26 俺が見てきたもの
本日2話目です。ご注意下さい。
街路灯に照らされた夜の公園の一角。
目の前で座り込んだお婆ちゃんと俺以外には誰もいない。
「大丈夫ですか、伊藤さ……んんんん!?」
近付こうとした瞬間に伊藤さんが急に立ち上がり、そのまま滑るように歩いてベンチに腰掛けた。前に見た時は腰が曲がったお婆ちゃんだったのに、動きが機敏すぎて不気味だ。
「隣に座りなされ、少し話したいんじゃ」
「いえ伊藤さんもう夜ですよ。ご自宅へお送りしますから」
「構わん。家には誰もおらん」
「そういう問題じゃ……伊藤さん、何だか今日は随分ハキハキとされていますね」
伊藤さんは娘さんと2人暮らしだった。町の外れにある小さなアパートだ。娘さんは看護師で、勤務時間が不安定らしい。
俺はこの伊藤さんが認知症だと考えていた。もう80代だし、先日コンビニで深夜徘徊らしき行動もしていた。今みたいに娘さんの目が届かない時間にウロウロしているんだと。
そして認知症の方はたまに頭がクリアになるのか、意識がはっきりする時があるそうだ。俺が通っていた精神病棟の看護師がそう教えてくれた。そしてそのまま再び意識が不安定になる時もあれば、亡くなる直前だった時もあると。
もしかすると、これが最期かもしれない。
俺は伊藤さんの隣に座った。
ここは家族との思い出のベンチだ。
「学校はどうじゃ」
「楽しいです。大変な事はありますけどね」
「社会に出ても、サインコサインタジェントなんて使わん。じゃが孔子の話は為になる」
「はは、俺もそう思いますよ」
伊藤さんの喋り方も以前とは全く違う。まるで若返ったかのような発声だ。
「伊藤さんの時代はどうだったんですか?」
「儂らの時代は貧乏じゃった。窓の無い段ボールハウスに住み、ひたすら平穏を願った。不幸の神様の匙加減で、簡単に亡くなる子供もおった。どうすれば皆が救われるのかと宗教も学んだ。じゃが徳を積んだところで、結局は欲望に負けた」
そうか、今みたいに幸せな時代じゃなかったんだ。厳しい時代を生き延びた人の話を聞くと、俺の悩みや病気がとてもちっぽけに感じる。
「ナポレオンの辞書には不可能は載っていないらしいがな、儂らは英雄では無い。手の届かない場所にあるものは、見る事しかできないんじゃ。運命とは一体何なのかは儂には分からなかった」
伊藤さんは淡々と話し続けた。
対する俺は、言葉が出てこなかった。自分なんぞが一体どんな声を掛ければいいのか。俺はただ、伊藤さんの話を聞く事しかできなかった。
少しの沈黙の後、伊藤さんは再び口を開いた。
「最近は困ったことはあるか?」
「困ったこと……ですか」
自分の病気の事や家族、そして親戚の事。あまり自分について人に教えるのでは好きではなかった。
だが、なぜか伊藤さんならいいと思った。
「どうも親戚の叔父さんの家が大変らしくて、仕送りの額が増えてしまいました。アルバイトと勉強を両立出来るのかが難しい事に困っていますね」
「そんなもん、ほっといたらええ」
「……そうはいきません」
中学時代の3年間お世話になった家だ。その間の学費や生活費は全て叔父さん達が用意してくれた。今彼らが困っているのならば、あの時の恩を返すべきだと思っていた。
伊藤さんは静かに俺を見つめていた。
「望月君は何が欲しかったんじゃ?」
「……欲しかったのは普通の家庭です。でも、最近分かったんです。俺はだいぶ昔に、幸せな家族に囲まれていたんですよ。だけど、それは失ってから気が付きました。今はその思い出にしがみ付いています」
うちよりも悲しい家庭は沢山ある。
俺は、家族に恵まれていたんだ。
「とても優しい人達でした。俺はその優しさのおかげでこうして生かされたんです。だから、俺も人に優しくしようと思いました」
ふと、夜の冷たい風が通り抜けた。公園には誰もいない。目の前の道路を走る車の音が、なぜだか懐かしさを醸し出していた。通り過ぎたものは戻って来ない。
「伊藤さんは何が欲しかったんですか?」
「健康と、娘の旦那じゃ。どちらも手に入らなかった」
そう呟いて真っ直ぐに前を見る伊藤さんの目は、今にも泣きそうな程に潤んでいた。通り過ぎるヘッドライトの光が、瞳の中できらりと輝いていた。
この人は、人生で何を見てきたのだろうか。
「中々、うまくいかないものですね」
「そんなもんじゃ」
そして再び、静寂に包まれた。夜風で冷えてきたのか、体がぶるりと震えた。そろそろ戻らないと伊藤さんが風邪をひいてしまう。
『蒼お兄ちゃん、今日は独り言多いね』
澪。
失礼な事を言うな。
『――でも蒼お兄ちゃん、ずっと一人だよ』
――――は?
何を言ってるんだ、伊藤さんは隣に座っている。相変わらず前を見たままだし顔に生気もある。こんなにはっきりと色も……。
色が……はっきり見える。
夜なのに。
『もしかして、また志乃さんとかいう人?』
――まさか。
澪は志乃さんを見る事が出来ないし、会話する事も出来ない。何故かはわからないが、俺の脳内で生まれた2人はお互いに認知しなかった。
なぁ澪、俺の隣に座っているお婆さんが見えるか?
『見えないよ』
――――そう、か。そういう事か。
「……伊藤さん、あなたはいつから幻覚だったんでしょうか?」
コンビニで出会った時からかもしれない。
あの時、店長は俺に気を使ってくれていた。
伊藤さんが何も言わずにこちらに振り向き、皺だらけの顔でくしゃっと微笑んだ。たとえこれが幻覚だとしても、俺は不思議と彼女を邪険に扱うことはできなかった。
『望月君、知っていたら教えておくれ。人は、なぜ人を殺すんじゃろうか』
「……なぜなんでしょうね、本当に」
俺は今、自分自身と会話をしている。だけど、何故か伊藤さんの言葉は心に刺さるものがあった。自分が見て来たものが何なのか、伊藤さんが教えてくれた気がしていた。
「伊藤さんとのお話は非常にためになりました。またこうしてお話ししましょう」
『もう少しここにいたらええ。まだ立ち上がらん方がええ』
「いえ。すみませんが、明日も学園に行かなければいけませんので」
『今日は月が綺麗じゃよ』
そう言われて、空を見た。
秋の夜空には美しい月が輝いていた。周りの雲も照らされていて幻想的な光景だ。月の明るさのせいか、周りの星たちは影を潜めていた。
「すみません、そろそろ行かないと」
伊藤さんは何も言わずに目を閉じた。
俺は静かに立ち上がり、服を叩こうとした。
――その瞬間、視界が暗転した。
俺は気を失い、地面に倒れ込んだ。
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