治療
彼に食事をご馳走すると、彼は泣きながら食事をしていた。
美味しい、美味しいと何度も呟き、涙を流していた。
そして、お腹が一杯になると突然倒れてしまった。
その時、私とお母さんは一緒になって慌てた。
だって、突然、彼が倒れたんだもん。
慌てるのが普通だよ。
けれど、彼は寝ているだけだった。
グッスリと、心地良さそうに寝ていた。
まるで、今の今まで寝る事を忘れていたかのように。
その後、お母さんと一緒に、彼をベットまで運ぼうとした。
とても軽かったのを覚えている。
私の力でも運べる程に軽かった。
それに、お母さんが不思議がって彼の外套を脱がした。
そして露わになったのは、骨だけの右腕。骨が剥き出しになっているかと見間違う程に痩せた四肢。それと、醜い顔。
思わず私は小さな悲鳴を上げてしまった。
余りにも酷かった。
人間だと思えない程に酷かった。
魔物と言われても、否定できなかった。
だけど、お母さんは構わずに治療を始めた。
馴れた手つきで包帯を巻き始めた。
怖かった。
凄く怖かった。
怖かったけど、私も手伝った。
下手くそだけど、彼の傷跡に一生懸命に包帯を巻いた。
そして、出来上がったのは、全身を包帯で覆った彼だった。
思わず、私は吹き出してしまった。お母さんも笑った。
彼には悪いと思ったけれど、笑いを堪える事ができなかった。
だって、全身が包帯でグルグル巻きだもん。
ひとしきり笑った後、さすがに、このままにしておくのも悪く思った私は包帯を巻き直した。
さっきよりは上手く出来たと思う。
でも、彼の傷跡を隠すには、やはり全身を包帯でグルグル巻きにしなければならなかった。
彼は、一体、何をしてここまでの傷を負ったのか。私には分からない。
分からないけど、私は彼の素顔を見ても怯えなくなっていた。
今になっては、彼の過去が気になって仕方がない。
どうして、彼はこんなにも傷を負ったの?
どうして、彼は傷だらけなの?
どうして、どうして、どうして。
色々な疑問が湧き出てくるけど、彼が答えてくれない限り分からない。
でも、答えてくれる日なんて来るのかな…?
ーーー
僕はこの場所を知っている。けれど、どれも見覚えがなく、身体が道を覚えているような感覚。
どこか遠い昔に見た事がある景色を、懐かしみながら僕は歩く。
誰もいない学校の校門を抜けて坂を下りて行く。
坂を下りきった先にある大通りの歩道橋を渡って、すぐ前にある公園を抜ける。
そこには、団地がある。
誰もいないのに、子供達の楽しげな笑い声が僕の耳に空耳のように聞こえてくる。
団地を抜けると、大通りを挟んだ向かい側に商店街がある。
今の時代に珍しく賑わいの見せる商店街。
店は開いてるのに、やっぱり誰もいない。
なのに、賑やかな声が聞こえてくる。
商店街を抜けて、駅前を通る。
当然、人はいない。ザワザワと人が行き交う音と声が聞こえ、噴水が吹き上がる。
それを横目に僕は歩く。
なぜ僕は歩いているのか自分でも理解できてない。
何かに惹き寄せられるかのように、僕の足は勝手に進む。
そして、行き着いた先は、なんら変哲もない家だった。
やけに懐かしく、思えた。
なのに、僕の記憶の中にはこの家の事が残っていない。
ここにある全てが分からない。
まるで僕を招き入れるかのように、勝手に家の扉が開いた。
家の中からは香しい匂いが漂ってきて、とても懐かしく感じる。
つい先日まで、この家に居たかのように感じる。
なのに、記憶には残っていない。
僕の身体は慣れた風に家へと入って行く。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を真っ直ぐ歩いて行く。
そして、廊下の先にある扉を開けると、顔のない男女が居た。
『おっ、やっと帰ってきたか』
男性が待ちくたびれた感を出しながら、小さな四角い箱ーー携帯を机に置いて、椅子に着席した。
『早く手を洗ってきなさい。それと、ーーーも食事だから、呼んできて』
女性は、凄く美味しそうな料理を机に運んでいる。
だけど、なぜか僕にはその料理が苦手に感じた。
『分かったよ』
僕の意思とは無関係に勝手に声が吐き出され、僕は洗面所で手を洗い、二階に上がる階段の下から誰かに呼び掛ける。
『ーーー!晩御飯だよ!』
その後、リビングに戻って椅子に座ると、男性が何やら色々と聴いてくる。
学校はどうだった?楽しいか?
友達はできたか?
この生活には慣れたか?
今度、皆で食事に行こう
僕は答えれなかった。なのに、口が勝手に動いて返答していた。
それは、なんら変哲もない生活感だ。
どこの家庭も同じようなものだろう。
なのに、なぜか僕の心はモヤモヤとする。
酷く嫌な感じがする。
僕が憧れていた生活。僕の望んでいた生活の筈なのに、僕の中は酷く嫌がっている。
その後、暫く男性の質問に答えていると、新たにリビングへと顔のない女の子が入ってきた。
僕と同じか、それ以下ぐらいの子だと思う。
僕は、その子を知っている。
知っている筈なのに思い出せない。
僕に質問を繰り返す男性も、食事を配膳してくれる女性も、僕は知っている。
なのに、頭の中に靄が掛かったかのように思い出せない。
各席に食事を配り終えた女性は椅子に座って一息。テレビの電源をリモコン経由で入れる。
そして、流れ始めるニュース。
『昨日、ーー空港便がエンジントラブルで墜落しました。そのーー便には830名もの乗員が居たのですが、未だに誰も発見されておりません。では、次のニュースに移ります』
どうしてか、そのニュースは僕の心に酷く響くものであった。
自然と涙が溢れ、全ての物が尊く感じた。
心が締め付けられ、まるで、僕の持っていた物を全てを失ったかのような感覚を覚えた。
それは、途轍もなく寂しくて、辛くて、堪え難いほどに苦しく思えた。
助けを求めるように僕は視線を男女の元へと戻すと、そこには誰もいなくて、残っていたのは女の子だけだった。
『ーーとーーは、どこに行ったの?』
僕は尋ねた。
尋ねてはいけないと心が強く訴えかけてきていたけれど、僕は聞いてしまった。
すると女の子は酷く悲しげにして、俯いて、涙を流した。
僕も同じだった。
だって、あの男性と女性はーー。
「……ん?」
目が覚めると、僕は今にも崩れそうなボロボロの天井を見上げていた。
さっきまで、酷く悲しくて、それでいて、とても大切な夢を見ていた気がしたけど、既に頭の中には残っていない。
久し振りの睡眠で、覚醒しきっていない頭を働かせて今の現状を確認してみると、僕はベットに寝かされていた。
どうやら、昨日、久しく口にしてなかった料理をお腹一杯に食べ、満足してしまって寝てしまったみたいだ。
ふと、香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
気になって、香りの発生源へと視線を向けると、女性と女の子が笑い合いながら食事を用意していた。
昨日、半ば無理矢理に僕を連れて来た女の子と、その母親だ。
微笑ましい光景だと思う。
僕なんかには不釣り合いの、とても温かい家族。
それをボヤけた視界に収めて眺めていると、母親が僕の視線に気が付いてニッコリと微笑んだ。
「おはようございます。あと少しで朝ご飯の用意が出来るので、ゆっくりしてて下さいね」
母親の言葉に、女の子も僕に気が付いた。
「お、おはようございます!」
昨日よりは怯えていない。それどころか、僕の顔を見て悲しそうな瞳まで浮かべている。
……顔?
僕は自分の頭に手を回して、宙を彷徨わせる。
そこには、何もなかった。
僕の伸びきってボサボサの髪が手に当たるだけーー僕はフードを被ってなかった。
今の僕は、醜く歪んだ顔が露わになっている筈。顔半分は焼け爛れ、一部の骨は剥き出しになり、眼球は飛び出しているように見える酷い。僕ですら、生きているのが不思議な程に無残で、ゾンビのようだとも思えた。
なのに彼女達は、そんな顔を見ても優しい笑みを、悲しそうな表情を浮かべるだけだった。
僕に憎悪を向けたりしなかった。
それは、僕にとって初めての事だった。
自然と、一滴の涙が頬を伝う。
すかさず僕は涙を拭って顔をシーツで覆い隠す。
その時に、僕の身体に包帯が巻かれている事に気が付いた。
僕は彼女達に治療されたんだ。
凄く嬉しい。嬉しいけど、これ以上、彼女達に心配や迷惑を掛けたくないと強く思った。
僕は開け放たれた窓から朝焼けの空を眺める。
立地の問題もあって少し薄暗いけれど、とても綺麗で穏やかに感じれる。
小鳥の囀りが聞こえ、付近の家々からは家族達の朝の楽しげな声が聴こえる。
それは、僕にとって、とても新鮮なもの。
この世界に来てから、一度も体験したことのない事。
入ってくる風は少し冷たいけれど、僕の心は温かみを帯び始める。
こんな生活が続けばいいのに。と、我儘な欲望を抱いてしまう。
「できましたよ」
母親の声に振り返ってみると、机の上には三人分の朝食が用意されていた。
「どうぞ」
母親は微笑みながら、空いてる席に座るように勧めてくる。
その席には、一人分の朝食が置かれている。
僕の顔を見ても、僕を追い出したり、逃げたりせず、晩御飯だけならず、朝食までも振舞ってくれる。
それは途轍もなく嬉しくて涙が込み上げてくる。だけど、それを抑え込んで、近くに畳んで置かれていた外套を着てから彼女達の勧める席へと着席する。
「では、頂きましょう」
母親が昨晩の晩御飯の時と同様に声を発すると、二人は祈るように両手を握り合わせて目を瞑る。
「「慈愛の女神よ。今日も私達に食事を与えてくれた事に感謝します。生ある者に幸あらん事を」」
昨晩と同じ言葉だ。
何かの宗教の食前の祈りみたいなやつなんだろう。
じゃあ、僕も。
「…頂きます」
「はい。好きなだけ頂いて下さい。お代わりもありますよ」
やっぱり通じないみたい。
別の意味としてとらわれた。
別に問題はないけど。
僕は食事に手を付ける。
それに続いて、親子も食事を始める。
味は質素だ。料理の内容も貧相なものだ。
だけど、美味しい。
凄く美味しい。
僕なんかには勿体無いぐらいに美味しい。
ちゃんとした味のついた料理も美味しいけど、一番は心がこもっている事。
一口食べるごとに僕を包み込んでくれるような、そんな温かさがある。
少し形は違うけど、ずっと手に入らないものが、ようやく手に入ったような気がした。
涙が込み上げる。
けれど、僕は泣かない。
もう彼女達の前でみっともない姿は見せたくない。
それに、昨晩に散々泣いた。
あれで十分だ。
気が付くと、僕の朝食は無くなっていた。
僕が全部食べたんだ。
さっきまであった物がなくなると、少し悲しくなる。
「お代わり入れますね」
まだ何も言ってないのに、母親はニッコリと微笑んで、すぐにお代わり用意してくれた。
「あ、ありがとう」
嬉しい。
凄く嬉しい。
僕に美味しい料理を食べさせてくれるだけでなく、寝る場所も、お代わりもくれた。
この恩は凄く大きい。
いつか、必ず返さなきゃ。