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第76話「上位民の浮遊都市と、天上の傲慢」

浮遊都市への入口は、ラーシャ港の北端にあった。


白い石の台座。直径十メートルほどの円形の平面で、中央に七芒星の紋様が刻まれている。転送陣だ。上位民はこの陣に立ち、魔力を注ぐことで浮遊都市へ昇る。下位民には魔力がない。だから昇れない。物理的な階段も梯子も存在しない。百五十メートルの高度差が、そのまま階級の壁になっている。


設計として完璧だった。門も柵も衛兵も要らない。魔力の有無だけで、自動的に人間を振り分ける。


ルークは転送陣の紋様を見つめた。七芒星。ユイの右腕の刻印と同じ配置。


「ユイ。この陣を起動できるか」


ユイは布を外していた。


昨夜、宿で決断したのだ。「隠れていては何も変えられない」と。追放者が帰還したと知られるリスクは承知の上だった。アリスが護衛を申し出たが、ユイは首を振った。「守られるために来たのではありません」と。


紫色の瞳が朝日に透けている。右腕の刻印が露出し、青白い光を放っていた。浮遊都市に近づくほど、刻印の輝きは増していた。


「起動できます。宗家直系の刻印は、都市の転送陣に対する最上位のアクセス権を持っています。追放されても——血に刻まれた権限は、消せません」


「追放者が転送陣を使ったら、上で気づかれるな」


「はい。即座に」


「それでいい」


ルークは四人を見回した。


「堂々と入る。隠れて潜入しても、いずれ見つかる。見つかったときに『侵入者』として扱われるより、最初から『正面玄関から来た客人』として扱われるほうがいい」


アリスが微かに笑った。


「サンアンド領でブラック騎士団を相手にしたときと同じ戦略ですわね」


「似てるが、少し違う。あのときは俺が前に立った。今回は——ユイが前に立つ」


ユイの肩が一瞬強張り、すぐに解けた。


「わかりました」


四人が転送陣に立った。ユイが右腕を掲げる。刻印が強く輝き、七芒星の紋様と共鳴した。足元から光が湧き上がり、視界が白に染まる。


浮力。胃が浮く感覚。三秒間の上昇。


光が晴れたとき——四人は、空の上にいた。


最初に感じたのは、香りだった。


花の香り。一種類ではない。数十種類の花が調和した、人工的に設計された芳香。強すぎず弱すぎず、呼吸のたびに鼻腔を満たし、脳の奥を微かに痺れさせる。リラクゼーション効果のある魔法的な調合だ。この香りを吸い続ければ、不安も怒りも緩やかに融解していくだろう。


次に感じたのは、温度だった。地上のラーシャは蒸し暑かったが、浮遊都市の気温は完璧に制御されている。暑くもなく寒くもない。風は微風。汗をかくこともなく、肌が冷えることもない。永遠の快適。


そして——光。


地上から見上げたとき、浮遊都市は美しかった。しかし内側から見る都市は、美しいという言葉では足りなかった。


通りの舗装が光っている。透明な結晶体を敷き詰めた歩道で、足を踏み出すたびに淡い波紋が広がる。建物の壁面は魔力の粒子が凝縮した半透明の素材で、内部の照明が外に漏れ、街全体が柔らかな光に包まれている。空中庭園の花は色鮮やかで、一輪として萎れたものがない。噴水の魔力液は虹色の弧を描き、飛沫が空気中で小さな宝石のように光っては消える。


ザックが息を呑んだ。アリスの目が細まった。ユイだけが表情を変えなかった。彼女にとっては見慣れた景色だ。見慣れた——そして、憎んだ景色だ。


ルークは黙って歩いた。美しい。それは認める。しかし田中修の目は、美しさの裏側を自動的に読み取る。品質管理の職業病だ。


この都市を維持するコストはいくらだ。永遠に咲く花。完璧な温度制御。光る舗装。魔力の噴水。これだけのインフラを二十四時間稼働させるために必要な魔力エネルギーは——そしてそのエネルギーは、どこから来ている。


ルークの目が、通りの隅に設置された小さな装置を捉えた。石柱に組み込まれた結晶体。青白く脈動している。ユイの刻印と同じ色だ。


「ユイ。あの結晶体は何だ」


「魔力供給装置です。浮遊都市のインフラに魔力を供給するための——」


ユイは言葉を切った。


「この話は、後で。今は——来ます」


白い衣装の集団が、通りの向こうから近づいてきた。


六人。全員が上位民の正装——白絹の長衣に銀の刺繍——を纏い、胸元に家門の紋章を付けている。先頭の男は四十代。痩身で、顎が尖り、目が細い。唇には薄い笑みが貼りついていた。


「おや。転送陣が反応したと思えば——これは珍しい」


男の視線がユイに向けられた。紫色の瞳と、右腕の刻印。二つの特徴を確認し、一瞬だけ目を見開いた。しかしすぐに表情を戻した。


「シャングリア宗家の直系。しかも——追放されたはずの第二子。ユイ嬢ではありませんか」


ユイが一歩前に出た。


「お久しぶりです、セルジュ卿。外務を司る第三家門の当主が直々にお出迎えとは、光栄です」


声に震えはなかった。ルークはユイの背中を見ていた。まっすぐに伸びた背筋。宗家の直系として教育された姿勢が、今この瞬間、彼女の鎧になっている。


セルジュと呼ばれた男が扇を開いた。


「追放者の帰還は重罪ですが——まあ、お連れの方々を見るに、外国からの使節団のようだ。これは『帰還』ではなく『外交訪問』と解釈することもできますね」


外交的な逃げ道を即座に用意する。この男は有能だとルークは判断した。同時に——有能であるがゆえに、油断ならない。


「ええ。わたしはエンドレア大陸サンアンド領の使節に同行する案内役です。紹介します。サンアンド領統治者、ルーク殿。副官アリス。書記ザック」


セルジュの視線がルークに移った。上から下まで舐めるように観察する。異国の旅装。武器なし。魔力反応なし。見るからに平凡な中年男性。


「ほう。これは——失礼ですが、随分と……普通の方ですね」


「よく言われる」


ルークは表情を変えなかった。


セルジュは扇をぱちんと閉じた。


「いずれにせよ、遠路はるばるお越しいただいた客人を門前で追い返すほど、我々は野蛮ではありません。今夜、歓迎の宴を催しましょう。中央宮殿の白鳳の間。七大家門の主だった方々もお招きします。——異国の統治制度について、我々も興味がありますのでね」


情報収集のつもりが、先に情報を取られる側になる。ルークはその構図を理解した上で、頷いた。


「ありがたく受ける」


白鳳の間。


宮殿の中央に位置する大広間は、天井が吹き抜けで、空が直接見えた。夜空に浮かぶ星々と、広間を照らす魔法の燭台が、境界なく混じり合っている。屋内にいるのか屋外にいるのか、感覚が曖昧になる設計だった。


長卓が三列。白い布が敷かれ、銀の食器が並び、料理は——ルークの知る限りのどんな宴会をも超えていた。肉は空中で回転しながら魔法の火で焼かれ、果物は切った断面から光の粒子を散らし、ワインのグラスは注がれた液体の色が飲む者の気分に合わせて変化する。


上位民の貴族たちが着席していた。三十名ほど。全員が白を基調とした衣装で、金銀の刺繍が燭台の光を反射している。談笑の声は上品に抑えられ、笑い声すら音楽的な響きを持っている。


ルークは長卓の一角に座っていた。目の前にはワイングラスと、皿に盛られた前菜。手をつけていない。グラスの縁を右手の人差し指で弾いている。チン、と澄んだ音が鳴る。


アリスは三席離れた場所で、貴族の女性と何やら会話している。元騎士団副団長の社交術だ。情報収集を兼ねた雑談を、自然にこなしている。ザックは料理を前に固まっていた。手をつけていいのかわからないのだ。ユイはルークの隣に座り、背筋を伸ばしたまま水だけを飲んでいた。


セルジュが向かいに座った。ワイングラスを傾けながら、観察するような目でルークを見ている。


「ルーク殿。お料理がお口に合いませんか?」


「いや。見事な料理だと思う」


「しかし、召し上がらない」


「食べる前に、少し訊きたいことがある」


セルジュの眉が上がった。


「どうぞ」


「この料理を作ったのは、誰だ」


沈黙が一拍落ちた。


セルジュは微笑んだ。


「調理は自動です。魔法制御による食材加工と熱処理。人の手は介在しません」


「食材は。肉は、野菜は、果物は。どこで採れたものだ」


「地上の農場から供給されています。下位民の管理区画で生産されたものですね」


「下位民が作り、上位民が食べる」


「ええ。それが奉仕制度の一環です」


ルークはグラスを弾くのをやめた。指先をテーブルに置いた。


「なるほど」


それだけ言って、また沈黙した。


宴が進むにつれ、貴族たちの関心はルークに集まった。異国の統治者。しかも——噂によれば、魔法を使わずに都市を運営しているという。


向かいの席の貴族が、ワイングラスを片手に身を乗り出した。五十代の男。第二家門の副当主だとセルジュが紹介した。


「ルーク殿。お噂はかねがね。エンドレア大陸の小さな領地で、独自の統治を行っているとか。ぜひお聞かせください。どのような制度を?」


「特別なことはしていない。労働時間を管理し、休日を設け、規則を文書化しているだけだ」


「労働時間の管理。ほう。それは——下位の者たちに対して?」


「全員に対して」


「全員。統治者もですか」


「俺も定時に帰る」


笑い声が上がった。冗談だと思ったのだろう。ルークは冗談を言ったつもりはなかったが、訂正しなかった。


貴族が続けた。


「それで——その『休日』というもの。労働者に休みを与えるのですか?」


「与えるというか、権利として保障している」


「ほう。面白い概念ですね」


面白い。


その一語が、ルークの指を止めた。テーブルの上で動いていた右手が、完全に静止した。


「面白い?」


「ええ。我々は下位民に休日を与えていません」


貴族は何の悪意もない顔で言った。事実を述べているだけの、穏やかな表情。ワインを一口含み、続ける。


「だって、彼らは『休む』ということを知らないのですから」


ルークは黙っていた。


「知らないものを与えても、困るでしょう? 我々の下位民は、生まれてから死ぬまで、毎日同じ時間に起き、同じ業務をこなし、同じ時間に眠ります。それが彼らにとっての『正常』なのです。休日という概念を持ち込めば、かえって混乱を招きます。何をすればいいかわからないでしょうから」


貴族は善意で言っていた。本気で、善意で。下位民のことを思って、休日を与えないのだと。知らないものを押しつけるのは残酷だから、と。


隣の貴族が頷いた。


「そうそう。以前、試験的に一部の区画で『自由時間』を設けたことがあるんですよ。結果は——下位民たちは自由時間の間、じっと座って何もできなかった。動き方がわからないんですね。自分で判断する訓練を受けていませんから。結局、翌月には廃止しました。彼らのためにね」


彼らのために。


ルークはワイングラスを見つめた。気分に応じて色が変わるワイン。今、ルークのグラスの液体は——深い赤だった。血のような赤。ルークの気分を反映しているなら、このワインは正確だった。


ルークは口を開かなかった。


反論しなかった。声を荒らげなかった。テーブルを叩かなかった。


ただ——沈黙した。


その沈黙が、重かった。


ルークの周囲三メートルの空気が変質したことに、最初に気づいたのはセルジュだった。扇を持つ手が止まった。向かいの貴族が言葉を切った。隣の貴族がグラスを置いた。


白鳳の間の喧騒が、ルークを中心にして徐々に静まっていく。半径五メートル。七メートル。十メートル。波紋のように沈黙が広がり、三十人の貴族が一人また一人と口を閉じた。


誰も、何が起きているのかわからなかった。魔法ではない。威圧でもない。ルークは座ったまま、ワイングラスの赤い液体を見つめているだけだ。しかし——この男の沈黙には、百の言葉より重い質量があった。


三大陸の通商条約を調停し、数百人の組織を率い、海賊の頭目を交渉だけで懐柔した男の沈黙。その沈黙の底にあるのは、怒りではなかった。


悲しみでもなかった。


理解だった。


この浮遊都市の貴族たちが、なぜ下位民に名前を与えないのか。なぜ休日を与えないのか。なぜ番号で管理するのか。それが「悪意」ではなく「善意」であることの、救いのなさ。


悪意なら戦える。悪意には名前があり、形があり、指さすことができる。しかし善意の抑圧には形がない。本人が正しいと信じているから、指摘しても響かない。「彼らのために」という言葉の前では、あらゆる反論が「外部者の無理解」として処理される。


ルークは知っている。元の世界でも同じだった。「君のためを思って残業させている」「若いうちの苦労は買ってでもしろ」「休むと周りに迷惑がかかるぞ」。善意の言葉で包装された抑圧は、日本の職場にもあった。構造は同じだ。規模が違うだけだ。


沈黙が十五秒続いた。


セルジュが咳払いをした。場の空気を変えようとしたのだ。有能な外交官の判断だった。

族が頷いた。


「では——『知らせなかった』のは、誰だ」


沈黙。


貴族の顔から笑みが消えた。消えたのではなく——凍ったのだ。言葉の意味を理解するのに数秒かかり、理解した瞬間に表情が固定された。


ルークはそれ以上何も言わなかった。


グラスの縁を、もう一度だけ指で弾いた。チン、と澄んだ音が広間に響いた。魔法の燭台に照らされた三十の顔が、その小さな音に一斉に反応した。


ルークは立ち上がった。


「ごちそうさま。料理には手をつけなかったが、勉強にはなった」


セルジュに目を向けた。


「宿を借りたい。下位民街ではなく、こちらで。明日以降、もう少し詳しく制度を見せてもらえるか」


セルジュは一拍の間を置いて、扇を開いた。


「……ええ。もちろん。客人をもてなすのは、上位民の務めですから」


「ありがとう。それと——」


ルークは出口に向かいながら、振り返らずに言った。


「あの料理を作った食材を育てた人々にも、同じものを食べさせてやってくれ。品質管理の基本だ。生産者が自分の製品を知らなければ、品質は上がらない」


白鳳の間を出た。


廊下に出た瞬間、ザックが駆け寄ってきた。


「ルーク様。あの最後の一言——あれは、本気ですか」


「何がだ」


「食材を育てた人にも食べさせろって。あの人たち、聞き入れると思いますか」


「思わない」


「じゃあなんで——」


「種だ。今日蒔いた種が、いつ芽を出すかはわからない。だが、蒔かなければ永遠に芽は出ない」


アリスが追いついた。


「ルーク殿。あの沈黙——見事でしたわ」


「何もしてない。黙ってただけだ」


「ええ。だから見事だと申し上げています」


ユイは何も言わなかった。ただ、ルークの半歩後ろを歩きながら、右腕の刻印が——今夜初めて——穏やかな光を放っていた。怒りでも悲しみでもない光。希望に似た、静かな光。


浮遊都市の客室に戻り、ルークは窓から地上を見下ろした。


百五十メートル下。ラーシャの下位民街は闇に沈んでいる。灯りがほとんどない。浮遊都市の光が上空で輝いているせいで、地上には星明かりすら届かない。


光が影を作っている。


この都市が美しく輝けば輝くほど、地上の闇は深くなる。


ルークは窓を離れ、寝台に腰を下ろした。


品質監査と同じだ。完璧に見える仕組みほど、一つの不適合が全体を揺るがす。



あの問いに、誰も答えられなかった。答えられなかったということは——答えを持っていないということだ。制度の根拠が問われたとき、論理で返せない。それは制度の基盤に亀裂がある証拠だ。


ルークは目を閉じた。


明日は早い。定時に起きて、定時に寝る。それはこの浮遊都市でも変わらない。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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