第7話「抜き打ち監査と、ペーパーワークの防壁」
平穏を手に入れたルークのもとに、サラリーマンにとって最も恐ろしいイベント「外部監査」がやってくる展開です。
ルークが定時退社という至高の権利を取り戻してから、二週間が経過した。
ギルドのロビーはすっかり様変わりしていた。かつて怒号と酒の匂いが充満していた空間は、今や「整理券番号順にお呼びしますので、白線の内側でお待ちください」というザックのドス効いた声が響く、統率の取れた空間となっている。
「うむ。今日も平和だ」
執務室の窓からその様子を眺め、ルークは温かいお茶をすすった。
前世の窓際部署時代を彷彿とさせる、完璧なぬるま湯。このまま何事もなく、給料日だけを楽しみに生きていきたい。
しかし、運命(と異世界の神)は、事なかれ主義のおっさんにそう長く休息を与えてはくれなかった。
バンッ!!
ギルドの重厚な両開き扉が、乱暴に蹴り開けられた。
入ってきたのは、仕立ての良い絹の服を着た、神経質そうな銀髪の青年だった。背後には、領主の紋章を掲げた重武装の近衛兵を数人引き連れている。
「領主府、財務監査官のクロードである! ギルドマスターを出せ!」
青年の甲高い声が響き渡り、ロビーにいた冒険者たちが蜘蛛の子を散らすように道を開けた。
「……最悪だ」
執務室でルークは頭を抱えた。抜き打ちの外部監査。前世で何度も胃に穴を開けかけた、トラウマ級のイベントである。
「マスターは地下で果実酒の仕込み中(という名の現実逃避)で不在です! ルークさん、どうしましょう!」
ミーアがパニックを起こしている。
「俺が行く。……ザック! 例の『アレ』を台車に乗せて持ってこい!」
ルークはネクタイ(の代わりのスカーフ)を締め直し、鉄面皮を顔に貼り付けてロビーへと出た。
「監査官殿。マスターは現在、重要案件で席を外しております。事務長の私、ルークが対応いたします」
恭しく一礼するルークを、クロードは鼻で笑った。
「事務長だと? まあいい。単刀直入に言う。このギルドは過去五年間、慢性的な大赤字だった。それが先月、急激に黒字転換している。これはどういうことだ?」
クロードはルークの胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出した。
「領主様は疑っておられる。冒険者を脅迫しているか、あるいは……裏帳簿で脱税の工作を行っているのではないかとな! 全ての帳簿を押収する! 不正が見つかれば、貴様ら全員即刻首を刎ねてくれるわ!」
ロビーが凍りついた。近衛兵たちが剣の柄に手をかける。
だが、ルークの表情はピクリとも動かなかった。
(なんだ、そんなことか。脱税なんてリスクの高いこと、この俺がするわけないだろう。むしろ……)
「ザック。資料をこちらへ」
「はっ!」
ゴロゴロと重々しい音を立てて、ザックが木製の台車を押してきた。
その上に積まれていたのは、ルークの身長ほどもある、分厚い羊皮紙のバインダーの山だった。
「な、なんだこれは……?」
クロードが怪訝な顔をする。
「当ギルドの、先月分の財務諸表および、全取引の証憑類一式でございます。どうぞ、心ゆくまでご査収ください」
ルークは一番上のバインダーを広げた。
そこには、クロードが見たこともない幾何学的な表と、細かな数字がびっしりと並んでいた。ルークが前世の記憶を頼りに、ザックに徹夜で引かせた「エクセル風・複式簿記帳」である。
「な、なんだこの線と数字の羅列は!? 魔法陣か何かか!?」
「いいえ。左が借方、右が貸方。全ての金銭の流れを二面的に記録する『複式簿記』という手法です。さらに、こちらが『ゴブリン素材の市場価格変動グラフ』。そしてこれが……」
ルークは次々とページをめくり、流れるように説明を始めた。
「備品である長椅子の『減価償却費』の計上記録。ギルドマスター交際費の『費用対効果(ROI)分析レポート』。および、各パーティとの『業務提携に基づく利益配分の明細』となっております」
クロードの目が泳ぎ始めた。
彼が知っている帳簿とは、「入った金」と「出た金」をただ足し引きするだけのお小遣い帳レベルのものだ。こんな、異常なまでに細分化され、相互にリンクし合う情報群など、見たこともない。
「ま、待て! この『げんか……しょうきゃく』とはなんだ! なぜ金が出ていないのに費用として計上されているのだ! 誤魔化す気か!」
クロードがここぞとばかりに声を荒らげる。
ルークは内心(よし、きた)とほくそ笑んだ。監査官が知識不足で突っ込んできた時こそ、完全に主導権を握るチャンスだ。
「お言葉ですが監査官殿。長椅子のような固定資産は、時の経過とともに価値が減少します。その減少分を耐用年数に応じて費用配分する、極めて正当な会計処理です。領主府では、まさかキャッシュフローベースの単式簿記のみで財政を管理しておられるとでも……?」
ルークはわざと、少しだけ同情するような、哀れむような視線をクロードに向けた。
「っ……! そ、そんなわけがなかろう! 領主府の会計システムは完璧だ!」
顔を真っ赤にして反論するクロードだが、すでに額には脂汗が浮いている。この謎の「事務長」が展開する高度な知識体系の前に、完全に呑まれていた。
さらに、背後に立つザックが、血走った目でクロードを睨みつけながら低く唸った。
「監査官サマ……ルーク様の構築した『完璧な帳簿』に、いちゃもんをつけようってのか……? もし書類を一枚でも汚したら、あんたの首が『減価償却』されることになるぜ……」
元チンピラの殺気と、意味不明なビジネス用語のフュージョン。
クロードは完全に震え上がった。
(な、なんだこの男たちは……! こんな高度な暗号帳簿を操り、狂犬のような部下を従えている……ただのギルド事務員であるはずがない! 領主府を乗っ取るための、他国の工作員か何かか!?)
「い、いや! 監査は終了だ! 書類に不備はない! まったくない!」
クロードは叫ぶと、近衛兵たちを引き連れて逃げるようにギルドから出て行った。
「はあ……」
ルークは深く息を吐き、肩の力を抜いた。
「素晴らしいです、ルークさん! あの意地悪な監査官を、書類の束だけで追い返すなんて!」
ミーアが目を輝かせている。
「いや、ただの手間と紙の無駄遣いなんだけどね……」
ルークはぼやいた。事実、あの帳簿の半分は「やってる感」を出すためだけの無意味なダミーデータである。
しかし、クロードが領主のもとに戻り、「冒険者ギルドには、恐るべき頭脳と謎の魔術的計算式を操る怪物が潜んでいる」と報告したことで、ルークは領主からも「絶対に手を出してはならない不可侵の存在」として認識されることになってしまった。
「これでまた一つ、平穏に近づいたな」
ルークは温くなったお茶を飲み干し、定時退社の準備を始めるのだった。




