表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

第2羽

次からは完全にゆっくり更新です。

前回とは打って変わって、主人公の住む山の外の様子です。

 それはそれは美しい城だった。真珠のように艶やかな白壁に、空に映える青の屋根。大きな門は精緻な彫刻が施され、ゆっくりと開かれるそこを越えるとおとぎの国へ迷い込んだような気分さえ味わえるだろう。馬車でメインストリートを行けば、左右の薔薇園や噴水も見事で、香りに引き寄せられるかのようにやってきた小鳥がさえずるのだ。

 城の門番たちは背筋を伸ばして一礼しながらも来客をにこやかに出迎え、一歩城内へ踏み入れば磨かれた大理石の床に自分の顔が写り込む。天井を仰げばキラキラと光る濁りのない水晶をふんだんに使用した、金色のシャンデリア。豪華絢爛なのに嫌味のないことは、色味がまとまっているから。それなのに豪華で美しく見えるのは、一級品を一流の職人たちが時間を使い丹精込めて作り上げたものばかりだから。

 白のつやめきは清廉さの約束、金の輝きは国の行く末、アクセントに光る青は思慮深さを象徴し、それこそがこの国の誇りである。


 ……それは、百年以上も前の話だ。

 今や王都を訪れる者を魅了する白壁は薄汚れ、磨かれることのない金はくすみ、放置されている屋根の青は褪せ、彫刻は風化して崩れ始め、かつての威容を感じさせるものはない。城が薄汚れていくごとに、悪徳官僚が汚職を働ける余地すらほとんどないほどに国は落ちぶれていった。


「このままでは、我らが命運は遠からず尽きるのだ!」


 ダン!と、かつて美しかった城の一室にて、こぶしを叩きつける音がこだました。衝撃を一身に受けることになった木製の机は、元は見事なものだったと伺えるが、あちこち傷が付き傷んだ装飾が完全に品位を損なっており、軋んだ音を立てる。城、すなわち権力者のおわす場に相応しい品ではなくなっていた。

 こぶしを叩きつけた男性はこの国の有力貴族だが、身なりは申し訳程度の装飾を施した着古したと思しきジャケットに身を包み、頬も痩せこけとても裕福には見えない。だが憤りに燃える目はギラギラとしており、大声を上げられるだけ元気だ。国民の大部分はその日食べる物も困り、声さえ出ないのだから。おかげで盗みを働く気力もないのは救い……とは言えないが、懸案事項が減る一点のみはありがたい。いずれにしても、盗める物もロクにないのが現状では、元気があっても盗めないだろうが。


「……そうわめかずとも、この場にいる誰もがわかっていることだ。静まりたまえよ、ノイマン伯爵。君だけならばよいが、ここには君以外にもいるのだ。憂鬱になるような言葉は慎むように」

「も、申し訳ない……つい」


 ノイマンと呼ばれた初老の男性をなだめたのは、陰鬱な顔の老人貴族だった。彼は目の下に濃い隈を作り、この国の者としては上等な衣服に身を包んでいなければゾンビに間違われても不思議ではない。ろくな食事もなく、年齢的にも体の衰えがあり、こうして会議に出るのも辛いはずだ。

 とはいえ彼には宰相としてのプライドと責務があった。名をコーエン、爵位は侯爵に当たる。国の興りから連綿と続く名家出身にして、満場一致で国王からの信頼が最も厚い貴族であると言われる男だ。

 宰相はどうにかしてこの国の未来を取り戻したいと、今もあの手この手を尽くしている。だが気づいた頃にはすでに働ける人間が少なく、謎の大地の衰退が影響して作物はほとんど育たなくなり、鉱脈から豊富な鉱石の産出もなくなったこの国でできることなど、ほとんどなかったと言っていい。それでも他国で作物の実りを多くする方法があると聞けば誰より熱心に学び、川から水を引かなくても簡単に井戸を掘る方法があると聞けば試し、地道な努力のおかげで今も何とか国民の全滅は免れているのが現状だ。もっとも、状況を劇的に改善するわけではなく緩やかに悪化の一途を辿っていることもあり、国民からは無能だと思われている不遇の貴族でもある。

 善良だがそのような経緯もあり鬱憤が溜まっている宰相は、陰鬱な表情をむっと不機嫌そうに歪めた。


「つい、ではないぞ。貴殿の武人としての優秀さは誰もが認めるところだが、思うように振舞うばかりで少々配慮が足らぬ。そろそろ年なのだから、落ち着きを持たなくては……」

「まあまあ、コーエンよ。あまり言ってやるな。ノイマンのそういうところに助けられることもあるのだから」


 くどくどと続きそうな小言を遮ったのは、誰あろうこの国の王である。宰相で侯爵でもあるコーエンの言葉を途中で遮れる者は多くないので、何も知らない者でも少し考えればわかることだろう。

 もっとも国王の地位にあるようには見えない、他の貴族よりはやや装飾が多いだけのくたびれかけた衣装を見れば、冗談のように見える。覇気も感じさせず痩せ型で、そこら辺の小男がお貴族様が捨てた服を拾って身につけた、と思うかもしれない。

 だが国王のやわらかい笑みに陰はない。心労は募る一方だが、せめて家臣や国民の前では不安な顔を見せたくはなかった。宰相と同じく、どれほど無能だと国民から理不尽に嘆かれても、だ。


 それほどまでに衰退した国は、本来であれば国の体を成していないだろう。だがこの国における貴族という身分のうまみのなさのおかげで、国政から撤退し国外へ亡命する貴族が後を立たなかった。おかげで深刻な人手不足にはなったが、それでも残るのは必然的に責任感のある貴族ばかり。たとえ金も伝もなく国を出たくても出られなかった貴族たちでも、貧窮しているからこそ真剣に仕事をする。

 また、このような国の国土を欲する他国もいない。国土が広がっても問題が増えるだけなのだから、当然だろう。足を引っ張るようなことをする悪徳貴族が一掃され、意図せず外憂までもがなくなったことで、ぎりぎりの運営ができているのが現状だ。

 もっともぎりぎりの運営とは政府がかろうじてまとまっているということを示し、国民を飢えさせないことにはつながらない。人口が他国へ流出していて最盛期の半分以下でも、最低限食べるだけの食料も用意できず、今いるのは“逃げ遅れた”者たちだ。いまさら他国へ渡る体力もなく、どんなに策を講じても畑の手入れも満足に行えるはずもない。貴族でさえ空腹とは無縁でないこの国では。


「それで、先ほどの報告についてだが……」

「え、ええ。その件ですが、踏み込むには装備が足りていなかったため、遠目に見ただけなのです。あの山――ヴァース山が緑に覆われているのは……」


 王に促されたことで、ノイマンが話し始めた。再びくどくどと説教をされてはたまらないので、意識して落ち着いた口調を心がけて。

 畑の実りもほとんどないこの国は、どこもかしこも土と石ばかりで痩せており、せいぜい群生できるのは雑草くらいなものでそれすら散発的なもの。山を覆うほどの緑ともなると、衰退して久しく見た者はいない。ノイマンが生まれた頃はまだ今よりはマシだったが、最近生まれた子供たちは大地が緑に覆われているところなど想像したこともないだろう。


「あの山にはもしかしたら食べられる実や草が多くあるかもしれません。種などが手に入れば、畑に蒔くこともできましょう。多少無理をしてでも調査の足を伸ばす価値はあります」


 ノイマンは将軍だ。軍として戦場を駆けることは久しくない軍だが、隊列を組んで行軍する訓練は今も一応続いている。そのため数少ない学者を伴って国の各地へ赴き地質調査をして農耕に向く土地を探したり、栽培可能な作物を探したりという重要な仕事を任されている。

 そして先日。定期調査で急峻な山脈の連なる北部方面へ向けて出発した一行は、驚くべきものを見た。遥か遠くそびえる山が、緑に覆われているのを。

 初めはみな遠くに見える緑を幻と思い、しかし念のため予定ルートを外れて近づいてみると、それはたしかに草木であった。それを理解した瞬間誰もが呆然としたし、中には初めて見る光景に涙する者もいた。口伝でしか聞いたこともない御伽噺の世界が現実になり、彼らはそこに希望を見た。しかし現実は甘くない。


「今回の調査に同行した者たちの士気は高く、すぐにでも動かせる状態です。緘口令も布いておりますが、あのような感動的な景色を見てしまった者たちの口を完全に塞ぐことはできないでしょう。国民に噂が広がり混乱する前に何らかの情報と、できることならば食料を得る手段を持ち帰らなくてはなりません!」

「だがそれは危険だ。あの山は高いだけではなく、記録によれば難所も多いと聞く。それに、ヴァース山にたどり着くまでに越えなくてはならない山もいくつある?それらも決して侮れんのだぞ?」

「ではこのまま国が飢えて滅亡していくのを黙って見ていると言うのか?!手をこまねいていれば命運が尽きるのであれば、一か八かでも行くしかあるまい!!」


 そう。これこそが先ほどノイマンが激昂した理由だった。

 当然だが、国には金もほぼない。ただ立地上、この国を通り抜ければ今世界で最も栄える国とされる隣国と唯一陸で接している国である。今でこそ衰退しているが、この国は広大でいてかつては世界一の強国だったのだ。だが強国としてのプライドを捨て、現在他国からの通行税を取り、それで得た金をやりくりしている状態だ。当初は反発もあったようだが、生産性のない土地の管理代だと現在は割り切られている。

 できればここで高額な税を取りたいところだが、背後の強国は自国へ訪れるうまみを消さないためにあまりに高額な税ともなれば圧力をかけてくるだろう。立派な内政干渉だが、善良な貴族たちからしてみれば『村の一つ二つ焼き払ってもいいのだぞ』と言われればどうしようもない。予算のほとんどを災害対策や食料対策にあてざるをえないため、軍の装備は貧弱なのだ。そしてもちろん、大して食べていないので精強とは言いがたい。

 ちなみに『滅ぼして支配するぞ』と言わないだけ、どれだけ国土に組み入れたくないと思われているのかがわかる。いっそ支配してくれた方が民草は助かるのだがな、という言葉は胸の内にしまっておかねばなるまい。


「しかしそのために兵たちが命を落としては……」

「そうだぞ。それこそ、もしも民の耳に調査に赴いた兵が死んだと届けば、生き延びる気力も残るまい」

「では尋ねるが、命を惜しみいまさら止れると思うてか?緑に覆われた山を目にしたのだぞ?かく言う俺も、止まれる気がせん!」


 体が衰えても衰えぬノイマンの覇気に、反対していた者たちが思わず口をつぐんだ。今となっては年配者の記憶の中だけにあると思っていた一面の緑。それがあるのだと聞かされて、興奮しない者などこの場にはいない。ノイマンでなくとも是が非にでも調査したいと思うだろうし、むしろ装備が整っていないからと思いとどまれたことを褒めるべきだ。直情径行とはいえ、反面現実的な部分を備えているノイマンでなければ、そのまま山へ突き進もうとしていたかもしれない。

 国の衰退はあまりに著しい。各方面問題は山積みだが、最たる問題である食糧事情を改善できる可能性を目の前にチラつかされて、止まる方が無理だった。報告を聞かされた時点で、口では反対している者たちですら同一の夢を見てしまったのだから。

 結局、全員一致で調査団を出す方向で話がまとまった。


「異論がないのであれば、ノイマンには調査の準備にさっそく取り掛かってもらおう。ただし、この調査にはラディスラウスも同行させることにする」


 国王の決定の言葉と共に、一同に衝撃が走る。それは名を呼ばれたラディスラウスも同じであった。

 この国お置いて、この場に出席できるほどの立場にあるラディスラウスとはたった一人。それは、この国の王太子であり、国王にとって唯一の子供である。ラディスラウスは驚きか、はたまた緊張か興奮か、目を見張って口を開きかけては止めるということを繰り返しながら父を見つめた。


「お待ちください陛下。此度の調査は多大な危険を孕んでおります。王子の同行など、万が一があれば跡継ぎはどうするのです?」


 押さえた口調ながら、強く思いとどまるように求めたのはやはり宰相であるコーエンだった。しかし国王はその懸念を一蹴する。


「跡継ぎ、か。それがいて、いや、仮にいなくなったとして、この国に何がある?」

「陛下亡き後、まとめる者がいなくなるではありませんか」


 民に影響があるか……と問われれば、国に対する期待値がマイナスに突き抜けているせいで最早首を傾げるレベルだが、少なくともこの議会は混乱する。議会が混乱するということは、今は何とかつないでいる国としての命運が尽きると言うことに他ならない。

 王子は決して無能ではないし、むしろ若いが優秀だ。国が、王が、王子が、議会が、貴族が、どれだけ国民に期待されていなかろうと、それでも国を運営するのにこの先必要不可欠となる存在なのは疑いようもなく、それをともすれば死の危険が伴う調査に同行させるなど正気の沙汰ではない。

 しかし国王の考えはそうではないらしい。


「ラディスラウスがこのまま王位についたとして、何になる?国の危機は去るのか?」

「それは……」

「答えられぬだろう。当然だ。そしてラディスラウスは必ず成功しないと知りながら王位を継ぐことを選ぶだろう。我が子ながら王族の責任感に人一倍篤い子だ。私としても、鼻が高い。だがそれは、この国の行く末に何か関係があるか?優秀であれ不出来であれ、このままでは結果は変わらぬ。

 しかし今、この国を再興するための切り札になりえるかもしれない事態が起きておる。いずれ結果が変わらぬのなら、私は我が子をあの山にも登らせよう。実りある調査となれば、見る目は変わるぞ(・・・・・・・・)


 その一言に、はっと誰もが息を呑む。見る目とは誰の?――民草の目だ。

 復興の足がかりを作った王ともなれば、今後ラディスラウスの治世は安泰……とまでは言えないだろうが、期待が高い分国民のやる気も高まる。やる気が高まれば、復興も進みやすい。上手く運べれば、後の世では賢君としてその名を受け継がれるだろう。

 現状一か八かではあるが、一も元々なかった希望だ。王は親としても、息子にこれ以上苦難の道を進んでほしくはないのだ。誰よりも玉座が針のむしろでできていることを知っているからこそ……。


「お、お待ちください父上。私は賛同しかねます。それはノイマンの手柄を掠め取ることになるではありませんか!なにも私の手柄とせずとも十分でしょう」


 しかし、議会の熱のこもった視線を一心に受けながらも狡いやり方に唯々諾々として従えるほど、最早滅亡しかけた国でも王子としての矜持は捨てていない。ひたすら民のためにと一生懸命にできることを続けてきた王子はまだ二十歳に届かず、国の性質上汚職などを見てこなかったこともあり、清廉なのだ。頭では泥を被ることも汚い手を使うことも王族として必要だと知っているが、それが今この時であるとはどうしても思えないらしい。

 真っ直ぐな息子を好ましく思いながらも、王はならぬと首を横に振った。それは子のためでもある。ただ王として民から認められるという意味だけではなく、国の頂点に立つ前にこうして清いとは言えないやり方に触れさせ、学ばせるためにも必要なのだ。

 それに、父親という立場を抜きにしても、やはりノイマンよりもラディスラウスが適任だ。貴族への敬いなどないに等しい国でも、王族が何かしらの手柄を上げたとなれば喜ばしいことだと歓迎される。だが他の貴族であれば王族を廃する動きにつながりかねず、国がまとまれなくなる恐れも出てくる。

 象徴としてもラディスラウスは見目がよく、世が世なら国中の娘たちが虜になるだろう容姿を持つ。むさくるしくなく、かといって軟弱でもなく、貧しい中でも凛々しく美しかった亡き女王にそっくりだ。何よりノイマンに比べ、ラディスラウスには未来がある。年若い王が絶望した国民に希望を示す――これほど胸の熱くなることはない。だから渦中のノイマンも、王の提案に全面的に賛成だった。


「王子、私の手柄など、国の行く末を案じるならば瑣末なことです。気にする必要などありませんぞ」

「だがそれではノイマンが……」


 父に事細かに説得され、本来功績を得るべきノイマンに諭されても、ラディスラウスは納得しきれず唇を噛んだ。その思いやる気持ちこそが尊いものだと、王のやり方に一定の納得をしてしまう貴族たちの目には眩しい。


「ヴァース山へ向かうのであれば、どれほど用心しようと王子とて兵たち同様危険と隣り合わせには違いありません。命を落とすことさえありえる――これは賭けでもあります。それほどの危険に自らの身をさらしながら、私の手柄を横取りするなどと気に病まれることはありませんぞ。もちろん、王子にも我々と同じ待遇で歩き詰めてもらいますしな」

「…………」


 ラディスラウスは口を真一文字に結び、瞑目した。紺に近い青い目は到底納得しているようには見えないが、一時的に隠されたことで誰の目にも王子が考えていることがわからなくなる。それは落ち着いて頭を切り替える時に見せる彼の癖だ。


「――――わかりました」


 やがて光の角度で青にも見える黒髪を揺らし、王子は迷いなく首肯した。

 気持ちが王の言うことを拒否していても、利点が認められないほど頑なではない。ならば何をしても無意味な今、自分に期待された役割りをこなすのも一つの手段足りえると、王子はこの短期間で消化して見せた。国の状況がこの有様である以上、次代の王など極論、誰でもよい。自分でなくても。この状況なら、遠縁だとか適当にでっちあげて優秀な者を玉座に座らせたって、国が続くなら問題にならないレベルの些細な問題だ。だから危険な目に合うかもしれないことも、織り込んでの納得であった。

 やるからには最上の結果を持ち帰る決意すら済ませて、ラディスラウスは王へ頭を垂れた。


「その命、謹んでお受けいたします」

「うむ、期待しているぞ。ラディスラウス」


 その期待は王一人のものではない。国全体、国民一人ひとりを背負うに等しい期待だ。その重さに押しつぶされる様子もなく、ラディスラウスはもう一度うなづいた。




   ********************




 元々定期調査を終えたばかりであったため、軍の準備はすぐに整った。つい先日使っていたものに、王子の装備品と消費した食料を継ぎ足す程度なのだから。本来であれば王子が混じるに相応しい馬車だとか連れて行く使用人の選別だとか雑多なことがあるはずだが、この国は王族と言えど極力無駄を廃し自分のことは一通り自分でする。背負う荷物の量もさほど変わらない。


 そしてラディスラウスが兵士たちよりも多少マシな多少の装飾のある剣を掲げ、出発の合図をしたのは一ヶ月前のこと。険しい山登りになるため馬は使えず、全員徒歩で歩き詰めたが、遠目に緑に覆われた山が少しずつ近づいている実感に否応にも行軍の士気は増し、ラディスラウスの仕事など最初の号令のみであった。

 だがすぐ近くに見える山も、それは周辺の山々に比べてずば抜けて大きいからだ。実際にはそう簡単にたどり着けるほど近くはなく、本命に到る前にそびえ立つ禿山ですら決して越えやすいわけではない。道らしいものがなく生い茂る草木を切り払いながら進む……というような手間をかける必要がなく、空を枝葉に遮られないため危険箇所を目視ですぐに確認できるのはありがたいが。

 いや、そもそもこの禿山が緑に溢れる山であれば問題はいくらか片付きやすいのだが、それを言ってはやる気が殺がれる。


「しかし……思った以上に遠いのだな……」


 昔の情報を頼りにかつて道であったところを手探りで進んでいるが、かろうじてそれらしいものだったことがわかっても足元は細かい石が転がり放題で状態が悪い。道の跡もところどころ狭く、隊列が長く伸びてしまったりもする。

 滅多に生き物がいないので大型の動物に出会うことはなく、それはそのまま生態系の貧弱さを意味しており、目に見えるところに豊かな緑がなくてはこの先を目指そうとは思わないだろう。まだ山越えが半分もすんでいないのに予定の日数よりも多くかかり始めており、場合によってはまた途中で引き返すことになりかねない。士気が高くても食べ物がなければ軍を保てないのだから。


「あなどっていたわけではありませぬが、少々甘かったかもしれません」

「小さいが、街の周辺に比べて生き物は多く見かける。食せる程度の大きさの獣でもいれば、狩れるのだが」

「あまり期待しすぎない方がよろしいでしょう。とはいえ、私から言わせてもらえば、この山もすでに劇的な変化が始まっているように思われますね!」


 興奮気味にそう言ったのは、四十代前半くらいに見える男である。彼は自然学者で、名をジェームズという。勉強など手間と金がかかるので、当然貴族に連なる身分を持っており、一般市民に比べたらいくらか健康的な体つきだ。とはいえ兵士のように鍛えていないので、彼だけは小型の馬に跨って移動している。それも道の状態によってはどこかに放して歩く必要があるだろうが。

 歩いていない分体力が残っている……というわけではなく、発見に対して興奮気味でやかましいジェームズに、ノイマンは自分の声の大きさを棚に上げて軽く眉をひそめながらも話の続きを促した。


「変化が始まっているとは、どういうことだ?」

「地面ですよ」

「地面?」

「はい、地面です。どういうわけか国の衰退と共に大地はどんどん乾き、硬くなっていきました。あるいは逆なのか……いや、その辺は今はいいでしょう。とにかく、現在国土全域の土は、柔らかく耕そうにも鍬がろくに通らないことも珍しくありません。そのわりに保水力がなく、水をまいてもすぐに浸透して元通りに乾いてしまう。しかしこの辺りの土は、少し表面を掘るとやや湿った土が顔を出すのです」

「いつの間にそんなことを……」

「昼間の休憩中に少々」


 そう言う彼は、白衣の内側から小さなスコップを取り出して得意気に笑った。スコップ以外にも何かの道具がちらちらと見えるので、身軽そうな白衣姿だが案外重量があるかもしれない。

 まあ、それはこの先必要になるだろうからいい。それよりも休憩を何だと思っているのか。馬に跨っていても体力は相応に消費するというのに、小さいが嬉しい発見を喜ぶよりも、呆れが勝ってしまう。


「頼むから、現地調査まできっちり体力を残しておいてくれよ」

「ご安心を。仮に体力が尽きていても、緑を前にすればたちどころに回復してご覧に入れます!」


 大丈夫なのだろうかとラディスラウスはノイマンに目配せしたが、老将軍は気まずそうに視線を泳がせた。何度も調査に同行しているジェームズを疑っているわけではないのだが、興奮が過ぎて心配だ。このような様子は初めて見るし、対処できるか自信がないのだろう。


「こほん。……それで、もう一度確認するが、やはり食料をこの先現地調達しようとなると厳しいのだな?」

「そうですね、大型の動物がいるとは言い切れませんし、あの緑が全て毒草である可能性だってあります。なんせ、土地が枯れ始めたのはヴァース山が一番最初です。真っ先に枯れた土地から緑が生い茂る……なんて、普通じゃないですからね」

「――」


 冷静な指摘に、ラディスラウスもノイマンも押し黙った。興奮のままにヴァース山を目指して来たはいいが、そう考えると確かにあまりにも不可解なことだ。普段であればそこまで考えることができただろうが、自分たちを含め国の重鎮たちが思っているほど冷静ではなかったことを思い知らされる。

 もっとも、その可能性があっても一縷の望みをかけて目指すのだろう。毒草でも何でも、植物は植物だ。生き物が育ち、生きられる環境があるのなら、利用方法がないとは言い切れまい。


「ま、極端な話ですけどね。でもいつも通り大部分はあまり利用価値がないかもしれない、と思っておいた方が期待が外れた場合精神衛生上いいですから」

「……そうだ。それもそうだった」


 今は山に近づくごとに動植物が多くなっているが、これまで山から離れるほど動植物の生息が確認されていながら期待外れだったことはいくらでもあった。今回も期待はずれだったからと、特別に落胆することはない。そう思い直せば、今しがた受けたショックなどなかったも同然だ。

 とはいえ兵士たちにこのことを吹聴することはせず、案外一番落ち着いていたジェームズに感心しながらも『とりあえず行けるところまで行く』ということで話がまとまり、一行はさらに山脈の奥を目指して行軍する。

 だがそれまでは順調であったのだと、その三日後には思い知らされる。


 元々山道として使われていた道なき道が落石と思われる巨岩に塞がれ、一行は一度引き返して別の道を通ることになった。より行軍しやすい広い道をという選択だったのだが、このようなことは想定されていなかったわけではない。だがもう一方の道は思った以上に細く危険な状態だった。百年の間に崩れたようで、元々細いと示していた記録よりも明らかに道幅が狭く、すぐ横は深い谷になっている。


「こりゃあすごい。ちょっとバランスを崩したら真っ逆さま……行けるか?」


 ノイマンがちらりと兵士たちの様子を見ると、無理をしてでも行きたそうなのが六割、行きたいけれど躊躇しているのが二割、さらに別の道を模索してはどうかと言い始めているのが二割。概ね、進む方向で希望しているのがわかる。方法はどうあれ、進む意思は衰えていない。


「もしくはあちらの道へ戻り、落石を撤去するべきか」

「それをしているうちに食料も尽きましょうな」

「そうだな……もう一度出直すには、予算的にも厳しい。冬も時期に来る。どうにか進める方法を模索しよう」


 どうしてもダメなら一から出直すしかないが、すぐには無理だ。できるだけ今回の調査だけで最低限情報を持ち帰りたいというのが全員の意見である。それは時間的にも、そして金銭的にも、だ。

 安全な道を検討した結果、ここから他の道へ迂回するにはとんでもなく遠回りになるので、時間的ロスが大きすぎて目的地に到着するよりも早く消耗品が尽きることがわかった。結局、この一本橋のような不安定な道以外残されていないらしい。

 まだ昼間であるが渡り切る頃には日が沈んでしまうことが予想されるため、行軍再開は翌日早朝に決定され、早めに野営を張った。

 そして、夜が明ける。


「みなの者、決して大地に足を取られるなよ。そなたら一人ひとりが我が国の財産であることを忘れるな。行くぞ、出発!」

『応ッ!!!!』


 ラディスラウスの力強い号令に、兵たちも力強く応えた。ひとたび進むことが決定されれば、気弱に取り憑かれる者など一人もいない。誰もが重装備を背負いながら慎重な足取りで進み、全員が渡り切るころには昼を大きく過ぎていた。もう少し先へ進まなければ休憩をする場所もないが、それも織り込み済みであったため、愚痴を言う者もいなかった。というのも、幸か不幸か彼らは空腹に慣れているのである。

 ある意味国の境遇に助けられてからは、幸いにも大きな遅れはなく進むことができた。むしろ、遅れを取り戻す凄まじいペースでの行軍となっている。というのも、難所を越えて少し進んだ辺りから、劇的に大地の様子が変わったのだ。

 大きな岩や足を絡め取る砂利が減り、土は乾いているが色濃くこれまでよりも湿っていることが一目でわかる。ためしに軽く掘ってみると、固いがしっとりとしていた。大きな木はないが、まだらに、だが見える範囲にはいくつも植物が育っている。小鳥やねずみなど、小動物の姿も増えた。

 明らかにヴァース山に近づくほど植物が育ちやすい土壌に変わりつつある。それがますます士気を高め、人間たちの足に影響しているのだ。特にジェームズのはしゃぎようは狂ったようにおもちゃで遊ぶ子供のよう、とまで言われるほどであり、研究者の血を騒がせていた。


 そして長い長い山脈を越え、王都出発から二ヵ月後、とうとう彼らはかの山のふもとにたどり着く。

 ここまで来ると背の低い木や兎など狩って食べられる程度の大きさの生き物もかなり目立ち、十分なほどに食用の植物の種や苗のサンプルが手に入っているが、本命を調査せず帰る者がいるわけがない。この先に更なる恵みが待ち構えている可能性が、ここまででグッと高まっているのだから。


「ヴァース山攻略は明日からとする。それまでは各自、きちんと休息を取るように!」


 兵に指示を出すノイマンの声は明らかにそわそわしており、威厳らしいものはない。表情ばかりは何とか威厳を取り繕うが、部下たちのいない天幕に入ってしまえば緩む頬を押さえることはできず、にやにやとしながら過ごした。煮炊きの準備や軽い雑談をする部下たちの声の中には明らかに目立つ高笑い――十中八九ジェームズだ。本番前に休むこともできないらしい――が混じっているが、気にもならない。一人であれば確実に自分もその仲間であると自覚していた。

 その日の夕食はいくらか兎の肉の入った彼らにしてみればとんでもなく贅沢なものとなり、酒こそないがいつまでも眠る気配は訪れなかった。


「無理もないが、明日には決して響かせないように」


 ラディスラウスが苦笑交じりに注意したことで半分現実に戻った兵士たちは、しかし特段咎める雰囲気がなかったことで翌日に響かないギリギリの時間まで興奮気味に語り明かすことした。


 一方、注意した側のラディスラウスであるが、彼もまた興奮で寝付けるのは当分先であると自覚していた。

 彼はまだ十八だ。十八年間、生き生きと生える緑を見たことが一度たりともなく、王族でありながらみじん切りになったベーコンにジャガイモと豆だけの薄い塩味のスープで育ってきた。今夜の食材になった兎の肉など、成人祝いの二年前の誕生日に食べて以来のことである。しかし今夜の夕食は、その時以上に美味しかった。この先どれほど美味なる食事を口にしたとしても、今夜の感動を越えることはおそらくないだろう。

 その興奮を散らすために、ラディスラウスはそっと野営地を抜け出した。見かけるのは小動物ばかりとはいえ猛獣がいないとは言いきれないが、あまり遠くへ行かなければ大丈夫だろう。それに、背の低い植物ばかりなので、振り返れば木々の間に野営地が見えるのだ。


 十分ほど散策したところで、若い木に囲まれるようにしている小さな池を見つけた。向こう岸まで直線距離でほんの五メートル程度で、水溜りと言ってもいいかもしれない。

 野営のそばを小川が流れており、それを食事に使ったのだが、どうやらこの池から流れ出ているもののようだ。池に流れ込む小川はなく、潜流瀑によってまかなわれているらしい。潜流瀑と言っても、高さはほんの二メートル程度で水量も多くないのだが。

 試しに手を入れてみると、キンと冷えていた。両手で掬い上げると小さな水面に満月が写り込み、なんだか月を捕まえたような気分を味わえる。


「雪解け水なのだろうか……」


 ヴァース山は高く、上の方は雲に覆われて見えない。ここまで来る間に雲が晴れたことがないのでそこから上がどうなっているのかはわからないが、標高が高いということは気温が低く雪が降りやすいということ。雪が降り積もっていても不思議ではない。これまでずっと山と山の間を縫うように行軍しているが、脈々と続く山脈も山頂は似たようなものだろう。そのおかげか、山脈に到達してから水に困ることはほぼなかった。


「ありがたいことだ。しかし、なぜこのような山が真っ先に枯れたのだろう?」


 驚異的な回復を見せているからこそ、ラディスラウスは気になった。どうせ自分は『参加した』ことに意味がある身なので、今回の調査で大して役に立つわけでもない。採集は兵たちがしてくれるし、直接の指示はノイマンがするので、何かあった場合の演説くらいしか役割もなく、はっきり言ってしまえば暇だ。今は移動している途中だから動いているように見えるが、この山のいずこかに拠点を作ってしまえば本格的にすることもない。

 気を抜いてはいけないのはわかっているのだが、そのような理由があって、ラディスラウスの好奇心は過去の異変に向けられた。王族として必要な教育は受けているが、学者ではないラディスラウスが考えてたところでわかるはずもないのだが。

 ふわりと頬に風を感じて現実に返ったラディスラウスは、そこで思考を断ち切った。


「……さて、そろそろ戻らねば……っ?!」


 じっと考え込んでいる間に、両手からは完全に水が零れ落ちていた。せっかく月を捕まえていたのに取り逃がしてしまったようで、少し惜しい。

 そんな童話のようなことを思う自分に苦笑しながら顔を上げると、向こう岸に人がいた。ある程度武芸の心得もあるラディスラウスにも、まるで気配を感じなかった。

 いいや。それは人ではない。何者かは頭に細長い葉のような形の耳を生やしているが、それは人間ではないと思った直感した理由にはならなかった。月光に照らし出された何者かはラディスラウスが知る何よりも美しく、人ならざる美をその身に宿していたのである。


「ええと、今晩は?私の言葉、通じているかな」


 そして、フルートの奏でる調べような声は、その瞬間ラディスラウスを縛り付けてしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ