第2話 曇り空
お昼休みを挟んで次は体育だった。
私は受講機会を永遠に失っているので特に着替えるような準備がいらず楽だが、男子は教室で着替えるので夏は廊下で幸道を待つ少しの時間にじめりとする汗が気持ち悪かったりする。当然、冬も辛いが重ね着が出来る分まだマシだ。夏はいくら暑くても皮膚までは脱げないのだ。私は周りに誰もいないのを確認して二の腕をつまむ。昔より肉が付いたかもしれない。昔と違い運動不足だ。そして、その運動不足を補う手立ては非常に少ない。
いつも一緒にいる幸道は私の体重の増加に気付いているだろうか。
それは少し嫌だなと考えたところで横開きの教室の扉が開く。
「いこっか」
「頼む」
廊下から見る外は快晴だった。
「そっか」
「なに?」
「なんでも」
そっか、厳密には体重は増えていないな、だって足がないんだもん。そんな自嘲しか出来ない口に出せば誰も笑わないブラックジョークを思いついてしまったことに一人呆れる。こういうのが頭をよぎるのは良くない時だ。足を失ってから嫌でも感情の波の高低と周期が激しくなった。幸道のお陰で高が存在するだけマシだけど。
車椅子が制動し、顔を上げれば「保健室」の文字が目に入る。
屋外で身体も動かさずただ見学と言うのも辛いので担任や体育教師には許可を取り、私はいつもこの時間保健室で時間を潰す。
幸道ががらがらと音のする引き戸を引くと定年間際の温厚そうな養護教諭が「いらっしゃい」と出迎えてくれる。
「じゃあ、お願いします」
「あらあら、なんだが夫婦みたいね」
「茶化さないでよ」
「ごめんなさいね。あんまりにもお似合いだからついね」
幸道は急いでグラウンドへいかないといけないので、挨拶もそこそこに出ていってしまった。校内いる間で数少ない幸道と離れている時間だ。
私は両手で車椅子の車輪を回し数メートル前へ進むと保健室の真ん中にある直径一メートルくらいの白い丸テーブルに辿り着く。私はテーブルの真ん中でバケットに入れられ個包装されたマドレーヌに手を伸ばす。
「それ美味しいでしょ? お友達から貰ったの」
「うん、美味しい。緑茶があるともっと美味しい」
「はいはい」
養護教諭の清水先生は結構人気の先生でよく悩み相談に来る生徒も多くメンタルケアでの出番の方が多かったりする。だから、このテーブルを生徒と囲み紅茶や茶菓子なんかをよく飲み食いするのでいつの間にか常時部屋の真ん中に置かれているようになった。
「あっ、そう言えば緑茶も良いのがあったわ」
「冷たいのが飲みたいからペットボトルのでいいよ」
「そう? 氷だししなくていい?」
清水先生は冷蔵庫から二リットルのペットボトルの緑茶を取り出すと私専用のマグカップに緑茶を注ぐ。この保健室は常連の者にはマイカップが用意されている。
「清水ちゃん、生徒に甘すぎ。私みたいなのがつけ上がるよ」
「下がるよりいいじゃない」
私は少し苦笑して出された緑茶を口につけた。
私は幸道を除けば学校関係者でこの人が一番好きだ。幸せも不幸も押し付けない所がいい。人はそれを自然体と言うが私の身体を見てそれが出来る人は少ない。
一服ついて落ち着くと後方のカーテンで仕切られたベッドから布の擦りきれる音がした。
「もしかしてあいつ今日いるの?」
「いるわよ」
カーテンがシャッと開かれるとそこからボサボサの頭の男子生徒が出てきた。如何にも寝起きと言った風貌だ。
「倉見君、起きたのね」
清水先生の声掛けを無視し、倉見は私の方へ視線を落とした。
「あれ? お前もいたの? じゃあ今体育か」
「引きこもり君も元気だね」
「こうして週に何回かはちゃんと登校してるじゃん」
「保健室登校だけどな」
「登校差別するなよ」
倉見はずけずけと歩いて丸テーブルの前に座ると適当なお菓子を片っ端から食べ始める。
「当てたげようか、朝までゲームしてそのまま登校、保健室で仮眠して今それが朝ご飯」
「凄いな、もしかして僕のファン?」
「あんたをキモがる女の子はいてもファンなんて一人もいないよ」
「傷付いた。もう帰るわ」
「はいはい、二人とも顔を合わせるたびに喧嘩しないの。特別に秘蔵のお茶うけ出してあげるから」
二人の心の背筋が少し伸びた。
清水先生が口喧嘩の仲裁に入り、秘蔵のお茶うけのお陰で争いは止んだ。よく冷えた水羊羹だった。
しばらくすると清水先生は壁に掛けられた時計をちらりと見て「あらっ」と声をあげた。
「いけない、職員室に用事があるんだったわ。二人ともお留守番しててね」
「お留守番って」
「大丈夫でしょ、引きこもりは留守番だけは上手いからね」
「こら、もう喧嘩は駄目よ」
清水先生はそういうと数枚の書類が挟まれたクリアファイルを持って部屋から出ていってしまった。
体育の授業が終わるまで後十分。互いのマグカップは空になり、その中身が渇いていくように室内の空気も乾燥しどこか張り詰めたものを感じる。
「……まだ生きてんだ」
倉見は視線は迷子のまま声を落とした。
「もうちょっとね」
誰も答えないからそれに私が答えた。
クラスは違うがそれは準不登校児にはあまり関係のない話だろう。私と倉見は今みたいな体育の授業と準不登校児の気まぐれ登校のバッティングで一年の頃から顔見知りだ。
「義足とかねーの?」
「障害にも色々程度があるの。あんたにも分かるように言うなら私の場合は無理ゲー」
「へー、クソつまんないな」
「そ、クソつまんない」
倉見は根が暗く他人に気を遣えない。
だから、私も気を遣わない。
「ま、色々あるか。僕もコミュ障だしな」
「それと一緒にすんな」
それはある意味でとても楽なことなのかもしれない。
私は幸道に甘え、依存しているが、それでも小さじ一杯程度には気を遣っている。それは奉仕される側の気負いのようなものだ。申し訳ない、私だって小さじ一杯はそう思う。
親や周りの人にも当然足のない私がいることで何かを強いることがある。だから、こちらも気を遣う。
しかし、倉見は私に一切気を遣わない。
戸棚のクッキーさえ取ってくれない。
よく考えなくても社会不適合な奴だ。
だから、私はこいつによく本音を話した。
安い同情をしないから、高い相談料を取るわけでもないから。無料、馬鹿な率直な感想だけを漏らすから。
「いつ死ぬの?」
「今日じゃない」
私が幸道とした約束もこいつにだけは話した。
と言うより気付いたら口にしてた。
『私にはカッコよくて優しい幼馴染がいてね。私が生きることに絶望して死にたくなった時に「そんなのいつでも出来る。本当に死にたくなったら俺がこのベランダから外の世界へ突き落として解放してあげるから、それまでは俺と生きよう」って言ってくれたわけ。素敵でしょ、素敵過ぎて涙が出たからまだ生きてる』
何時だったか忘れたけど二人きりのタイミングでそんな話をした。
それに対して倉見は「どっちも面倒そうな生き方を選んだな」の一言だけだった。いや、めちゃくちゃ長い感想を述べられても困るけどね。
「戸棚のクッキー取ってよ」
「嫌だ。自分で取れば?」
「お前、モテないだろ」
「そもそも女子と関わらないからな」
可愛くない可哀想な男だ。
私もあまり人のことは笑えないが、高校を卒業すれば引きこもりの子供から引きこもりの大人へランクダウンしてしまう事確定だろう。
チャイムが鳴った。
こんな陰気な奴とは一秒だって一緒に居たくない。
早く幸道は来ないかな。
私は彼が待ち遠しくて窓の外を眺めた。少し雲がかかってきた。夏はこのくらいでちょうどいい。夏の快晴は殺人光線と同義だ。相変わらず私にとって窓の外は遠くの景色だけれども幸道を待っているこの時間だけは憂鬱さをあまり感じない。
長い一分。
待ちくたびれた二分。
不思議な三分。
眉をひそめて四分。
五分、経っても幸道はまだ保健室に現れない。
これはおかしい。
「お前の王子様はまだ来ないのか?」
倉見の軽口に対して私が軽く睨みつけた。
廊下が騒がしい。その騒がしさが私の中へ入ってきて胸騒ぎへと変換される。
次の授業の開始の合図の前に別の音が校舎へ響いた。ドップラー効果全開のあの音はいつ聞いても寒気がする。
私の足が意味を成さず、それでも切断される前に意識が朦朧とする中で聞いたあの音だ。最小限の救いだけを私にもたらし、死ぬまでの永遠の絶望をプレゼントしてくれた音だ。この音を恨むことがお門違いなのは十分理解している。しかし頭で理解しても身体に刻まれたものを削ぎ落とすことは出来ない。
私は思わず両肩を抱いた。
「……近いな。もしかしてうちの高校か?」
倉見が立ち上がり窓の外を覗いた。
それと同時に反対側の廊下を駆ける者たちがいた。どの声も慌てふためいていて、普段は絶対に廊下を走るなと口癖のように繰り返している教師陣のものだ。
『おい、救急車が来たぞ!』
『ようやくか! 芦田の容体は⁉』
『今、養護教諭の清水先生が見てくれている!』
思ったより落ち着いていた。
だって、私の身には最悪が訪れたんだ。周りにだってそれが訪れる可能性を考えなかったわけじゃない。
それでも、神様。
本当にあなたが憎い。
彼の元へ駆けつける脚すら奪った貴方が彼まで奪うの?
「ねぇ、倉見」
「……なんだ」
「連れていってよ、幸道のとこ」
「嫌だ」
倉見は戸棚のクッキーの時の様に即答で拒否した。
本当に冷たい男だ。きっと誰にも愛されない人生を送るのだろう。
私は自分の両肩を抱く指先に力を込めた。
「悪いけど今頼れるのはあんたしかいないの」
「行かない方がいい。辛くなるだけだ。これは現実でドラマじゃない。お前が言ったところであいつは奇跡的に回復も助かりもしない。なら、行くだけ辛いだけだ」
「ッッ! それでも!」
倉見は動かない。
ずっと窓の外を眺めたままだ。
部屋の外は熱々の鍋でもひっくり返したように大騒ぎで何時まで経っても収束しない。私は一人でグラウンドまで向かう道程をイメージする。そこまでの道程に私へ不可能と突き付けてくるいくつもの段差、道幅、勾配、心を折るには充分だった。
私は泣いた。
保健室は清水先生が私の元へ幸道の容体を知らせに戻って来るまでの十五分間、ただただ私のすすり泣く声だけが静かに保健室に染み込んでいた。