない。
だが、とりあえず、するべきことは一つ。
今回は、アリアが幸せになれるようにしなければならない。
幸い、俺は、死の直前に王国最強の魔術師だった。そして、その知識と技術は今も引き継いでいる。
最初から有利な条件で戦える。その力をアリアのために使おう。
アリアは、自分を好きだと言ってくれて、そして命をかけてかばおうとしてくれた。なら、今回の人生ではアリアが幸せになれるように、努力しなければならない。
それが、兄である俺の義務であり、願いだった。
次話で幼いアリアが登場!