第84話「プラント防衛戦」
地熱タービンが初めて回ったのは、レイラがチームに加わってから十二日目のことだった。
火山ノルドゥスの南麓。標高千二百メートル。地底鍛冶の職人たちが掘り抜いた蒸気井から、摂氏百八十度の蒸気が噴出し、タービンの羽根車を回した。レイラが設計した魔力変換結晶体が蒸気の運動エネルギーを捕捉し、青白い光に変換する。
最初の一回転。
変換効率十九パーセント。設計値の二十二パーセントには届かなかったが、鍵盤の四パーセントの約五倍。レイラは結晶体の角度を〇・三度修正し、二回目の試運転で二十一パーセントまで引き上げた。三回目で二十二・四パーセント。設計値を超えた。
レイラの手が震えていた。七年分の理論が、目の前で回転している。
ルークはタービンの横に立ち、管理板の数字を確認していた。出力、回転数、変換効率、蒸気温度、結晶体の負荷率。すべて正常範囲内。品質管理の目で見て——合格だ。
「レイラ。定時だ。今日はここまでにしろ」
「明日やれ。寝ろ」
レイラは不満そうな顔をしたが、ザックが「ルーク殿の定時命令は絶対です」と付け加えると、渋々計測機器を片付けた。
その夜、全員がよく眠った。
翌朝、目覚めたとき——世界が変わっていた。
ルークは寝台から跳ね起きた。
「全員起きろ!」
声が建物の壁を貫いた。ルークの声量ではない。事なかれ主義スキルが音声を増幅したのだ。緊急時のみ発動する補助機能
三十秒で全員がプラントの前庭に集合した。アリスは剣を手に完全武装。ザックは寝間着のまま羊皮紙とペンだけ握っている。ユイの刻印が激しく脈動し、夜明け前の闇を青白く照らしている。レイラは眼鏡を片手に目を擦っていた。
「何が来ますの」アリスの声は冷静だった。戦闘の気配を察知した瞬間、元騎士団副団長のスイッチが入る。
「南東から三百以上の魔力反応。到達まで十分を切った。速度から見て騎馬か、飛行系の魔法使い」
「三百——軍隊規模ですわね」
「ああ。保守派だろう。タービンが回ったことが伝わった」
ルークの脳が加速した。事なかれ主義スキルは撤退を推奨している。合理的な判断だ。五人と地底鍛冶の職人十数名で、三百の軍勢に対抗できるわけがない。
しかし——撤退すれば、プラントが破壊される。十二日間の建設作業。レイラの七年分の理論。地底鍛冶の職人たちが削った岩盤。すべてが灰になる。
「撤退しない」
スキルの推奨を三度目に却下した。
「ルーク殿。三百を相手に防衛するのは——」
「正面から戦うんじゃない。時間を稼ぐ」
ルークはポケットからペンを取り出した。ザックの羊皮紙を一枚奪い、プラントの前庭の岩をテーブル代わりにして書き始めた。
「全員、役割を確認しろ。これは戦闘じゃない。防衛プロジェクトだ。工程表を作る」
ルークの指示書が完成した。
『プラント防衛計画——即時実行版』
Aチーム(前線防衛):ザック+地底鍛冶の職人六名。プラント南東側の岩稜に防衛ラインを構築。戦闘ではなく障害物の設置。溶岩台地の岩を積み上げてバリケードを作る。地底鍛冶の腕力があれば五分で最低限の壁ができる。
Bチーム(魔法防衛):ユイ。プラントの外周に刻印の力で防御結界を展開。結界の強度は未知数だが、攻撃を減速させるだけでいい。完全に防ぐ必要はない。
Cチーム(外交・援軍):アリス。中立都市群のカイゼルに緊急連絡。通商協定の仮合意に基づき、軍事的中立の確認と監視団の派遣を要請。保守派が外国使節団を武力で攻撃したという事実は、外交上の大問題になる。カイゼルがその事実を利用しないはずがない。
Dチーム(設備保全):レイラ+地底鍛冶の職人四名。タービンと変換結晶体の緊急退避。プラントの建屋は壊されても再建できる。しかし結晶体とタービンの心臓部は替えが利かない。地底鍛冶の地下坑道に運び込む。
Eチーム(指揮・通信):ルーク。後方の高台から全体を俯瞰。各チームへの指示はザックが複製した伝令符を使用。
「質問は」
「ルーク殿。あなたは——?」アリスが訊いた。確認であって、批判ではなかった。
「俺が前線に出て何ができる。剣は振れない。魔法は使えない。拳で殴っても三百人の一人にも届かない。俺にできるのは——全体を見て、指示を出すことだけだ」
「戦略ですわね」
「戦略と戦術は違う。前線で剣を振るのは戦術だ。後方で全体を俯瞰し、リソースを最適配分するのが戦略。俺は戦略だけやる。戦術はお前たちに任せる」
アリスが頷いた。
「信頼していますわ」
その一言で、全員が動いた。
午前五時十二分。
南東の山道から、黒い波が押し寄せてきた。
保守派の私兵団。黒い鎧に身を包んだ兵士たち。馬ではなく、魔法で強化された脚力で岩場を駆け上がってくる。先頭集団は約五十名。後続がさらに続いている。山道を埋め尽くす黒い甲冑の列は、確かに三百を超えていた。
そして——その先頭に。
ヴォルフ・ディートリヒが立っていた。
黒い外套。二メートルを超える巨体。灰色の瞳。前回と同じ佇まいだったが、一つだけ違うものがあった。右手に、巨大な戦斧を持っている。刃渡りは優に一メートル。常人なら両手でも持ち上がらないだろう重量を、片手で軽々と握っている。
ヴォルフの声が、山肌に轟いた。
「ルーク! 警告はした。聞かなかったのはお前だ」
高台のルークは、岩の上に座っていた。安楽椅子がないので岩だ。膝の上に羊皮紙を広げ、ペンを握っている。戦場の全景が見える位置。プラントの建屋を中心に、南東の岩稜にAチームのバリケード、プラント外周にユイの青白い結界、西側の坑道入口にDチームの退避作業。
伝令符を手に取った。魔力で文字を飛ばせる小さな羊皮紙の切れ端。ユイが出発前に作ってくれたものだ。一枚につき一回、短文を指定した相手に届けられる。残り十二枚。十二回の指示で、この戦いを終わらせなければならない。
一枚目。宛先:ザック。
『Aチーム。バリケードの高さは腰まででいい。完璧を目指すな。敵の視界を遮る程度で十分。三分以内に完成させろ。突っ込みすぎるな。お前の仕事は壁の後ろにいることだ』
二枚目。宛先:アリス。
『Cチーム。カイゼルへの連絡を最優先。通商協定第八条の紛争解決条項を援用しろ。外国使節団への武力行使は条約違反だと伝えろ。監視団の派遣を要請。到着まで何時間かかる? 返信求む』
三枚目。宛先:ユイ。
『Bチーム。結界の範囲をプラント建屋のみに縮小。全周防御は魔力が持たない。南東面だけを厚くしろ。攻撃を止める必要はない。三十分遅延させればいい』
四枚目。宛先:レイラ。
『Dチーム。タービン心臓部の退避完了まであと何分? 返信求む』
四枚を同時に飛ばした。残り八枚。
返信が来た。
アリスから:『カイゼルに連絡済み。監視団の到着予定——最短三時間。遅い。三時間持たせる必要がありますわね』
三時間。
長い。三百の軍勢を三時間持たせるには、正面衝突を避け続けなければならない。
レイラから:『タービン心臓部の退避——あと二十分で完了。結晶体は繊細なので慎重に運びます』
二十分。その間、プラントの建屋を守る必要がある。建屋が破壊されても結晶体が無事なら再建できるが、退避作業中にDチームの坑道入口が攻撃されたら終わりだ。
ルークの脳が回転した。戦略。リソースの最適配分。限られた人員で、限られた時間を稼ぐ。品質管理の仕事と本質は同じだ。不良品の流出を防ぐために、検査工程のボトルネックを特定し、リソースを集中させる。今のボトルネックは——坑道入口の二十分間の防衛。
五枚目。宛先:ザック。
『計画変更。Aチームは坑道入口の前に移動。Dチームの退避完了まで二十分間、入口を死守。戦闘は不要。バリケードを積んで入口を塞げ。地底鍛冶の力なら岩一つで通路を封鎖できる』
前線では、戦闘が始まっていた。
ヴォルフの先頭集団がプラントの外周に到達し、ユイの結界にぶつかった。青白い光の壁が、黒い鎧の衝撃を受け止める。結界が軋む音が高台まで届いた。
ユイの結界は想定以上に強靭だった。宗家直系の刻印の力は伊達ではない。しかし——三百人が同時に打ちかかれば、いずれ破られる。
ヴォルフが戦斧を振り上げた。
一撃。
結界に亀裂が走った。たった一撃で。
ルークは高台から見ていた。ヴォルフの一撃の衝撃波が空気を裂き、結界の表面に蜘蛛の巣状の罅を広げた。アリスの評価は正しかった。「私の比ではない」と。あの男の戦闘力は、個人という単位で計測する範囲を超えている。
しかし——ルークの目は、ヴォルフの表情を見ていた。
戦斧を振る巨体。その顔に浮かんでいるのは、戦意ではなかった。あの疲労だ。三百年分の疲労。振るいたくない斧を振っている顔。やりたくないことをやっている顔。やりたくない残業をしている同僚の顔と同じだった。
ルークは確信した。
ヴォルフは——本気じゃない。
本気なら、一撃で結界を破り、プラントを粉砕し、五分で全てを終わらせられるだろう。三百年を生きた「不滅の将軍」が、この程度の施設を破壊するのに三百人の軍勢を連れてくる必要はない。単独で十分だ。
軍勢を連れてきた理由は——保守派に「見せる」ためだ。「ちゃんと攻撃しました」という実績を作るため。ヴォルフは保守派の代理人として動いているが、心は別の場所にある。
六枚目。宛先:ユイ。
『結界の維持を続けろ。ただし、南東面に小さな穴を一つ開けろ。人が一人通れる程度の隙間。わざと作れ。理由は後で説明する』
ユイからの返信はなかった。代わりに、結界の南東面に——小さな隙間が開いた。信頼だ。理由を聞かずにルークの指示を実行する。三年間の積み重ねがなければ、ありえない判断だった。
七枚目。宛先:アリス。
『ヴォルフ・ディートリヒに伝令を送れ。内容——「一対一で話がしたい。場所はプラント前庭。結界の隙間から入れ。武器は持ち込むな」。署名はルーク名義で』
アリスからの返信:『正気ですの?』
八枚目。宛先:アリス。
『正気だ。あの男は本気じゃない。話せばわかる。たぶん』
アリスからの返信:『「たぶん」で命を賭けるのは、事なかれ主義とは呼びませんわ。——了解しました。伝令を出します』
プラントの前庭。
結界の隙間から、ヴォルフが入ってきた。
戦斧を持っていなかった。ルークの条件を守ったのだ。
外では黒い鎧の私兵団が結界を叩き続けている。しかし結界の内側は奇妙に静かだった。ユイの魔法が音を遮断している。戦場の中に作られた、小さな会議室。
ルークは岩の上に座ったままだった。高台から降りてきて、前庭の岩に腰を下ろしている。手には——ペンと羊皮紙。武器は持っていない。持てる武器がそもそもない。
ヴォルフの声が低く響いた。結界の中でも、あの声は地面を震わせた。
「ああ。一つ訊きたいことがある」
「攻撃の最中に質問とは——」
「あんたが本気じゃないのはわかってる。本気なら結界ごとプラントを潰してる。三百人の軍勢は保守派へのアリバイだろう。あんた自身は——壊したくないんだ。このプラントを」
ヴォルフの灰色の瞳が細まった。
沈黙。五秒。
「あんたの目だ。斧を振るとき、疲れた目をしていた。壊したいものを壊すとき、人は疲れない。壊したくないものを壊さなきゃならないとき——あんな顔になる。俺は二十四年間、やりたくない仕事をしている人間の顔を見てきた」
ヴォルフは答えなかった。答えなかったことが答えだと、ルークは前回と同じ論理で判断した。
「訊きたいのは一つだ。あんたの右腕の痕——あれは鍵盤の接続痕だな。あんたは自分が作った装置に繋がれたことがある。いつだ。なぜだ」
ヴォルフの巨体が、微かに強張った。右腕を左手で掴む動作。無意識だろう。三百年の記憶が、腕の痕に集約されている。
「……今は答えない」
「いつ答える」
「プラントが完成したら。——動くタービンを見せろ。鍵盤の代わりになると証明してみせろ。それができたら——全部話す」
条件付きの約束だった。しかし——約束だった。三百年を生きた男が、条件をつけてでも「話す」と言った。
ルークは頷いた。
「ヴォルフ」
「何だ」
「あんた、疲れてるだろう。三百年は——長い」
ヴォルフの足が止まった。
「……ああ。長い」
それだけ言って、消えた。
十分後、私兵団が撤退を始めた。ヴォルフの命令だ。
結界の外から、黒い鎧の列が南東の山道を引き返していく。レイラのDチームが退避を完了したのは、その五分後だった。タービンの心臓部は地底鍛冶の坑道の奥深くに安全に格納されている。
アリスが前庭に来た。剣はまだ抜いたままだったが、撤退を確認して鞘に戻した。
「三百の軍勢を——話し合いで帰しましたの」
「帰したんじゃない。あの男が自分で帰ったんだ。最初から壊す気がなかった」
「では——何のために来たんですの」
「確認しに来たんだろう。俺が本気かどうかを」
ルークは残りの伝令符を数えた。四枚残っている。十二枚中八枚を使った。無駄な指示は一つもなかった——と思いたいが、正直なところ五枚目の計画変更は判断が遅かった。もっと早くDチームの退避を優先すべきだった。
反省は後でいい。今は——全員が無事であることを確認する。
九枚目。宛先:ザック。
『全員の安否を確認して報告しろ。負傷者がいたら応急処置を最優先。工程表の修正は明日でいい。今日は——定時退社だ』
ザックからの返信:『全員無事です。負傷者なし。地底鍛冶の長老ギムリが「面白い朝だった」と笑ってます。あと——ルーク殿。上出来です』
ルークは羊皮紙を折り畳み、胸ポケットにしまった。
「上出来」はザックが言う台詞じゃない。しかし——悪くない響きだった。
ルークは岩から立ち上がった。腰が痛い。座りっぱなしだったせいだ。安楽椅子がほしい。心の底からほしい。
「帰ったらリゾートに椅子を置こう」
誰に言うでもなく呟いた。
火山の蒸気が、朝日の中をまっすぐに昇っていた。
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