第3話「異世界コンプライアンスと、命がけの経費削減」
必死に「ぬるま湯」を守ろうとするルークの奮闘を描いた第3話をお届けします。
「……なんだ、この小学生のお小遣い帳以下のドンブリ勘定は」
薄暗い裏の執務室。ルークは頭を抱え、羊皮紙の束を前に深くため息をついた。
採用から三日。ギルドの事務長(実態はただの雑用係のトップ)に据えられた彼は、五年連続赤字という絶望的な経営状況の全貌を把握しつつあった。
隣では、先輩事務員であるエルフのミーアが申し訳なそうに肩を縮めている。
「その……冒険者の方々は計算が苦手な人が多くて。経費の申請も、自己申告制というか……」
「自己申告制?」ルークのサラリーマン魂が悲鳴を上げた。「『薬草代:金貨三枚』って、これ領収書もないじゃないか。そもそも金貨三枚あれば、薬草じゃなくて立派な家が建つだろう!」
「それは、あの、『命がけの戦いへの特別手当』的な意味合いも含まれていまして……」
「ただの横領だ。コンプライアンスの欠片もない」
ルークはこめかみを揉んだ。
このままでは来月、領主の監査でギルドは取り潰される。そうなれば、ようやく手に入れた「椅子に座って雨風を凌げる安全な職場」が消滅し、再びあのスラム街へ逆戻りだ。それだけは、絶対に避けなければならない。
「やるしかない。俺の平穏なデスクワークを守るために」
ルークは前世の業務管理部で培った「無駄を削ぎ落とし、波風を立てずに相手を丸め込む技術」を総動員することにした。
翌日から、ギルドの窓口には一枚の張り紙が掲げられた。
『経費精算ルールの改定について(重要)』
たちまち、ロビーは荒くれ者たちの怒声に包まれた。
「おい! なんだこの『指定ポーション屋以外の領収書は無効』ってのは!」
「討伐証明のゴブリンの耳、右耳だけじゃダメってどういうことだ! 今まで両耳で二匹分でごまかして……いや、請求してたのに!」
カウンターに殺到する冒険者たち。筋骨隆々の戦士や、目つきの悪い魔法使いが、今にもルークを殴り飛ばしそうな勢いで詰め寄ってくる。
(怖い。今すぐ泣きながら土下座して逃げたい)
ルークの内心はパニックだった。膝はガクガクと震えている。
しかし、ここで退けばスラム街行きだ。彼は震える膝をカウンターで隠し、前世で幾度となくクレーム対応をしてきた「一切の感情を排した無の表情」を作った。
「おっしゃることは理解いたします。しかし、こちらは領主様の監査基準に基づく第十八項目の改定によるものでして。所定のフォーマットによる提出がない場合、当ギルドの決済システム上、物理的に処理を弾く仕様となっておりまして……」
「はあ? 決済? 仕様?」
「はい。つきましては、こちらの『経費事前申請書(甲)』に必要事項をご記入の上、三営業日以内に提出をお願いいたします。なお、記入漏れがある場合は差し戻しとなりますので……」
ルークは、意味不明なビジネス用語と官僚的な言い回しを、お経のように淡々と唱え続けた。
冒険者たちは筋肉で解決できない「書類の手続き」という未知の概念をぶつけられ、次第に混乱し、やがて毒気を抜かれていった。
「あー……もういい! わかったよ、その紙きれ書けばいいんだろ!」
「チッ、面倒くせえ。次から右耳だけ持ってくるのはやめるか……」
一人、また一人と、舌打ちをしながらも冒険者たちは引き下がっていく。
ルークは息を吐いた。怒らせない程度に面倒くささを突きつけ、相手から「諦め」を引き出す。これぞ、中堅サラリーマンの真骨頂である。
「す、すごいですルークさん! あんなに荒れていた人たちが……!」
ミーアが尊敬の眼差しを向けてくるが、ルークはげっそりとした顔で首を振った。
「まだだ。一番の『ガン』が残ってる」
ルークが見つめる先には、ギルドマスター室の扉があった。
経費の最も大きな流出源。それは、ギルドマスター・ゴードンが毎晩飲み歩いている「ギルド長交際費(という名のただの飲み代)」だった。これを削らなければ、黒字化など夢のまた夢だ。
ルークは数枚の羊皮紙(お手製の円グラフ付き)を手に、震える足でマスター室の扉を叩いた。
「入れ!」という野太い声。
中に入ると、顔に傷のある巨漢ゴードンが、昼間から高い酒を煽っていた。
「おお、新入り。どうだ、俺のギルドの裏方は? 楽なもんだろう?」
「マスター。単刀直入に申し上げます。交際費を来月からゼロにしてください。さもなくば、三週間後にギルドは破産します」
ルークは円グラフを机に突きつけた。
ゴードンの笑顔が消え、室内の温度が急激に下がったように感じられた。
ギロリと、獲物を狙う猛獣のような目がルークを射抜く。
「……てめえ、俺に酒を飲むなと言ってんのか? このギルドは俺の腕一本ででかくしたんだ。その俺のささやかな楽しみを奪うってんなら……」
ゴードンが腰の巨大な剣に手をかけた。
ルークの心臓が早鐘を打つ。殺される。完全に調子に乗った。
だがその時、ルークの脳内で『事なかれ主義の加護』が発動の兆しを見せた。
いや、スキルに頼るまでもない。ルークの口は、恐怖から逃れるため、勝手にサラリーマンの生存本能からくる「代案」を紡ぎ出していた。
「マスター! お言葉ですが、領主様にギルドを解体されれば、酒どころか明日の飯も食えなくなります! そこで提案です。交際費はカットしますが、代わりに地下の倉庫で『マスター特製・薬草漬けの果実酒』を密造……いえ、自作するのはいかがでしょうか!」
「……あ?」
「あそこなら冷暗所で酒の熟成に最適です。材料費は経費の十分の一で済みますし、何より『マスター自ら漬け込んだ幻の酒』となれば、一部の冒険者に高値で売ることも……げふん。とにかく、外で飲むより安上がりで美味い酒が飲めるはずです!」
ゴードンは剣から手を離し、ポカンとした後、顎の無精髭を撫でた。
「……俺の、特製酒。幻の……」
悪い気はしていないらしい。単純な男で助かった。
「そういうことなら……まあ、試してやらんこともない」
ゴードンは渋々といった様子で頷いた。
「ありがとうございます。では、こちらが来月度の予算案承認のサイン欄になります。ここにフルネームで」
ルークはすかさず書類を差し出し、ゴードンから署名を奪い取った。
かくして、最大の懸念事項であった赤字問題は、ルークの姑息な事務手続きと、上司へのすり寄りによってギリギリで回避されたのだった。
執務室に戻ったルークは、自分のデスクに突っ伏した。
背中は冷や汗でびっしょりだ。
「疲れた……なんなんだよ、これ。俺はただ、のんびり事務仕事をして生きていきたいだけなのに……」
しかし、翌日。
冒険者たちの間で「新入りの事務長は、あのマスターですら逆らえない冷徹な男らしい」「書類の不備があると、笑顔で報酬を削られるぞ」という噂が広まり、誰もルークに逆らわなくなってしまった。
「事なかれ」を愛する男は、意図せずしてギルドの影の支配者としての第一歩を踏み出してしまったのである。




