1:
私の勤務先にはロボットがいる。だけどアンドロイドでもヒューマノイドでもなく、人間の男だ。名前は久林興伸(:くばやし・おきのぶ)といい、社長秘書をしている。 “社長の懐刀”とか、“社長の似ていない影武者”などと本人のいないところで呼ばれている。
上品な美形といわれる顔はメタルブルーのナイロールフレームの眼鏡をかけていつでもどこでもぶれない無表情。スラリとしたダークカラーのスーツは寸分の隙もなく、前髪をなでつけたオールバックは乱れるのを見たことがない。雨の日も風の日も彼の髪型は崩れない…いったいどんなスタイリング剤を使っているのか聞きだす勇者はいまのところいない。
ただ彼がロボット疑惑を持たれているのは外見や仕事ぶりではなく女性に対しての冷酷さからだ。社内でも有数の美人と言われる宣伝部の女性からの誘いを“私はあなたにかかわる時間が無駄としか思えないんですよ”とぶった切り、取引先の女性がバレンタインだからと渡したチョコレートを“私、手作りのお菓子は嫌いなんです。呪われそうで”とのたまい、たまたまその場に遭遇してしまった社長から“お前の気持ちは分かるけど言葉を選べ”と叱られたとか…とにかく女性に対しての態度がひどい。
こういう実績があれば普通は悪評が先行するはずなのに、無表情メガネがなぜかクールで知的と自動変換され彼に挑む女性たちが後を立たず、ことごとく玉砕していっている。
「黒田先輩、今度は受付の新人らしいですよ」
「聞いてる。総務の友達が使い物にならんってぼやいてたよ。まったく久林さんも断るにしてもぶった切るんじゃなくて、峰打ちくらいにしとけばいいのに」
「どっちにしろ斬るんだ。あの、黒田先輩は久林さんと同期なんですよね。笑ったところって…」
「一度も見たことないよ」
「まじですか…黒田先輩と同期ってことは8年笑ってないんですか」
「さすがにそれはないんじゃない?きっと笑顔を見たことある人がいるって。ほら、仕事しないと土曜も出勤するはめになっちゃうよ」
「うわー、それは嫌です」
あわてて手を動かし始めた後輩をみて私も仕事に戻る。
私、黒田実桜子(:くろだ・みおこ)は営業事務としてここで働いており、彼とは同期だ。とはいえ言葉をかわすのは挨拶程度で、彼の笑った顔などもちろん見たことはない。
あの顔の表情筋は活動しているのだろうか…などとふと考えてしまったが、次々とまわされる書類や電話対応をしているうちに、すっかり忘れてしまっていた。何より明日は年に一度のお楽しみの日だ。彼氏でもない男の表情筋などどうでもいい。
デパ地下に幸せの香りがする。朝から並んだ私はダッシュでお目当ての店の行列に加わった。このデパートのバレンタインフェアは、この期間しか出店しない店舗のチョコレートが中心で、なおかつ定番人気店の限定チョコも買えるというので毎年人気。このデパートで買うのはもちろん自分のためのチョコレート!癒しと幸せはチョコとともに!
でも私が彼氏と別れた原因もチョコだ。2年前に別れた彼氏は悪い人じゃなかったけど、何にでもマヨネーズをかけるマヨラーだった。人の味覚嗜好はそれぞれだからって思っていたけど、彼は私のチョコ愛が理解できなかったらしくデパ地下でチョコを買ってほくほくしている私に“チョコなんてどれも同じ。だいたいお前、全然繊細とかじゃないのに分かるのかよ”と鼻で笑いやがった。
確かに私は繊細とは言いがたい性格だけど、何にでもマヨをかけるコイツだけには言われたくなかった。カチンときて“カツ丼にマヨネーズかける男にだけは言われたくない!”と言ったら、激怒してそれっきり。最後の言葉は“マヨネーズのよさが分からない女とはつきあえない”だった。
チョコを求める行列は気がつけば、私の後ろにたくさんの人が並んでいる。圧倒的に女性が多いけど男性もいる。よっぽどチョコが好きなんだろう。もし次があるとしたら、チョコ好きがいいな。いや、極度のマヨラーじゃなければいいわ。
このお店のチョコは限定30個。高級住宅街にあるこの店は、普段は焼き菓子が中心でチョコレートを売っていない。年に一度バレンタインの時期にチョコレートを販売するのだ。その繊細でなめらかな口当たりと甘さとほろ苦さが絶妙なそのチョコはなかなか手に入らない。デパートに出店したのはこの時期のお客さんを店舗で捌ききれないためだとか。
この店が出店を始めたのは4年前。初年度に買えなかった私は、教訓として真っ先にこのお店を目指すようになった。まずこのお店の限定品を購入してから定番や新規のお店をぐるっとめぐり、試食をしつつ毎年5、6種類を買うのがパターンだ。
お店の人が人数をかぞえ始めた。私は余裕で買えるけど、そうじゃない人の残念そうな様子が目に入ってしまい、私は購入するとそそくさとその場を早足で去った…はずだった。
肩をたたかれて振り向くと、そこには一人の男性が。ちょっと長めの前髪に黒フレームのメガネをかけ濃いグレーのダッフルコートを着ている。
「……どちらさま?」
「……こうすれば分かりますか」
男性は私の目の前で前髪をかきあげた。すると見覚えのある顔が。
「久林さん?!!はー、前髪おろすと別人だね~」
「そんなことより黒田さん。ちょっとお願いがあるのですが」
そういうと久林さんは私の腕を引っ張った。
「ちょっと、私まだ買うものがあるの。買い損なったら恨むわよ。チョコの恨みは3年たたるって知ってる?」
「食べ物の恨みはおそろしいというのは知っていますが、それ黒田さんが適当に作ったやつでしょう。それでは期間限定で出店してるチョコレートカフェはもちろん知ってますよね。1時間後にその前で会いましょう」
「は?!」
「それでは私も買い物がありますので」
それだけ言うと、久林さんはあっという間に雑踏に消えてしまった。あの早足はこの混雑も気にしないのか…いや、あの無表情メガネに周囲がひるんで道が開くんだ、きっと。
それにしてもいったい私に何の用があるんだろう。私はよく分からないまま、チョコ売り場に戻ったのだった。