「だ」抜き言葉についての考察?
※これは私の個人の考えであり、それが正しいというものではありません。ただ、私がおかしな日本語だと感じてしまう事に対して考察(?)をしてみたものであります。
皆さんは「だ」抜き言葉をご存知でしょうか?
少し前には若者の「ら」抜き言葉というものも言われており、これは「食べれる」や「見れる」といった言葉で、本来であれば「食べられる」「見られる」というようにするのが正しいところを「ら」を抜いて話したり、書いたりしてもてしまうことです。
そして今回の「だ」抜き言葉ですが、私はどうもこれが引っかかって仕方がありません。
「ら」抜き言葉はそこまで大きく気になったりはしないのですが、「だ」抜き言葉だけはどうも読んでいて、話していてどうにも気持ちが悪いのです。
ちなみに、「だ」抜き言葉の例を紹介しておくと、「大丈夫と思った」や「これを栄養剤と思っていたようだが実は違う」などとすることです。
これ、本来はそれぞれ「大丈夫」と「栄養剤」の後に「だ」が入るべき文章であり、「大丈夫だと思った」、「それを栄養剤だと思っていたようだが実は違う」が正しい言葉だと思うのです。
それでは、なぜ「だ」抜き言葉がおかしな日本語だと感じるのか。その理由を考察してみたいと思います。
「だ」抜き言葉として私が最も良く目にするもの。それは、上記でも例として出している「大丈夫と思った」です。
私の考えとしてはこの一文は分解すると、「大丈夫だ」と「と思った」の2つで構成されているのだと思います。そしてこれは、大丈夫であるという状況にあるという意味の言葉と、(私は)そう思っているという状況を意味する言葉の組み合わせであり、その際に「と思った」に関してはすでにその状況をしっかり表しているととれます。しかし、「大丈夫」に関してはまだ単語として出てきているだけであり、その状況にあると言い切れている訳ではないのではないかと思います。そのため、大丈夫であるという状況を表すためには「大丈夫だ」とする必要があり、それにそのまま「と思った」と続ける事で文章が初めて完成するのだと思います。
つまり、「大丈夫だ」とすることで大丈夫な状況であると言い切った(確定させた)後に「と思った」を続ける必要があり、「大丈夫と思った」のように「だ」を省略してしまうのは2つの言葉の接続を切ってしまっているのです。
そして2つの言葉が正しく接続されていないため、おかしな日本語になっていると感じてしまうのではないかと思っています。
要は、「と思う」という言葉の前に接続する事ができるのはその状況であると言い切った(確定させた)状態になっている文章でなくてはならないのです。それなのに、「だ」を抜く事によって「と思う」の前に接続しようとしたものの言い切った状態を解除してしまってはこの2つの言葉を接続する事ができないのは当然と言える訳です。
もちろん「と思った」や「と思う」の前には必ず「だ」が付かなければならない訳ではありません。
この文章を書く中でもいくつか出てきていますが、1つは「○○なのではないかと思う」という言葉。
これは、「○○なのではないか」と「と思う」の2つに分けることができ、今回の「大丈夫だ」の部分にあたる「○○なのではないか」についても○○なのでは?と疑問を持っている状況である事を十全に言い表した文章であると考えられます。そのため「だ」を間につけて接続する必要はなく、そのまま繋ぎ合わせる事が可能になり「だ」抜き言葉にはならないのです。
結局何が言いたいかと言えば上記のような理由から、「私は「だ」抜き言葉は日本語としては相応しくないと感じます」というだけの話なのですが…
勿論、反対意見等ある方や、その考察は違ってて本当はこういうことやで!という方いらっしゃると思います。しかし、私と同じように違和感を覚えている方がいるのではないかと思い、少し自分なりに考察したものを書かせていただいた次第です。まぁ要するに、あんまり感想欄とかで怒らないでくださいねっていうお願いです。(笑)
また、もし執筆活動をしている方で、これを読んで少しでも「だ」抜き言葉について共感をいただけたのであれば、これまでよりも少し意識を向けて頂けたら私も考えた甲斐があったなと思います。
以上、拙い文章でしたがお読み頂きありがとうございました。