第3話 いつでも晴れようとする空
事態は最悪を越えていた。
結論から言えば幸道は一学期最後まで学校に来なかった。来れなかった。一ヶ月近く入院し、退院出来る事には蝉がガンガン本気を出す時期になっていた。
つまり私は約一ヶ月弱を一人で学校生活を過ごした。
それは地獄が戻ってきたことを意味する。
いや、正確には今まで逃げ続けてきた地獄を初めて味わうことになる。
車で職員用の駐車場まで入るとクラスの担任が出迎えてくれる。担任の小山先生は悪い人ではないが心の溜息が私の胸によく染みた。
知らなければ喪失感なんて感じようがなかったのにと理不尽に幸道を思う。
教室はいつもより広く、冷たく、暗い。
私と他の生徒との距離が物理的にも精神的にも開いていた。
この空間から逃げる脚すら持たない私は誰も憎むことさえ出来ない。帰りのホームルームが終わり担任の少し疲れた笑顔と共にやっと檻から解放されるのだ。
虐めはない。
少し過剰に反応するなら遠巻きに聞こえる含み声のひそひそ話と品のない笑い声だけだ。私が教室に入ったり、廊下を移動している時にやけに視線を感じ、それらが混じっている気がする。
証拠はない。会話の内容だって正確には聞き取れない。
本当は前からあったのかもしれないけど、幸道の光に隠れていただけなのかもしれない。
帰り際、何度か倉見とすれ違った。
引きこもりも巣へ帰る時間なのだろうか、暑いのに登校していて偉いなと当たり前のことを褒めてあげたくなった。それを口にする余裕はないけれど。
そんな地獄が小休止し、夏休みに入った。
そこで私は久し振りに幸道に会うことが出来た。
彼の部屋で彼は座っていた。
同じマンションの同じ階だ。会いに行こうと思えばいつだって会いに行ける。だけど、私が足を悪くしてから彼の方が会いに来るのが当たり前になっていて会いに行くなんていうのは本当に久しぶりだった。
一ヶ月近く家族以外の面会謝絶、そしてやっと退院出来ると聞いて会いに言った時、彼はいつもの笑顔を張り付け私を出迎えてくれた。
「やぁ、小雪」
私と同じ高さになっても尚その表情、それは素直に尊敬した。
幸道は両足が付いていた。
しかし、それが通常の機能を果たすことはもうほとんどないらしい。
無理をして、介助されて、手摺をもって、それでたったの数歩歩ける程度の話。
でも、どこかでその数歩が羨ましいと感じる私もいた。
数万人に一人の難病らしい。
何故彼がそんなものに侵されなければいけないのか。
再会した私は言葉を探った。
低い景色からだったからこその遠慮のないガサツな言葉が今は口の中で確かな粘度をもって沈殿していく。
私は頭を上げず口を開く。
「元気そうじゃん」
「大変だったんだよ、この一ヶ月。意味のわかんない事の連続でさ。流石に受け入れるのに時間がかかったよ」
一ヶ月なら上等だ。
私は一年かかった。それも幸道が手を取ってくれたから受け入れられた。
「小雪とお揃いだ。並んで廊下を歩くの大変そうだね。道塞いじゃって通行人の邪魔になるかな」
「ははっ」
乾いた笑い声。
いくら私のことが好きだからってそこまでお揃いにしなくてもいいよ、そう言ってやりたかったけど怖かった。
そんな軽口が彼を壊してしまうのではないかと恐怖し、何年かぶりに幸道に気を遣って言葉選びをしている自分に気が付いた。
「……空、遠いね」
幸道の部屋の窓から空と空を目指す入道雲が見える。
モクモクと高く高く空を目指す入道雲。
もうあれに私達はなれない。
「昔、小雪が話してくれた意味が分かったよ。凄く、空が遠い」
たった数十センチ視線が下がった感覚。
「……一生分かんないで欲しかった」
これじゃあ私を殺せないじゃん。
ベランダから突き落として空へと羽ばたかせてくれるんじゃなかったの?
私の首からロープが消えた。
生と死の自由な選択が消滅し、暗い生だけが残った。
依存先が消えた。
冗談でも嘘でも良かった。
幸道がくれた言葉だからそれを信じてくそったれな生を謳歌した。
「明日さ―」
「花火だね」
毎年恒例の地元の花火大会。
もうそんな時期になっていた。
「どうしよっか」
去年は幸道が車椅子を押してマンションの裏手の高台まで連れていってくれた。テレビで特集が組まれるような大層なものじゃないけれどやっぱり綺麗だった。
もう彼が私を押してはくれない。一歩後ろにも前にも彼はいない。彼はいま私の隣に並んでいるのだ。
「今年はうちのベランダからでいんじゃない?」
私はそんなひねりのない現実的な提案をした。
ベランダの手摺はコンクリートで大人の胸の高さくらいまであり、隙間も殆どない。だから、私達は必要以上に見上げる必要がある。それはどんなに惨めだろう。
「綿あめ食べたいな」
「お母さんたちに買ってきてもらえばいいよ」
「焼きトウモロコシもいいよね」
「好きなもん好きなだけ頼みなよ」
どちらも幸道の好物ではない。
私の好物だ。
私は今度は静かに泣いた。
そんな姿になっても彼は私の必要な存在であろうとしてくれているから。