残された家族 (4)
私の親族の奥さんは、GHQにお願いに通っているのにも関わらず、公然と東京裁判を否定してしまったわけですが、それで不利な扱いになったかというと、
判断が難しい
のです。
なぜなら、懲役四年のところを、実質二年になったからです。
お願い
が叶ったことは、叶ったのですが、ほとんどの人が
減刑
になっているので、なんとも言えないです。
それに、他の人達が、どんな釈放運動を展開したのか、裏取引ですからね、知る由もないです。
他と比べられないのですよ。
A級戦犯なんかは、CIAの手先になって、釈放されたわけですが、それと比べてもねえ。
A級戦犯から、
アメリカの手先になって、
総理大臣になって、
安保法案を成立させて、
総理大臣を辞職した
人もいるわけですからね。
そこまでアメリカに貢献した人と比べてもねえ。
それに、GHQに通っていたのは知っていますが、
具体的にどんな釈放運動をしたしていたのか、
までは、わかりません。
ただ、金がかかったようです。病院も医者が逮捕されていなくなったにも関わらず、やり続けていたようですし。
金銭的に支援したのは、主に私の祖母です。
私は、この祖母の判断が間違っていたと思っています。
この時、すでに六十歳を越えていましたからね。この当時の六十歳ですからね。
もうボケていたのでは、
と思っております。
そう、祖母は全財産を失ったのです。
祖母は一人娘ですので、親の財産を、実質的には、独り占め出来たのです。
祖母は、ある私鉄の本社駅近く、という好立地に家を持っていました。
私の父はそこで育ちました。
お手伝いさんに育てられたそうです。
幼稚園には、お手伝いさんにおぶられて通ったそうです。
歩って行ったことはないと言っていました。
小学生になると、電車でいろいろなところに遊びに行ったのだとか。
その、父にとっては思い出の家だけが、私が生まれた時に残っていなかったのです。
残りの三軒の家はありました。祖父の持ち物だったからです。
その当時、父は高校の教師だったのですが、給料日になると、教室の隣の廊下で、祖母が待ち構えていたそうです。
そして、祖母が亡くなる時、行き先がなかったのです。
その時、私の父は、私の母の姉の嫁ぎ先に厄介になっていました。
日本人はニワトリ小屋に住んでいる
時代ですからね。住宅事情が最悪だったのですよ。
私の父は、血の繋がっていない人の家に居候しているのにも関わらず、祖母を引き取ったのです。
ありえない話でしょ。
老人の介護をしたことがある人なら、わかると思います。
老人介護施設はウンコ臭いんですよ。
老人がいる病室も同じです。
一歩中に踏み入れただけで、気持ち悪くなります。
そんなのを自分の家に入れるなんて!
私の父が祖母を引き入れた家の持ち主は、私の伯父です。
父と一緒に住んでいますが、ただの義理の兄弟です。祖母とも血が繋がっていないのです。
その伯父が、祖母を引き取る時に、父になんて言ったと思います?
「○○(父の名)さんは、親孝行で偉い」
と言ってくれたのだそうです。
私は今、母の介護をするようになって、この話を思い出すと、涙が止まりません。
伯父の偉大さが。
伯父は一代で財産を失ったため、はっきり言って、評価が低い人です。
伯父の家は、伯父が子供の頃の大正時代には、日収が一万円あったそうです。
三菱財閥クラスですが、当時の日本の主力産業を押さえていたのだから、そんなもんでしょう。
それが、伯父の長男が国立大学に合格した時には、入学金が払えないほどになっていたのです。
伯父の家が没落した理由、もう、おわかりですよね。
アメリカ無双しなかった
からです。
第二次世界大戦の日本の戦費は、今のお金で4400兆円とか言う人がいるのですが、それを主に負担させられたのは、地方の地主階級です。地方にいてGHQと上手くコンタクトが取れなかったのです。
具体的には農地解放です。
それに対して、財閥解体は、GHQに媚びへつらうのに成功したため、ほとんど痛手無しです。
私の親戚は、地方の地主階級のため、全員没落しています。
地方でノホホンとして、誰も東京に行こうとせず、アメリカ無双しなかったのです。
唯一、私の祖母だけが、情報を得てきました。
ある時、祖母が株を買い占めようとしたことがあったそうです。
その時、祖母は使えるお金がないので、祖父の財産で勝負しようとしていました。
でも、祖父に反対されて、せっかくの情報を活かすことが出来ませんでした。
あの時、株を買っていれば
と、父は言っていました。
せっかくGHQに通っているのに、
戦犯を釈放させただけ、
なんてもったいなさ過ぎますよね。
上手くやった人は、
総理大臣
にもなれたのだから。