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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔法使いの子

作者: ミノ

 調子に乗っていたなと思う。

 高校受験を前にして、特に志望校もなかった俺は担任の言葉に乗せられるがままに明星学園を受験して見事に合格した。

 魔法さえ使えれば、面接だけで合否が決まるという言葉に見事につられた結果だった。

 明星学園は魔法を使うことのできる子どもたちの教育に力を入れていることで一時期メディアにもよく取り上げられた。

 学園の創設者自身も魔法を使いこなすことができ、その力故に周りとうまく溶け込むことができなかった子ども時代の経験から、魔法使いがその力を行使しながらもうまく社会に溶け込むための手助けをすることを学園の理念としているという話を面接前に頭に叩き込んだのでよく覚えている。

 いざ入学式を終え、自己紹介として自分の名前と使える魔法を簡単に言うことになった時、ようやく俺は自分が場違いな存在であることに気が付いた。

 他のやつらの自己紹介ときたら「炎を自在に操れます。ゲームキャラに憧れていたせいか、発動条件は長ったらしい詠唱です」とか「相手の動きを止めれます」とか、かっこいい感じなのだ。

 きわめつけが俺の一つ前の席の滝という男子生徒で、低くよく通る声で自分の名前だけ言うと着席した。

 自身の魔法については一切触れなかったのに、他のクラスメイトからは「最強の守り手だ」「滝ってすごいらしいな」という声がさざめきのように広がるところを見ると、どうやら優秀な魔法使いらしい。

 どうして俺の自己紹介がそんなやつの後なんだっ。

 いっそ自分の番は飛ばしてほしいとすら思っていたのに「はい次~」と促した担任のおかげで教室内は再び静寂に包まれる。

 緊張のせいか、立ち上がる時にひいた椅子の音が妙に大きくきこえた。勘弁してくれ。

 俺は滝のつむじを見下ろしながら「多崎アキラです。卵焼きが出せます」と短く言い切って速攻着席した。発動条件については絶対に言わないつもりだった。

 皆がぽかんとした顔をしているのが雰囲気で伝わってくる。

「卵焼きってなに、どゆこと?」

 頼むから放っておいてくれ。

 魔法が使えるやつがたくさんいるというから、りんごが出せます鉛筆が出せますみたいな、似たような魔法を使えるやつが他にもいると思っていたのに、皆いかにも漫画に出てきそうなかっこいい魔法を使えるやつしかいないじゃないか。

 俺がこれ以上何も語る気のないことを察した担任が「次~」と声をあげてくれたおかげで、後ろの席の生徒の自己紹介に突入する。俺は心の中で担任に向かって、感謝の気持ちを込めて合掌した。

 入学早々、居場所のなさを感じて一日目をなんとか終えると、江藤というクラスメイトに声をかけられた。

 自己紹介の時に誇らしげに風を操れると言っていたやつだとすぐに思い至る。

 入学式を終えたばかりだというのに、すでに制服の着こなしがだらしなく、あまり関わり合いになりたくないタイプだった。

「やってみろよ」

 わざわざ俺の席までやってきた江藤はポケットに両手を突っ込んだまま尊大に言い放った。「は、はい?」と俺がすっとぼけた答えを返すと「卵焼き出してみろよ」と言いながら俺の机の上に腰掛ける。

 机に置いてあった学校指定の鞄は座布団のようになっていた。

 周りの生徒たちは近くの席のやつと談笑しながらこちらに目もくれずに帰って行く。教室に残っていた担任も、一瞬こちらに目をやっただけですぐに教室から出て行ってしまう。

 やってみろと言われても発動条件がうまく重ならなければ、魔法は使えない。

 背中に嫌な汗が伝うのを感じながら、無理だと正直に告げれば、江藤はその答えがお気に召さなかった。「そ」と短く答えて去っていった江藤は、翌日からやたら俺に絡むようになった。

 最初は軽い暴言だったのが、一カ月も経つ頃には軽く小突いたり、すれ違いざまに足をひっかけるようなものに変わって来る。俺は江藤の一挙一動にびくついていたが、極力表情に出さないように努めていた。

 しかし、ふざけ半分で江藤とその友達が俺を囲んで殴りかかるようなそぶりを見せた時、ついに俺は魔法を使ってしまう。

 何の前触れもなく、ご丁寧に透明なパックに入った卵焼きが空中に現れて江藤たちはぴたりと動きを止めた。

 落下しかけたそれを反射的に受け止めた江藤は「ほんとに出た」と腹を抱えて笑っている。俺は破裂しそうなほどに激しく脈打つ心臓を必死に抑え続けるだけで精いっぱいだった。

 なんとか表面上は平静をとりつくろったが、それが江藤にはつまらない反応に映ったらしい。

 江藤はここぞとばかりに「だせえ」「頭おかしいだろ」と俺の魔法についてなじった。

 魔法は生涯でただ一つ、使い手の強い願望が形になったものだ。魔法そのものが個人を表すと言っても過言ではない。一番貶められたくない部分に触れられても、ここで反抗すればますます江藤の興味をひくだけだ。

 素知らぬ態度を貫いていると、意外にもあっさりと去っていくものだから、これで絡まれることはなくなるだろうかと安堵した。

 これで俺の学園生活も安泰だと幸せを噛みしめていると、どういうわけか翌日も江藤は仲間を引き連れ、俺の所にやってきた。

「お前の卵焼きさぁ、なんかうまくってもう一回食ってみたくなってよ」

 口調は軽いのに江藤の目は仄暗い欲望に光っていて怖かった。

 たかが卵焼きの何がそんな目をさせるというのか。両脇を江藤の取り巻きにがっちり固められ、空き教室に連れていかれる間、俺は思わず誰かに助けを求めて周りを見渡していた。

 江藤みたいなやつに絡まれている俺と友達になってくれようとするやつなんて最初からいなかった。

 みんな俺のことなんか見えないみたいに、避けて通り過ぎて行ってしまう。

 空き教室の埃っぽい床に突き飛ばされる。

 引き戸が閉められていくのを誰かに止めてほしかった。



◆◇◆


 扉は固く閉ざされているものだ。

 内にいても外にいてもそれは変わらない。

 俺は昔、閉ざされた扉が開かれるのを待って、何時間でもアパートの通路で膝を抱えて待ち続ける子どもだった。

 何日も風呂に入らず、服も着替えていない薄汚い子どもに声をかけたのは同じアパートの隣の部屋に住むヨシノさんだけだった。

 ヨシノさんは自分の子どもの為に昼夜問わず働いていて、いつも疲れた顔をしていた。

 俺はほとんど毎日通路に座り込んでいるせいで、町中が騒がしくなる十二月にもヨシノさんには休みがないことをぼんやりと知っていた。

 そんな俺と彼女の会話はたった一度きりのことだ。

 日を跨ぎ、除夜の鐘も鳴り終わった深夜、いつも俺が部屋の前で座り込んでいようが見向きもしなかったヨシノさんがぴたりと足を止めて、俺を見下ろしていた。虚ろな目をしたヨシノさんと俺はいつまでも見つめ合っていたような気がする。

 ヨシノさんは、自分も白い息を吐いているにも関わらずコートを俺にあたえ、勤め先の残り物だというパックに入った卵焼きを俺に渡し、どこかに一生懸命電話をしていた。

 先ほどまで彼女の膝の辺りまでをすっぽり包んでいた白いコートを羽織りながら、俺は初めて見る卵焼きに見入っていた。ぼんやりとした蛍光灯に照らされて、パックの中につるんとした黄色の塊が二切れ入っているのが見える。

 俺はこんなものを食べたことがなかった。俺が知っているのはコンビニで売っているパンとカップ麺だけだった。

 電話を終えたヨシノさんは、まじまじと卵焼きを見つめている俺に気が付いて作り方を教えてくれた。

 用意するものは卵を六個。かき混ぜた卵を四角い小さなフライパンに少しずつ流し込んで、丸めて、また流し込む。ヨシノさんはそれを毎日作っているのだという。

 ヨシノさんの言葉は簡潔で素っ気なかったけれど、父さんや母さんの罵声しか聞いたことがない俺にはひどく優しい音楽にきこえた。

「六個よ。卵を六個も使うなんて、贅沢すぎてどうかしているよね」

 ヨシノさんのする話は何よりも優しいおとぎだった。

 俺は彼女の話と、柔らかい舌触りと三つ葉のスパイスが効いた卵焼きに夢中になった。

  俺は卵焼きの作り方なんか知らない癖に、ヨシノさんの白く細い手が黄色の塊を器用に作り上げていくのを確かに想像することができた。

 ヨシノさんが電話をかけていた先は警察だったらしい。しばらくするとおまわりさんがやってきて、俺の家の扉を叩いても誰も出てこないことにため息をつく。

 俺は警察署で一晩お世話になることが決まった。警察の事情聴取を受ける時、女性が『ヨシノ』という名前であることが微かに耳に届いた。

 俺とヨシノさんの出会いは、本当にただそれだけだ。

 だけど、一生の思い出だ。

 暗闇に溶け込んでいた俺をこちら側へと引き出し、他の人にも見える存在にしてくれたのは彼女だけだった。

 あの日、アパートの通路で、冷え切った互いの手を温め合ったことを俺は一生忘れない。切ない泣き声をあげるお腹に手掴みで詰め込んだ卵焼きの味が何よりも好きだった。

 警察から携帯にしつこく連絡がいったせいで、パチンコを切り上げて俺を迎えに来るはめになった両親はひどく怒っていた。

 ひとまず家に帰されることになった俺は、帰宅早々にぼこぼこに殴られて、こんな騒ぎになるなら二度と外には出すものかと犬の首輪を付けられ、柱に結び付けられた。

 痛みと熱でぼうっとする頭で、ヨシノさんの卵焼きのことばかり考え続けた。

 両親はまた家を出ていき、空腹で絞られたようになる胃を押さえながら、俺は閉ざされた扉をじっと見つめていた。外に出たかった。もう一度、ヨシノさんの卵焼きを食べたかった。

 願いが叶わないことは知っている。警察署から家に連れ帰られた日に、両親がヨシノさんの家にお前が通報したんだろうと怒鳴りこんでいる声が聞こえたからだ。

 自分たちの前から姿を消さないとお前の子どもがどうなっても知らないぞという脅しの声が聞こえた。

 数日して、あの女が逃げたぞと父さんが馬鹿にしたように笑うのを聞いて、心底ほっとした。ヨシノさんの子どもには何もしてほしくなかった。

 ヨシノさんが仕事に行く時、行かないでと泣き叫ぶ子どもの声を何度もきいたことがある。

 いつも疲れた顔をしているヨシノさんもその時ばかりは明るい声ですぐに戻るから待っててねと笑っていた。

 あんなにもお互いを必要としあっている二人の生活を最悪の形で壊さずに済んでよかった。

 心残りはもうヨシノさんには会えないということだ。

 いつか大人になったら、ヨシノさんの働いている店まで卵焼きを買いに行くことを夢想した。それは決して叶わないだろうということは、両親が家に戻らなくなって一週間が過ぎた頃に心のどこかで悟っていた。

 だから眠りと現実の狭間で、誰かに「どんな魔法が欲しい」と聞かれた時、掠れた声でこう答えたのだ。本当に声が出ていたのかはもうわからなかったけど、願った内容は覚えている。

「ヨシノさんの卵焼き。もう、お母さんたちが帰ってこなくても泣かないから、最後にそれだけ食べたい」

 あの卵焼きがもらえるなら、あと数センチ先にある食べ物を求めて、首が締まる限界まで伸ばした手を諦められる。蠅の羽音しか聞こえない部屋での孤独に耐えられる。

 俺の願いは叶えられた。

 俺は強烈な空腹を感じる度に、どこからともなく現れる卵焼をいじきたなく咀嚼し続けて、アパートのドアが破られる日まで持ちこたえた。

 俺を助け出したのは、警察署でお世話になった時に対応をした佐々木さんという警官だった。

 近所に住む彼は、休日に偶然アパートの前を通りがかった時、住民の女性たちが少し前まで子どもの気配はしていたのに、親の姿を何日も見ていない、最近は子どもの声もしなくなったと井戸端会議をしていたところに出くわしたのだという。

 いてもたってもいられずに大家に話をつけて部屋に飛び込んだ佐々木さんは首輪をつけられて意識をなくしている俺を発見した。

 数日入院をして施設に行くことが決まった時、何の縁もないはずの佐々木さんが見送りにやってきてくれた。

 俺の頬に両手を添え、無理矢理顔を上げさせた佐々木さんは真っ赤に目を潤ませながら一言、「負けんなよ」と腹の底から声を絞り出した。

 俺はそれに答えるのにふさわしい言葉を持っていなかったけれど、この人と一緒にいれたらいいのにという思いを飲み込んだ瞬間、パックに入った卵焼きを五つも出してしまった。

 魔法は、幼少期から十代後半までの間、一部の人間が後天的に得る特殊能力だ。

 魔法を使うには、条件をクリアしなければならないのだと病院の先生から教えられていた。発動条件は個人によって異なる。

 発動条件、我慢すること。

 発動効果、ヨシノさんの卵焼き。

 それが俺の魔法だった。

「餞別」

 佐々木さんと離れるのが寂しかったとは口が裂けても言えなくて、生意気に呟く。

 空中に投げ出された 卵焼きを慌てて受け止めていた佐々木さんは俺と卵焼きを見比べた後「すごいな、魔法使いくん」と声をあげて笑った。

 炭酸のように弾ける笑い声をきいた瞬間、俺はもう汚くて狭いあの部屋にはいないのだと思い知った。

 ヨシノさんが俺を連れ出した。外に出ても、誰にも見向きもされなかった俺がここにいるのだと他の人に教えてくれた。

 ヨシノさんはきっと魔法使いだった。


◆◇◆


 勢いよく開かれた空き教室の引き戸は激しい音をたててぶつかった。

 仰向けに床に転がされ、腹の上に江藤に圧し掛かられていた俺は目を瞠る。江藤や俺を取り囲んでいたやつらもそちらを見た。

 反動で跳ね返りかけた引き戸は、開けた張本人である滝の筋肉で固い腕に抑え込まれる。

 また新しいやつが増えたと俺はげんなりした。

 江藤が俺の出す卵焼きがうまいと言い触らしているらしく、自分にも食べさせてほしいというやつが日替わりで訪れるようになった。

 今では違うクラスのやつまでもが一度食べてみたいと昼休みは空き教室に集まる始末だ。

 最初に卵焼きのうまさに気付いた江藤が訪れるやつらを仕切っていた。最近では、毎日殴りつけていたのでは教師連中にばれるからと俺の鼻と口を押え、呼吸を我慢させることで大量の卵焼きを出していた。

 ふざけたみんなが江藤のことを「一流料理人」と呼び、満更でもなさそうな顔をした江藤が「リピーターが多いから毎日大変だよ」と笑うのをきいて、こみ上げてくる不満や怒りを堪えるだけで五人分も卵焼きを出すことができた。

 そんな様子を目の当たりにした滝は引き戸に手をかけたまま、虚を突かれたように目を見開いて固まっていた。

 滝は下がり気味の目がいつも眠たそうで、大柄な体を持て余したようにのそっと動くのが熊みたいなやつだ。気だるげな目とは反対の吊り上がり気味の眉が意思の強さを感じさせる。いつも固く引き結ばれた唇が開かれるのをあまり見たことがない。

 すぐに落ち着きを取り戻した滝が教室内にいる連中を見渡す間、みんなどこか気まずそうだった。

 滝はいじめられているやつを見てもわざわざ助けるような人間ではなかったが、水のような清廉さを感じさせる物静かな視線には、咎められるのではないかと思わせる威圧感があった。

「なにやってんだ」

 滝の唇から零れたのは純粋な疑問だった。

 責められなかったことにほっとした様子の生徒たちが「滝こそどうしたんだよ」と気さくに声をかける。

 江藤は静かに俺の口と鼻を塞ぐのを再開した。そのすぐ傍で滝は何事もないように会話を続ける。

「江藤がうまい卵焼きを作るって言うから来たんだけど」

 ちらりと俺に視線を向けた滝は「こんな風に作ってるとは思わなかった」と呆れたように呟く。

 周りのやつらは滝の非難の混じりの響きは無視して、口々に滝の話に食いついた。

「滝の舌に適うかね~」

「こいつ味に厳しいもんな」

「まあ、滝が食ってみりゃわかるだろ。まじでうめえぞ」

 そう言って一人が自分が食べようとしていた卵焼きのパックと箸を滝に渡す。

 俺は呼吸ができない苦しさから無意識に体を反転させ、四つん這いで逃れようとしていたところを江藤に髪を掴まれ、再び仰向けにされた。

「お前なあ、逃げてんじゃねえよ」

 江藤の声に不穏なものがまじり、無意識のうちに体が震えた。

 俺の怯えを見逃さなかったように、江藤の唇が弧の形を描く。江藤は人を痛めつける時に笑う癖がある。

 俺は反射的に顔を背け、顔面に落ちてくるであろう拳を見ないようにする。偶然にも反らした視線の先には滝がいた。

 滝はこの状況で平然と食事を始めていた。大きな口に卵焼きが放り込まれていく。

 唖然として見つめていると、滝は口に放り込んだ卵焼きを咀嚼した途端、怪訝な顔をした。何度か口を動かし続け、ぴたりと動きを止めた滝がひどく間抜けな顔で俺の顔を凝視するのと、緩やかな風が頬を撫でるのはほぼ同時だった 。

「あれっ」

 気の抜けた声に思わず視線を戻すと、江藤は自分の拳を訝しげに見つめている。そのまま再度、拳を振り落とされ俺は恐怖で声も出なかった。

 振り落とされた拳は確かに俺の顔面へと狙いを定めていたのに、途中で不自然に軌道が逸れ空振りにおわる。どこからか別の力を加えられたかのように、江藤が何度繰り返してもそれは空振りにおわった。

「江藤どうしたんだよ」

 ぽかんとしてそれを見詰めていたやつらまでが、妙な一人芝居を繰り広げる江藤に半笑いで声をかける。

 ふざけているのかと思いきや、江藤の視線は完全に泳いでいて、自分でも状況が理解できないようだ。

 妙な空気に誰もが動きを止めた中、滝が真っ先に沈黙を断ち切った。空のパックと箸を隣にいたやつに押し付けた滝は、迷いなく歩を進め真上から俺を見下ろす。

「山村佳乃の知り合いか」

 ヨシノ。

 一日たりとも忘れたことがない名前に呼吸をすることも忘れた俺の反応は、何よりも雄弁に答えを語っていたらしい。

「お前、店の常連だった?」

 滝の問いかけの意味がわからずに呆然としていると、滝は焦れたように小さく息を吐いて江藤の肩に触れた。

 それは魔法のようだった。いや、魔法だったのだろう。

 滝が軽く江藤の肩に触れただけで、江藤は静かに立ち上がり俺の上から退いた。「はあっ!?」と発せられた江藤の声は戸惑いが隠しきれておらず、その行動が不本意であることは明白だった。

 その時、滝が扱う魔法が守りの魔法であることに思い出した。

 実際に魔法を使っているところを見たことがある人間は少ないようだが、対象者に害をなすものから一分の隙もなく守り通すことから、学園の連中は冷やかし半分で最強の守り手と呼んでいるようだった。

 もしかして、滝はその魔法を俺に使ってくれたのだろうか。

 滝は俺の腕を掴み、抱き上げるような優しさで俺を立ち上がらせる。引き上げる力は強引で、こちらの都合など構いもしない力強さだったのに、不思議とそう感じた。

 滝は俺を含めて状況についていけないやつらのことなんか無視して「話がある」と背中を押して教室の外へと促す。

 後からくるであろう江藤の仕返しが怖くて思わず後ろを振り返ったが、見えたのはぴたりと背後に寄り添うようにして立つ滝の首元だけだった。

 空き教室を出た俺は、ぐいぐい背中を押されながら廊下を歩かされる。方向的に向かっているのは俺たちのクラスのC組の教室だろう。

 滝と俺という珍しい組み合わせにすれ違うやつらがちらりと視線を向けてくる。

 滝の魔法の能力の高さは有名で、あわよくばお近づきになりたいというやつも少なくなかった。

「お前、何年か前まで駅前にあったうどん屋の常連だったりしたのか」

 先程の問いかけの続き思われる内容の言葉を滝は発した。

 うどん屋ってなんのことだろう。そんなものに縁はない。

 俺が首を横に振ると、滝は独り言のような口調で話を始めた。俺がきいていようがきいていまいが、どうでもいいような様子だった。

「お前が出す卵焼き。駅前のうどん屋で出してたやつと同じ味なんだよ。深夜限定メニューで人気もあったみたいだ。その作り手が山村佳乃」

 俺はヨシノさんから卵焼きをもらった日のことを思い出した。ヨシノさんが、どんな仕事をしているのかと想像しながら時間を潰していたものだが、うどん屋で働いていたのか。

 滝はそのうどん屋の常連なんだろうか。

「お前から懐かしい味がするから驚いた」

「滝もヨシノさんの卵焼きを食べたことがあるの」

 思いつくままに問うと、予想外に滝からは「まあな」という答えが返ってきた。

「母親の卵焼きの味だからな。うどん屋じゃないなら、お前はどこであの卵焼きを食べたんだ」

 その時、滝の声に、子どもの声が重なった。

 行かないで。お母さん。

 いつもヨシノさんが仕事に行く時に聞こえる子どもの声だ。

 あんた、人の子どもに構うのはいいけど自分の子どもがどうなるか考えたことあんのと脅すのは父さんの声だ。

 家具を引き倒したり食器が割れる音がする中、いつも泣いている子どもの声だけが気丈だった。母さんのことをいじめるな。何もできないくせにと父さんが笑い、次に聞こえたのは大きな物音と女性の悲鳴で――……。

 滝は、俺がぶち壊したヨシノさんの家族の欠片だ。

「懐かしい味って、ヨシノさんはどうしたんだ。一緒に暮らしてないのか」

 最悪の結末が脳裏をよぎり、声が震える。

 毎日仕事に行くヨシノさんは疲れ切っていて、限界のように見えた。生活はぎりぎりのようだったし、あの後どこに行ったのか、いつも心に棘が刺さったように気になって仕方がなかった。

 だからこそ、あっけらかんとした声で「一年くらい前から、再婚相手の転勤先について行ってる。今度会ったら久々に卵焼き作ってもらうか」と心の棘を引っこ抜かれた瞬間、堰き止められていたものが一気に吹き出した。

 悲しくもないのにぼたぼたと涙が溢れだすのが不思議だった。涙腺にそういう仕掛けがされていたのかと思うほど、大粒の雫が次々と溢れて止まらない。

 ぎょっとした滝は面倒なものに遭遇してしまったとばかりに眉間に皺を寄せたが、廊下を歩く生徒から注目を集めてしまっていることに気が付くと、さり気なく俺を壁際に押しやり他者の視線から覆い隠してくれた。

 

 どうして俺がヨシノさんの卵焼きを出せるのかと、滝があまりにも不思議そうだったので俺は昔隣に住んでいたことと、ヨシノさんの卵焼きがあまりにもおいしくて思わず自分の魔法にしてしまったことだけをかいつまんで説明した。発動条件だとか、今は施設暮らしだとかは一つも口にしていない。

 それ以上は互いに昔のことには一切触れなかったけど、俺が薄い壁越しに滝の声を聞いていたように、滝も俺の声をきいていたはずだ。あのアパートでの暮らしの日々は知られているのだろう。

「江藤の言いなりになるのはやめろよ。抵抗しないから、つけあがるんだぞ」

 滝はそう言うが、抵抗したら余計にひどくされるだけだ。自分の父親と同じだからよく知っている。俺なんかじゃ、かっとなるとすぐに手が出る江藤に対抗できない。

 滝の言葉に頷くことも出来ず、断ることも申し訳なく、沈黙を貫いていると、答えを待つことに飽きた滝は長いため息をついた。

 完全に呆れられたのだと思ったが、何故か次の日から滝は俺と行動を共にするようになった。

 元々、滝は特定の誰かと行動を共にすることはせず、のらりくらりと色々なグループを渡り歩いているようなタイプだった。それが突然俺と行動を共にするようになったものだから、クラスメイト達は不思議そうにしている。

 滝が江藤に睨みをきかせているものだから、江藤に空き教室に連れていかれることもなくなる。

 一度、滝のいないところで声をかけられ、腕を掴まれそうになった時はひやりとしたが、江藤の手があと数センチで俺に触れるというところで何かに阻まれたようにぴたりと止まった。

 江藤は何かを押すような動作を繰り返していたが、無駄だとわかると「恥ずかしいやつだなっ」と言葉を吐き捨て、去っていく。

 恐らく、滝の魔法が俺から江藤を遠ざけてくれたのだろう。

 一部始終を目撃していた名前も知らない生徒からは「よかったな。卵焼きはうまいけど、お前が苦しそうなのはなんか悪い感じがしたし」と声をかけられてしまう。見て見ぬふりをしていたくせに調子のいいやつだ。

 過保護な滝の魔法に「最強の守り手」という滝の呼び名がからかい混じりに呼ばれるようになっても、当の本人は興味もないらしく表情を変えることはない。

 一方で俺は滝の体調が気がかりだった。滝は魔法を使ってまで、俺を江藤から守ってくれている。

 けれど、行使している本人がいない範囲にまで働く魔法なんか使って、滝は平気なのだろうか。魔法を使いすぎた日には疲れたと不満を零す生徒も多い。

 江藤の言う通り、ずっと滝に守られっぱなしなんて、俺は本当に恥ずかしい人間なんだろう。

 滝はどうしてここまでしてくれるんだろう。

 久しぶりにヨシノさんの卵焼きを食べて、母親が恋しくなってしまったのだろうか。滝はもしかしたら一人なのが寂しくて、俺にヨシノさんの影を求めているのかもしれない。

 行かないでといつも泣いている子どもの声を思い出すと、それが一番妥当な考えに思えた。母親の味で寂しさが紛れるなら、卵焼きくらい安いものだ。

 二人で下校している時、人気の少ない道で「たまにはごちそうするよ」と俺は提案した。

 今夜の夕飯にでもしてくれればいいと思い、一分近く息を止め、呼吸をすることを我慢して卵焼きを出そうとしていると、すぐに止められてしまう。

 そんなことしなくてもいいと言われても、俺にはこれぐらいしかできない。

 母親の味が恋しいならいつでも力になれるのに。寂しいことを我慢する必要はないと伝えると、盛大なため息をつかれた。俺と一緒にいる時、滝はいつも面倒臭そうで申し訳なくなる。

「人をマザコンみたいに言うのはやめてくれ」

「ごめん」

 不機嫌そうな顔を見たくなくて、アスファルトを見詰め続けていると「……卵焼きは、くれるならもらう」と予想外の言葉が聞こえてきた。思わず顔をあげて本当かときこうとすると「でも」と言葉が続けられる。

「お前、出し方は他にもやりようがあるだろ」

 言葉の意味を図りかねていると、滝はまた呆れたように息をつく。そして俺の脇腹に手を伸ばし、くすぐりだした。

「うひゃっ、はははっ」

 不意打ちの攻撃に俺は思わず笑い声が漏れる。滝の手から逃れようと身を捩ると、脇にまで手を入れられてくすぐられ、体を折り曲げて悶えるはめになる。腰を抜かして地面に崩れ落ちそうになったが、空中で不自然に崩落が止まる。

 そこに見えないクッションでもひかれているかのように、俺の体は宙に浮いたようになって止まる。滝の魔法だろうか。息も絶え絶えにくすぐられ続けていると、急に滝の手が離れていった。

「ほら出た」

 背を仰け反らせてひいひい言っていた俺が視線を向けた滝の手には卵焼きのパックが握られている。

「痛くて辛いことばかり我慢しなくてもいい」

 滝が優しいことを言う。

 本当は嬉しかったのに、体を滝に引き起こされていると照れ臭くて「さすが最強の守り手だな」と学園での呼び名をからかってしまう。

 滝は苦虫を噛み潰したような顔で「俺にはどうしようもないんだからしょうがないだろ」と唸る。

 結局、俺は滝に守られ、時々卵焼きをごちそうするという日々を続けることになった。

 俺ばかりが得をしている気がするけれど、昼休みや教室移動の度に滝の方から俺の元にやってきてくれる間は一緒にいてもいいのだという気がする。

 どうして滝が俺のことを助けてくれるのかという答えはまだ出ない。

 けれど、物静かで滅多なことでは動じない滝の傍は安心できて居心地がいい。

 そして、一緒に過ごすうちに、なんとなく気付き始めたことがある。

 多分、滝の魔法の原点は母親を守ることにある。俺が二度と口にできるはずのなかったヨシノさんの卵焼きを求めたように、滝はヨシノさんを守る力に焦がれたのではないか。そこまで滝を追い詰めたきっかけは間違いなく俺だ。

 俺が滝に与えられえるものはなんでもあげよう。俺が滝とヨシノさんの生活を奪った分、全部を滝のほしいもので返せたらいい。

 俺の学園生活は平和なものになった。時々江藤が「なっ、頼むから卵焼き食わせてくれよ、まじでうまいんだよっ」と下手に出始めたことが平和すぎて一番怖い。

 そんなことが毎日続くと、皆が見ている教室の真ん中でそんなことを言う江藤が必死過ぎてかわいそうに思えてくる。

 けれど、頼むと言われても最近我慢するようなことが何もない。

 滝が守ってくれているという安心感があるおかげか、不意に後ろから肩を叩かれても以前のように声をあげそうになるのをこらえることがなくなってしまったのだ。江藤のこともあまり怖くなくなっている。

 無理だよとやんわり断ると「クソが、いちゃつきやがってよ!」と江藤が机を蹴った。江藤は駄々っ子のように声を張り上げる。

「お前らなあ、ホモかよホモ!」

 なんでそういう話になるんだ。江藤のテンションについていけずに呆気に取られていると、彼は教室のど真ん中で暴露した。

「あいつの守りの魔法はなあ! 好意を持った相手にだけ発動されんだよ!」

 江藤のやつ今なんて言った。

「おい、やきそばパン売り切れてたぞ」

 背後から声をかけられて内臓が飛び出そうになる。やきそばパンの代わりにフルーツパンを買ってきてくれた滝は、呆然として指に力が入らない俺にパンを持たせる。指にうまく力が入らない。

 パンを取り落とさないように俺の手に自分のそれを添え続ける滝を見て、江藤が近くの机にあった辞書を投げつけた。

 真っすぐ俺めがけて飛んできたそれは、途中で急に加速をやめて静かに床に落ちた。

 滝の魔法だ。俺を守っている。「ほんと恥ずかしいやつだなっ」という江藤の罵声。

 触れ合った手から生まれた熱が、全身へと行き渡る。特に顔が熱くて仕方ない。

「発動条件なんてどうしようもねえよ。男なんて胃袋掴まれたらおわりだ」

 江藤の存在など心底どうでもよさそうに、滝はそちらの方を見もしない。ずっと俺の目を見つめていた。

 滝は恥ずかしいやつだ。俺は初めて江藤の意見に同意した。

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