姿見の池
年が明けて数日過ぎた晩、ばさまが話をしてくれた。
「むかぁし、むかし。双神山の山奥には姿見の池っちゅう、それはそれは綺麗な池があったそうな。……おしまい」
ばさまはそこで身体を起こし、灯りを消そうとした。すかさずぼくは抗議する。
「ちゃんと聞かせてよ!」
「はいはい。じゃあ、いくで」
ぼくの言葉を待っていたかのように、ばさまは顔をくしゃくしゃにして笑った。ばさまはよくこういう意地悪をするけど、やさしい。お父さんとお母さんの顔も知らないぼくを、ずっと、ひとりで育ててくれている。
「昔な――」
ばさまは静かに語りはじめた。
昔な、双神山の山奥の深いところに、たいそうきれいな池があったそうや。て言うても、村でその池を見た者は一人もおらん。ただ、そう言い伝えられてるだけやった。
なんで誰も見とらんのに、そないなことが分かるかって? はいはい。今言うから、そんな噛みつかんといてな。
実はな。出るんやな、これが。
その池を覗くと、それはそれは恐ろしいもんが見えるそうや。ほんで、それを見た人間はあまりの恐ろしさに狂ってしまう。
ある時このことを知らん商人が、池を覗いてしもうた。急ぎの用で山を越える時に、綺麗な池があったもんやから、水を飲みたくなったんやろうな。
ばさまは口を閉じた。話の上手いばさまに乗せられて、ぼくは催促の言葉を呟いてしまう。
「それで……どうなったの? その商人は……」
「ここがイカれよった」
ばさまはそう言うと、ぼくの頭を指でトントン、叩いた。
そんな風に、恐ろしいもんの「姿」が映るから、姿見の池と呼ばれるようになったんや。だから誰も、そんな恐ろしい池は覗くどころか、近付きもせんかった。
ところが村に、とんでもない馬鹿もんがおった。十造っちゅう、力だけがやたら強くて、頭がいっこも働かん大馬鹿者や。考えるっちゅうことを知らん奴で、とりあえず動いてしまうような男やった。
十造は、あろうことか、一人で姿見の池を見に行くと言いだしよった。
周りのもんはみんな止めた。みんなや。親、隣近所の人。村のもんがみな、十造をいさめた。やけど、あいつは聞かんかった。いつもは仲のいい妻が止めても、聞く耳を持たんかった。なんせ、自分の腕の力を頼りに生きてきた男や。ついにある晩、ようようと山へ出かけてしもうた。
その夜は満月やった。黄色く光る円が、真上に輝いとる。それから、地上にも。
十造が見た時、池には見事に月が映っとった。水面は波一つ立っとらん。まるで鏡や。
これが、姿見の池か――。十造はそう呟くと、徐々に池に近付いて行った。近付くほどに、辺りの静けさが強調されていくようやった。
十造は池のふちに立って、ついに水面を覗きこんだ。さすがの十造も、この時ばかりは緊張した。やけど、池の中では、強張ったおのれの顔がこっちを見返しとるだけや。何のことはあらへん、やっぱりただの噂話だったんやと、馬鹿らしくなってきた。
この話を、心配性の妻への土産としてやろう――そう思って、十造は笑った。その刹那、自分の目を疑った。
池の中の十造は、笑わんかった。強張った顔のままやった。
おかしい。目をこすって、ゆっくり顔を水面に寄せた。
するとどうや。今度は、池の中の十造が笑ったやないか。十造自身は笑ってなんかない。奇怪な――十造は顔をしかめた。はずやった。自分の意思に反して、十造は笑ってしまっていたんや。
池の中の十造が怒ったような顔をする。すると、十造も眉を吊り上げた。
池の中の十造が泣きそうな顔をする。十造は、とても情けない表情になった。
俺は操られている――この池の魔物に! 十造は必死に、顔を池から背けようとした。だが、体は言うことを聞かん。それどころか、顔はどんどん池に近付いていく。すでに肘のところまで水に浸かっとった。このままだと溺れる!
十造は力には自信があった。額に汗を浮かべながら、奥歯をぎりと噛みしめて、腕を突っ張り、最後の力を振り絞って池から顔を離そうとした。
だが池の中の十造、いや、十造の姿をした化け物は、口を歪めて笑っただけやった。十造は、池の中に引きずり込まれてしもうた。はたから見れば、自分で入水したようにしか見えんかったかもしれん。
最後に十造が見たんは、笑った自分の顔やない。赤子を抱く妻の笑顔やった。
……村人は、お天道様が高く昇っても帰ってこん十造が心配になった。村の男どもは十造を探しに山に入った。
十造は、亡骸になって帰って来た。
確かに池はあった。しかし十造は、池から少し離れた所に、ずぶ濡れで倒れとったという。やから、村人は池を覗かんで済んだそうや。
夫の変わり果てた姿を見た妻は、泣いても泣ききれんほど泣いたが、もうどうしようもなかった。後を追うように、流行り病で死んでもうた。
おしまい。
「あとな、その十造やけど。死に顔は安らかやった。笑っとったらしい」
「……」
「考えてみたら、『姿見』っちゅう名前もおかしいやろ? おまえのおっかあの形見で、見たことはあるな。全身を映す鏡や。
池を覗くだけやと、顔だけで身体全部までは映らん。あの名前は最初から、池に身体ごと沈められるっちゅう意味があるんよ」
やっと怖い話が終わったと思ったら、まだ付け足すなんて。ばさまはひどい。やっと一人でかわやに行けるようになったのに。
ばさまは灯りを消した。
布団の中でウトウトしながら、ぼくは。おかしいなと感じた。
「ねえ、ばさま。起きてる?」
「……なんや」
「どうしてばさまは、十造の見たことを詳しく知っているの?」
まるで、見てきたように。だって十造は、ひとりで死んでしまったはずなのに。
ばさまは、あっさり答えた。
「十造が枕元に立ったんや。さっきのはそん時に聞いた話」
「ど、どうして」
だって姿見の池なんて、ただの言い伝えじゃ。十造は昔の人で、ばさまにはなんの関係も。どうしてばさまの枕元なんかに。
ぼくは気付いた。すっかり思い違いをしていたことにも、それから、年が変わって、ばさまがぼくにこの話をした意味も。だけど、頭の中では考えをまとめようと焦っているはずなのに、だんだんと意識は薄れていった。
あたたかいお湯の中に引きずり込まれるような幸せなひと時のなかで、ぼくはばさまの声を感じた。
「もう言うてもいい年やろ。わしの息子やから、枕元に立ったんやろなあ」
会った覚えもない父の名前を、僕はいつの間にか言えるようになっていた。
それがあの新年の夜以降のことなのか、いまだに僕は確信を持てないでいる。
お読みいただき、ありがとうございました。