名前
朝食を食べ終えた僕は、食後にと出された水を飲みながら恩の返し方を考える。
だけど、良い案が思い付かないまま水を飲み干してしまった。
机に空のコップを置くと、母親が新たな水を注いでくれる。
「ありがとう」
僕が礼を言うと、水を注いでくれた母親は微笑みを浮かべてからジョッキを机に置いて、椅子に座りなおした。
僕は無言でコップの水を見つめる。
女の子と彼女の母親も無言だ。
暫くそんな状態でいると、痺れを切らしたのか、女の子が口を開いた。
「あ、あのっ!貴方の名前…教えてくれませんか…?」
名前を言うか言うまいか、少し迷った。
けれど、僕に親切にしてくれた人達だし、偽名を使う必要もない。
「…僕は恵一。君達は?」
「私はエルサと言います」
僕の問いに母親がいち早く返答した。彼女は名乗り終えると共に視線を隣の女の子に向ける。
「ミミリィです」
視線を向けられた女の子も名乗った。
「珍しい名前ですね。獣国の方ですか?」
エルサが聞いてきた。
獣国は僕みたいな日本人っぽい名前が多いのかもしれない。
取り敢えず、首を横に振って否定する。
ちなみに、僕は獣国に行った事はある。だけど、通り掛かったぐらいで、獣国は良い国だった事だけ覚えてる。
誰も僕に近寄せず、関わろうともしてこなかった。
それが、僕にとってどれだけ過ごし易かったか…。
「勇者様と良く似た名前…」
ミミリィがボソリと蚊の鳴くような声で呟いた。
彼女が言っているのは、あの金髪の事だろう。
「うん、故郷は同じだからね」
僕がミミリィの声を聞き取った事に驚いたのか、またまた別の事に驚いたのか。
彼女達は驚愕に目を見開いて戸惑った。
「えっと…でしたら、貴方は勇者様なのですか…?」
確かに僕は勇者として召喚された。勇者の剣だって持っている。
けれど、勇者かと問われれば返答に困ってしまう。
僕がどう言う返答を返そうか迷っていると、エルサが少し慌てたように言った。
「ごめんなさい。おかしな事を聴きましたね。そ、そうだ。空気の入れ替えをしましょう!」
エルサは空気が少し重たくなった気がしたのか、窓を開け放とうと椅子から立ち上がって、固まった。
窓は一つしかないのだ。僕が寝かされていたベットのすぐ側にある窓だけだ。
それは既に開いている。
「み、水入れますっ!」
ミミリィが焦って水のジョッキを持って、僕の前の置かれてるコップに水を注ごうとしたが、手を止めた。
なぜなら、コップにはまだ水が入っていたから。
「ふふっ」
彼女達の慌てっぷりを見ていたら、自然と僕の口から笑みがこぼれた。
彼女達はキョトンとした表情を浮かべてる。
「僕は勇者みたいな尊い存在じゃないよ。ただの醜いバケモノさ」
僕は多少の自虐を含めて冗談気味に言った。
少し空気を和らげようと思ったんだ。
でも、彼女達の反応は過剰だった。
「ケイイチはバケモノなんかじゃないっ!」
ジョッキを机に叩きつけながらだけど、ミミリィが否定してくれた。
お世辞でも嬉しく感じる。
「ケイイチさん。私は貴方の過去を知りませんけれど、そんな事を言わないで下さい。私達からすれば、貴方は凄く綺麗に見えるんです。醜くなんてありませんよ」
エルサから説教まで頂いた。
二人が少し怒っているように見えるのは、僕の気のせいじゃないと思っていい筈だ。
「ありがとう」
もし、彼女達の言葉が偽りでも、そう言ってくれた事が僕にとっては凄く嬉しかった。
僕が礼を言うと、彼女達は我に帰ったように椅子に座りなおす。
「ヒャッ!?」
刹那。ミミリィはお尻を抑えて飛び上がった。
ジョッキから水が溢れていたみたいで、ミミリィの椅子に掛かってしまっていたようだ。
僕とした事が、今更ながらジョッキにヒビ割れがあるのに気が付いた。
もう少し早く気が付いていれば、ミミリィのお尻が濡れる事もなかっただろうに…。
…そうだ。
これで少しだけだけど恩を返せる。
僕は懐から大きな袋を取り出して床に置く。
「どうしましたか?」
エルサが袋を見て不思議そうにしている。
僕が何かを始めるのかと疑問を感じているように見える。
「お、大きい袋ですね」
ミミリィは袋の見た目を言った。
袋は彼女の言う通り大きい。
人が三人ぐらいスッポリと入れるぐらいの大きさと重量がある。
僕は、その袋を彼女達の方へと押す。
彼女達ならば、幾らでも使い道のある物だからね。
「一宿二飯のお礼。受け取ってよ」
僕が持っていても、何の意味も持たない。ただのガラクタ。だけど捨てるのも勿体無く感じたから幾つかの袋に纏めていた物の内の一つ。
彼女達は不思議がりながらも、袋を開けて中を覗く。そして、エルサは腰を抜かせてしまい、ミミリィは狼狽えた。
「ど、どどどどうしよう!?お母さんっ!」
「お、落ち着くのよミミリィ。ほら、深呼吸、深呼吸…スーー、ハーー…」
「スーーー、ハーー…」
二人が深呼吸を始めた。
それを何度か繰り返し、エルサは僕を見上げる。
「これは受け取れません」
キッパリと言われてしまった。
今、僕が出来る最大のお礼と言えば、これぐらいなんだけど…。
「あ、あの、これ、どこで…?」
エルサが断っても、ミミリィは気になるのか、チラチラと袋に目をやりながら僕に尋ねてきた。
僕は彼女の問いに答えるべきか少し迷ったけれど、少しばかり嘘を交えて答える事にした。
「これは迷宮で手に入れた物だよ。僕には使えないから受け取ってよ」
「で、ですけどっ!」
チラリと視線を袋にやり、
「これ程の大金、受け取るわけにはいきません!」
エルサの瞳には、絶対に受け取らないと言う意思がこもってみえる。
それにしても、これ、やっぱり大金だったんだ。
僕はこの世界のお金の価値を知らないから、ただのオモチャの金銀財宝にしか見えなかった。
「なら、一部なら貰ってくれる?」
「えっ…」
エルサは困った顔で葛藤し始めた。
ミミリィは欲しそうにしてる。
「や、やっぱり、貰えません」
「少しも?」
「す、少しも…ですっ!」
言い切られてしまった。
残念だ。
ここで少しだけでも恩を返そうと思ったんだけど…。
本当に残念だ。
「なら、何か欲しい物はない?」
人は何かしらの欲望を持っている。
世界に何度も絶望した僕だって、そうだ。まだ僕の心には欲望が存在している。
彼女達だって、思考できる存在であり、人間である。欲望がないわけじゃないはずだ。
なのに、エルサは困った表情を浮かべたまま首を横に振った。
僕には理解できない行動だ。
欲しい物は何をしてでも手に入れる。
それが欲望と言う物だと思う。
なのに、彼女にはそんな気が一切感じなかった。
「そっか…」
そう言って、僕は立ち上がる。
「どこへ行かれるのですか?」
「少し街を歩いてくる」
そうすれば、彼女達が欲しがりそうな物も見つかりそうだ。
まぁ、僕が相手だと誰も物を売ってくれないだろうから、その時は彼女二人の内一人に付いて来てもらわなきゃならないだろうけど。
そう思っていたら、唐突にミミリィが声を上げた。
「わ、私も行きますっ!」
どう言う意図があって声を上げたかは分からないけど、買い物ができる人が側に居るだけで心強い。
僕一人だと、みんな怯えて逃げてしまう。酷い場合だと攻撃まで加えてくる始末だ。
フードで顔を隠したとしても、なぜか、嫌悪され、忌避される。そして、殺気立った街の皆から追い回された嫌な想い出がある。
僕はそんな存在だからこそ、彼女の存在がありがたく感じれた。
それに、僕はお金の価値を知らないし…。