19 見えない壁の向こう側
「私は平気ですが、蒼くんは大丈夫なんですか?」
「分からない」
上を見上げる。
この家に居たくない最も大きな理由、それがこの天井の上にある。今でも2階で行われたあの刑事とのやり取りを夢で見る事がある。そしてその光景とテレビで見た殺人現場の映像が重なり、悪夢となって俺を苦しめていた。
「だけど、前に進みたいんだ。そのために結を利用する形になるけど」
「私は蒼くんの味方ですよ?」
「……助かる」
『いい人だよね、結。蒼お兄ちゃんには勿体ないよ!』
俺もそう思うよ。彼女の優しさに本当に救われている。俺の中で、結は思った以上に大きな存在になっていた。それと同時に、この人に時間を取ってもらっている事が申し訳なく感じていた。
2階に上がれるチャンスは今しかない。
覚悟はできた。
男を魅せてやる。澪、見ていてくれよ?
「大丈夫ですか?」
「ごめん、手を握ってもらってもいいか?」
「はい」
『いきなりカッコ悪いよ蒼お兄ちゃん!!』
両手で結の手を握る。すべすべだ。
そして階段の前に立ち、俯く。
よく見ろ、これはただの階段だ。
そして、結が一段踏み出した。
――その途端、俺の手が固まり、体が震えだした。
足は全く動かない。
顔を上げた。
もう2階には何もないはずなのに、俺には結が死んでしまう気がした。
「い、行くな!!」
結は足を止め、こちらを見た。
俺は今、きっと酷い顔をしているだろう。
そして結が階段を降りた瞬間、両足の力が抜けてその場にへたり込んだ。体からは汗が噴き出て、震えも止まらない。
『ねぇ蒼お兄ちゃん、何がそんなに怖いの?』
俺も知りたいよ。何なんだよこれ。
澪は不思議そうな表情で、階段の上から俺を見下ろしていた。そこは俺が辿り着く事の出来ない、見えない壁の向こう側だ。
そしてそれを遮るかのように結が目の前に現れて、俺を優しく抱きしめた。
「大丈夫ですよ、私はどこにも行きません」
「……悪い、やっぱり無理だった」
「大丈夫です」
次第に体の震えが、少しずつ収まる。こうして抱きしめられて気付いたが、結の匂いは落ち着く。シャンプーか体臭かは分からないが、良い匂いだ。
結の抱きしめる力が、少し強くなったのを感じる。いつの間にか握っていた手は離れていて、体を結に預けている事に気が付いた。こんなに華奢な人に、俺は支えてもらっていたのか。
「俺は一体、何をしているんだろうな」
「前に進もうとしているんですよ」
「そのつもりだった。だけど、見えない壁があるらしい」
俺はずっと過去に囚われたままなのだ。
「……蒼くん、全てをなかった事に出来ないんですか?」
「それは出来――――いや、それもありか?」
結のその一言で、天啓が舞い降りた。
2階は最初から存在しないという事にして、閉じてしまおう。俺は1階だけで十分生活が出来るのだ。そしてこの幻覚と精神のせいで結婚できるとも思えない。別に2階が無くてもいいのだ。
そうこう思案している間に体に血が通った。
体を起こして座りなおす。
急にむくりと体を起き上がったせいか、逆に結が俺を抱きしめている形となった。結は不思議そうに俺を見つめている。
顔が近い。お互いの目が合う。
「大丈夫……なんですか?」
「結、2階を封鎖しようと思う」
「え?」
「1階だけで生活できる事に気が付いた」
「……」
「いや、別に逃げる訳じゃないんだ。行く必要が無いんだよ。そりゃいずれ1階が狭くなる時が来るかもしれないけど、相当先の話だろうし。そもそも下ろしてくる物はあるとしても急ぎではない」
結はじーっと俺の目を見ている。
その顔が可愛くて、顔が熱くなってきた。
「ふふ」
そして、微笑んだ。
「らしくていいなぁ」
「いや、信じてるか?」
「信じてますよ。さ、段ボールでぱぱっと壁でも作ってしまいましょうか」
「……ありがとう、結」
そう告げて、結をぎゅっと抱きしめた。
それは、ほんの数秒。
不幸の神様、これぐらいは許してくれ。
手を離して立ち上がる。
結は頬は赤く染め上げて、口を開いたままぼーっと俺を見つめていた。
その後、我が家の階段は張り合わされた段ボールによって封鎖された。その作業はまるで子供の秘密基地作りみたいだった。あれだけ考えるのも苦痛だった2階が、結との共同作業によって遊びに変わったのだ。
「何ですかこれは?」
「間違えて2階に上がらないように罠を付けてみた。ワイヤートラップになっててカラカラと音が鳴る」
「ふふ、良いですね。引っかかるのは蒼くんですか?」
「そうなるだろう。間抜けな未来の俺め」
続けて1階のリビングのサッシュにも段ボールを張り付けた。これで多少冬は楽になるだろう。もっと早い段階でやっとけばよかったな。
「蒼くん、冬の間はどうするつもりだったんですか?」
「重ね着だよ。モッコモコで生活する」
「……ふふ。すみません、想像したらちょっと笑ってしまいました」
「そのうちお見せしよう」
「はい、ぜひ」
そうして結と休み休み片づけを進め、気が付けば夕方になっていた。トラウマの掃除が楽しい時間と言うのは変な話だが、結と話しながらの作業は随分と気が楽だった。誰とするかの違いだけで、こんなにも気持ちが変わるとは。
「――それで結局、私も参加する事になりまして。生徒会への入会はお断りをしているのですが、期待をされているみたいで。暫くはバタバタとしそうです」
「副委員長に図書委員、それに生徒会の手伝いか。先生に頼まれたとはいえ、結は少し仕事を抱えすぎじゃないか?」
「いえ、大丈夫ですよ。むしろ蒼くんこそ負担をかけすぎです。今夜は公園で寝るつもりだったんじゃないですか?」
……すげぇ、見抜かれてる。
「何で分かった?」
「辛そうだったので。でも、今日は止めません」
「ありがたい、結は女神だったか」
「ふふ、でも普段は駄目ですよ。今日だけです」
そう言って帰り支度をする結に、2駅隣のケーキ屋で買った極甘シュークリームを押し付けた。
「今は物だけど、そのうちにちゃんと誠意で返したい。何か困ったことがあったらすぐに言ってくれ」
「そんな、十分ですよ。私も蒼くんと一緒にいれて楽しかったです。それでは、また明日」
「おう、ありがとう。また明日」
結はいつもの笑顔を俺に向けた。
髪の毛が夕焼け色に染まり、美しい。
そしてぺこりとお辞儀をし、ばいばいと手を振って帰って行った。
『蒼ちゃん、結は本当にいい子ね』
「そうだな。もうじき俺は巨大な不幸にでも襲われるんだろうか」
『今までの足取りを考えると、そういう結論に至るわよねぇ。普通じゃないわよ』
「いくらなんでも恵まれすぎだ。適度に不幸に見舞われないと逆に落ち着かない」
『うふふ、そうやってMに目覚めるのね!』
志乃さんが体をくねらせながらからかう。
幸せすぎて怖いとは妙な感覚だ。けど不幸の神様、もし何かやるつもりなら、どうか結が絡まないようにしてください。
そしてその夜こっそりと公園に出向き、段ボールを敷いて眠った。
そこで、唐揚げに囲まれる幸せな夢を見た。




