39 今まで見ていた景色を勘違いにする
『非常に強い悲しみというのは、時間が経つと薄らぐだろう。しかし、失われた者の代わりというのは、絶対に有り得ない。どんなに心の中にあいた穴を埋めようとしても、また埋められたと思っても、絶対にそれは最初のものの代わりにはなり得ない』
無意識の精神科医ジークムント・フロイト。
彼の名言が俺に突き刺さる。
俺は自分の病気について、フロイトの本から糸口がないかを探り始めた。
自己診断ではあるが、無意識下や深層心理のどこかで、俺は家族がいない事に対して怯えているんだろう。成長過程でのいじめから始まり、心が弱った所でとどめを刺されたのだ。
その根っ子にあるのは寂しいという感情。心の中でも一人になった俺を守るために、澪と志乃さんが現れた。
だから、答えは何となく分かる。
代わりが無いなら、別の何かで埋めるのだ。
そもそも、寂しさを忘れるぐらいに毎日が充実すれば幻覚は自然と消えるはず。極端に言えば、持田が毎日俺に引っ付いていればいずれ幻覚に構っている場合じゃなくなる、といった所だろう。現に教室内で幻覚を見る機会は少ないのだ。
そんな風に考えた所で顔を上げた。
ここは、試験終わりで人の少ない図書館。
前の席に座っていた結が、いつの間にかじーーっと俺を眺めている。目が合うと、この天使は嬉しそうに微笑んでくれた。結の笑顔を独り占めにしているかのようで、ちょっとした優越感を感じる。というかよく俺を見ながらで事務作業が出来るな。
「今日は流石に人は少ないですね」
「俺はこれぐらい静かな方が好きだな」
「私もです」
パタンと本を閉じて帰宅モードに入る。
結も書類を片付け始めた。
「先生にはご親戚の事を聞いたんですか?」
「聞いた。けど、何も知らなかったみたいだ」
俺は先生と話した内容を結に伝えた。
結はある程度俺の家庭事情を知っている。
「家の電話でも着信拒否されているから、この後公衆電話からかけてみるつもり」
そう言うと、結は複雑そうな顔をした。
親族に着信拒否されているという、そこそこヘビーな状況だ。毎回こんな話で空気が悪くなるならさっさと問題を解決したい。
「……あの、私の携帯を使いますか?」
「結の? いやいいよ。数百円だろうし」
「いえ、お邪魔じゃなければ私も聞いていた方がいいのかなと。その、誰かがいると安心できるかなぁと思ったので」
不安げな表情でそう話した。結は、俺が本質的に臆病な事をよく知っている。心配してくれているのだ。
結は、いつも優しさで動いている。
「……そうだな。どのみち結果を伝える事になると思うし、甘えさせてもらおうかな」
――
例のごとく、結の家のリビングにやって来た。
小春ちゃんの視線が痛い。いや気持ちは分かる、しょっちゅうこんな男が自分の家に入り浸っていたら気持ちの良いものではないだろう。しかも今日は重い話を持ってきているのだ。
小春ちゃんにオレンジジュースを渡し、一時的にリビングから出てもらう。
親戚一家と俺との関係。
一体、なぜこんな事になったんだろう。
ほんの小さなネジが、あの家の歯車を狂わせた。もしかすると、俺がいなくても狂っていたかもしれない。だけど、俺の存在が叔母さんの精神病の悪化を助長した気がしていた。
けれども、伝えなければいけない。
俺も叔母さんと同じで、そろそろ体にかかる負担が限界が近いかもしれないという事を。
「……覚悟はできた。かけるよ」
スピーカーモードにした結の携帯をテーブルの上に置き、電話をかける。リビングにプルルルというコールの音が大きく鳴り響く。隣に座った結も緊張しているようだ。
6コール目で、受話器が上がった。
《……はい、柳です》
「……あの、夜分恐れ入ります、望月蒼です……って七海ちゃん?」
《……蒼……兄さん?》
電話の向こうにいるのは、一人娘の柳七海。
俺の一つ下の中学三年生。当時の俺は勉強付けで、七海は引きこもりがちだった。そのため、あまり二人きりで会話をした記憶が無い。
出て行った俺を恨んでいるだろうか。
「……久しぶり、七海ちゃん。叔父さんはいる?」
《今仕事に出ています。兄さん久しぶりですね、元気でしたか?》
「あ、あぁ。もう退院したしな。幻覚は未だに見るけど」
《……退院? 入院していたんですか? 何があったんですか?》
七海の声のトーンが大きくなる。
叔父さんからは聞いていなかったようだ。
「過労と偏食でちょっとな。バイトのし過ぎだよ。それで、仕送りの件で叔父さんに話が合って電話をしたんだけど」
《…………》
七海の返事が聴こえない。
結と顔を合わせる。
不安そうな表情をしていた。
大丈夫? と問われている気がする。
「(だいじょうぶ)」
口パクでそう告げると、ほんのりと笑って頷いた。
その表情だけで励まされる気がした。
《お父さんもお母さんも仕事です。兄さん、私は兄さんが入院していた事も、仕送りの事も何も知りません。詳しく教えてください》
「……え?」
そして俺はこちらに引っ越してきてからの出来事を掻い摘んで説明した。これから仕送りが厳しい状況になりそうだという事も。直接叔父さんに話すべきだったかもしれないが、聞かれるがままに伝えた。
説明し終えた所で一呼吸置くと、七海が問いかけてきた。
《……兄さんはどなたかと勘違いされていませんか?》
「勘違い?」
《――お母さんは病気でもないし、お父さんもずっと働いていますよ?》
その台詞を聞いて、一瞬時間が止まる。
結が息を吞み、心配そうに俺を見つめた。
……正直、もしかしてと思った事はある。
むしろ、そうであって欲しいとも。
叔母さんも叔父さんも元気で、七海も普通に受験勉強が出来ている。結果だけを見るならば何も言う事は無い。病人は俺だけで、叔父さんに騙されていたのも俺だけ。
本来なら恨む事なのかもしれない。
だけど、なぜか心は晴れやかだった。
それよりも、この話を聞いて七海が両親を嫌いにならないで欲しいと思っていた。俺という不穏分子が原因で、家庭が壊れるなんて真っ平御免だ。
そのためには彼女に何と言えばいいのか。
少し考えて、俺は口を開いた。
「……七海ちゃんごめん、俺の勘違いだったかも」
そう言うと。結が驚いていた。
「また幻覚かな、中々治らないんだ。叔父さんには心配を掛けたくないから、この電話の事も何も言わないでくれないか?」
《……兄さん、本当に大丈夫ですか?》
「大丈夫、ありがとう。七海ちゃんの方も受験勉強は大丈夫?」
《はい。兄さんの残してくれたノートが役に立っています》
そういえば使わないからと渡したっけな。俺ですら忘れている物を大事にしてくれているのは、何だか嬉しくなる。
「良かった。じゃあまたね、お休み」
《……はい、久しぶりに兄さんの声を聞けて嬉しかったです。お休みなさい……ツーツー》
……何だろう、妙に清々しいな。
そう感じて、顔を上げた。
結は、悲しげに俺をじーっと見つめていた。




